落語「べかこ」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「べかこ」より


 

 相変わらず古い噺を聞ぃていただきます。

 今日は「べかこ」なんてな、特にこれはもぉいたって古風な噺でございまして、「べかこ」といぅ噺家が今おりますのでね、「べかこ」といぅ言葉が復活したわけでございます。だいたいこの、「あかんベ~」「べっかんこ」ですな、これのことを大阪で「べかこ」とこぉ言ぃました。
  先代の「べかこ」、こらちょっとだけ「べかこ」でね、じきにわけが分からんよぉなってしもたんです。その次が今の「べかこ」で、あれもわけが分かりまへんねやが・・・、初代の「べかこ」といぅのはこの「米歌子」と書きまして米団治の弟子で「米」といぅ字を取って「米歌子」やったんですなぁ。それから、それが米之輔になり米朝になり三代目米団治になった人が初代の「米歌子」でございます。
  もぉ「雑喉場(ざこば)」といぅ地名も、大阪のつまり中央市場でしたけどな、これもまぁ「ざこば」っちゅう噺家がでけたんで、また思い出してもらえるよぉになったし「べかこ」といぅ名前も、あれもまぁ、『いつまでも『べかこ』ではおられんなぁ』言ぅて枝雀と相談したりしとりまんねんけど。
 本人は初め嫌がったんです。「べかこ」ちゅな名前ね「べかちゃん」言ぅて、「日本にこんなん、あんのかいなぁ」言ぅてね、それが慣れたら、あの顔見たら「べかこ」以外の何ものでもないよぉな気がするんですなぁ・・・、慣れといぅものは不思議なもんでございます。
 鶏の出て来る落語といぅのはこの「べかこ」やとか「鳥屋坊主」やとか、あんまりございません。小咄はねぇ「法華坊主」やとか「鍬烏」やとか噺があるんですなぁ。
  お百姓が田んぼで鍬を忘れて帰りかけると、頭の上で烏が、「クワァ~、クワァ~」、「あぁ、鍬忘れるとこやった。よぉ教えてくれたなぁおい、お前には餌ひとつやったことがないのに、おおきにおおきに、こんなもんひと晩ほっといたら錆び付いてしまうわ、おおきにッ」。烏に礼を言ぅて家へ帰って来る。門口まで来ると鶏が、「コォ~、コォコォコォ」、「こらッ、人の顔さえ見たら『食ぅ食ぅ食ぅ食ぅ』ちゅうて餌ばっかりねだりやがって、ちと烏を見習え烏を。烏には餌ひとつやったことないが、鍬忘れて帰りかけたら『鍬、鍬』ちゅうて教せてくれたぞ。気ぃ付けぇッ」。鶏が「取ってこぉか?」、「もぉ遅いわい」こんな気楽な噺がございます。(小咄『鍬烏』)

以上「マクラ」

  この落語には噺家が出てまいりまして、泥丹坊堅丸(どろたんぼう かたまる)といぅ、あんまりえぇ名前やございませんが、この堅丸さん九州のほぉへ巡業に行きまして「御難」といぅんですなぁ、だいたい落語てな芸は昔は何か飛び道具でもなかったらね、地方へ行きますとなかなか聞ぃてはくれませんで「御難」と我々のほぉで言ぃます。これはもぉ難儀な目ぇに遭うことなんですなぁ。御の字を付けて御難に遭うなんて、でまぁ一座解散てなことになるともぉ自分で体の始末を付けないきまへん。肥前の武雄といぅ温泉場がございます。そこの大黒屋市兵衛といぅこの宿屋の親父さんがなかなか男気のある人で、困ってるもんが来たら、芸人なんか、「ひとつまぁ助けてやろぉ」っちゅうんで、そこへ居候さしてもらいまして、あっちやこっちのお座敷やとか催しなんかに売り込んでもらう。上方の芸人てな珍しぃもんやさかい、この頃はボチボチと仕事があるよぉになりましたが、ある日のこと・・・、

