落語「禍は下」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「禍は下」(わざわいはしも)より


 

  まぁまぁ、そぉいぅよぉな旦那、昔はちょっと外へ出るんでも旦那衆と呼ばれるよぉな人は袴なんか着けたんでおますなぁ。

 「ちょっと出かけるよってな、袴を出しとぉくれ」、「旦さん、今からお出かけで?」、「言わなんだかいなぁ、今日、仲間うち寄って網打ちをしょ~といぅのじゃ。天満橋から舟出してな、網打って魚獲って、あとまぁ「加賀伊(かがのい)」か「阿み彦」あたりでそれを料理さして一杯呑もぉといぅんじゃ。せやさかい悪いほぉの袴出しとぉくれ」、「さいでおますか、ほな今日はだいぶ遅なります?」、「そぉじゃ、ちょっと遅なるじゃろ。定吉を連れて行きますがな、戸締まりをちゃんとして休んでてもろたら、また叩くよってにな。提灯の用意を・・・」、「お早よお帰りやす」、「はい」。

 下座から、(本釣りで) ♪ボォ~ン

 外へ出ます。丁稚がこぉ提灯を・・・。 「旦さん、今日は網打ちやそぉでんなぁ」、「ん」、「旦さん、あのぉ、天満橋やったら、こっちの道行かなあかんのと違いますかい?」、「これでえぇのじゃ。網打ちは嘘じゃ、天満橋は行けへんねん」、「ほな、どこへ・・・」、「お多佳(おたか)のところへ行くねん。もぉ寝てしもてるや分からんさかいに叩いて起こさんならんかも知れんでな」、「へぇ」。
 「これッ、お多佳・・・、これッ、ちょっと起きとぉくれ・・・。よぉ寝てるのかも知れん。ちょっと定、代わってきつぅに叩いて起こしとぉくれ」、「へぇ」。
 「ちょっと待っとぉくれやす、旦さんでございますかいな、ちょっと待っとくれやす・・・。まぁうっかりしとりまして、今日はお越しやっちゅうこと承らなんだもんでございまっさかい、表に長いことお待たせしたんと違いますかいな」、「いやいやお梅、気ぃ使いな。急に思い立って、お多佳の顔が見となって出てきましたんじゃ。もぉ休んでたんと違うかえ?」、「いぃえぇ、そんなことあらしませんので、どぉぞどぉぞお上がりを・・・。定吉っとんご苦労さん」。

 「旦さん、えらいお待たせしたよぉですんまへん」、「ちょっとお多佳の酌で一口呑みとなったんでな」、「店がしまわんうちに定吉っとんにでも、お肴を・・・」、「定吉っとん、知ってなはるやろ、前もちょいちょい行たことがある、『松喜』あそこならな、うちからや言ぅたら旦さんのお好みも分かってまっさかいな、ちょっと行て二品、三品お酒の肴になるよぉなものを・・・。まぁそれまで旦那はカラスミで・・・」。
 カラスミ相手にちびちび呑んで、一本の銚子がまだ空かんといぅ時分に、「旦さん行てきました。じきに揃えて持って来るそぉでございます」、「ご苦労はん」。二本目が空く頃には、「お待っとはんで」仕出し屋のほぉから誂えもんが届きます。
 「向こぉもだいぶ、わしの好みが分かってたとみえるな。この赤貝の酢のもんやら、なかなかよぉできたぁる」、「旦さん、もぉそのお袴お脱ぎになったらいかがで」、「もぉこの窮屈袋は外そかな」、「定吉っとん、ちょっとその羽織、畳んどぉくれやす。わたし袴のほぉ畳みますよってに・・・」。
 三本目が空く頃になると、とろ~としてくる。「旦さん、今日はやっぱりお帰りでございますかいな?」、「今日はもぉ泊って帰ることにしょ~かなぁ」、「それやったらもぉちょっと早よ言ぅて上げはったらよろしぃのに。定吉っとんがな、お寿司と茶碗蒸片付いたら、もぉこっくりこっくりしたはりまっさかい」。
 「そぉじゃなぁ・・・。定、風呂敷持って来たじゃろ。この羽織と袴、その風呂敷きに包んで持って帰れ。それからなぁ、ここに一円札がある。川筋ぃ出たら魚屋があるさかい、網で獲れた魚を見つくろいで買ぉて、で『これは網で獲れた魚じゃ』ちゅうて家へ土産や。で、『よぉさん収穫があったんで『阿み彦』へ行ってこれ料理さして、みんなでカ~ッと陽気に騒ぐことになる、ひょっとしたら夜明かしになるかも知れんので、今日はもぉ気を付けて皆で休みなはれ』と、家帰ったらそぉいぅ風に言ぅねやぞ」、「へっ、分かっとります」、「気ぃ付けて言わなあかんぞ。あぁいぅ風に言ぅときゃたいがいうちのほぉは大丈夫やと思うが、昔から、『禍は下(わざわいはしも)から』と言ぅことがあるで、気を付けて・・・」、「大丈夫でやす。ほんだら川筋のほぉで網で獲れた魚買ぉて・・・」、「定吉っとん、気ぃ付けて帰っとぉくれやっしゃ」、「ほたら、お先帰らしていただきます。さいなら」。

