落語「指南書」の舞台を行く
   

 

 初代森乃福郎の噺、「指南書」(しなんしょ)より


 

 京都のとある商家の若旦那である清吉は、頭もよく、商才もあって親孝行もする結構な人・・・なのだが、恐ろしく嫉妬深いのが玉に瑕。 あまりの嫉妬深さを心配した両親が、「結婚でもすれば大人しくなるかな?」とお花さんという女性と清吉を結婚させた。 しかし、『スズメ百まで踊り忘れず』。今までの嫉妬心が全部お花さんに向かってしまい、毎日壮絶な夫婦喧嘩をするようになってしまった。

  これではイカンと思ったご両親。檀那寺(菩提寺)の和尚さんに清吉を預け、寺で精神修養させることを思いつく。 一年程ばかり修行していると、頭の良い人物であったうえに、旦那寺の和尚が【理で理を攻める】ような教え方をしてくれたおかげで、だんだんと人間が丸くなって来た。 これに安心したのか、両親が相次いで他界してしまう。
 さらに一年後、今度は和尚さんが体調を崩して床に伏してしまった。 いよいよという時、和尚さんは清吉を枕元に呼んで、清吉に書き遺した指南書の本を渡した。 「仏作って眼を入れずの例えじゃ・・・これだけが心残りでな」 もし、腹が立ったりした時は、どこでもこれを開いてみなさいと言い残し、和尚さんは大往生を遂げた。

 それからの清吉は、和尚さんのおかげでこれまでとは180度変わった夫婦円満の生活を送った。そんなある日、草津に住む叔父さんのところへ五十両届ける用事ができた。
 初めての旅。三条通を東へ、山科街道に差し掛かってまいりますと、大金を持ち歩いているのも相まって、道行く人がみんな盗賊に見える・・・。 「もしッ」、「出たッ」俗に言う、『護摩の灰』だと思った清吉はもうガタガタ。何とか助けてもらおうと思い、指南書を開いてみると・・・?

 〔 旅は道連れ 世は情け

 「・・・さいですか。おまっとさんでした、一緒に参りましょ」、「けったいな人ですなぁ」 話をしつつ、山科街道を抜けて浜大津の浜へ。矢橋船(やばせぶね)に乗ることになったが、清吉はカナヅチであるために船が怖くて仕方ない。 ここぞとばかりに指南書を開くと・・・、

急がば回れ

 船で一里のところを陸路で三里かけ、てくてく歩く清吉。その道すがら、野路の里あたりで急に激しい雨。 船の方が良かったのかな? 首をひねりつつ指南書を開くと・・・?

急がずば濡れざらましを旅人のあとより晴るる野路の村雨

  教えられたとおりに晴れるのを待っていると、間もなく雨は上がった。そんなこんなで草津。
 お金を渡すと叔父さんは清吉の苦労をねぎらい・・・、「どうやって来た?」、「陸路で」と答えると、叔父さんは 「さっき雨に降られたやろ? あれは比叡颪(ひえ~おろし)じゃ。あれでな、矢橋船が三艘転覆してしもてな。浜辺じゅう仏さんの山や」 と恐ろしい話。
 驚いて浜に行ってみると、最前の道連れの男の死骸も転がっている。 これも和尚さんのおかげだ・・・と胸をなでおろし、今度は急に家族のことが心配になって来た清吉。 泊って行けと言う叔父さんを制し、あのぉ、矢橋船転覆のこの噂が京都のほぉへ聞こえてるや分かりまへん。留守をしてくれておりますお花の耳にでも入りましたら、心配するやろと思いますんで、一時も早よぉ帰ってやろと・・・。
 途中でお土産に羊羹を買いつつ京都へ。 急いで家に帰ってみるともう夜更け。そっと中を覗いてみると、なんとおかみさんが男と一緒に布団の中。

