落語「法華坊主」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「法華坊主」(ほっけぼうず)より


 

 耳の遠い人が、春先にこの、縁側でニワトリが時をつくってるのをこぉ見てるうちに、「あ~、日が長いさかいなぁ、ニワトリもあくびば~っかりしとるわい」と言ぅたちゅうんでんねん。
  これ、聴こえなんだらね、「コケコッコ~」ちゅうてるやつが、「・・・」こぉあくびに見えまんねやなぁ、ニワトリが。こんな呑気な噺でございますが。

  お百姓が、田んぼで一日の仕事を終えて帰りかけるといぅと、頭の上でカラスが、「クワ~、クワ~」、「え? あぁ、鍬忘れるとこやったがな。よぉ教せてくれたなぁおい、こんなもん一晩田んぼへほっといたら錆ついてしまうがな。おおきにおおきに、お前にはついぞ、餌一つやったことないがなぁ、よぉ教せてくれた、おおきに」。
  カラスに礼を言ぅて家へ帰って来ます。門口まで来るっちゅうとニワトリが、「クォ~クォクォクォ、クォ~クォクォクォ」、「じゃがましわいこらッ、ひとの顔さえ見たら『クゥクゥ食ぅ食ぅ』ちゅうて餌ばっかりねだりやがって、カラスを見習えカラスを。あいつには餌一つやったことないけど、わしがこの鍬忘れて帰りかけたら、『クワ~鍬』ちゅうて教せてくれたぞ」。
 ニワトリが「取ってこぉか?」、「もぉ遅いわい」。
 気楽な噺があるんですなぁ。ニワトリの鳴き声でもね、そない思て聞ぃたら、「コケコッコ」が、「取ってこぉか」に聴こえたりいたします。こんな噺がちょいちょいあるんですなぁ、落語には。

 ある坊(ぼん)さんが自分の檀家先、そこのご主人が亡くなりますとこの、七日七日にお参りをいたします。それから、今度はまた一周忌やとかいろいろあるんですが。
 「はい、ごめんなされ」、「まぁまぁ、おっすぁん(お住持さん)、あの~今日は?」、「今日はこちらの祥月(しょ~つき)命日やなかったかいなぁ?」、「いぃえ、それは来月でございますがな」、「せやけどまぁまぁせっかく来たもんじゃで、来月はまた来月として、ちょっとお勤めだけさしてもらいましょ」、「掃除もお飾りも何もでけてぇしまへんねやけど、まぁどぉぞお上がりを」、「ほんならまぁちょっとお勤めだけ・・・、ナムアミダブ、ナムアミダブ、なむあみだぶ・・・。なぁ、寺が檀家の日ぃを間違えるはずはないねやが、よぉ分かったぁんねけどな、ここの後家がなかなか色っぽいんじゃあれはなぁ。何とか口説いてものにならんかいなぁと、下心があって来たんじゃが、今日はえぇ辻占を見て帰りたいもんじゃ、(チ~ン)願我身浄(がんがしんじょ)・・・」。
 えぇかげんなお勤めがあるもんで、ブツブツ、ブツブツ嫁はんのほぉの様子ば~っかり覗いながらお経を上げてます。そこの後家さんのほぉは、お寺はんが来はったさかいお茶でも出さんといかんといぅので、台所のほぉで車井戸、水を汲み上げてますと、そいつがちょっと軋んでな、「スキスキスキスキ、スキスキ」と釣瓶縄の音がした。
 「ははぁ~、これからあの後家を口説こぉと思てるのに、『好き好き好き』とはこらえぇ辻占じゃわい。あぁ、ちょっと行て小当たりに当たってみよか」。えらい無茶な和尚ですなぁ、台所のほぉへこぉ、お茶を出そぉと水を汲んでる後家さんの後ろへ来て、「これ、お辰どん、どぉじゃいな」、と抱かまえた。
 「まぁ、おじゅっさん、何をしなはんねんッ」、パッと手を離すと井戸が空回りして「嫌い嫌い嫌い嫌い、ど坊主ぅ~ッ」。

 いろんな噺がございますんですが、まぁまぁ、この噺にも後家さんとお寺さんが出てまいります。さっきも言ぃましたよぉにこの、後家さんになるっちゅうとね、まぁ姑はんでもおりゃそぉでもないんですが、一人だけの女所帯といぅものは近付きにくいもんでございます。
  ことにまた、あの後家とか未亡人とかいぅ言葉に色気があるんですかなぁ。「へぇ~、後家っていっぺんに色っぽなるやないかい。うちの女房も後家にしたい」。ちゅうたアホがおりまんねんけどな。

 そこへこの、割と顕態(けんたい)で出入り(ではいり)できるのがお寺さんでございます。この村の若後家のところへ日蓮宗の、法華宗の坊(ぼん)さんが七日七日にやって来る。でまぁ、四十九日や三十五日やとかいろいろ法事もございますし、また一周忌までのあいだ、割りとこの出入り(ではいり)してても人が怪しみまへんのでな、再々出入(でいり)をしているうちに、これが理無い(わりない)仲になりまして。村の衆の目に付いては大変やといぅので、世間が寝静まった時分にソ~ッと忍んでまいりまして、夜が明ける、あたりが明るなる前に寺に帰る。チョイチョイそぉいぅ風にまぁ、逢い引きが続いてたわけでございます。