 下座から、(本釣りで) ♪ボォ~ン

 「『禍は下』か、うかつなこと言われへん。川筋に魚屋が遅そぉまで開けてる家があると言ぅてたが、あぁあっこ灯がついてるわ。ごめん」、「何ぞ買ぉて帰って」、「あのなぁ、おっさん、網で獲れた魚売ってもらいたいねん」、「みんな網で獲れた魚ばっかりや」、「あそぉか、これは何や?」、「目刺しやがな」、「これ一匹何ぼや?」、「これひとかたまり買ぉてぇな」、「これ二つおくなはれ。ほんでな、この小(ち)っこい魚、これ何や? 」、「こら縮緬雑魚(ちりめんじゃこ)や」、「これ網で獲れた魚かい」、「こんな小さい魚一本いっぽん釣って上げられるかいな。網でガサッと獲んねん」、「ほなこれちょっとマスに一杯、それ袋入れて。これは何や」、「蒲鉾や」、「これやっぱり網で獲れたんかい」、「元はみんな網で獲れた魚やがな」、「それ二ぁつおくれ。一円あるさかい、お釣りおくれ」、「ちゃんと持って帰るよぉにな、包んどいたさかいな」、「おおきに。うわぁ~ぎょ~さん、お釣りあるわ。さぁこれで役目が済んだ。ここにこぉちゃんと小遣いが残ったぁる・・・」。

 「え~、ただ今戻りました。(トントン)ちょっと開けとくれやす」、「定吉っとん帰って来た・・・」、「旦さんは?」、「今日お帰りやおまへんのです。わたし一人で帰ってきました」。
 「あそぉか、こっち来るよぉに言ぃなはれ・・・。旦さんはどぉなった」、「あのな、舟で網を打ちまして、天満橋から舟出して。ほんでぎょ~さん獲れたんだ、ほんでお土産をちゃんと風呂敷に包んで・・・、これお土産。『ほんで『阿み彦』あたりで料理さして、パ~ッと夜明かしになるやろさかい、ちゃんと戸締まりをして休むよぉに』、と」、「あぁそぉか、これが何か、あんたのお土産か」、「へっ、網で獲れたお魚」、「これも網で獲れたんか」、「へっ、これ目刺しっちゅうてな、仲のえぇ魚でな、ずら~と竹串くわえてこぉ並んで泳いどりまんねん。それ旦さんパッと網打ちはったん」、「さよか・・・。ほなその横の小っちゃいお魚は」、「これ縮緬雑魚言ぃまんねん。これ塊ってこぉ泳いどりまんねん。そこ旦さんがパッと網を」、「これは?」、「これ不細工な魚だんねん、この蒲鉾言ぅのんなぁ。魚のくせによぉ泳ぎまへんねん、板に乗って泳いでまんねんで。そこを旦さんがパッと」、「馬鹿にするのもえぇかげんにしなはれやあんた。大川にこんなもんがいてるわけがないやろ、これみな干物だっせ。これは鰯を干して固めたものが目刺しやないか。縮緬雑魚が大川におってたまるかいな。蒲鉾はなぁ、お魚の身をすり潰して板に乗せて焼いたもんや。こんなもんが何で、何で・・・」、「ち、ちゃいまんねんこれ、あのね・・・」、「どこへ行きなはったんや、旦さんは」、「それ持って帰りかけたら犬がパッと飛び付きよったんで、わて恐かったんでみな放り出して逃げて来たんですけどな、お土産が無かったら怒られると思て、わたい小遣い持ってたんでこれ買ぉて帰って来たんだ」、「何でそれを正直に言ぃなはらへんのや、それ正直に言ぅたら小遣いわざわざ使わんでもよろしぃねやないかいな。ほんまにもぉしょ~もない・・・。これが旦さんの羽織と袴か」、「へっ」。