 「お花め・・・、四つにして切り刻んでやる・・・!」 間男なんかしおってッ。激情に駆られ、中に踊りこみそうになる体を必死に抑え、清吉は念のためにと指南書を開く。

 〔 なる堪忍は誰もする ならぬ堪忍するが堪忍

  「殺生やッ、和尚さんも間違うんかいなぁ? もう一度お願いします」。

 〔 七度尋ねて人を疑え

 「そうや。どうせ斬り殺すんなら尋ねてからでも同じや」 何とか平静を装って戸をたたき、出てきたおかみさんをボカッ、「何をするんッ」 困惑するおかみさんの首を締めあげ、「あそこで寝ているのはどこの男だ」と尋ねると、何故かおかみさんが変な顔に。
 「あれはお母さんや」 何でも清吉の留守中、来はって「絣(かすり)が織れたさかい、あんたの単物(ひとえもん)でも作ったら」言ぅて、持って来てくれはったん。 お礼の振る舞い酒に酔っぱらってベロベロになってしまい、そのまま帰すと危ないからと一緒に布団に入ったんだとか。 歳のせいで髪の毛がまばらになってしまい、まるで男のハゲ頭のように見えてしまったという訳。

 次の朝、義母にわびを言って、土産の羊羹を皆で食べようとすると腐っている。 おかしいと思って、またまた指南書をひもとけば・・・、

うまいものは宵の内食え 〕。

 



ことば

もともと法話だったものを落語に仕立て直した作品。江戸にも輸出されたらしいが、音源は残されていない。
 オリジナルは、大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、寺の法話をヒントに、明治後期にものにした新作落語です。この人は、明治・大正における上方の創作落語のパイオニアとでもいうべき存在。
 ほかにも、「動物園(ライオン)」「象の足跡」「電話の散在」など、今も高座に掛けられる、質の高い新作を多数残しています。落語家にはまれな品行方正で鳴る人であったらしく、「指南書」にもその生真面目さの一端がかいま見えています。京都の高台寺門前で今も続く甘酒屋「文之助茶屋」の創業者でもあります。

初代 森乃福郎(もりの ふくろう);(1935年9月3日 - 1998年12月27日 本名:仲川なかがわ 吉治よしはる)。
 京都・先斗町の御茶屋の息子に生まれる。子供のころから演芸が好きで京都府立鴨沂高等学校在学中の1955年に新関西新聞主宰の演芸コンクールで「強情灸」を演じた、その時の審査員の奥野しげるの紹介で高校卒業後、1956年4月に三代目笑福亭福松(前名は二代目文の家かしく、三友派で活躍した二代目桂文之助の実子)に入門、笑福亭福郎を名乗り、同年12月に戎橋松竹で初舞台。1961年後半、藤山寛美の命名で森乃福郎に改名し、終生この名で通した。師の実父の名跡であり、福郎自身も憧憬を抱いていた三代目桂文之助を1987年に襲名する計画が、所属する松竹芸能で立ち上がっていたが、同時に二代目笑福亭松翁を襲名する予定であった六代目笑福亭松鶴が前年に亡くなったため、立ち消えになっている。
 1989年ころに体調を崩し片肺を摘出してからは第一線から退き、タレントの活動をセーブし落語の活動を中心とした落語会、浪花座などに出演。その後入退院を繰り返し、肺炎併発による呼吸不全のため死去。63歳没、早い死去であった。

指南書(しなんしょ);(指南車が方向を示して導くことから) 教え示すこと。教え導くこと。また、その人。教授。「人生指南書」。指南をまとめた書籍。
 指南車=古代の、方向を指し示す車。上に仙人の木像をのせ、歯車の仕掛けで、最初に南に向けておくと常に南を指すように装置した。中国で3世紀頃作られたが、伝説では黄帝が蚩尤(シユウ)と涿鹿(タクロク)の野に戦い、大霧に襲われたので、これを作って兵士に方向を教え示したといい、周初に越裳氏の使者が来貢し、その帰路に迷ったから、周公がこれを授けて国に帰らせたとも伝える。