 「許せ」、「これは菅沼の旦さんでございますかいな・・・、これこれ、ご城下のな、菅沼軍十郎の旦さんがお越しになった、すぐにお茶とお菓子・・・」、「かもぉてもらうな、すぐよそへ回らねばならん。来たといぅのはほかではないが、上方の芸人が逗留をしておるそぉじゃな」、「さいでございます」、「実は、姫君が気鬱(きうつ)といぅ病でな、陰気になられる。で、医者に診立ててもらうと、『これは胸広(きょ~こぉ)といぅな、心を開くよぉにせなければいかん。滅入ってしまう気鬱といぅ病はこりゃ気病じゃで、薬だけでは治らん』といぅことじゃ、『何か晴れやかな催し事などをしたほぉが良かろぉ』といぅので考えたが、上方の芸人がおると聞ぃてまいったが」、「へッ、泥丹坊堅丸ちゅうケッタイな名前でございますけどな、上方の噺家でございます」、「おぉ噺家か、そりゃ究竟(くっきょ~)じゃ。いや、姫の御前であるので、どのよぉな芸人でもよいといぅわけにはまいらん。しからば、今日の日が暮れにその噺家を連れてまいるよぉに」、「何分よろしゅ~お頼の申します」。

 「あのオッサンもだいぶ売れるよぉになったなぁ。お城へ呼ばれるやなんて、ちょっと値打(ねぐち)付けたらないかんなぁ。堅丸師匠ぉ・・・、堅丸先生ぇ・・・、お師匠(おっしょ)はん・・・。堅やん」、「へぇ」、「あかんわあいつわ、値打ちを付けさしよらんなぁ・・・」。
 月代(さかやき)や髭剃ったりして、袴も借りて、身綺麗ぇにし、お城にやって来ました。

 「噺家、これへまいれ」、「どぉぞ、何分よろしゅ~お頼の申します」、「姫の御前であるから、しゃべる時に敷物、座布団などはならんぞ」、「何もなしで結構でございます」、「何か用意をいたすものがあらば申せ」、「顔がはっきり見えんと面白味が薄ぅございますんで、両側へ燭台を一対」、「ほかには」、「えぇ~、見台と申しましてな、ちょっとこの、小さい台を」、「机なら色々ある。適当な大きさを選ぶがよい。そのほかに何かないか」、「この喉が渇きますのでな、土瓶に白湯(さゆ)を一杯」、「土瓶がダメなら、湯飲みだけでも結構で」、「姫の御前であるからな、猥(みだ)りがわしき下品な噺をしては相ならん。と言ぅて、上品とばかり申しておっては面白味も薄い。適当に、やはりくだけたほぉが良いな」、「難しぃなぁ、こら」。
 ペコペコペコペコ頭下げとりますと、襖がこれぐらい開いてたんですなぁ、閉め忘れてあった。そっからこの、狆(ちん)コロが一匹チョロチョロと出てまいりまして。昔のこの城中のお姫さんやとかお局(つぼね)さんなんか、よぉ狆を可愛がって飼ぉてたんやそぉでございまして、あの狆コロ抱いてますと、たいがいのご婦人は綺麗ぇに見えますわなぁ。あれより悪いちゅなあんまりないやろと思います。中にはまぁ、「あの人があれ産んだんかいなぁ」といぅ・・・、たまにはあるかも分かりまへんけど。
  狆コロがチョロチョロと出て来て、ペコペコペコペコ頭下げてる噺家の額をペロペロッと。「あぁ、気色悪ッ」、「こりゃこりゃ、気を付けんか。お姫さまお手飼いの狆が出て来て噺家の頭を舐めた、額を舐めた。湯を持って来て洗ぉてやれ」、「滅相な、お姫さまのお手飼いの狆でございます、決して汚いとは思いませんので」、「狆の舌を洗ぉてやれ」、「狆のほぉを・・・」。

