落語「三年酒」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「三年酒」(さんねんしゅ)より


 

 「三年酒(さんねんしゅ)」といぅのは珍しぃといぅだけのお噺で、といぅてこれ、あっちやこっちでやれるといぅ噺でもございません。といぅのが、ケッタイな噺でして、ボンさんをボロクソに言ぃまんねやな~、この噺は。わたしあるとこでやってたら、尼はんが二人来てはりましてね、途中で嫌な顔して出て行かれてしもて、あれからガックリきてやったことおまへんねやが、まぁやりにくい噺で。

  こんなケッタイな噺が何であるかと言ぃますと、江戸時代に「神道講釈」といぅことがえらい流行ったことがございまして、まぁ「国学」とかいぅ、平田篤胤やとか、本居宣長やとかといぅ立派な先生が現れましてから、あれがたいへん栄えたんですなぁ。あの時分は講釈といぅことが何でも流行りまして、講談ですな、普通、講釈師といぅのは。太平記読みであるとか、三国志であるとか、三河後風土記やとかといぅよぉな物を講釈をいたします。これが今の講談の源流で。それともぉ一つは「心学講釈」といぅ心の学問ですな「心学道話」がまた流行った。そのときに「神道講釈」も流行れば、仏教のほぉのお説教、これもえらい流行って、これみな木戸銭取ってやったんですな。
  寄席みたいなもんで、「今日は誰それの説教や」言ぅたら、もぉザァ~ッとこぉ入りが違うんですなぁ。お寺が儲かったりして、そらあの時分は神道講釈でも何でもお金で、えらいそんなことが流行ったんです。そぉいぅものにちなんだ噺がちょいちょいございます。

  ヨシタツといぅ神学者があって、これは口が悪いのでお客さんを喜ばした、西条凡児みたいな人でんなぁこれは。毒舌を楽しみに皆聞きに行く。で、ボンさんのこと、仏教をボロクソに言ぅんです。やはりボンさんなんかも、「何言ぃよんねやろ?」てなもんで、敵の陣営を探るてなわけでもおまへんやろけど、聞きに行くといぅと、もぉそら聴衆の中に僧侶を発見すると、とんでもない悪し様に言ぃだす。
  むかついてしゃ~ないといぅので、ひとつあいつの家へ押しかけて、一対一でやってこましてやろぉといぅわけで、真宗のボンさんが乗り込んでみますといぅとガラッと態度が違う。ヨシタツ先生、「どぉぞ、どぉぞ」といぅわけでね、いつもと全然態度が変わって、上座へ直して、「まことに申し訳がない」「いや、あんたは仏教をあのよぉに悪し様に言われるが・・・」、「いやいや、わたしは腹の中では毎日謝って、ナンマンダブツ、ナマンダブツと言ぅて、自分の気持ちを家へ置いて仕事場へ出て来て、これ商売でやっとりますんで。で、散々わたしは言ぃたいことを言ぅて、家へ帰って来たらまた気持ちを腹ん中へ納めてから、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・」、「嘘言えッ!」「いえ、本当でございます。まぁうちのお仏壇(ぶったん)を見てください」といぅので、仏壇をギィ~ッと開きますといぅと南無阿弥陀仏といぅわけで真宗のお仏壇。「あんた、真宗か?」「毎日、朝晩、謝っとりまんねん。へぇ、まぁそんなんでっさかい、どぉぞ・・・」といぅわけで、ご馳走をして幾らか金を包んで帰す。「なんじゃ、ホンマは真宗の信者かいな」なんか思てる。
  で、今度は日蓮宗がまた日蓮をボロクソに言われたので乗り込んでみると、「まことに申し訳ない、実はわたしは日蓮宗」「嘘をつけッ!」「いえ、毎日お祖師(そっ)さまに謝ってから、この商売を。なんならお仏壇を見ていただきましょ」。ギィ~ッと仏壇を開けますといぅと日蓮さんのお像がかかって南無妙法蓮華経、「あんた、ほなら日蓮の信者?」「毎日、朝晩に謝って、あれは営業上やむを得ず」「そんな営業するな」「いやぁ~、すまん」といぅので、ご馳走をして、また幾らか包んで帰す。
  また「真言宗やて?」「いやぁ~、わたしはお大師さんが・・・、お仏壇を見てください」ギィ~ッと開けると、中には弘法大師。お仏壇の中が回り灯篭になっとりまして、どこでも出てくるんだグルグル~ッと回したら。それが段々お坊さん仲間で知れ渡って、「何といぅやっちゃろ」と、「あんなやつ一筋縄でいかんさかいに、ひとつえらい目に遭わそぉ」といぅわけで、坊さんがぎょ~さん寄って相談をいたしまして、連れ立ってやって来て、
  「さて、ヨシタツ先生、今日こぉやってまいったといぅのはほかのことではない、あんたのお弟子にしていただきたい」「アホなこと言ぃなはんな、あんた方は坊さんや」、「いや、あんさんの神道講釈、それにひとつ穴を見つけよう、非の打ち所を探そぉといぅので、入れ替わり立ち代わり聞ぃてるうちに、段々だんだん、わたしどもは、『なるほど日本は神国、日本といぅ国に生まれながら仏教を信じて頭を丸めたといぅのは恥ずかしぃ』といぅ気になってきたんで。本当にそぉいぅ気になったんでっさかいにお弟子にしていただきたい」、「そぉか、ん~ん、わしの話で、あんた方が神道になると・・・、これはどぉも結構なことじゃ。いかにも弟子入り許しましょ」「それでは、今までは坊主でございましたので魚も食べなんだら、酒も呑まん、何にもしたことがない。ひとつ、ぜひ師匠の盃で、お魚を食べてもよろしぃか?」、「あぁ、それは酒は呑めのめ」といぅわけで、屋形船を仕立てまして天神橋か天満橋か難波(なにわ)橋かあのへんのとこへ船を据えつけて、そこへ新弟子のボンさん連中が乗り込んで、ヨシタツ先生上座へ直して「先生、ひとつお流れをちょ~だいいたします」「まぁ呑みなさい呑みなさい」「先生、まぁ呑みなさい」「まだいける、まだいける」、八方からすすめられてヨシタツ先生、ベロベロに酔ぉてしまう。酔うとお酒といぅやつは尿意を催しますなぁ、「ちょっとどいてくれ、ちょっとどいてくれ。ここで・・・」っちゅうわけで、船べりのところへ行て、こぉ前をまくって用を足そぉとすると。
  「先生、何をなさいます。川には川の神さんがおられる、水には水神がおられる。そのよぉなもったいないことを」「おぉ、それもそぉじゃ。船頭、ちょっと岸へ着けてくれ」岸でやろぉとすると、「先生、この土地には土地の神さんがおられます、何といぅもったいないことを、やはり厠(かわや)へ行ってやってください」、このへんに厠はない。いよいよ差し迫ってくる、「う~んッ、どぉしたらよかろぉ?」さぁ、坊さんのほぉはしてやったりちゅうわけで、「先生、ここでしてはなりません、なんちゅ~もったいないことを」と言ぅてるボンさんの頭へジャ~ッ・・・、「先生、これは何をなさるッ」「いや、坊主の頭に髪(神)はない」っちゅう噺です。