 「定吉ッ!この袴、誰が畳んだんや?」、「へっ? わてが畳みましたん」、「この羽織はあんたが畳んだん、こらもぉ間違いがないわ、ややこしぃに不細工ぅに畳んだぁる。羽織をこんな畳み方しかよぉせんもんが、何で袴こんなきっちりと畳めまんねん」、「わたいね、袴は畳めまんねん」、「何で畳めまんねん」、「お母んがな・・・」、「さよか、ほんだらな、ちゃんと畳んでみなはれ」、「えっ?」、「畳んでみなはれッ」、「つまり、こぉやって、ほんで紐を・・・ヘヘッ、ばんざ~いッ」、「何を言ぅてなはんねん・・・、誰がこの袴を畳んだんや?」、「う~~、実は・・・、お多佳はんが・・・」、「な、何? お多佳て誰やッ」、「いや。えらいこと言ぅてもた・・・」、「薄々知ってました。ほかからも聞ぃたことがあります。そのお多佳はんちゅうのが旦さんのお手掛けはんやな。うちの旦那、手掛け置いてござんねやろ。お多佳ちゅうのはその手掛けの名前だっしゃろ」、「もぉバレてもぉたらしゃ~ないわ、何で分かりましたん」、「袴の畳みよぉで分ったんやがな」、「あぁやっぱり『禍は下から』や」。

 



ことば

江戸落語「権助魚」の上方版です。落語「権助魚」はここに、
 まぁ、「虫干しのよぉなつもりで、ひとつ演ってくれ」言われましてね。まぁ、『禍は下(わざわいはしも)』なんて、ホンマにわたしももぉ改めて勉強しなおしたてなことなんですが。
  演りにくいといぅのは大体がテーマがお手掛けさんの噺でございましてね、東京のほぉでは「お妾さん」と言ぃますわなぁ、こっちのほぉでは「お手掛けさん」とこぉ言ぅ。目を掛けるか手を掛けるかだけの違いでございまして、実質においては何ら変わったところはないんでございます。まぁ、そぉいぅものは無いはずでございますが、実際は今でもあるんですなぁ。高校生あたりなんかねぇ、この頃いろいろと契約して金取ったりしてるといぅ、えらいことになりましたなぁ。 米朝のマクラから

禍は下から;米朝の噺から。「『禍は下から』て何のこってんねん?」、「つまり、何か秘密のことはやなぁ、下々の者のほぉから現れるといぅのじゃ。お前ら口が軽い、子どもなんかことにそぉじゃ、うっかりしたことをちょっと言ぅたり、しょもないことしたために、大事なことがバレてしまう。これ『禍は下から』じゃ」、「わたいら。大丈夫でやす」、「そやない、そやない。芝居でもお家の大事やとか、そんなん知ったやつは、『下郎は口のさがなき者ぉ~』ズバ~ッと斬られたりするねん。せやさかい下々の軽い者のほぉが気を付けてくれないかん」。
 米朝の噺。

(はかま);俗に窮屈袋。日本で下半身に着用する伝統的な衣類の一つ。
 詳細に分けると、武士の階級によっても、また使用目的によってもその細分化は有った。明治以降になると男子の和服での正装となった。着物の上に下半身に袴を着けて、その上から羽織を羽織った。
 羽織は両袖を通せば着れるが、袴は長い紐が前後に付いているので、履くのに馴れないと難しさがあり、また、たたむ時の難しさは、定吉ではないが、着物や羽織と違って独特の畳方があります。

 

 左、袴を着けて出歩く時。 右、たたんだ時の紐の位置。

網打ち(あみうち);投網。 円錐形の袋状の網のすそにおもりを付けたものを、魚のいる水面に投げ広げ、かぶせて引き上げる漁法。また、その網。川など浅い所で行われる。うちあみ。なげあみ。唐網(とうあみ)。「投網を打つ」。
 右写真、落語「鯉船」より。

天満橋(てんまばし);夏の暑い時は夕涼みに川端に出たりして、自然の風に当たるのが一番の涼み方です。大坂では芸者太鼓持ちを連れて、淀川に船を出すのが大店の旦那衆の定番です。
 大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置する。大阪市北区天満と中央区天満橋京町の間を結んでいる。 上下階式構造の橋で、上層は「天満重ね橋」とも呼ばれ、土佐堀通をまたぐ跨道橋になっている。天満橋南詰には天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋という。Osaka Metro谷町線が天満橋の地下を通過している。天満橋の東側には大阪城があり、西側の南岸には京都と行き来した三十石船の船着き場「八軒家」があります。落語「三十石」に詳しい。