 「どぉじゃ噺家、そのほぉなども色々なお屋敷などへまいることもあろぉが、城中へまいることは滅多になかろぉな」、「さいでございます」、「また、あとあと噺をしゃべる時の参考にもなろぉ、部屋を案内してやろぉか」、「ありがとぉございます」、「では噺家、こぉまいるがよいぞ・・・」、
 下座から、♪(ハメモノ「六段」)。
 「これが、松の間である」、「なるほど墨絵。まぁ何とすごい筆の勢(いっきょ)いでございまんなぁ。こらどなたがお描きになりましたんで」、「狩野古法眼(こほぉげん)光貞殿の筆である」、「松風の音が聞こえてくるよぉな気がいたしますなぁ」。「次が梅の間じゃ」、「これはまた色が使こてございますなぁ。梅の匂いがこぉ漂ぉてくるよぉな気がいたしますがな。この鶯の具合が何とも言えまへんなぁ、これはどなたがお描きになりましたんで」、「やはり光貞殿の筆である・・・、次が桜の間じゃ」。「まぁ何と、パ~ッと華やかでございますなぁ。あの遠山桜といぅのが、加減が何とも言えまへん。これはどなたがお描きになりました」、「これは狩野元信殿の筆じゃ」、「結構なもんを見せていただきました。ありがとぉさんでございます」、「何かと参考になろぉのぉ」、「そらもぉ、梅と松と桜やさかい、三光(参考)にならなしょがおまへん」、「何じゃそれは」、「こら、あんさん方のご存知ないことでございます」。「これが牡丹の間である」、「うっわぁ『牡丹に唐獅子』言ぃますけど、この唐獅子が『八方睨み』っちゅうやつでんなぁ、どっから見ても自分のほぉを見てるよぉな気がいたしますなぁ、見事な牡丹で」。「これが菊の間である」、「ほぉ~、菊の香りが満ち溢れてるよぉな、結構でござりまんなぁ・・・」、「こちらへまいれ」、「今度は、紅葉(もみじ)の間ぁと違いまっしゃろかなぁ」、「よく分かったなぁ」、「はい、これでちょ~どあんた、青短(あおたん)」、「何じゃ? チョイチョイ分からんことを申すなぁ・・・、あぁ、これが鶏(にわとり)の間、ここが休息の間である」、「休息の間か何か知りまへんけども、わたしの家よりも広いよぉな気がいたします」、「あ~、ここで待っておれ」。

 改めてお茶とお菓子が出ます。大きな鶏の絵が描いてあるその前へ、お座布に座ってお茶をいただいとぉりますと、廊下のほぉをサヤサヤサヤサヤと衣擦れの音がいたします。
 「小萩(こはぎ)さん、牡丹さん、紅葉さん・・・」、「この屋敷はどぉも花札に縁があるなぁ」、「上方の芸人が控えているといぅお部屋はこの部屋のよぉに、鶏の間のよぉに伺いました」。
 「この前も上方から役者と申す芸人がやってまいって踊りを見せてくれましたが、ホンによい男ございました」、「今日は噺家とか申す芸人やそぉでございまするが、定めてよい男でございましょ~なぁ。ちょっと覗き見をするわけにはまいりませぬか・・・」、「隙間が少ぉし開いております、そこからご覧あそばせ」、「それではわたしがちょっとご免をこぉむって先へ覗かしていただきます・・・、プッ」、「何がそのよぉにおかしゅ~ございます」、「わたしはこのよぉな面白い顔をした男を見たことがございません。ちょ~どまぁ、ものに喩えたら、狆が茶を吹いたよぉな顔」、「そんな顔がどこにあんねん」、「わたくしも見せていただきとぉございます、どのよぉな面白い顔を・・・、プッ。まぁ、ホンにこれはちょ~どあの、水桶の紐通しのよぉな顔でございます、ちょ~どあの鼻があぐらをかいている具合」、「いろんなこと言ぃやがんなぁ、馬鹿にしやがって。よし、ビックリさしたろ」。

