落語「三年酒」の舞台を行く 桂米朝の噺、「三年酒」(さんねんしゅ)より
■神道講釈(しんどうこうしゃく);坊さんの説教に対して、神道を講釈する商売。
■平田篤胤(ひらた あつたね);(安永5.8.24(1776.10.6)~天保14.閏9.11(1843.11.2))。
江戸後期の国学者。幼名正吉、また胤行。通称半兵衛、のち又五郎。また大角、さらに大壑とも称する。秋田藩士大和田祚胤の4男。8歳のとき漢学を中山青莪に、11歳で医学を叔父柳元に学び玄琢と称した。寛政7(1795)年、20歳のとき脱藩して江戸に出、5年後備中(岡山県)松山藩士平田藤兵衛篤穏の養子となった。篤胤は享和1(1801)年本居宣長に入門したと公称しているが、実際に宣長の名を知ったのは3年だった。同年、宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判した『呵妄書』を著したのが著述のはじめで、翌文化1(1804)年、真菅乃屋(同13年、気吹乃屋と改める)と号して講筵を開き3名の門人から出発した。2年、『新鬼神論』を著して神、鬼神の普遍的存在を証明しようとした。4年から、医業を兼ね玄瑞と改めた。5年、神祇伯白川家より諸国神職らへの古学教授を委嘱される。 篤胤は8年ごろから『古道大意』『俗神道大意』『西籍慨論』『出定笑語』として、のちに刊行されるものの基となる講説を次々に行った。9年に脱稿し翌年刊行された『霊能真柱』は、「霊」が死後に「幽冥」へ行くことを証明するために古伝説によって宇宙の生成を説いた。その際『古事記』の本文を改竄するなど宣長とは著しく異なる方法を採った。『霊能真柱』は宣長門人の間に波紋を呼んだ。文政6(1823)年上京、著述を朝廷に献上し、和歌山の本居大平、松坂の本居春庭を訪ねた。同年、吉田家より神職への古道教授を委嘱された。のち尾張藩に接近して仕えたり、水戸藩への仕官を願い出るなどしたが、天保12(1841)年、その著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止め国元帰還を命ぜられ、秋田藩士(15人扶持、給金10両)となったが、江戸帰還を果たせないまま失意のうちに没した。
右図、平田篤胤 『肖像集』 写本国立国会図書館所蔵
■本居宣長(もとおり のりなが);右図、(享保15年5月7日(1730年6月21日) - 享和元年9月29日(1801年11月5日))は、江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。
■三河後風土記(みかわ ごふどき);近世に書かれた徳川氏創業期に関する歴史書。著者不詳。全45巻。
■心学道話(しんがく どうわ);江戸時代、心学者によって行われた訓話。身近な例をあげて、わかりやすく道徳を説いたもの。手島堵庵(1718~1786)が始め、後継者の中沢道二(1725~1803)や柴田鳩翁(1783~1839)らが広めた、文字に無縁の者にも届く口語話法の教化。明治時代にもベストセラーになっている。ここに心学といえば道話を意味するまでになり、心学道話という言葉が定着した。
■心学(しんがく);心を修養する学問。 石門心学者の中沢道二は、分かりやすい表現で天地の自然の理を解いたと伝えられる。教化方法の面では、庶民の耳に訴えて心に納得を求める「道話」を重んじ、世間一般より心学即道話とみなされる端緒を開いた。
■西条凡児(さいじょう ぼんじ);(1914年10月17日~1993年5月31日)、漫才師のち漫談家。『凡児のお脈拝見』『素人名人会』『おやじバンザイ』の司会で毒舌ながらも庶民的な語り口が受け、視聴者から愛される存在となった。