  今日も、ボンさんやってまいりましてな、こぉ後家さんのそばで寝てますといぅと、東がジ~ッと白みだします。一番鶏(いちばんどり)が鳴く。これが、「東天紅」と鳴くと言ぃますなぁ。うまい字を当てたもんで、東の天が紅(あ)こなるといぅ、「トォ~テンコォ~」と。「コケコッコ~」ちゅうのが、「東天紅」と思たらそぉ聞こえる。一番鶏が東天紅と鳴きますと、二番鶏が、「国家光」と鳴く。今度は国々が明るなる。東天紅の次に国家光「コッカコ~」といぅ、こぉ二番鶏が鳴きますといぅと、もぉあっちゃこっちゃの鶏(にわとり)がそれに連れて共鳴きをいたします。「コケコッコ~」向こぉのほぉで、「コケコッコ~」近所のが、「コケッコ~」。

 「はいはい、お呼びになりましたのは、どちらさんでございます。あの、法華の坊主はここにおります」、「まぁ、おっすぁん、何を寝ぼけてはりますねん?」、「今お呼びになったのは」、「誰も呼んでぇしませんがな」、「今『ホッケボ~ズ、法華坊主』といぅ声が聞こえたが」、「鶏が鳴いてまんねんがな」、「鶏かえ? 心にやましぃところがあると、『コケコッコ』と鳴いてる鶏の声が、『法華坊主』と聞こえたがな。最前からあっちやこっちでホッケボ~ズ、法華坊主といぅ声で、慌ててビックリして目ぇ覚ましたんじゃ。こりゃお祖師様(おそっさま)が鶏の声を借りて、わしを戒めなされたものに違いない。こなたと縁があって、こぉいぅ仲になりましたがなぁ、ミョ~ホォレンゲキョ~、南無妙法蓮華経。わたしゃもぉ寺に帰ります」、「まだ、暗ろぉございます」、「もぉこれから二人きりで会うことはないと思いますがな、体を大事にしてくだされや。これが世間へ知れたら、わしは寺に住めんことになるし、こなたも世間に面目なかろぉ。わしゃこれで帰ります」。逃げるよぉに帰ってしもた。
 あとに一人残りました後家さん、頼る人にまた離れられて、「これからもぉ、誰を頼って生きていったらえぇんやろ」と、戸口へ出てきてショ~ンボリしておりますと、鶏(にわとり)が、コォ~コォコォ、コォコォコォ・・・。「ホンマに気の利かん鶏やこと。お前がしょ~もない声出すもんやさかい、あの人、去(い)んでしもたやないか。ホンマに腹の立つッ」、そばにあった笊(いかき)をポ~ンと投げ付けますと、鶏(とり)がパッと飛び退いて、「ゴケッコワコワ、後家ッ怖怖ッ」。

 



ことば

■鳴き声や音の出るものは、こちらの感情でいかようにも取れることが有ります。江戸落語に「紀州」と言う噺が有って、これも鍛冶屋さんの音の受取方の勘違いが面白さなのです。

 「めったに高座には掛けない噺なのです。何故って、昔この噺をしている時に、尼さん二人が噺の途中で、席を立って出て行ってしまったのです。ですからお蔵入りになっていた噺なので、それから今回噺をさらい直して高座に掛けています」。米朝
 それはその通りですよね。私が宗教家の世界に住んでいたら、やはり良い気持ちはしないでしょう。でも、人間の奥底の気持ちはどうなのでしょう。若後家さんの色っぽさと、自分の女房を後家さんにしたいと言ってしまう男がいるくらいですから。

おっすぁん;住職(じゅうしょく)は、本来「住持職」と呼ばれている仏教の職名(宗教上の地位)を省略した呼称で、一寺院を管掌する僧侶のこと。 本来は「寺主」や「維那」(いな)などと呼んでいたが、宋代に「住持 (じゅうじ)」という呼称が禅宗で使用され、それが後に一般的となり、職も付与して「住持職」と呼ぶようになった。 「住職」には、各宗派毎に資格規定が設けられている。 僧侶であるならば誰でも住職になれるとは限らず、女性住職を認めない宗派や、逆に住職資格がない僧しか居住していない寺院があり、僧侶はいるのに無住(住職が無い)とされる場合もある。

法華(ほっけ);法華経=正法華経・妙法蓮華経・添品妙法蓮華経をいう。一般に、妙法蓮華経の略称。
 日蓮宗の別称。日蓮宗の一派。1941年、法華宗(日陣門流)・本門法華宗(日隆門 流)・本妙法華宗(日真門流)が合同して法華宗と称したが、52年に再分裂し、それぞれ法華宗陣門流・同本門流・同真門流と称する。陣門流は総本山本成寺(新潟県三条市)、本門流は本山本能寺(京都 市)など、真門流は総本山本隆寺(京都市)。