スズメ百まで踊り忘れず;雀は死ぬまで飛びはねる癖が抜けないように、若い時に身についた習性や若い時に覚えた道楽は、年をとっても変わらない。ことわざ大辞典。

檀那寺(だんなでら);自分のお寺のことを檀那寺と呼ぶ。この“檀那”も梵語の音訳で、布施を意味します。ですから、檀那寺とは自分の布施で成り立っているお寺のことをいいます。その布施する家のことを檀家といいます。つまり、法を説いたり、先祖の供養をする(これを法施といいます)一方、お寺の経済的基盤を檀家の財施に依っているお寺です。すなわち双方が、法施、財施の布施をしあっているのです。

仏作って眼を入れず;物事をほとんど仕上げながら、肝心な最後の仕上げが抜け落ちていることのたとえ。「仏作って魂入れず」。

草津(くさつ);滋賀県草津市。近江国栗太郡にあった東海道五十三次の52番目の宿場で、中山道が合流する。現在は滋賀県草津市市街。本陣が現存し、国の史跡に指定されている。

 「右東海道いせみち 左中仙道美のぢ」と刻まれた道標が建つこの地は、東海道と中山道のまさに分岐・合流地点。 かつて草津宿の追分見付と呼ばれていたこの地に、街道を往来する諸国定飛脚の宰領中から寄進された火袋付きの常夜灯が今に残されています。

 東海道五十三次の内、「草津」 広重。 バックの店はうばがもちやです。

 矢橋港跡= 近江八景の一つ「矢橋の帰帆」(やばせのきはん)として知られる矢橋は、古代から近世を通じ琵琶湖の代表的な渡船または渡しとして栄えた名所。現在は遺跡公園として復元され、脇にたたずむ弘化3(1846)年建立の常夜灯とともに在りし日の面影を今に伝えています。
 なお、群馬県草津町にある草津温泉とは違います。

三条通(さんじょうどおり);三条通(さんじょうどおり)は京都府京都市の主要な東西の通りの一つ。 平安京の三条大路に相当する。 また、鴨川に架かる三条大橋が東海道五十三次の終点だった。
 東は山科区四宮から西は右京区の嵐山(渡月橋)に至る。東海道の京の出入口の部分は「京の七口」の一つの「粟田口」と呼ばれ、近くにある粟田神社は「旅立ちの神」として信仰された。上京区・下京区が置かれたとき、この三条通を境として北が上京区、南が下京区とされた。烏丸(からすまる)通との交差点には、京都市道路元標が残されている。

山科街道(やましなかいどう);京都山科を旧東海道が通るので、その俗称として使われた名称。
 京都市歴史資料館学芸員の話では、大津~大津市逢坂(おうさか)~山科~山科区日ノ岡~粟田口~三条通~(鴨川に架かる)三条大橋(旧東海道の終点)、を結ぶ街道で、旧東海道を言い換えた俗称だと言います。

 京都の出入り口に当たる粟田口に鎮座する粟田神社。

護摩の灰(ごまのはい);江戸時代、道中荒し、枕さがしなどを働いた小盗賊。「胡麻の蠅」は俗称。その語源は元禄年間 (1688~1704) 高野聖と偽称し、弘法大師の「護摩の灰」と称するものを街道筋で売歩き、巧みに町家に取入って宿泊しては物品を盗み、娘をかどわかした者があったことによるといわれる。護摩化 (ごまか) す、あるいは胡麻にたかった蠅のように、良悪見分けにくいところからこう呼ばれたとの説もある。悪雲助とともに、道中で最も警戒すべきものの一つで、幕府は道中奉行に取締らせたが、根絶はできなかった。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

旅は道連れ 世は情け;旅では、胡麻の灰以外、道連れのあることが心強く、同じように世を渡るには互いに情けをかけることが大切である。

浜大津(はまおおつ);浜大津は滋賀県大津市の中心市街地にある町名。大津市の中央に位置し、北部は琵琶湖疎水、北東部には大津港がある琵琶湖に面した大津港を擁し、江戸時代、矢橋船の発着港として古くから交通の拠点として栄えた。びわ湖浜大津駅が最寄り。現行行政地名は浜大津一丁目から浜大津五丁目。