■真宗(しんしゅう);浄土真宗(じょうどしんしゅう)。大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、鎌倉仏教の一つである。 鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。 親鸞の没後に、その門弟たちが教団として発展させた。
■日蓮宗(にちれんしゅう);現行の「宗教法人・日蓮宗」。身延山久遠寺を総本山とする。日蓮が説いた本尊・題目・戒壇を三大秘法として、諸経の王と位置付けられる経典、妙法蓮華経(法華経)を釈迦の本懐にして最高無上としている。題目(南無妙法蓮華経)を唱えること(唱題)を重視している。「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経(法華経)に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。
開祖である日蓮の主要著作『立正安国論』のタイトルから類推して、国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る者がいる。
■真言宗(しんごんしゅう);空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。
空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。
■人別(にんべつ);人別帳の略。江戸時代の戸籍の称。戦国時代の諸大名のなかには富国強兵のために人別調を行なったものがあり、江戸幕府も初めは切支丹改のために人別改を行なったが、享保以後は主として人口調査 (ことに農民の移動防止) の目的で町村役人に子 (ね) および午 (うま) の年 (6年ごと) に管内の人別帳を作成させた。これは毎年作成させる宗門改帳とは目的も内容も異なるものであるが、のちには両者は混同されて、宗門人別帳などと呼ばれたこともある。
■くやみ;人の死を惜しんで、とむらうこと。その言葉。落語「悔やみ」を参照。
■造り酒屋(つくり ざかや);蔵元。酒・醤油・味噌・酢といった醸造品の製造元をいい、オーナー家を指す総称。夏でも適当な冷気と湿度を必要としたため土蔵が必要であり、「蔵元」の語源はこの辺にあるとされている。酒造り・醤油造りには適当な菌を必要とし、それによって蔵ぐせ、醸造元の独特の香りや風味がでる。
■遺言(ゆいごん);被相続人が、主に自己の財産(相続財産)について、自分の最終意思を死後に遺したものです。
■茨住吉(いばらすみよっ)さん;茨住吉(いばらすみよし)神社。大阪市西区九条1ー1、茨住吉神社は大阪市西区九条に鎮座する約400年の神社です。江戸初期の寛文元年(1624)に九条島の土地が開発されたとき、代官の香西皙雲と開発者の池山新兵衛が船舶の安全と新田の繁栄を願って住吉の四神を勧請したのが始まりという。
上写真、茨住吉神社。
■田中左弁太夫(たなか さべんだゆう);茨住吉の神道の先生。
■下寺町のズク念寺(しもてらまち ずくねんじ);下寺町=現・大阪市天王寺区下寺町。に有る落語らしい架空の寺院。大阪市内でも有数の仏教寺院集積地となっており、愛染坂以北はほとんどが寺院となっている。
下寺町(25ヶ寺)=
大蓮寺
應典院
称念寺
淨國寺
源聖寺
金臺寺
萬福寺
大覚寺
光明寺
心光寺
宗念寺
光伝寺
超心寺
西往寺
法界寺
大光寺
善福寺
宗慶寺
善龍寺
称名寺
西照寺
正覚寺
幸念寺
西念寺
良運院。
「八五郎坊主」には、上方落語にしばしば登場する、ずく念寺という寺が出てくる。大阪市天王寺区の下寺町にあるという設定で、この噺では住職、役僧、小僧の3人暮らしであるとされている。他に「天災」「餅屋問答」「百人坊主」「手水廻し」や、小佐田定雄氏の新作落語「般若寺の決闘」「月に群雲」などにも登場するが、必ずしも下寺町にあるとは限っておらず、おもしろい名前なのでいろんな落語に流用されたのだと思われる。米朝師は「米朝ばなし」(講談社文庫)のなかで「どんな字を書いてええものやら。ありそうで、しかも抵触せんような名を選んだのでしょう」と書いておられるが、実際は「七度狐」の「べちょたれ雑炊」と一緒で、聞いただけでおかしい、ありそうもない名前をこしらえたのではなかろうか。
