落語「鯉船」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「鯉船」(こいぶね)より


 

 ある若旦那が東横堀に船を浮かべて、船頭はんとこれから網打ちに行こぉちゅうのを、橋の上から見付けまんねやなぁ。

 「もし、若旦那・・・、若旦那ッ」、「誰やいな」、「磯七でおます」、「磯村屋か・・・、何じゃいなまた」、「今日はどちらへお出かけで」、「網打ちに行こぉと・・・」、「いよッ、お供」、「船頭と二人だけやさかいな、付いて来たかてあけへん」、「ちょ、ちょっと船頭はん船出したらあかん、へッ、お供しまひょ」、「もぉかなんなぁ~、お前なぁ、遊山船と違う、屋形船でもないやろ、また連れてったる、また」、「網打ちお供しまんがな。わたい、網好きでんねん」。
 「店忙しぃ?」、「忙しぃことおまへん、暇でんねん」、「また連れて行たるさかい、今日はやめときて」、「あんた網打って魚取って、それあんた魚屋へ卸しに行きなはんのか」、「そんなことはせぇへんわいな」、「魚屋へ卸す、っちゅうわけはない。といぅて、『両親に持って帰って喜ばしたろ』てなお人では決してないわ。たいがい帰りはこぉ船をズ~ッと、西横堀のほぉへ回すか、道頓堀のほぉへ回すか分からんけれど、ズ~ッと行く先は決まってまんねやなぁ。で、なじみのお茶屋へその魚持って行きますわ。おなじみの綺麗どころがズラッ、『まぁ若旦さん、今日はなんかお魚楽しみに来てまんねん』とか何とか言ぅて、そこであんた鼻の下長ごぉのばして、『これ、わしが捕ってきた。これはお造りにしょ~か、これは揚げたほぉが美味しぃ』とか言ぃながら・・・、わたし連れて行かなあきまへん、絶対わたしが要ります」。
 「わたし連れて行くと、あんた得だっせ」、「どない得」、「売りまんがな、その魚、『お前ら、これ、ただで食おと思てんのん大間違いや、どない思てんねや、さッ今から競り売りする』ちゅうわけだ。芸妓連中ちゅななぁ、もぉ贅沢なことばっかり言ぅてるけど銭持ってへんさかい、もぉ五銭とか六銭とか、十銭やなんか言ぃますわいな。『なにを・・・、そんなもんで売るかいッ』吊り上げたところで、まぁせぇぜぇ一円までいったら御の字ですわ。それより上はよぉ付けよらん、『お前らどぉ思てんねん。若旦那、一日つぶして捕ってきはった魚や。魚屋行きゃ金出しゃ何ぼでも買えるけど、そんな魚とはネグチが違う。お前らよぉ買わんねんやったら、わしゃこれ十円の値を付ける』。わてが十円言ぅてみなはれ、誰もそのあとよぉ続かんわ。したら若旦那が、『わしが捕ってきた魚、磯七、十円で買ぉてくれるとは嬉しぃやっちゃ、気に入った』ちゅうて、バ~ンとあんたがわてに、二十円の祝儀をくれる」、「よぉそんなうまいこと話持ってくるなぁおい」、「まぁまぁ、そぉなりま」、「お茶屋なんかへは今日行けへんねやさかい」、「どないしなはんねん」。
 「これ家へ持って帰って、ちょっと親孝行の真似事でもしょ~か」、「それならわたい連れて行きなはれ」、「何で、お前を連れて・・・」、「わたし親旦那に言ぃますがな、『これ、若旦那が捕ってきはったお魚でございます』。へ、わたしゃ実は言ぃましたんや、『この魚持ってお茶屋へ行て、なじみの綺麗どころ呼んでワァ~ッと騒ぎまひょいな』ちゅうたら、若旦那のおっしゃるには『磯七、何を言ぅねん、いつまでもそんなことしてられへん。たまには親孝行の真似事したい。これはえぇ鯉やさかい、この鯉を食べさして、お父っつぁんやお母ぁはんに一日も長生きしてもらいたい』ちゅうて、これを持って帰って来はった・・・。どぉです、若旦那はもぉ人間でけましたで。もぉあんた安心して家をお譲りやす。もぉ隠居しはっても間違いない。若旦那にボ~ンと・・・。あんた家の当主になって、わてと二人でワァ~ッと使こてまおか」、「ろくなこと言わんねやなぁ、お前は勝手に乗って来やがって・・・」、「船頭はん、頼む頼む頼む、行きまひょ」、「しゃ~ないなぁもぉ、ダニみたいな男やさかいなぁ」、「お履きもんなおってまんなぁ、行きまっせ。ヤ、ウントショ~ッ・・・」。