南無妙法蓮華経(なむ‐みょうほうれんげきょう);日蓮宗三大秘法の一。妙法蓮華経に帰依する意。これを唱えれば、真理に帰入して成仏するという。題目。本門の題目。七字の題目。御題目。

(くわ);鍬とは、木製の柄と90度以内の角度を付けた刃の部分で構成されている道具。主な用途は土を掘り起こすためであり、各地域に合わせた特徴がみられます。
 その理由は、地域によって土質が違うからで、たとえば、粘土質の場合は柄が短く作られ、砂地はその反対の形をしていることがあります。他にも土地の傾斜に合わせて使いやすくした鍬や、用途に合わせた刃が作られてきました。現在は農具が機械化されているため、畑や花壇などの土を掘り起こしたり畝を作ったり、雑草を取ったりなどの用途で使い分けがされています。下図。

檀家(だんか);一定の寺院に属し、これに布施をする俗家。だんけ。檀方。

七日七日(なぬか なぬか);7日ごとに死者の追善を営むべき日。初七日から四十九日に至る各7日目の法要。

一周忌(いっしゅうき);一周忌法要とは、故人が亡くなってから1年目の命日に行われる法要。年忌法要のなかで最も重要とされています。 一周忌法要には、遺族や親族、友人、知人など故人と親しかった人が参列します。僧侶の読経の後、焼香・食事(お斎:おとき)をするのが一般的です。 命日が平日に当たっていて仕事や学校で都合が悪い場合には、日にちをずらすこともできます。ただし、その際は、命日の後ではなく前倒しをするのがならわしです。

祥月命日(しょうつき めいにち);一周忌以後における故人の死去の当月当日。正忌。正命日。

ナムアミダブ(南無阿弥陀仏);弥陀仏に帰命するの意。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。六字の名号。

辻占(つじうら);四辻に立ち、初めに通った人の言葉を聞いて物事の吉凶を判ずる占い。
 偶然起った物事を将来の吉凶判断のたよりとすること。
 落語「辰巳の辻占」にも出てきます。

願我身浄(がんが しんじょ);下記の香偈の出だしの一言。今やっていることと、経が真反対なのが可笑しい。

車井戸(くるまいど);掘り井戸から水を汲(く)みあげるのに車(滑車)を使うことによって名づけられた井戸で、釣瓶(つるべ)井戸の一種。車釣瓶ともいい、井戸の上に溝のある滑車を吊(つ)るし、その溝に釣瓶縄をかけ、縄の両端に釣瓶をつけて縄をたぐって水を汲みあげる井戸である。釣瓶縄には水に強い棕櫚(しゅろ)縄が使われ、よりじょうぶにするために三つ撚(よ)り(通常の縄は二つの繊維束を撚り合わせたものだが、これは三つの束を撚り合わせる)にしたりする。滑車によって力の方向が変えられるので、少ない労力で水が汲めるという利点がある。そのため水位が深い井戸にはこの方式が多い。深い井戸から水を汲むために考え出された方式ともいえる。

   

顕態(けんたい);平気・当然・大っぴら。遠慮しないで。

日蓮宗(にちれん しゅう);日本仏教十三宗の一。日蓮を祖とする。法華経を所依とし、教義は教・機・時・国・序の五綱教判と本尊・題目・戒壇の三大秘法とを立て、即身成仏・立正安国を期す。日蓮宗・法華宗(本門流・陣門流・真門流)・日蓮正宗・顕本法華宗・不受不施派などに分れる。
 特に、山梨の身延山久遠(クオン)寺を本山とする日蓮宗をいう。

香偈(こうげ);香を焚く際に唱える偈(げ:詩)。

 願我身浄如香炉(がんがしんじょにょこうろ)   意訳・願わくは我が身浄きこと香炉の如く
 願我心如智慧火(がんがしんにょちえか)         願わくは我が心智慧の火の如く
 念念焚焼戒定香(ねんねんぼんじょうかいじょうこう)  念念に戒定の香を焚きまつりて
 供養十方三世仏(くようじっぽうさんぜぶ)。        十方三世の佛に供養したてまつる

口語訳、
 願わくは私の身が香炉のようにきよくなりますように
 願わくは私の心が智慧の火のようにきよらかになりますように
 念念に戒定の香をたいて
 過去・現在・未来のありとあらゆる仏さまに供養いたします
浄土宗より

理無い仲(わりない なか);道理がない仲。分別がない仲。わきまえがない仲。特に男女関係にいう。

東天紅(とうてんこう);東天紅鶏 - 主に高知県で飼育されており、高く澄んだ声で鳴く長鳴き鶏としても有名。声良・唐丸とともに日本三大長鳴鶏の一つとして知られ、昭和11年9月日本の天然記念物に指定された。またはその鳴き声。
 長鳴鳥に限らず一般的なニワトリの鳴き声。東の空(天)が明るく(紅く)なる頃に鳴くことから。

お祖師様(おそっさま);一宗一派を開いた人。開祖。日蓮・達磨など。

(いかき);ざる。

 


                                                            2022年1月記

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