加賀伊(かがのい);加賀国から出て来た伊助が大阪北浜に「加賀伊」を開いたのが初めで、明治8年大阪会議がここで開催され成功を祝って「花外楼」と名前を変えて、現在でも営業を続けています。
 大阪会議=大阪会議とは 維新の元勲たちが1875年(明治8)に大阪に集まって立憲政体の樹立を約した会議。征韓論の紛議や、征台の役に反対して、多くの参議が辞職。「大久保利通」を中心とする政府は、孤立無援の状態になった。 そこで「井上馨」「五代友厚」の周旋により、同年1月に大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文らが、大阪に会し2月に至って、政治改革についての合意をみた。
 その内容は元老院・大審院・地方官会議を設け、内閣と各省を分離し元勲は内閣にあって輔弼に任じ、第二流の人物によって行政の責にあたらせるというものであった。 この会議の結果、板垣と木戸が参議に復帰し、4月14日に政体改革に関する大詔が発せられ、漸次立憲政体へ移行することが国是となった。 この会議の成功を祝って「木戸孝允」より贈られた屋号が「花外楼」であり、以来政界や官界の大立物が、続々と出入りされることとなった。 明治8年、日本の政治の行方を決める重要な会議、俗にいう「大阪会議」がこの北浜にある「花外楼」で開催されました。

 初代の北浜に開店した加賀伊(花外楼)の店舗。
 文と写真、花外楼のホームページより

阿み彦(あみひこ);大阪市中央区北浜2-1-5 B1。今をさかのぼる約350余年前寛永年間創業の老舗。備長炭で香ばしく焼き上げられた鰻を中心に会席料理を提供。 創業から受け継がれてきた秘伝のタレが素材の旨みを引き立てる。 ふっくら柔らかに仕上げる、こだわりの関西風うなぎ丼をはじめ、会席料理 鍋料理など、数々の鰻料理をご用意致します。
 阿み彦 北浜店 
ホームページより

本釣鐘(ほんつりがね);本物の釣鐘(小型)を撞木で打ち,写実的な効果音,あるいは凄みのある場面や見得をするときなどの効果音として用いる囃子。またその楽器をいう。

丁稚(でっち);商家に年季奉公する幼少の者を指す言葉。丁稚として働く (奉公する) ことを丁稚奉公といった。職人のもとでは徒弟、弟子、子弟とも呼ばれる。江戸時代に特に多かった。明治時代以後はいわゆる近代的な商業使用人となっていく。上方ことばの丁稚に対して江戸言葉では「小僧」という。

提灯(ちょうちん);現在と違って街灯がなく、夜は真っ暗闇で歩行は難渋した。その為、夜間外出時は手元の照明が必需品で、現在は懐中電灯がありますが、当時は提灯を持っての歩行であった。

松喜(まつき);仕出し屋?。現在の営業状態は不明。

カラスミ;(唐墨、鰡子、鱲子)は、ボラなどの卵巣を塩漬けし、塩抜き後、天日干しで乾燥させたもの。名前の由来は形状が中国伝来の墨「唐墨」に似ていたため。
 右写真、ボラのからすみ。
 日本ではボラを用いた長崎県産のものが有名だが、香川県ではサワラあるいはサバを用いる。日本以外でも台湾やイタリアのサルデーニャ島、スペイン、エジプトでも作られる。原材料として、ヨーロッパではボラ以外の海産魚の卵巣も用いられ、台湾にはアブラソコムツを使うものもある。 江戸時代より、肥前国のからすみは、越前国のウニ、三河国のコノワタとともに、日本の三大珍味と呼ばれている。塩辛くねっとりとしたチーズのような味わいは、高級な酒肴として珍重される。薄く切り分けて炙り、オードブルに供したり、すりおろして酢を混ぜてからすみ酢にしたりして食する。 「からすみ」の名は、一説には肥前国の名護屋城(現在の佐賀県唐津市)を訪れた豊臣秀吉が、これは何かと長崎代官・鍋島信正に尋ねたところ、洒落で「唐墨」と答えたことに由来するとも言われている。
 ウイキペディア

赤貝の酢のもん(あかがいの すのもん);むき身の赤貝を酢で締めて、キュウリやわかめで和えたもの。

 

お寿司と茶碗蒸(おすし ちゃわんむし);定吉がお多佳はんの所で食べた料理。寿司=上方で江戸寿司と断りがなければ寿司は押し寿司です。茶碗蒸し= 茶碗に具と汁を入れて蒸す料理。特に、茶碗に魚、貝、鶏肉、かまぼこ、ぎんなん、椎茸などを入れ、出し汁や出し汁でのばした卵汁をそそいでそのまま蒸した料理。茶碗焼き。

 