 江戸時代からこんな噺がございますので、これをお寺はんの前でやったんやさかい、そら怒られるのはまぁ無理もございませんが、え~、やりにくい噺ですなぁ。まぁ、なんであのよぉに檀家とお寺とが密接なつながりができたかといぅと、やはりあの江戸の初期にキリシタンといぅのが流行りましたなぁ。でこの、キリシタンを何とか抑えんならんといぅので、「人別」といぅ、今で言ぃますと戸籍を預けてしもぉたわけです。ですから、お寺怒らすといぅと子どもが生まれたときの届け、人が死んだときの除籍といぅよぉなことを、その手続きと届けといぅものを全部寺がやったんで、これの世話をしてくれるものがおらんので、お寺さんに逆らえなんだんやそぉですな。

  まぁ、そんな時分の噺で。

  「喜ぃ公、おいッ」、「おッ、清やん」、「どこにいてんねや分からんがな。 ホンマに頼んないやっちゃで、もぉいろいろなところ探し倒してんねや俺」、「な、何や?」、「えらいこっちゃがな。又はんが死んだ」、「え?」、「ウソにもせぇ又公とお前とわしと三人は兄弟分とか何とか言ぅてんねやないか、『生まれたときは別々でも死ぬときは一緒に死の』てなこと、まぁ酒の上にもせぇ言ぅた仲やがな、ほっとかれへんがな。一緒に行こ」、「何しに行くねん」、「向こぉの”おとわはん”つかまえて、くやみのひとつも言わんかい」、「わしゃもぉ、くやみ言おと思たらおかしぃてしゃ~ないよぉなんねん」、「義理にでも涙のひとつもこぼさないかん」、「とにかくわしに付いといで」、「わいくやみ、みなよぉ言わんで」、「くやみちゅなもんたいがい相場が決まったぁんねん」、「せやけど・・・」、「笑たらあかんでッ」。