 しょ~もない冗談はせぇでもえぇと言ぃますが、そぉ~ッとその、透き見をしてる襖の下のほぉへ這いつくばるよぉにして、『今度、顔出しやがったら』と、べかこの用意して待ってます。
 「わたくしもちょっと拝見を・・・、噺家はどこにもおりませぬ」、「いえ、あの真ん中の座布団の上に置いてございます」、「『置いてございます』? 人、品もんみたいに言ぃやがんねん」、「どこへ行ったものかしら?」、「どこへ、どこへ?」と、ちょっとずつこぉ襖を開けていった。その真ぁ下で待ってたやつが、「べっかぁこ~ッ!」と顔を突き出したさかいたまらん。
 「きゃぁ~ッ!」、「べかこ、べっかぁこ~」きゃ~ッ、バタバタ、きゃ~バタバタ・・・。

 「何じゃ城中が騒がしぃが、いかがいたした」、「噺家とか申す芸人が腰元連中を追いかけております」、「何とけしからんやつ。方々、あの噺家をひっ捉え召され! こらッ、待て」、「これわこれわ」、「こちらへまいれ」、「ちょっと『べかこ』をしただけ」、「腰元どもをつかまえて、『べかこ』をするとはけしからん仕業」、「いえ、あんまりわたしの顔の悪口ばっかり申されますのでな、ちょっとこっちも洒落に」、「何が洒落じゃ、この者を打って捕れッ」、「何をしなはんねん。ちょ、ちょっと、『べかこ』をしただけでございまっしゃないか。大勢寄ってわたしを手込めになさるとは」、「助けとくなはれぇ~、堪忍しとくなはれぇ~」、半泣きになってバタァ~バタ、バタバタ、逃げ回ってる。みんな寄って捕って、ギリギリ巻に括られてしまいます。
 「堪忍しとくなはれ、あ、あ痛タタタッ・・・、ちょっと『べかこ』をしただけで、何でこんなひどい目に遭わんなりまへんねん」、「えいっ、それへ控えておれっッ」、「わたし、これからお姫さんにお噺をしゃべらんならん」、「貴様のよぉな者を姫の御前へ出せるかッ」、「菅原の旦さんはどこへ行かはりました」、「明朝、鶏(にわとり)が鳴くまで縄目を解くことは相ならん。それまできっと糾明(きゅ~めぇ)いたしおく、そこの柱へ括り付けておけッ」、「そ、そんな・・・」、「ちょ~ど目の前に鶏の絵が描いてある、この鶏に頼むがよい。明朝、鶏(とり)が鳴くまで縄目を解くことは相ならんぞ」、「もぉしちょっと、菅沼の旦さん、呼んどくなはれな。もぉし・・・、なぁ、ちょっと、もぉし助けとくなはれな。あのなぁ、わたし家帰しとくなはれな、なぁ、もし・・・、とほほほぉ~」。
下座から♪(ハメモノ「鳥の声」)

 「お城へ呼ばれて『べかこ』して括られてるとは思うまい。また、きつぅ括りやがったなぁ。『鶏が鳴くまで縄目を解くことはならん』やなんて・・・、この鳥・・・、そぉじゃ、思い出したことがある。昔、唐土(もろこし)秦の昭王の時代(とき)、孟嘗君(もぉしょ~くん)といえる人、鶏鳴狗盗(けぇめぇくとぉ)の士を養い、函谷関(かんこくかん)の関の戸を破って抜けし例(ためし)もある・・・。けど、わしゃニワトリの鳴き真似はよぉせんわ。そぉじゃ、お前、名人の手になるニワトリやろ。わしのためにひとつ『東天紅』と鳴いてくれ。なぁ、なにとぞ『コカコ』と鳴いてくれぇ。どぉ~ぞ、頼む~~ッ!」。
 一心込めて祈りますと、その祈りが通じたものですかな、絵ん中のニワトリがそれへさして、ズ~~ッ・・・。
 「で、出て来た、出て来た出て来た、ありがたい。さすが名人の手になるニワトリじゃ。そこで一声『コカコ』と鳴いてくれ、頼む! 『トォテンコォ』と鳴いてくれ、頼む~ッ」。
 出て来たニワトリが、バタバタ~ッ、バタバタ~ッと羽ばたきをしたかと思うと・・・、「ベカコ」。