 「どぉやら大川へかかって来たなぁ。船頭はん、大川へ出たらな、ホドのえぇ所を見はかろぉて止めてもらいたい」、「へぇ、もぉこの辺なら大丈夫やと思います」、「磯七、偉そぉなこと言ぅんやったら、お前、ひとつ網打ってみるか」、「網、えぇえぇ、わたしゃ網はやったことおまんねやで、十一屋の旦那が『磯村屋、網打ちや、付いて来い』ちゅうてな、木津川へお供したことがおまんねん。手応えが有ったので、ソ~ッと上げてみたら・・・、これが猫の死骸でな」、「おい、早よ打たんかいな」。
 「いっぺんもなぁ、藤屋の若旦那のお供してた時です、あの人はなかなか網うまいんだっせ。パ~ッと打ったところがな、大ぉ~きな鯉が二匹かかりましたんや。『手玉で取ろと思てもどぉも磯村屋、こいつ逃がしそぉななぁ、お前泳げるか?』『えぇ、わて泳げまっせ』『こら網が小さいよってにな、ちょっと川へ飛び込んで捕まえてもらいたい』『よろしおます』っちゅうて、わたし裸になって、ドボ~ン飛び込んだんだ。で、こぉ探ってみるとな、なるほど大きな鯉が二匹入ってまんねやがな。一匹捕まえてな、これ心得事、覚えときなはれや、さっとこれ脇の下へ挟みまんねや。あの魚の力ちゅなものは、鯉なんか陸(おか)の上へ上がったかてあの通り跳ね回るやっちゃ、水の中の鯉の力てな、なんぼ力込めて人間が爪立てよぉが、そんなことぐらいで逃げてしまいます。ところがこの、脇の下へガッと挟み込んだらな、この力ちゅな、向こぉどないもでけしまへん、ガッともぉ動けんよぉなってしまいま。わて、ガバッと抱え込んで、もぉ一匹捕まえてこっち側へガッと挟んで。それはえぇけど、さぁ両の手が使えんことになってしもた。体がス~ッと水の底へ沈んでしまうさかい、『こらあかんな』と思て足をバタバタバタ、手をこぉやって、なんやわてが魚になったよぉな格好になってな、バタバタバタバタとこぉ上へ上がって行ったんだ。ちょ~ど水面へ頭が出よっちゅう時に、拍子の悪い、川の上から木ぃで作ったオマルが流れて来ましてなぁ。それが頭の真ぁ上に来た時にわてが下からコンとやったもんやさかい、クルッとひっくり返ってスポッと被ったんで、わて思わずパッと敬礼」、「もぉ、そんなアホなこと・・・ 」、「さぁ、魚は逃げてしまうわ、頭から汚い、臭いもんかぶってしもて、船へ上がろと思たら、『汚いやっちゃ、臭い、あっち行き、あっち行き』船へ上げてくれしまへん。あんなえらい目に遭(お)ぉたことなかった」。

 「アホな話ばっかりしてんと、網を打たんかいな」、「え~ぃ、思い切ってソ~レッ、若旦那、かかりましたで」、「ホンマかいな」、「ちょっと船頭はん、その手玉貸して、手玉貸して・・・、ソ~レッ」、「見事な鯉がかかったやないか」、「さぁ、立派な鯉だっしゃろ。これ、わてが料理するわ」、「もぉ船頭はんに任しとき」、「わたしかて造れますて、わて毎日刃物持ってまんがな」、「そら毎日刃物は持ってるけどな、庖丁と剃刀とは違うねや」、「おんなじこってやす」、「おいおい、船縁へ置くてな、そんな大胆なことしたらいかん、逃げてしまう」、「逃げますかいな、船縁大丈夫。船頭はん、庖丁かして包丁、いや大丈夫だいじょ~ぶ・・・、鯉はな『大名魚』っちぃまんねやで、まな板に乗った鯉っちゅうことがおますやろ、この船縁であろぉとどこであろぉとな、こぉいぅ風に庖丁でス~ッとひとつ撫ぜたら、もぉにじり動きもせん・・・、こら、いさぎよい魚です。これあんた、鯉は大名魚」、「今、動いたがな」、「動くはずはおまへんねがな、こぉやってな、庖丁でこぉ撫ぜたら・・・」、「また、動いたで」、「ん? 旗本かな」、「ほぉら、三べんか四へんかこぉやったら落ち着いた。もぉ諦めてます。今から辞世を詠みまっせ、こいつがな、『風誘う、花よりもなお・・・』」、「早よやらんかいな。鯉の髭を剃って、どないすんねん」、「『髭を見たらほっとかん』ちゅうのはこれわたしの癖・・・」。