 「えらい遅なってすまんこっておます」、「おとわはん、えらいこっちゃったなぁ。何や突然やったそぉな」、「ホンマによぉ来てくれはりました」、「な、何の病気やい?」、「池田のオッサンとこへきのう行きましたん、向こぉは、造り酒屋だっさかいお酒はそらもぉぎょ~さんあるんで、うちのひとまたお酒が好きで・・・」、「さいな、酒好きや又はんは」、「もぉベロベロに酔ぉて帰りましてな、『こんなうまい酒呑んだことない、わしゃ生まれて初めてや、こんな美味しぃ酒わ』てなこと言ぅてると思たら、『床取ってくれ』ちゅうて、もぉそのまま寝かけてまんねん。今朝んなって何ぼ経っても起きてけぇしまへんのでな、どないしたんかいなぁ思たら・・・、もぉ息が止まって・・・」、「えッ、それっきりか? そぉか、しかしもぉできてしもたことはしゃ~ないがな。気を確かに持ってなはれや。あんたまでが患い付いたらいかん」、「おおきに、ありがとぉございます」。
 「喜ぃ公、出て来い」、「プッ・・・」、「チッ、笑たらあかん」、「えらいこっちゃったなぁホンマに。酒で死んだんやてなぁ。又はんは特別やった、『あいつの酒好きは焼かな直らん』いぅてな、言ぅてたんやわいら。で、三人ウソにもせぇ兄弟分や、『生まれるときは別々でも、死ぬときは一緒や』てなこと言ぅたさかい、といぅて『今死ね』言われても、わしゃよぉ死なんけどな」。
 「又はんが死んでやで、何ぞ遺言てなもんなかったんかいな?」、「何を言ぃなはる、遺言どころかまさかこんなことになるとは・・・」、「さぁ、そらそや。これが遺言やといぅてあるわけはないけれども、人間死ぬといぅ時にはやなぁ、何日か前に虫が知らすといぅのか思わず知らず、これが遺言やと分からずになんか言ぅたりするもんやが・・・、心当たりないか?」、「あの人ずっと神道の講釈に凝って通てましたやろ」、「毎日まいにち聞きに行て『神道又』てなあだ名付けてわしら言ぅてたぐらいやがな」、「茨住吉(いばらすみよっ)さんへ通ぉてました。田中左弁太夫といぅ先生のお話をズ~ッと聞きに行っとりました。『日本は神の国で仏といぅものはあとから入って来たもんや、やっぱり日本人は神道にならないかん』ちゅうてな、『わしが死んだら神道で葬式出してくれ』てなこと酔ぉてよぉ言ぅとりましたんやが、ひょっとしたらあれが・・・」。
 「又はんのたった一つ言い残したんは、『わしが死んだら神道で葬式を出してくれ・・・』、どぉです皆さん、お聞きやったと思いますがなぁ、死んだ又はんのたった一つの遺言や、ひとつどぉだっしゃろなぁ・・・、その茨住吉っさんの田中左弁太夫さんとか何とかいぅ先生に頼んで、立派にひとつ神道で葬式出したろやおまへんかいな」、「いや、あんたはそぉあっさり言ぅけど、そぉいぅわけにもいかんで」、「さよか?」、「そぉやがな、ここの旦那寺ちゅうのは下寺町のズク念寺といぅて、あそこの和尚ちゅうのはまた偏屈でなぁ、あんなもん頼んで、なるよぉな話にしてくれるちゅな、そんなんやないがな」、「そこはたった一つの遺言やさかい、何とか」、「葬式だけ神道ちゅうわけにはいかんで、といぅのは、『人別』といぅものが寺にあるがな」、「そこを何とかお届けは届けて、でまぁ葬式は神道で・・・」、「ちょっとお年寄よっとくなはれ」、「ズク念寺の和尚といぅのはなかなかそんなもん、そぉハイハイと人の言ぅこと聞くよぉな、ちょっと難しぃで」。
 「おまはんの言ぅてることはな、いつでもオネオネ・オネオネと、どこが尾ぉやら頭やら分からん。オネオネの佐助っちゅうあだ名の佐助を出す」、「オネオネだけではいかんで、この佐助はん大人しぃさかいなぁ、もぉちょっと高飛車にいくやつも一人入れとかないかんで。高慢の幸助はん、ちょっとこっち来て」、「このオネオネがあかなんだら高慢をボ~ンといてもらいたい、分かったか」、「いざとなったら源太のあのコツキでバンバ~ンと力づくでいてまうっちゅう、理屈も何も抜きにせなしゃ~ない」。

