落語「べかこ」の舞台を行く 桂米朝の噺、「べかこ」より
■べかこ;大阪ことばで、「あかんベ~」「べっかんこ」。下まぶたの裏の赤い部分を見せて、軽蔑・拒否の意を示すこと。また、その行為。あかんべい。べっかっこう。べっかんこう。「めかこう」の転という。
■落語家べかこ;初代桂べかこ=桂米歌子。(1869年 - 1943年10月29日)は上方噺家。本名:早田 福松。大阪の堂島生まれ。三代目桂文團治門下で、初代米歌子(べかこ)、1894年頃、初代米之助、1896年1月、二代目米朝を経て、1910年3月、三代目米團治を襲名。米相場のあった堂島生まれで、入門時からずっと「米」の付く名前を名乗ってきたため、堂島の旦那衆の贔屓を受け、二代目米朝時代から中堅として活躍した。師匠の三代目文團治に可愛がられ、嫌味や小言の言い方までそっくりであったため、師匠が「大毛虫」、米團治が「小毛虫」と呼ばれた。口の悪さや気障な態度は若い時からのようで、1907年7月の落語相撲見立番付には「いやみ灘米朝」の名で出ている。
昭和に入ると一時吉本興業を離れ、お座敷で贔屓の客相手の落語や時々ラジオに出演するのみだった。上方落語の絶頂期に修行を積んだだけあって、舞踊・音曲も巧みで、人情噺・芝居噺・怪談噺・旅ネタまであらゆる噺に通じており、いずれも名人の域であったという。特に『古手買い』は絶品で、弟子の四代目桂米團治(「代書屋」の作者)でさえ、生涯の間に遂に手掛けることができない程であった。
三代目べかこ=現桂べかこ→三代目 桂 南光(さんだいめ かつら なんこう、1951年12月8日 - )は、上方噺家。本名∶森本 良造。大阪府南河内郡千早赤阪村出身。四條畷市在住。師匠 二代目桂枝雀。芸能事務所米朝事務所常務取締役。写真事務所株式会社フォトライブ常務取締役。出囃子∶『猩々』。桂べかこ時代の愛称は「べかちゃん」、桂南光になってからは「なんこやん(なんこうやん)」。
■雑喉場(ざこば);大阪市西区の地名。堂島米市場、天満青物市場とともに江戸時代の大坂三大市場であった魚市場。魚市場一般をさすこともありますが、江戸時代に大坂(現在の大阪)で最大の生魚市場の通称になっていました。 大坂の魚市場の歴史は古く、豊臣氏の時代には天満魚屋町、靫(うつぼ)町、本天満町に、生魚・塩魚を売買する魚市場が開かれていました。
浪花名所図会 「雑喉場魚市の図」
歌川広重画 国立国会図書館所蔵
■落語家ざこば;初代=(?~没年昭和13(1938)年9月19日)
本名、小倉 幸次郎。
経歴、笑福亭光蝶、三遊亭柳吉、洗場亭さん助、桂三輔を経て、大正9年4月に桂ざこばと改名。新しがり屋で、英語がポンポン飛び出す落語で人気があった。三輔時代に「新町ぞめき」、ざこばになってから「脱線車掌」「野球見物」などの新作をレコードにしている。昭和6~8年、大阪でラジオ出演し、十八番の「宿がえ」(粗忽の釘)などを演じた。晩年は引退。
二代目桂ざこば=(1947年9月21日 - )は、上方の落語家、タレント。本名、関口 弘(せきぐち ひろむ)。2人姉弟の長男(姉1人)。
大阪府大阪市西成区出身。米朝事務所所属。上方落語協会会員(相談役)。前名は桂 朝丸(かつら ちょうまる)。出囃子は「御船」(ぎょせん)。愛称は「ざこびっち」。桂雀々とは夫人同士が姉妹であるため義兄弟の間柄。
■枝雀(しじゃく);二代目 桂 枝雀(かつら しじゃく、、1939年(昭和14年)8月13日 - 1999年(平成11年)4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家。三代目桂米朝に弟子入りして「十代目桂小米」、基本を磨き、その後二代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓し、師匠の米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となった。出囃子は『昼まま』。高い人気を保っていた中でうつ病を発症し、1999年に自殺を図って意識不明となったまま死去した。本名:前田 達(とおる)。
■鳥屋坊主(とりや ぼうず);鶏の出て来る落語、別名、「万金丹」。落語「万金丹」を参照。
■法華坊主(ほっけぼうず);鶏の出て来る落語、472話「法華坊主」を参照。
■肥前の武雄温泉場(たけお おんせんじょう);佐賀市と長崎県佐世保市の中間に位置する町で、町の中心には開湯以来1300年経つ武雄温泉があり、この温泉には日本銀行や東京駅の設計を行った辰野金吾設計の楼門があり国の重要文化財に指定されています。武雄市(たけおし)は、佐賀県の西部にある市です。
■気鬱(きうつ); 気分がはればれしないこと。気がふさぐこと。また、そのさま。憂鬱。
