落語「一日公方」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「一日公方」(いちにちくぼう)より


 

  麻布六本木の大工の市兵衛、親孝行で孝行市兵衛と呼ばれている。久しぶりに麻布十番のお茶の先生の珍斎の家を訪ねる。座敷には品のいい客人がもう一人座っていた。

 珍斎、「おぉ、市兵衛か、しばらくじゃな。ここにいる客人は・・・、お医者様だ」。
 しきりに客人の顔を見ていた市兵衛は何を思ったのか表へ飛び出し、しばらくして一升入りの徳利を提げて帰ってきて、客人に盃で酒を勧める。

  客、「左様か・・・」と盃で美味そうに飲むのを見て、市兵衛は飲みかけの盃を受け取って残りを飲み干して、「あぁ、これで死んでもいいい」、「はて、これで死んでもよいと申すはどういうことだ?」、「ヘぇ、いえね、実は公方様がお成りの時に、お駕籠の中をちょっと見た事があるんで。その公方様がお前さまによく似ているから、何だか公方様からお盃を頂いているような心持ちがして、もうこの世に思い残すことはねぇ、死んでも構わね~と、こう思いましたので・・・」、「面白い男じゃな。そなた、何か望みがあるか」、「だからもう何も思い残す事はねえ。そりゃぁ、無え事もねえがとても駄目だ。お天道様へ石をぶつけるようなものだ」、「それでもまずどういう望みであるか、申してみろ」、「じゃあ、言いますが。わしはたった一日でもいいから、公方様になってみてえ」、「ほお、それがそなたの望みか。・・・左様か、今の盃でもう一献くれぬか」、「へぇ、気に入ったら幾らでも飲んでおくんなせえ」。

 それから客人は一口飲んで、珍斎に何やら申し付ける。すると珍斎は市兵衛に気づかいないように酒の中へ眠り薬をちょっと入れた。

 「市兵衛、わしの盃を受けてくれ」、これを飲み干した市兵衛は居眠りをはじめ、果ては正体もなく寝入ってしまった。
 しばらくして目を覚した市兵衛、気がついてみると立派な布団の上に横になっている。
 「どこだここは? 誰かいねえかッ」、老女中が応対した、「君には御目覚めにございまするか」、「君ィ?・・・あっしは麻布の市兵衛と申します。いつこんなとこへ来たんだか訳が分からねえ、済みませんが、家へ帰しておくんなせえまし」、「はて、市兵衛とやらの夢を御覧じましたか? よく御心を落ち着けあそばせ。君は公方様でございます」、「市兵衛の夢、こりゃ~夢ん中か、そうかも知れねえ。なにしろ有り難えな。じゃぁあっしは公方様だね。道理で立派な布団の上に寝ていると思った」。

  そのうちにお召し替えで、しばらくすると御家来方が登城、一段高い所に座らされた市兵衛さん、前の御簾が上がると、一同平伏している。「ほぉ~、これがみんな俺の家来か、・・・この内に町奉行がいるならちょっと前へ出てもらおうじゃねえか。・・・お前さんか町奉行は、麻布に市兵衛という者がいる。七十三になるおふくろがあるんだが、貧乏で困ってるから金を少しばかりやってもらいてえ」、「承知仕りました。いかほど遣(つか)わしましょうや」、「沢山やって一時に使っちまうといけねえから、“リャンコ”もやったらかろう」、と指を二本出した、「それでは早速、二百金程遣わします」。
 そのうちに御簾が下がる。やがて御酒が出て、結構な御料理で飲んでいるうちに、また眠り薬を飲まされたようで、そのままぐっすり眠ちまった。市兵衛さん、たちまち元の汚い着物と着せ替えられ、駕籠に乗せて麻布の市兵衛の家に担ぎ込まれ、煎餅布団の上へ寝かされたのを少しも気がつかない。

 しばらくして目が覚めて、「あぁ、いい心持ちだ。公方様てぇ者は大したもんだ。おや、どうしたんだ、変だぜこりゃぁ・・・」、「どうしたじゃあないよ、お前を喜ばせようと思っていくら起こしても起きないんだもの。お前が親孝行というので公方様から御褒美が届いたよ。しかもお前お金が二百両だよ」、「あぁ、そいつは俺が遣ったんだよ。俺は公方様だ」、「何を言ってるんだよ、この人は。お前は麻布の市兵衛だよ」、「俺は公方様だ。また金に困ったら何時でもそう言ねえ、金は幾らでもあるから」といきなり表へ飛び出した。