 ゴジャゴジャ言ぅてるうちに鯉が一つ尾でポ~ン、船縁を叩いたかと思いますといぅと、
 「あッ、うぁうぁ、うわぁ~ッ、逃げても~た」、「せやさかいお前、あんなとこでやったら危ないて・・・」、「せやかて、鯉はいさぎよい魚や言ぅさかい」、「何が大名魚やホンマに、あら旗本どころやないで・・・」。
 「もぉし若旦那、上がって来ましたで」、「上がって来たかい」、「見てみなはれ、あれ、妻や子どもに最後のひと言を言ぃ残して、『ほんなら、わしゃ改めてまな板に乗ろぉ』ちゅうて上がって来た。偉いやっちゃ、上がって来た上がって来た・・・ 鯉、ここへ飛び込め、船の中へ飛び込め」。
 鯉がスッと顔出すと、「磯はん、こっち側も頼んまっさ」。

 



ことば

■江戸落語に似た題名の「こいぶね」、いえ、違います。「汲みたて」と言う噺が有って、魚の鯉ではなく肥船、すなわち肥料にされていた人糞を運んだ船が活躍していました。しかし、鯉と肥では大違い。

東横堀(ひがしよこぼりがわ);東横堀川。土佐堀川の上流部で南へ分かれて、中央区の船場・島之内の東縁を流れる。全長約3km。西へ向きを変えてから下流は道頓堀川となる。 阪神高速1号環状線(南行き)の経路に利用されており、川に蓋をするように高架橋が覆い被さっている。地図によっては阪神高速の表記のみで、東横堀川の表記を省略するものも見られ、川の存在感が薄れがちである。

網打ち(あみうち);投網。 円錐形の袋状の網のすそにおもりを付けたものを、魚のいる水面に投げ広げ、かぶせて引き上げる漁法。また、その網。川など浅い所で行われる。うちあみ。なげあみ。唐網(とうあみ)。「投網を打つ」。右写真。

遊山船(ゆさんぶね);遊山客を乗せる船。上方落語として、六代目笑福亭松鶴の噺、「遊山船」(ゆさんぶね)がが有ります。

 

 船遊びをする遊山客。隅田川首尾の松の下で釣りを楽しむ江戸っ子。葛飾北斎画。

屋形船(やかたぶね);主に船上で宴会や食事をして楽しむ、屋根と座敷が備えられた船のこと。
 河川整備が進んだ江戸時代に栄え、大名や豪商などに花見や月見、花火などの遊びに愛用された。特に江戸・隅田川の屋形船は金銀漆の装飾で飾り豪華であった。延宝年間(1680年頃)までが全盛期で、天和2年(1682年)の大船建造の禁により衰退し始めたという。 明治維新の後も引き続き親しまれたが、第二次世界大戦での敗戦後に文化の移り変わりや河川の水質汚濁などで勢いを失っていった。 昭和時代末期のバブル景気や水質の改善や、河川での観光などに屋形船を利用するなど、見直されつつある。東京湾などでは船宿が運行する屋形船が現役であり、訪日外国人も受け入れている。

 

 左下の屋根に船頭が乗っているのが屋形船。右中の屋根が着いた船が屋根船です。北斎画「両国橋下」。

西横堀のほぉへ回すか、道頓堀のほぉへ回すか;西横堀なら「新町」、道頓堀なら「阪町」の花街であろう。

お茶屋(おちゃや);今日では京都などにおいて花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。東京のかつての待合に相当する業態です。
 お茶屋は芸妓を呼ぶ店であり、風俗営業に該当し、営業できるのは祇園、先斗町など一定の区域に限られます。 料亭(料理屋)との違いは厨房がなく、店で調理した料理を提供しないこと(仕出し屋などから取り寄せる)です。かつては、宴のあと、客と芸妓、仲居が雑魚寝をするというのが一つの風情ある花街情緒であったが、今日では見られない。谷崎潤一郎は『青春物語』で京都での放蕩の思い出を記し、雑魚寝は安眠できないので「殺生なもの」だと書いている。
 歴史的には、客は茶屋の座敷で遊興し、茶屋に全遊興費を払った。料理代や酒代をはじめ、芸者や娼妓の抱え主など各方面への支払いは、茶屋から行われた。客が遊興費を踏み倒した場合でも、茶屋は翌日に関係先に支払いをしなくてはならず、客からの回収は自己責任であった。客の素性や支払を保証する責任上、茶屋は原則一見さんお断りで、なじみ客の紹介がなければ客になれなかった。