江戸落語にもあります。古今亭志ん生がやっていた「黄金餅」に出てくる寺の名前が、麻布絶口釜無村の垣根も壊れたようなボロ寺木蓮寺。住職も凄いが、有りそうで無い名前が、釜無村と『木蓮寺』。他では使えない名前で、当然架空の名前です。
■北安治川二丁目(きたあじがわ にちょうめ);播磨屋又七方から参上しましたんで、と言っているように又七さんの住まい。
現・大阪市西区安治川。
旧町名景鑑によると、 『北安治川通一~三丁目』
此花区西九条2-1(西九条南公園北東側)
■檀家総代(だんかそうだい);宗教団体での総代は、ある宗教団体(神社・寺院・教会など)の檀家・信者を代表する者のことである。 神社の場合は「氏子総代」、寺院の場合は「檀信徒総代」と呼ばれる。 総代は、主に宗教法人の寺院運営など「俗」面に関する部分に関わり、総代の中から責任役員・干与者が選任されることが多い。
■寺は二か寺、伴僧、役僧も七人でも八人でも取り揃え、立派にお葬式を;大きな葬儀になると、お坊さん一人ではまかないきれません。そこで仲間内からの助っ人を頼み、仲間内のお寺さんや、仲間をある人数頼み葬儀を行うことがあります。
■鐘楼、鐘つき堂(しょうろう かねつきどう);鐘を吊(つ)り下げて撞(つ)き鳴らすための建物。「しゅろう」とも読み、俗に釣鐘(つりがね)堂という。古代の寺院では伽藍(がらん)を構成する主要な建物の一つで、金堂の背後に経楼と対称に配された。建物が楼(たかどの)としてつくられたのは、鐘を高い位置に吊るしたほうが遠くまで響くからであったろう。古代中国の様式を模したと推定される法隆寺西院伽藍の鐘楼(平安時代)は、上下2層からなる楼造(たかどのづくり)の古式の鐘楼として、唯一の遺構である。法隆寺東院鐘楼(鎌倉時代)は、下層が裾(すそ)広がりの袴腰(はかまごし)になり、中世以降はこの形式の鐘楼が主流を占める。また、中世からは楼造とせずに、東大寺鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放しとするだけのものも出現する。この種の鐘楼は、鐘撞(かねつき)堂、鐘堂、鐘舎、鐘台の名でもよばれる。鐘楼は寺院において、時鐘や行事の合図を知らせるためのもの。
上左、法隆寺鐘楼。 右、東大寺鐘楼。
■イワシ(鰯・鰛・鰮);日本で「イワシ」といえば、ニシン科のマイワシとウルメイワシ、カタクチイワシ科のカタクチイワシ計3種を指し、世界的な話題ではこれらの近縁種を指す。ただし、他にも名前に「イワシ」とついた魚は数多い。古くは女房言葉で「むらさき」とも呼ばれる。
日本を含む世界各地で漁獲され、食用や飼料・肥料などに利用される。
イワシは、海に隣接する領域をもつほとんどの文化において主要な蛋白源の一つである。日本では刺身、にぎり寿司、塩焼き、フライ、天ぷら、酢の物、煮付けなどにして食用とする。稚魚や幼魚はちりめんじゃこ(しらす干し)、釜あげ(釜あげしらす)や煮干しの材料になる。欧米でも塩焼き、酢漬け、油漬け、缶詰(アンチョビ)などで食用にされる。水揚げ後は傷みやすいので、干物各種・缶詰・つみれなどの加工品として流通することが多く、さしみ、寿司など生食される日本の食べ方は驚かれる。
指で開いていく、 内臓などを新聞で包んで捨て、いわしは水洗いして水気を拭く。頭の方の中骨の脇に親指を入れ、尾の方に指をスライドさせて開いていく。
中骨を取る
尾のつけ根の中骨を指で折り、そのまま骨を頭の方に向かってはがし取っていく。
写真、キッコーマンのイワシ調理法より、『指で開く』。
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