 



ことば

べかこ;大阪ことばで、「あかんベ~」「べっかんこ」。下まぶたの裏の赤い部分を見せて、軽蔑・拒否の意を示すこと。また、その行為。あかんべい。べっかっこう。べっかんこう。「めかこう」の転という。

落語家べかこ初代桂べかこ=桂米歌子。(1869年 - 1943年10月29日)は上方噺家。本名:早田 福松。大阪の堂島生まれ。三代目桂文團治門下で、初代米歌子(べかこ)、1894年頃、初代米之助、1896年1月、二代目米朝を経て、1910年3月、三代目米團治を襲名。米相場のあった堂島生まれで、入門時からずっと「米」の付く名前を名乗ってきたため、堂島の旦那衆の贔屓を受け、二代目米朝時代から中堅として活躍した。師匠の三代目文團治に可愛がられ、嫌味や小言の言い方までそっくりであったため、師匠が「大毛虫」、米團治が「小毛虫」と呼ばれた。口の悪さや気障な態度は若い時からのようで、1907年7月の落語相撲見立番付には「いやみ灘米朝」の名で出ている。 昭和に入ると一時吉本興業を離れ、お座敷で贔屓の客相手の落語や時々ラジオに出演するのみだった。上方落語の絶頂期に修行を積んだだけあって、舞踊・音曲も巧みで、人情噺・芝居噺・怪談噺・旅ネタまであらゆる噺に通じており、いずれも名人の域であったという。特に『古手買い』は絶品で、弟子の四代目桂米團治(「代書屋」の作者)でさえ、生涯の間に遂に手掛けることができない程であった。

 三代目べかこ=現桂べかこ→三代目 桂 南光(さんだいめ かつら なんこう、1951年12月8日 - )は、上方噺家。本名∶森本 良造。大阪府南河内郡千早赤阪村出身。四條畷市在住。師匠 二代目桂枝雀。芸能事務所米朝事務所常務取締役。写真事務所株式会社フォトライブ常務取締役。出囃子∶『猩々』。桂べかこ時代の愛称は「べかちゃん」、桂南光になってからは「なんこやん(なんこうやん)」。
 1984年11月にサンケイホールで初の独演会を開催。米朝一門でサンケイホールでの独演会は米朝・枝雀・二代目桂ざこば(当時は桂朝丸)に次いで4人目で、初開催時の年齢は4人の中で最年少だった。以降もサンケイホールでの独演会は2003年の第20回まで開催され、ハウス食品の即席麺「好きやねん」のテレビCMに出演していた頃には、来場者土産として「好きやねん」の現物を配っていた。
 1993年11月に「三代目桂南光」を襲名。「南光」の名跡は、初代が桂文左衛門(二代目桂文枝)、二代目が桂仁左衛門の前名であり、いずれも桂派の大立者が名乗った由緒あるものである。
 歯に衣着せぬ物言いとダミ声が特徴である。師匠の枝雀は、浄瑠璃ネタの演目を取り上げて解説を加える際に、『稽古で声を褒めようがない生徒』の例としてしばしば南光の名を出し、物真似まじりでその悪声をからかった。