お造りにしょ~か、これは揚げたほぉが美味しぃ;川魚は寄生虫を持っているので通常生食はしません。ですからお造り(刺身)はどんなに新しくても料理として出しません。例外的に鯉は身を薄切りにして流水で洗い、寄生虫を洗い流して、氷で締めて提供します。ですから、刺身とは言わず「洗い」と言います。熱を加えることで寄生虫の害から逃れます。焼き魚、揚げ物、鯉こく、煮魚などです。

大川(おおかわ);かつての淀川本流であるが、淀川放水路が開削された1907年(明治40年)以降は旧川扱いとなっている。当初「新淀川」「淀川」だった呼び分けは、次第に「淀川」「旧淀川」となったが、旧淀川は上述の区間ごとの名称で呼ばれることが多い。 中之島より上流が大川、または天満川(てんまがわ)、下流が安治川と呼ばれる。中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が土佐堀川と呼ばれる。なお、河川調書では土佐堀川は別河川扱いとなる。 都島区毛馬町で淀川(新淀川)より分岐して南流、川崎橋をくぐると西流に転じ、東からは寝屋川が合流、天神橋の直前で、中之島の北へ堂島川、南へ土佐堀川となって分岐する。 堂島川はかつて大江橋の直前で堂島の北側へ曽根崎川を分岐していた。また、1878年(明治11年)には田蓑橋の上流側から大阪駅に向けて堂島掘割(梅田入堀川)が、堂島掘割分岐のやや上流側から土佐堀川まで中之島掘割が開削された。しかし、曽根崎川は堂島掘割より上流部が1909年(明治42年)の「北の大火」(天満焼け)で生じた瓦礫の廃棄場所になって埋め立てられ、1923年(大正14年)には下流部も埋め立てられた。中之島掘割は1957年(昭和32年)に、堂島掘割は1967年(昭和42年)に全て埋め立てられ、阪神高速11号池田線やオオサカガーデンシティの一部に利用されている。
 土佐堀川は堂島川との分岐後すぐに南へ東横堀川を分岐、端建蔵橋の直前で南へ木津川を分岐する。かつては錦橋の直前で南へ西横堀川も分岐していたが、1962年(昭和37年)に阪神高速1号環状線の建設のために埋め立てられた。 中之島より下流には、かつて淀川河口に蓋をするように九条島が横たわっていたが、1684年(貞享元年)に河村瑞賢が水運と治水のために現在のような直線状に開削し、安治川と命名。九条島は分断され、安治川右岸側は西九条と呼ばれるようになった。沿岸の三角州には江戸時代半ば以降新田が作られたが、明治以降工業地帯へと変わっていった。

 大川については落語「淀の鯉」に詳しく、また大川では鯉がたくさん捕れたのでしょう。

十一屋(じゅういちや);七を細かく分けると、十と下横の一から成り立っています。七=質屋です。

木津川(きずがわ);大阪府大阪市西区中北部で淀川分流の土佐堀川から分かれ、西区中央部を南へ縦断。大阪ドーム近くの大正橋で道頓堀川が東から合流、西へは岩崎運河から尻無川への流れがある。本流は大正区と浪速区、西成区との境界を成しながら南下し、千本松大橋付近から徐々に南西流、そして西流へ転じる。下流では大正区と住之江区の境界となり、木津川運河を分けて大阪港南部(大阪南港東部)へ注ぐ。
 落語「木津の勘助」で木津川を語っています。

手玉(てだま);たも網。釣り上げた魚を船の中に取り込む取っ手の付いた網。

船縁(ふなべり);舷(げん)。船の側面のこと。船縁(ふなべり)、船端(ふなばた)とも言う。

鯉は『大名魚』(こいは だいみょうぎょ);「まな板に乗った鯉」=相手のなすがままで、自らの運命を自分ではどうすることもできないさまのたとえ。また、死を覚悟して、どうにでもしてくれと開き直るさま。
 鯉の横腹にある側線とよばれる器官を包丁で撫でると、ジタバタの動きは止まるようです。この側線という器官は水の流れや水圧を感じることに使われるため非常に敏感です。そのため刺激を受けると失神してしまいます。 まな板の上の鯉は、詳しくいうと側線を刺激された鯉が失神している様子から生まれたことわざなんです。

風誘う、花よりもなお・・・;「風誘う、花よりもなお、我はまた、春の名残を、いかにとかせん」。そうです、忠臣蔵の浅野内匠頭の辞世の句です。



                                                            2022年1月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system