 左、ばってら。 右、茶碗蒸しの一例。

目刺し(めざし);1匹では買えなかった、これ目刺しっちゅうてな、仲のえぇ魚でな、ずら~と竹串くわえてこぉ並んで泳いどりまんねん。
 カタクチイワシやウルメイワシなどのイワシ類の小魚を塩漬けした後、目から下あごへ竹串やワラを通して数匹ずつ束ね、乾燥させたもの。通常はそのままではなく、焼いて食べる。 刺し方については他にも両眼を左右に通したり、眼窩を通さず下あごから口へ刺すもの(頬刺しとも呼ばれる)もある。 また「目刺」は春の季語のひとつ。右写真。

縮緬雑魚(ちりめんじゃこ);これ塊ってこぉ泳いどりまんねん。そこ旦さんがパッと網を・・・.
 イワシ類(カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・シロウオ・イカナゴなど)の仔稚魚(シラス)を食塩水で煮た後、天日などで干した食品。ごく小さな魚を平らに広げて干した様子が、細かなしわをもつ絹織物のちりめん(縮緬)を広げたように見えることからこの名前がついた。魚そのものはシラスといい、固く干さない状態のものはその名で呼ばれることもある。 収量が多く、油分の少ないカタクチイワシの仔魚が用いられることが多い。ちりめんじゃこの体長は一般に3cmに満たないものを指し、より大きいものは「カエリ」と呼ばれることがある。牛乳と共にカルシウムを多く含む食品の代名詞ともなっている。
 ちりめんじゃこは関西での呼び名で、茹で上げた状態の物を「ちりめんじゃこ(かまあげ)」、茹で上げた状態の物をさらに乾燥させたものを「ちりめんじゃこ(上乾:じょうぼし)」として別の商品として売られている。関東ではシラス干しと呼ばれ、水分を残した軟らかい状態で出荷されていたが、現在ではその区別はあいまいになってきている。京都では「ややとと」とも言う。

 

 左、干し網上のちりめんじゃこ。 右、生のちりめんじゃこ(生しらす)。

蒲鉾(かまぼこ);これ不細工な魚だんねん、この蒲鉾言ぅのんなぁ。魚のくせによぉ泳ぎまへんねん、板に乗って泳いでまんねんで。
 蒲鉾(かまぼこ)は、古くは材料を竹の棒に筒状に巻いて作った。その形が蒲(がま)の穂に似ていることから、「蒲鉾」と呼ばれるようになったとされる。この最初期の蒲鉾は現在のような海水魚ではなく、主に淡水魚のナマズを原料としていた。竹を抜き去ると現在の竹輪の形になる。後に板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、元祖の方は「蒲鉾」が脱落して単に「ちくわ」となり、板蒲鉾の方は逆に板が外れて「蒲鉾」になった。平安時代の『類聚雑要抄』には、藤原忠実が永久3年(1115年)に転居祝いに宴会を開いた時の串を刺した蒲鉾が載っている。これを確認できる最古の文献上の蒲鉾であるとして、業界団体がその数字をとって11月15日を蒲鉾の日としている。 白身の魚は高価であり、蒲鉾もご馳走と考えられた。時に贈答品として用いられ、御節料理にも利用される。豊臣秀頼の大好物であったと伝えられ、本能寺での織田信長の最後の晩餐にも供された。なお、蒲鉾が商品として販売されるようになったのは江戸時代以降、食品工業的な生産が行われるのは明治以降とされる。 武家の結婚式では鯛が縁起物として欠かせなかったが、経済的に用意できない場合は絵や模造品を以ってこれに代えた。そのような模造品の1つが、細工蒲鉾(飾り蒲鉾)であり、次第に庶民の結婚式にも縁起物として出されるようになった。 揚げ蒲鉾については比較的歴史が新しく、薩摩藩が琉球を支配するようになった17世紀以降に沖縄の「チキアギ(「つけ揚げ」の沖縄訛り)」が伝来し、「薩摩揚げ」、あるいは「てんぷら」の名で全国に広まったと考えられている。

 俗に言う「かまとと(カマトト)」または「かまとと振り」とは、「蒲鉾のことを『これは魚(とと)か』と聞く」ということから、無知・世間知らずを装ってかわいらしく見せる人(特に女性)を指す。江戸時代に遊女が世間知らずを装うため、蒲鉾を指して、「これが魚なのか」と問うたことに由来するとされる。

 ウイキペディア

 

 板かまぼこ2種。

網取り魚の矛盾をうまく言い逃れたのに、羽織と袴の畳み方で分かってしまうなんて。でも袴の畳方って折り鶴を折るよりむずかしんです。料理屋さんの仲居さんが畳んだと言えば良かったのに・・・。



                                                            2022年1月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system