雑喉場(ざこば);大阪市西区の地名。堂島米市場、天満青物市場とともに江戸時代の大坂三大市場であった魚市場。魚市場一般をさすこともありますが、江戸時代に大坂(現在の大阪)で最大の生魚市場の通称になっていました。 大坂の魚市場の歴史は古く、豊臣氏の時代には天満魚屋町、靫(うつぼ)町、本天満町に、生魚・塩魚を売買する魚市場が開かれていました。
 江戸初期の元和4年(1618)に、魚市場で営業していた魚商のうち生魚商17軒が上魚屋町(かみうおやちょう)に移転し、幕府へ冥加金(みょうがきん)を納めて生魚市場の特権を得ました。その後、上魚屋町が川口に遠いため、漁船の出入りに便利な鷺町(さぎまち)に移転し、鷺町の魚市場が雑喉場と呼ばれるようになりました。時代とともに多くの変動を経て雑喉場は繁栄しましたが、昭和6年(1931)に大阪市中央卸売市場の開場によって、その歴史を閉じました。
 『守貞謾稿』(1853)には雑喉場について次のようにあります。「大坂の西北隅に雑喉場と称す官許の魚市あり。その行、江戸の魚市に及ばずといへども、また小行ならず。けだし堺市に出す魚類、近海に漁する所なるべし。この故におのずから肉肥えて美味なり。尼ヶ崎およびざこばに出すもの、遠海より来る故に味肉ともに劣れり。価も大略堺魚の半価とす」とあります。また別の箇所に「京坂食用の鮮魚は、堺より出るを上品とし、美味とし、価も他に倍す」とありますから、雑喉場では一般的な安い魚を売買したようです。

 

 浪花名所図会 「雑喉場魚市の図」 歌川広重画 国立国会図書館所蔵 

落語家ざこば初代=(?~没年昭和13(1938)年9月19日) 本名、小倉 幸次郎。 経歴、笑福亭光蝶、三遊亭柳吉、洗場亭さん助、桂三輔を経て、大正9年4月に桂ざこばと改名。新しがり屋で、英語がポンポン飛び出す落語で人気があった。三輔時代に「新町ぞめき」、ざこばになってから「脱線車掌」「野球見物」などの新作をレコードにしている。昭和6~8年、大阪でラジオ出演し、十八番の「宿がえ」(粗忽の釘)などを演じた。晩年は引退。

 二代目桂ざこば=(1947年9月21日 - )は、上方の落語家、タレント。本名、関口 弘(せきぐち ひろむ)。2人姉弟の長男(姉1人)。 大阪府大阪市西成区出身。米朝事務所所属。上方落語協会会員(相談役)。前名は桂 朝丸(かつら ちょうまる)。出囃子は「御船」(ぎょせん)。愛称は「ざこびっち」。桂雀々とは夫人同士が姉妹であるため義兄弟の間柄。
 1981年3月13日、サンケイホールで「桂朝丸独演会」を開催。米朝一門でサンケイホールでの独演会は米朝・枝雀に次いで3人目で、香川登枝緒らも後押しする形ですんなり決まったが、師の米朝はこのプログラムでも、「あれでちょっと気のアカンところがございます。どんな高座をお目にかけることやら…」と案ずる内容の文章を贈っている。当日は立ち見も出る盛況で、その後1997年まで15回を数えた。 1988年(昭和63年)4月、二代目「桂ざこば」を襲名。襲名は兄弟子である枝雀の提案によるものだった。襲名に際して、初代の墓に参り法要をした。また、上方落語では初となる東京での襲名披露落語会も開催された。

枝雀(しじゃく);二代目 桂 枝雀(かつら しじゃく、、1939年(昭和14年)8月13日 - 1999年(平成11年)4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家。三代目桂米朝に弟子入りして「十代目桂小米」、基本を磨き、その後二代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓し、師匠の米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となった。出囃子は『昼まま』。高い人気を保っていた中でうつ病を発症し、1999年に自殺を図って意識不明となったまま死去した。本名:前田 達(とおる)。