矢橋船(やばせぶね);噺では男が船に誘われるのは、大津から草津へ渡す矢橋船。

 矢橋(やばせ)=矢橋は大津の対岸、琵琶湖東側、草津市にあります。東海道を草津から大津まで行くと瀬田の唐橋を通って約12km。草津から矢橋まで約4kmを歩き、あとは大津まで船旅で行くと楽をすることができたところから、たいへんな賑わいだったようです。今の新しく出来た近江大橋に並行して北側を船で渡ります。
 米朝の落語「矢橋船」のマクラをかりると、江州近江の国の草津から大津まで、陸上を歩きますと三里と幾らかあるんですなぁ、それを琵琶湖の水の上を行きますというと、矢橋といぅ所まで出て来て、そっから船ん乗って行くっちゅうと一里余りやそ~で、だいぶ楽になるんですなぁ。
 右上図:「矢橋帰帆= 矢橋(草津市)」。落語「近江八景」より歌川広重画

急がば回れ(いそがばまわれ);名所図会などにも描かれている「うばがもち」を商う茶屋(うばがもち屋)があった。この角が「矢橋道(やばせみち)」との分岐点である。矢橋から大津へ向かう琵琶湖の渡し船(矢橋渡し)は、瀬田の唐橋へ回るよりも速く、距離が短くすむことから人気があった。勢多の唐橋経由の陸路にくらべて、矢橋港から湖上(50町)で大津への航路は、「勢多へ廻れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ」と詠まれ、水運の安全が確保されたためか、多くの旅人に東海道の早道(脇道)として利用された。「武士のやはせのふねははやくともいそかはまはれせたのなかはし」と詠まれ、「急がば回れ」のことわざの語源になっている。

野路の里(のみちの さと);滋賀県甲賀市。山伏の里 野路と言われます。甲賀忍者の里と言われています。草津市を東に旧東海道を下ると山深い中に甲賀忍者の里が有ります。そこで村雨に出会って雨宿りを予期せざる中、立ち往生をしていたのでしょう。

急がずば濡れざらましを旅人のあとより晴るる野路の村雨 ;室町時代の武将太田道灌の作とされる歌は、短慮への戒めとして伝わっている。もしも急がなければ、濡れなかったであろうに。 旅人が通った後から晴れていく野の道に降った にわか雨である。 皮肉にも晴れていく村雨の景は「急(せ)いては 事を仕損じる」の教訓として詠まれています。

比叡颪(ひえい おろし);滋賀県の比良山地東麓に吹く局地風。特に毎年3月26日に行われる天台宗の行事「比良八講」の前後に吹くものを比良八講・荒れじまいまたは比良八荒(ひらはっこう)と呼び、本格的な春の訪れを告げる風とされている。
 比良山麓を走るJR西日本湖西線は、全線高架となっているうえ、真横から風を受けるため、比良おろしの影響を非常に強く受ける。1997年6月29日には、比良駅に停車中の貨物列車が横転する事故が起こった。鉄道総合研究所による調査の結果、このときの風速は最大瞬間風速57m以上と推定されている。
 また、水難事故の原因にもたびたびなっており、以下の例が挙げられる。
1941年4月6日 琵琶湖遭難事故(死者11名) - 旧制第四高等学校漕艇部員が犠牲となった。「琵琶湖哀歌」で知られる。
2003年9月15日 ヨットファルコン沈没事件(死者・行方不明7名)。