 お城へやって来て御門を入ろうとすると、 門番に止められ、「これ!其方は何者だ」、「俺は公方様だ」、「馬鹿な事をいうものでない」と、たちまち縛られ牢屋に放り込まれてしまった。
 やっと気がついて、「もし、少々お願い申します。よくよく考えましたが、どうも変で、私は麻布の市兵衛という者でございます。どうか家へ帰しておくんなさい。おふくろが心配していましょうから・・・」で、早速牢から出して麻布の宅へ送り届けられた。

 「どうしたお前、しっかりおしよ」、「何だか変だ。俺は何だか訳が分からねえ、とにかく珍斎先生の所へ行って来る」。
 珍斎の所へやって来ると、公方様がまたお忍びでまた来ている。 「市兵衛どうかいたしたか、大分ぼんやりとしておるな。其方は一日でもよいから公方になりたいと申したが、公方になって望みが叶ったであろうな」、「ヘぇ、何だかどうも訳が分からねえんで」。
 「これこれ、市兵衛、粗相があってはならんぞ。このお方は公方様であらせられるぞ」、「へぇ~、あなた様が公方様で。・・・とんだ粗相をいたしました。よく似ていると思ったもんだから、お盃を頂戴して、私はこれで殺されてもようございます。どうかスッパリとお手打ちになすって下さいまし」、「其方は面白い男じゃによって、望みを叶えさせてやったのじゃ。其方の親孝行を愛(め)で、其方が住んで居るところの一町四方をそちに遣わす。今日よりそこを市兵衛町と称(とな)えよ」、「へぇ、市兵衛町、有り難う存じます。でも、何だか考えてみると訳が分かりません」、「分からぬ事はない。其方が親孝行の徳によって、一日公方になって望みが叶い、其方の住まいおる一町余の地面を遣わし、町名を市兵衛と称える、親孝行の徳である。分かったであろうな」、「ヘえ? 市兵衛が公方様で、公方様が市兵衛で、どう考えても・・・」、「まだ分からんか」、「こいつぁ麻布で気が知れねえ」。

 



ことば

サゲの意味;「気が知れねえ」には諸説ある。
 ①麻布領内に目黒、白金、赤坂、青山があるのに黄が知れぬ。
 ➁六本木という名木があるのにその所在が分からない。
 ➂花屋が黄菊の注文を受けて麻布へ刈りに行ったら白菊だった。 この時、二代目団十郎が「白菊が夜は麻布の黄が知れぬ」と詠んだ。
 ➃五色不動尊のうち目黄不動がどこにあるか分からないが麻布ではないか。 (目黄不動は台東区の浄閑寺にあります。)
 ➄木が多くて木の名が知れない。
 「落語事典」より

 地名を使った言い回しには、「恐れ入谷の鬼子母神」、「大あり(尾張)名古屋の金の鯱」などが有名。これは洒落としてすぐ分かるが「麻布で気が知れない」 という言い回しは耳にしてもピンと来ない。

麻布六本木(ろっぽんぎ);東京都港区の地名、繁華街・ビジネス街。現行行政地名は六本木一丁目から六本木七丁目。
 大半が武家地だった区域だが、江戸時代の「六本木町」は門前町で、現在の六本木交差点付近の狭い範囲を指していた。明治以降の「六本木町」は、寺院や大久保加賀守(小田原藩主)家の下屋敷跡などを含む範囲になった。武家屋敷跡がお屋敷町になった。湧き水や地下水に恵まれ金魚の養殖が盛んであった。
 地名の由来は、6本の松の木があったことに由来する説と、また、青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏の各大名屋敷が存在したことに由来する説などがある。

 現在、平日は昼夜を問わずサラリーマンやOLの姿が目立ちオフィス街としてのイメージも強くなった。八丁目には高層ビルの六本木ヒルズ、交差点の北側、赤坂九丁目の防衛省跡地に建った東京ミッドタウン、七丁目の国立新美術館他、六本木一丁目にはスペイン大使館、スウェーデン大使館などの外国公館や、六本木七丁目の在日米軍施設(ヘリポート、星条旗新聞社ほか)などもあり外国人の姿も目立つ。 週末の金曜日・土曜日の夜になるとバーやクラブ、キャバクラなどが林立する繁華街の様相を呈する。クラブ目当ての若者や外国人のほか、キャバクラ嬢や外国人の客引きが街頭に出ている姿が見られる。

麻布十番(あざぶじゅうばん);新堀川(古川)の一ノ橋の北に馬場があった。仙台馬の市が立った所で、十番馬場といった。この馬場内に、享保17年(1732)町屋が許されて十番馬場町と称えたのが町名の始まり。
 この町名の由来はいくつか説があります。江戸時代に古川の改修工事のため「第10番目の工夫を出した地域」とか、「10番目の土置き場だったから」、「10番目の工区だったから」などの説が有力です。特に最後の説は、土置き場を示す杭が後に残っていたという記録があったことからも、信憑性が高いと思われていますが、はっきりしていません。港区説。
 最近まで陸の孤島と言われていましたが、地下鉄の開通のお陰で若者が集まる斬新なショッピング街として、華やかな町の風情をかもしています。 