 「お頼の申しま。北安治川二丁目の播磨屋又七方から参上しましたんで、おっすぁんご在宅で?」、「ちょっとお待ちを・・・」、「何、播磨屋さんから。ナマミダブ、ナマミダブ・・・、これわこれわ、よぉこそ」、「おっすぁんでっか、北安治川二丁目の播磨屋又七方から参上いたしました。えぇ~、主人の又七がきのう死んだんか、今日死んだんか分からんねやが、死去いたし・・・ 」、「又七殿が亡くなられた?」、「あのぉ~、それに・・・」、「又七殿のお父さん、ご先代はこの寺の檀家総代も勤めていただいたことのあるお方。まぁ何やかにやとお世話になっとります。もぉ播磨屋さんのお葬式ならこれからすぐさま駆けつけましてな、万端・・・。お葬式は明日(みょ~にち)といぅことで、そのほぉの段取りはちゃんといたします。とりあえずお通夜(つや)・・・ 」、「それにつきまして、ちょっとお願いの筋があって・・・」、「いやいや、先代さんの時はご盛大であったが、又七さんになってから多少ちょっと傾いたといぅこと聞ぃとります。入り用のことはご心配なさらんよぉに。寺は二か寺、伴僧、役僧も七人でも八人でも取り揃え、立派にお葬式を・・・」、「ちょっと聞ぃていただかんと困りまんねん。又はんなぁ、去年から神道の講釈に凝ってましてな、茨住吉っさんの田中左弁太夫といぅ先生とこに毎日のよぉに、この神道の講釈聞きに行とりましたんで。又はんとこ安治川でんねん、で、茨住吉っさんとこへ毎日聞きに行っとったんでんねん・・・」、「何をゴジャゴジャ言ぅてなさる。すぐさま帰ってお通夜からお葬式」、「せやからこの神道で葬式したいと・・・」、「そこに見えてる鐘楼、鐘つき堂、あれも播磨屋さんのご先代のお世話ででけたもんじゃ。この寺とは深ぁ~い因縁のある播磨屋さん、神道で葬式なんか出されてたまるか。すぐに帰って支度を」、「たった一つの遺言でな」、「神道で葬式出したけりゃ出せ。お上へ届ける届けはどぉする? 上申はどぉしなさる? 人別といぅものはこの寺が預かってます」、「さぁそこでんねん、せやからな、そのお届けはお届けで、葬式だけこの茨住吉」、「あぁ~ッもぉ聞く耳持たん。汚らわしぃ。帰れッ」。

 「高慢、あかんわ」、「どけ・・・、え~、さし代わりまして申し上げます」、「何じゃ」、「んッ! ふた言めには檀家だんか、寺と檀家とこぉおっしゃる。今こちらで聞ぃておりましたが寺と檀家といぅのは、寺があっての檀家か、檀家があっての寺か? ふた言めには衆生済度のために修行とか何とかおっしゃるが、山にこもって修行なさる、その食べ代は誰が運ぶ? これみな檀家が運びます。檀家があってこその寺で、檀家の無理を聞くのが・・・」、「な、何を・・・、神道で葬式出したかったら出したらえぇのじゃ、お上の届けはこっちゃ知らん」、「さぁ、そこじゃ。檀家の言ぅことも聞ぃてもらわんと寺の言ぅことも聞けん」、「何を言ぅとぉる馬鹿もん。聞く耳もたん、帰れッ」。

 「あかん。コツキ頼むわ」、「こら丸太ッ」、「『丸太』とは何じゃ」、「コツキはちょっと違うねやぞ、こんなオネオネや高慢と一緒に思うなよ。おのれ、『神道で葬式出せん・・・』出せんなら、『出せん』て、もぉいっぺんぬかしてみぃ。俺の目の前ではっきり言え・・・」、「大きな声で気味の悪い」、「おのれ四の五のぬかしてけつかったら、この爪の先で背中ピ~ッと引き裂いて、身を両側へ広げてス~ッと骨抜き出して、酢に漬けて食てまうで」、「まるで人をイワシみたいに」、「おい、今おのれ、『イワシみたいに』ぬかしたな。わしが今イワシの、『いッ』の字でも言ぅたか、こっちがイワシと言わずにその料理の仕方を言ぅただけでイワシやっちゅうことがよぉ分かったなぁ? こら、おのれイワシ食てけつかるな、この生臭坊主・・・。ここの坊主はイワシ食てる!」、「大きな声を出すんやない」、「大きな声は地声や。イワシ食てるで、ここの坊さん! 生臭坊主!おいこら(ボコッ)イワシの坊主」、「あ痛ッ、たッ・・・、このよぉな乱暴なことは困る、ちょっと待て、そこはいかよぉとも」、「おら気が短いねんはっきり言ぅてくれ。神道で葬式出せんのかい、出さすんかい、どっちや?」、「表向きわしの寺から播磨屋さんへ、『神道で葬式を出してくれ』てなことは言えんが、そこは、そこはいかよぉとも・・・」、「のっけに言ぅてたらこんな大きな声出さいでも済むねん。ほんだら、われとこの顔さえ立てたらそれでえぇっちゅうねんやろ。ほんならお前とこ来てゴジャゴジャッとお経ちょっとだけ言え。そのあとこっちが神道で葬式出しても・・・、今度文句言ぃやがったら風間見てこの本堂火ぃつけたるからなぁ」、「まぁまぁ、大きな声を出さんよぉに。そこはいかよぉとも・・・」、「分かったなぁ、あとで苦情ないなぁ・・・、ほな去(い)んだろかい」。
 何といぅても腕力にはかないまへんわ、♪やぁ~とこせぇ~・・・、伊勢音頭歌いながら帰ってしもた。

 さぁ、そこでお葬式の万端準備をいたします。茨住吉っさんへ使者が走る、お葬式といぅことになりますと、やはり坊さん一行ゾロゾロやって来て、その前で形だけお経を唱えて焼香をして・・・、やるんですなぁ。お経を唱えながら横目でちょっと見ますといぅと、源やんが拳骨をこぉやってね、構えてますんで、早々にえぇ加減のところで切り上げて帰ってしまう。そのあとちゃんと神道でお葬式ができて、まぁ遺言通りといぅことになったんですが。