■究竟(くきょう); (形動) 非常につごうが良いこと。絶好の機会。あつらえむき。くっきょう。
■月代(さかやき);男性が前額から頭の中央にかけて髪を丸くそり落とした風習。
武士が戦場で兜をかぶると熱気がこもって苦痛であるため起こった風習で、早く平安時代からあったという。
■狆(ちん);日本原産の愛玩犬種(下写真参照)。
他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきたため、体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」、「ちぬ」とだんだんつまっていき「ちん」になったと云われている。また、『狆』という文字は和製漢字で、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである。開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なくいわゆる小型犬のことを狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた。江戸時代以降も、主に花柳界などの間で飼われていたが、大正期に数が激減、第二次世界大戦によって壊滅状態になった。しかし戦後、日本国外から逆輸入し、高度成長期の頃までは見かけたが、洋犬の人気に押され、今日では稀な存在となった。
■狩野法眼(ほぉげん)光貞;狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。光貞もその一人であったと思われるが、代表的な直系狩野派の系列には見当たらない。
■狩野古法眼(こほぉげん)元信;父子ともに法眼に補せられた時、その区別をするために父をさしていう称。特に狩野元信をいう。桂米朝は古法眼の使い方が間違っています。
■梅の間、松の間、桜の間;梅と松と桜やさかい、三光(参考)にならなしょがおまへん。
三光の揃いの役
狩野探幽筆、二条城二の丸御殿大広間、「松の間」。
■牡丹の間、菊の間、紅葉(もみじ)の間;花札の役の一種。牡丹、菊、紅葉に青い短冊が描かれた3枚が揃ったもの。青の短冊で、青短が揃った。
牡丹の間に有ったという、狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館。
■鶏(にわとり)の間;休息の間。大きな鶏の絵が描いてあるその前へ、お座布に座ってお茶をいただいとぉりますと・・・。
右図、伊藤若冲_「群鶏図」部分 宝暦11年(1761年)-明和2年(1765年)頃、絹本着色、宮内庁三の丸尚蔵館蔵。
■衣擦れの音(きぬずれのおと);歩くときに、着ているきものや衣服の裾がすれ合うことです。またその音のことを言います。ここでいう「きぬ」は蚕の繭からとれる「絹」ではなく、もともときもの、衣服のことを表す日本語です。 そのため、「きぬずれ」は「絹擦れ」とは書かず、着ているものを表す「衣」を使い、「衣擦れ」と表記します。
襖の向こうで愛しい女性が身支度をしている時の、衣と衣が擦れあう音。
帯をほどく音や、腰ひもをほどく音など・・・
聴覚だけが研ぎ澄まされ、妄想が暴走を始める・・・。
着物男子と着物女子の衣と衣が重なり合うときの音もまた然り。
衣擦れの音とはそんな夜のイメージです。 が、廊下を通る腰元の衣擦れの音だなんて・・・。
■腰元の小萩(こはぎ)さん、牡丹さん、紅葉さん;花札に縁があるなぁ;
猪鹿蝶の役。猪=萩、鹿=モミジ、蝶=牡丹。
■手込め(てごめ);手荒い仕打ちをすること。力ずくで自由を奪い、危害を加えたり物を略奪したりすること。。
■糾明(きゅうめい); 罪、不正などを問いただし、悪い所を追及してはっきりさせること。糺問。糾行。。
■鶏鳴狗盗(けいめいくとう);《斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)が秦に幽閉されたとき、食客のこそどろや、にわとりの鳴きまねのうまい者に助けられて脱出したという「史記」孟嘗君伝の故事から》にわとりの鳴きまねをして人を欺いたり、犬のようにして物を盗んだりする卑しい者。また、どんなくだらない技能でも、役に立つことのあるたとえ。
■孟嘗君(もうしょうくん);宣王(せんおう)が亡くなり、湣王(びんおう)が即位した。
靖郭君(せいかくくん)の田嬰(でんえい)は、宣王の腹違いの弟である。 薛(せつ)に封ぜられた。 (彼には)文(ぶん)という子どもがいた。(彼は)数千人の食客(しょっかく)を養っていた。
(彼の)名声は諸侯の間で有名であった。 孟嘗君(もうしょうくん)と号した。
2022年2月記
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