麻布と落語;落語にも取り上げられている地名です。「おかめ団子」、「井戸の茶碗」、「黄金餅」、「小言幸兵衛」、等があります。

将軍の頓知;盲目で鍼灸師の杉山和一(すぎやま わいち)の献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その答え通り墨田区本所一つ目を拝領した。綱吉のお付きの者のウイットに富んだ対応が見事。落語「按摩の炬燵」より孫引き。

 

 上、明治東京名所図会より「一つ目弁天」。現在も江島杉山神社とその中に鍼灸施術所があります。

公方(くぼう);室町時代以後、征夷大将軍の称。鎌倉府の長などを指すこともある。
 近世、将軍家、また将軍職の人をいう。元来は、公務やその役をいったが、鎌倉時代後期には、幕府(将軍家)や朝廷をさすようになる一方、荘園・公領を支配する寺社本所・武家をおしなべて公方とよぶ習慣も同時に一般化する。これは、この語が国家的統治権の所在を指すようになったためであろうと思われる。室町時代になると、そのことがもっと明確化し、守護領主・荘園領主をも指すようになる。
 江戸時代、将軍をいう。幕府を公儀(こうぎ)と称した。五代将軍徳川綱吉(つなよし)が「犬(いぬ)公方」とよばれたことはよく知られている。

お成りの時(おなりのとき);皇族・摂家・将軍などの外出・来着の尊敬語。

お天道様へ石をぶつける;太陽に向かって石を投げても適わないこと。
 似たようなことわざで、「天に向かって唾を吐く」= 《上を向いてつばを吐くと、それがそのまま自分の顔に落ちてくるところから》人に害を与えようとして、かえって自分に災いを招くことのたとえ。 天を仰いでつばきする。 天につばする。

町奉行(まちぶぎょう);江戸の町々を支配した幕府の役職。 他都市の町奉行の場合には都市名を冠したが(大坂町奉行、伏見(ふしみ)町奉行など)、江戸の場合のみ単に町奉行と称した。 寺社・勘定両奉行とともに三奉行という。
 町奉行は老中のもとで町の支配に従事した。旗本のなかから人材が選ばれ、1666年(寛文6)に役料として米1000俵が支給されたが、1723年(享保8)には役高3000石となり、それ以下の者も在職中には差額が支給された。職務内容は江戸市中の町人地支配に関する全体的な業務である。町奉行のもとには、町人支配機構として町年寄以下の町役人、小伝馬町(こでんまちょう)牢屋敷(ろうやしき)の獄吏、本所奉行(ほんじょぶぎょう)(のち本所道役(みちやく))などがある。さらに、寺社奉行・勘定奉行とともに評定所(ひょうじょうしょ)(幕閣の最高合議機関)に参加し、政策決定に参与した。執務は月番交代制で行われ、非番の月には表門を閉ざしていたが、継続している訴訟などの業務や相互の協議(内寄合(ないよりあい))を行っている。業務は多忙であり、市中の治安維持をはじめ、裁判など民政全般にわたり、上水や新田開発業務に従事したこともある。大火にあたっては自身も出馬して現場の指揮にあたった。激務のため、他の職に比して在職中の死亡率も高かった。

リャンコ;数字の2の意味。噺で言えば、2両かも知れないが、20両だったかも知れない。相手が200両と言ったのでそこで収まったので、非常に危うい言い方です。

煎餅布団(せんべい ぶとん);堅い薄っぺらな貧乏布団。

一町四方(1ちょう しほう);1町(丁)とは、60間。 すなわち360尺にあたり、約109m。60間X60間の広さの土地。ざっくと100m四方で、約競技場のトラックと芝生の広さ。

麻布市兵衛町(あざぶ いちべいちょう);現在港区六本木三丁目。麻布地区北部の台地上にあった市兵衛町は、慶長(けいちょう)(1596~1615)のころは今井村(いまいむら)の内であり、その畑地のなかに今井台町という町ができました。今井台町は今井村の台上の意味の町名でしたが、元禄(げんろく)8年(1695)に名主の名をとって市兵衛町と改名しました。港区。

  

 江戸切り絵図より、今井谷六本木赤坂絵図。市兵衛町の北側は現在首都高速の谷町インター、その南側に日本IBMや六本木プリンスホテルが有ります。市兵衛町の跡地には高層マンション六本木グランドタワーレジデンスが有ります。

 

 現在の市兵衛町跡の町並。東側を見ています。グーグルマップより。



                                                            2021年11月記

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