  それから七日ぐらい経ちますと池田のオッサンが・・・。

  「又はん死んだんやて?」、「お宅へお伺いしましてからな、えらいお酒に酔ぉて帰って来て、『オッサンとこで今日は生まれて初めてといぅ美味しぃお酒をよばれた』といぅて、寝たっきり・・・」、「わしとこへ手紙が来たがな、ちょっと旅してたんや。うちの婆さんは腰が抜けてるやろ、誰ぁれも来られへん、『誰か行かないかんなぁ』言ぅてるとこ、わしが二日ほど旅から遅れて帰って来て、手紙見てビックリして、わしゃ取るもんも取りあえず飛んで来たんや」。
 「又はん、死んだんと違うねや」、「『死んだんと違う』とおっしゃいましても、息もせんし呼んでも応えん・・・」、「そのこと、わしゃあいつに言ぅといたんや。あいつなぁ、うち来ていろんな酒呑みやがって、床の間ぁに置いてある壷に目ぇ付けた。唐土(もろこし)から渡って来たっちゅう酒や。三年酒(さんねんしゅ)と書いてある、『こら何や?』と聞くさかい、わしもホンマかウソかは知らんが、これに酔ぉたら三年間醒めんちゅう酒やちゅうねん。そんな恐い酒うかつに呑めんといぅので、置いてあったのをあの男が、『そんな酒いっぺん呑んでみたい。三年、五年醒めぇでもえぇ』ちゅうて、開けよって、『こんなうまい酒は初めてや、はじめてや』綺麗ぇにひと壷開けてしもた。あら死んだんと違うねや、三年経ったら醒めるねや。もぉ焼いてしもたか?」、「ありがたいこと。あの人が茨住吉っさんへ神道講釈聞きに通よてな、『わしゃ神道でお葬式出してくれ』といぅこと常々言ぅてましたん。で、お友達やら町内のお年寄やらみな寄って、お寺はんと掛け合ぉて神道でお葬式出しましたん。仏でやったら焼いてしまいますけど、神道のほぉはそのまま土葬にしてございますがな」、「ほぉ~ッ、神さんのお陰や、掘り返せッ」。

 えらいことになりましたなぁ。寝かしといても三年間醒めんといぅ酒ですけど、土の中へ埋めたために酔いが醒めるのが早かったのか、フタを取るといぅとスゥ~ッと息を・・・。
 「おとわ、おとわ」、「んまぁ~ッ、生き返った、生き返った」、「ちょっと、喉乾いた。冷やでえぇさかい一合持って来て」、「まだあんなこと言ぅてる・・・」、「あぁ、やっぱり焼かな直らん」。

 



ことば

神道講釈(しんどうこうしゃく);坊さんの説教に対して、神道を講釈する商売。

平田篤胤(ひらた あつたね);(安永5.8.24(1776.10.6)~天保14.閏9.11(1843.11.2))。 江戸後期の国学者。幼名正吉、また胤行。通称半兵衛、のち又五郎。また大角、さらに大壑とも称する。秋田藩士大和田祚胤の4男。8歳のとき漢学を中山青莪に、11歳で医学を叔父柳元に学び玄琢と称した。寛政7(1795)年、20歳のとき脱藩して江戸に出、5年後備中(岡山県)松山藩士平田藤兵衛篤穏の養子となった。篤胤は享和1(1801)年本居宣長に入門したと公称しているが、実際に宣長の名を知ったのは3年だった。同年、宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判した『呵妄書』を著したのが著述のはじめで、翌文化1(1804)年、真菅乃屋(同13年、気吹乃屋と改める)と号して講筵を開き3名の門人から出発した。2年、『新鬼神論』を著して神、鬼神の普遍的存在を証明しようとした。4年から、医業を兼ね玄瑞と改めた。5年、神祇伯白川家より諸国神職らへの古学教授を委嘱される。 篤胤は8年ごろから『古道大意』『俗神道大意』『西籍慨論』『出定笑語』として、のちに刊行されるものの基となる講説を次々に行った。9年に脱稿し翌年刊行された『霊能真柱』は、「霊」が死後に「幽冥」へ行くことを証明するために古伝説によって宇宙の生成を説いた。その際『古事記』の本文を改竄するなど宣長とは著しく異なる方法を採った。『霊能真柱』は宣長門人の間に波紋を呼んだ。文政6(1823)年上京、著述を朝廷に献上し、和歌山の本居大平、松坂の本居春庭を訪ねた。同年、吉田家より神職への古道教授を委嘱された。のち尾張藩に接近して仕えたり、水戸藩への仕官を願い出るなどしたが、天保12(1841)年、その著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止め国元帰還を命ぜられ、秋田藩士(15人扶持、給金10両)となったが、江戸帰還を果たせないまま失意のうちに没した。
 朝日日本歴史人物事典