なる堪忍は誰もする ならぬ堪忍するが堪忍;とても堪忍できないようなことを堪忍するのが本当の堪忍である。だれでもがまんすることはがまんのうちに入らず、とてもがまんできないところを辛抱することがたいせつである。
 有名な故事を紹介。
 漢の統一における功労者であった大将軍韓信(かんしん)についての逸話。彼は、若いころ家が貧しくて食べるものにも事欠き、釣りをして空腹を凌いでいたことがありました。気の毒に思った老女が飯を恵んでくれたことさえありました。あるとき、町の無頼の者が「お前は長剣を下げているが、出来るものなら、おれを斬ってみよ。できないならおれの股の下をくぐってみよ」と嘲ったのでした。韓信はしばらく相手をにらんでいましたが、やがて這いつくばって、その無頼の者の股の下をくぐったとのことです。「韓信の股くぐり」と和漢折衷の格言となっています。公衆の面前で侮辱を受けて、「市の人背信を笑いて怯となす」というような状態に忍の一字で耐えぬいたからこそ、将来の彼があったといえます。

 忠臣蔵でもありました、
 箱根山の茶屋で休んでいると、峠の馬方・丑五郎から、「わしの馬に乗れ」と言いがかりをつけられました。与五郎が断ると、「わしの馬には乗れんのか」とよけいからんできました。討ち入りの大事を前に、与五郎は我慢に我慢を重ねていると、丑五郎は、腰抜け侍と思って、「詫び証文を書け」と要求してきました。証文を書くと、今度は、「丑五郎の股くぐり」を強要しました。丑五郎は、「腰ぬけ侍」とののしって立ち去りました。
 上記、大将軍韓信の逸話の焼き直しだろうと言われます。

七度尋ねて人を疑え(ななたびたずねて-);物を紛失したときは、つい人を疑いたくなるものだが、自分で何度も探したうえで疑っても遅くはないことをいう。軽率に人を疑うことを戒める句である。

土産の羊羹(みやげの ようかん);土産に買うのは草津名物の「姥が餅」で、女房と寝ていたのは義兄でなく義母というのが、東京と異なるところです。清吉の土産は元々は草津名物の『姥が餅』。初代福郎がNHKの放送で演じた際、この部分が宣伝に当たるとして羊羹に置き換えて語った。

 姥が餅(うばがもち)=四百余年の昔から変わらぬ素朴な美味しさ。滋賀・草津を代表する郷土菓子です。 草津市商業観光係。右写真。
 お菓子処 うばがもちや本店、滋賀県草津市大路2丁目13。草津宿は東海道と中山道が交わる要衝で、名物餅として安藤広重の浮世絵にも名所絵図にも描かれています。 「うばがもち」は永禄十二年、織田信長に滅ぼされた佐々木義賢一族の遺児を託された乳母が養育のために 売ったのが始まりと云われています。 草津産のもち米でつくった餅をこし餡で包み、白餡と山芋の練り切りをのせました。 乳母の悲しみの心が形となり、今に生きる伝統の味わいです。

うまいものは宵の内食え;美味な物は、一晩たつと味が落ちるから今夜のうちに早く始末せよ。 よい話はそのままにしておかないで、さっさと進めて利益をあげるのがよいというたとえ。

■似た話、ロシア民話「よい言葉」の、あらすじ。
 金持ちの商人の子イワンは、父親の死後放蕩に身を持ち崩し、路頭に迷う身に。それでも美男だったので、賢く美しい妻をめとり、妻が織るじゅうたんを売って生計を立てている。妻はある日、イワンに、市場へ行って金でなく、ためになる「よい言葉」と引き換えにじゅうたんを売るよう言い渡す。そこでイワンはふしぎな老人に最初は、「死を恐れるな」、二度目は、「首斬る前に起こして尋ねろ」という言葉を授かる。やがて、叔父の商用について航海に出たイワンは、海上で海の裁きの女神に招かれ、「死を恐れるな」という第一の箴言を思い出して、勇気を奮って海底にもぐり、女神の悩みをとんちで解決。報酬に、巨万の富を得る。イワンはさらに世界中を回って商いを続け、二十年後、大金持ちになって家路につくと、妻が二人の若者とベッドに横になっていた。思わずかっとなって、剣を引き抜いて姦夫姦婦を成敗しようとするが、ここで二番目の教訓を思い出し、妻を起こして問いただすと、若者二人は、自分の留守中に妻が出産した双子の息子だった、というわけで、めでたしめでたし。

 


                                                            2021年11月記

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