 右図、平田篤胤 『肖像集』 写本国立国会図書館所蔵

 本居宣長(もとおり のりなが);右図、(享保15年5月7日(1730年6月21日) - 享和元年9月29日(1801年11月5日))は、江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。
 『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。 また、そのような儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道や儒家神道を強く批判し、神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだと主張した。そして、日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきたとして、日本には言挙げをしない真の道があったと主張し、逆に儒教や仏教は、国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道であると批判した。また、儒教の天命論についても、易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為であると批判した。さらに、朱子学の理気二元論についても、儒学者達が推測で作り上げた空論であると批判、世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだと主張し、世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬であるとした。
 代表作には、『古事記伝』のほか、『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、そして『玉勝間』、『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』などがある。
 ウイキペディア

三河後風土記(みかわ ごふどき);近世に書かれた徳川氏創業期に関する歴史書。著者不詳。全45巻。
 徳川氏創業史の一つで、徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までの700余年間を年代順に記述する。 著者・成立年代については、慶長15年(1610年)5月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間以後の成立と考証され、著者も不明である。のち改編を行った成島司直は沢田源内の著作とする。 また、『三河物語』、『松平記』といった他の創業史の参照はない。

心学道話(しんがく どうわ);江戸時代、心学者によって行われた訓話。身近な例をあげて、わかりやすく道徳を説いたもの。手島堵庵(1718~1786)が始め、後継者の中沢道二(1725~1803)や柴田鳩翁(1783~1839)らが広めた、文字に無縁の者にも届く口語話法の教化。明治時代にもベストセラーになっている。ここに心学といえば道話を意味するまでになり、心学道話という言葉が定着した。
 世界大百科事典

心学(しんがく);心を修養する学問。 石門心学者の中沢道二は、分かりやすい表現で天地の自然の理を解いたと伝えられる。教化方法の面では、庶民の耳に訴えて心に納得を求める「道話」を重んじ、世間一般より心学即道話とみなされる端緒を開いた。
 江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して、その教旨を平易な言葉と通俗なたとえとで説いた一種の庶民教育。修錬のためには静座などを重んじ、社会教化には道話を用いる。石田梅岩を祖とする石門心学に始まり、手島堵庵・中沢道二に伝えられ、さらに柴田鳩翁に至って大いに拡張され、一時は65ヵ国、149の講舎を所有した。

西条凡児(さいじょう ぼんじ);(1914年10月17日~1993年5月31日)、漫才師のち漫談家。『凡児のお脈拝見』『素人名人会』『おやじバンザイ』の司会で毒舌ながらも庶民的な語り口が受け、視聴者から愛される存在となった。
 戦後九里丸の世話もあって、ピンの漫談で高座に上がる。「ボロクソダイジェスト」と題する、世の中への不平不満を吐く毒舌の漫談が人気を博した。 1955年、新日本放送(NJB、のちのMBSラジオ)の『凡児のお脈拝見』『素人名人会』(このうち『素人名人会』は1960年からテレビ番組となる)の司会に抜擢された。『凡児のお脈拝見』は「こんな話がおますんや・・・」の決まり文句で始まる時事放談番組で、博識ぶりを活かした幅の広いトークが話題を呼び、同フレーズは流行語となった。この時期はNHKにも朝日放送にも出演していなかったことから、事実上NJBの専属のような状態であった(当時の関西は芸能プロダクションでなく放送局に専属する形式が一般的であった。ただし、凡児は専属契約を結んでいなかったとされる)。『おやじバンザイ』(朝日放送テレビ、1964年)の司会で知名度が全国区となった。
 1992年5月31日、急性心不全のため78歳で死去。4年前から体調がすぐれず入院していた。故人の遺志により葬儀はなし、遺体は大阪大学に献体された。 死後の2000年、第5回上方演芸の殿堂入り。

真宗(しんしゅう);浄土真宗(じょうどしんしゅう)。大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、鎌倉仏教の一つである。 鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。 親鸞の没後に、その門弟たちが教団として発展させた。
 古くは「一向宗(いっこうしゅう)」「門徒宗」などと俗称され、宗名問題を経たのち戦後は真宗10派のうち本願寺派が「浄土真宗」、他9派が「真宗」を公称とする。
 親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に、釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示し、この教えが「本願を信じ念仏申さば仏になる」という歎異抄の一節で端的に示されている。
 他の仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、戒律がない点である。

日蓮宗(にちれんしゅう);現行の「宗教法人・日蓮宗」。身延山久遠寺を総本山とする。日蓮が説いた本尊・題目・戒壇を三大秘法として、諸経の王と位置付けられる経典、妙法蓮華経(法華経)を釈迦の本懐にして最高無上としている。題目(南無妙法蓮華経)を唱えること(唱題)を重視している。「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経(法華経)に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。 開祖である日蓮の主要著作『立正安国論』のタイトルから類推して、国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る者がいる。
 身延山久遠寺については、落語「鰍沢」をご覧下さい。

真言宗(しんごんしゅう);空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。 空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。
 宗祖・空海は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の1人に数えられる能書家として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。彼は延暦23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。 弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。 835年(承和2年)3月21日に、62歳で高野山で入定した。空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。
 空海について、落語「大師の杵」、「浮世根問」、「附子」、「鼓ヶ滝」もご覧下さい。

人別(にんべつ);人別帳の略。江戸時代の戸籍の称。戦国時代の諸大名のなかには富国強兵のために人別調を行なったものがあり、江戸幕府も初めは切支丹改のために人別改を行なったが、享保以後は主として人口調査 (ことに農民の移動防止) の目的で町村役人に子 (ね) および午 (うま) の年 (6年ごと) に管内の人別帳を作成させた。これは毎年作成させる宗門改帳とは目的も内容も異なるものであるが、のちには両者は混同されて、宗門人別帳などと呼ばれたこともある。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

くやみ;人の死を惜しんで、とむらうこと。その言葉。落語「悔やみ」を参照。

造り酒屋(つくり ざかや);蔵元。酒・醤油・味噌・酢といった醸造品の製造元をいい、オーナー家を指す総称。夏でも適当な冷気と湿度を必要としたため土蔵が必要であり、「蔵元」の語源はこの辺にあるとされている。酒造り・醤油造りには適当な菌を必要とし、それによって蔵ぐせ、醸造元の独特の香りや風味がでる。
 この噺では、主目的が日本酒の製造ですが、それには現在製造免許が要り、販売には販売免許が必要です。国内の制度では、免許制度で税金等ががっちりと押さえられています。
 酒は人類史において最古から存在する向精神薬の一つです。しかし、酩酊は往々にして混乱や無秩序をもたらし、社会から忌避される。「百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」などと言われ、古来より酒は社会にとって両価値的存在だった。

遺言(ゆいごん);被相続人が、主に自己の財産(相続財産)について、自分の最終意思を死後に遺したものです。
 被相続人としては、自分の財産を、誰に、どのような形で残すかということについて、自分自身で決めたいと思うのは当然のことでしょう。また、自分の意思を残しておくことで、自分の死後、相続人間で無用な争いが生じることを防ぐことができます。 ところで、相続の場面では、通常の契約等における財産処分の場面と大きく異なることが1つあります。被相続人の死亡により相続は発生しますので、その後に遺言の内容が明らかになったとしても、その内容が相続人の意思に基づくものなのか、もう相続人に確認することはできません。しかし、確認ができないからといって遺言の内容を無視していいということになれば、遺言の意味がなくなってしまいます。
 そこで、民法は、遺言について厳格な「方式」を定めました。「遺言をなしうる事項」について、方式に従った遺言がなされる限り、その遺言の内容を被相続人の意思として法的に保障することとしたのです。 逆に、民法の方式に従っていない場合は、法律上の遺言としての効力を持ちません。たとえば、相続人の一人が、「被相続人は自分の死後、◯◯に□□をあげると言っていた。間違いない。」などと主張しても、法律上は意味がありません。その内容が本当に被相続人の最終意思のとおりであることもあるかもしれませんが、民法の方式に従っていなければ、法律上の遺言としての効力は持ちません。財産だけでは無く、この噺のように祭祀主宰者の指定もできます。

茨住吉(いばらすみよっ)さん;茨住吉(いばらすみよし)神社。大阪市西区九条1ー1、茨住吉神社は大阪市西区九条に鎮座する約400年の神社です。江戸初期の寛文元年(1624)に九条島の土地が開発されたとき、代官の香西皙雲と開発者の池山新兵衛が船舶の安全と新田の繁栄を願って住吉の四神を勧請したのが始まりという。

 

 上写真、茨住吉神社。

田中左弁太夫(たなか さべんだゆう);茨住吉の神道の先生。

下寺町のズク念寺(しもてらまち ずくねんじ);下寺町=現・大阪市天王寺区下寺町。に有る落語らしい架空の寺院。大阪市内でも有数の仏教寺院集積地となっており、愛染坂以北はほとんどが寺院となっている。

 下寺町(25ヶ寺)= 大蓮寺 應典院 称念寺 淨國寺 源聖寺 金臺寺 萬福寺 大覚寺 光明寺 心光寺 宗念寺 光伝寺 超心寺 西往寺 法界寺 大光寺 善福寺 宗慶寺 善龍寺 称名寺 西照寺 正覚寺 幸念寺 西念寺 良運院。
 有りましたかズク念寺。

 「八五郎坊主」には、上方落語にしばしば登場する、ずく念寺という寺が出てくる。大阪市天王寺区の下寺町にあるという設定で、この噺では住職、役僧、小僧の3人暮らしであるとされている。他に「天災」「餅屋問答」「百人坊主」「手水廻し」や、小佐田定雄氏の新作落語「般若寺の決闘」「月に群雲」などにも登場するが、必ずしも下寺町にあるとは限っておらず、おもしろい名前なのでいろんな落語に流用されたのだと思われる。米朝師は「米朝ばなし」(講談社文庫)のなかで「どんな字を書いてええものやら。ありそうで、しかも抵触せんような名を選んだのでしょう」と書いておられるが、実際は「七度狐」の「べちょたれ雑炊」と一緒で、聞いただけでおかしい、ありそうもない名前をこしらえたのではなかろうか。
 アジアのお坊さん

 江戸落語にもあります。古今亭志ん生がやっていた「黄金餅」に出てくる寺の名前が、麻布絶口釜無村の垣根も壊れたようなボロ寺木蓮寺。住職も凄いが、有りそうで無い名前が、釜無村と『木蓮寺』。他では使えない名前で、当然架空の名前です。

北安治川二丁目(きたあじがわ にちょうめ);播磨屋又七方から参上しましたんで、と言っているように又七さんの住まい。 現・大阪市西区安治川。
 安治川の河村瑞賢開削にともなって開発された安治川新地は、1688年(元禄元年)に新堀(1 - 2丁目)・新川北(1 - 3丁目)・新川南(1 - 4丁目)に町割されて大坂三郷へ組み込まれたが、10年後の安治川命名と同時に安治川上・安治川北・安治川南に改称された。このうち安治川南の東部が現在の西区安治川に該当する。

 旧町名景鑑によると、 『北安治川通一~三丁目』 此花区西九条2-1(西九条南公園北東側) 

檀家総代(だんかそうだい);宗教団体での総代は、ある宗教団体(神社・寺院・教会など)の檀家・信者を代表する者のことである。 神社の場合は「氏子総代」、寺院の場合は「檀信徒総代」と呼ばれる。 総代は、主に宗教法人の寺院運営など「俗」面に関する部分に関わり、総代の中から責任役員・干与者が選任されることが多い。
 一般的に総代とは「総名代」の略称であり檀家全体を代表する人ということになります。

寺は二か寺、伴僧、役僧も七人でも八人でも取り揃え、立派にお葬式を;大きな葬儀になると、お坊さん一人ではまかないきれません。そこで仲間内からの助っ人を頼み、仲間内のお寺さんや、仲間をある人数頼み葬儀を行うことがあります。

鐘楼、鐘つき堂(しょうろう かねつきどう);鐘を吊(つ)り下げて撞(つ)き鳴らすための建物。「しゅろう」とも読み、俗に釣鐘(つりがね)堂という。古代の寺院では伽藍(がらん)を構成する主要な建物の一つで、金堂の背後に経楼と対称に配された。建物が楼(たかどの)としてつくられたのは、鐘を高い位置に吊るしたほうが遠くまで響くからであったろう。古代中国の様式を模したと推定される法隆寺西院伽藍の鐘楼(平安時代)は、上下2層からなる楼造(たかどのづくり)の古式の鐘楼として、唯一の遺構である。法隆寺東院鐘楼(鎌倉時代)は、下層が裾(すそ)広がりの袴腰(はかまごし)になり、中世以降はこの形式の鐘楼が主流を占める。また、中世からは楼造とせずに、東大寺鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放しとするだけのものも出現する。この種の鐘楼は、鐘撞(かねつき)堂、鐘堂、鐘舎、鐘台の名でもよばれる。鐘楼は寺院において、時鐘や行事の合図を知らせるためのもの。
 日本大百科全書(ニッポニカ)

  

 上左、法隆寺鐘楼。 右、東大寺鐘楼。

 ■イワシ(鰯・鰛・鰮);日本で「イワシ」といえば、ニシン科のマイワシとウルメイワシ、カタクチイワシ科のカタクチイワシ計3種を指し、世界的な話題ではこれらの近縁種を指す。ただし、他にも名前に「イワシ」とついた魚は数多い。古くは女房言葉で「むらさき」とも呼ばれる。 日本を含む世界各地で漁獲され、食用や飼料・肥料などに利用される。

 イワシは、海に隣接する領域をもつほとんどの文化において主要な蛋白源の一つである。日本では刺身、にぎり寿司、塩焼き、フライ、天ぷら、酢の物、煮付けなどにして食用とする。稚魚や幼魚はちりめんじゃこ(しらす干し)、釜あげ(釜あげしらす)や煮干しの材料になる。欧米でも塩焼き、酢漬け、油漬け、缶詰(アンチョビ)などで食用にされる。水揚げ後は傷みやすいので、干物各種・缶詰・つみれなどの加工品として流通することが多く、さしみ、寿司など生食される日本の食べ方は驚かれる。
 イワシをさばく時、肉が軟らかいので刃物は使わず、指の爪を使って開く。そして中骨を取って処理し食用とする。新鮮なものは、刺し身、すしだねに。酢の物、煮物、焼き物、揚げ物など、幅広く使えます。

 指で開いていく、 内臓などを新聞で包んで捨て、いわしは水洗いして水気を拭く。頭の方の中骨の脇に親指を入れ、尾の方に指をスライドさせて開いていく。

  

  中骨を取る 尾のつけ根の中骨を指で折り、そのまま骨を頭の方に向かってはがし取っていく。

  

 写真、キッコーマンのイワシ調理法より、『指で開く』。



                                                            2022年2月記

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