鳥屋坊主(とりや ぼうず);鶏の出て来る落語、別名、「万金丹」。落語「万金丹」を参照。

法華坊主(ほっけぼうず);鶏の出て来る落語、472話「法華坊主」を参照。

肥前の武雄温泉場(たけお おんせんじょう);佐賀市と長崎県佐世保市の中間に位置する町で、町の中心には開湯以来1300年経つ武雄温泉があり、この温泉には日本銀行や東京駅の設計を行った辰野金吾設計の楼門があり国の重要文化財に指定されています。武雄市(たけおし)は、佐賀県の西部にある市です。
 透明で柔らかな湯ざわりが特徴の武雄温泉は1300年も前に書かれた、「肥前風土記」の中に「郡の西の方に温泉の出る巌(いわや)あり・・・」と記された、歴史ある温泉で、古くは神功皇后も入浴されたと伝えられています。
 また、文禄・慶長の役の際、名護屋城に集められた多数の兵士が武雄温泉を訪れますが、兵士に対し、他の入浴客に迷惑をかけないようにと、豊臣秀吉が示した朱印状「入浴心得」が残されています。江戸時代には、長崎街道の宿場町として栄え、歴史上名高い宮本武蔵やシーボルト、伊達政宗や伊能忠敬などが入浴した記録も残されています。 泉源の泉質はさまざまな成分が程よく入った弱アルカリ単純泉。保温性に優れ、美肌をつくる泉質として有名です。
 武雄市観光協会

気鬱(きうつ); 気分がはればれしないこと。気がふさぐこと。また、そのさま。憂鬱。

究竟(くきょう); (形動) 非常につごうが良いこと。絶好の機会。あつらえむき。くっきょう。

月代(さかやき);男性が前額から頭の中央にかけて髪を丸くそり落とした風習。 武士が戦場で兜をかぶると熱気がこもって苦痛であるため起こった風習で、早く平安時代からあったという。
 平時は側頭部および後頭部の髪をまとめて髷(まげ)を結った。なお、現代日本において時代劇等で一般男性の髷としてなじみとなっているのは銀杏髷であり、髷が小さい丁髷ではない。さかやきをそり、髷を解いた髪型を「童髪(わらわがみ)」といい、「大童(おおわらわ)」の語源となっている。「サカヤキ」の語源、また「月代」の用字の起源は諸説ある。一説にさかやきはサカイキの転訛であるという。戦場で兜をかぶると気が逆さに上るから、そのイキを抜くためであるという伊勢貞丈の説が広く認められている。
 江戸時代になると、一定の風俗となった。公卿を除く、一般すなわち武家、平民の間で行われ、元服の時はさかやきを剃ることが慣例となった。蟄居や閉門の処分期間中や病気で床についている間はさかやきを剃らないものとされた。外出時もさかやきでない者は、公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見、物乞いなどであった。さかやきの形は侠客、中間、小者は盆の窪まであり、四角のさかやきは相撲から起こり、その広いものを唐犬額といった。江戸時代末期にはさかやきは狭小になり、これを講武所風といった。また若さをアピールする一種のファッションとして、さかやきやもみあげを藍で蒼く見せるという風習も流行した。 明治の断髪令まで行われた。

(ちん);日本原産の愛玩犬種(下写真参照)。 他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきたため、体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」、「ちぬ」とだんだんつまっていき「ちん」になったと云われている。また、『狆』という文字は和製漢字で、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである。開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なくいわゆる小型犬のことを狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた。江戸時代以降も、主に花柳界などの間で飼われていたが、大正期に数が激減、第二次世界大戦によって壊滅状態になった。しかし戦後、日本国外から逆輸入し、高度成長期の頃までは見かけたが、洋犬の人気に押され、今日では稀な存在となった。
 昔のこの城中のお姫さんやとかお局(つぼね)さんなんか、よぉ狆を可愛がって飼ぉてたんやそぉでございまして、あの狆コロ抱いてますと、たいがいのご婦人は綺麗ぇに見えますわなぁ。あれより悪いちゅなあんまりないやろと思います。中にはまぁ、「あの人があれ産んだんかいなぁ」といぅ・・・、たまにはあるかも分かりまへんけど。
(桂米朝)

 

狩野法眼(ほぉげん)光貞;狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。光貞もその一人であったと思われるが、代表的な直系狩野派の系列には見当たらない。

狩野古法眼(こほぉげん)元信;父子ともに法眼に補せられた時、その区別をするために父をさしていう称。特に狩野元信をいう。桂米朝は古法眼の使い方が間違っています。
 狩野派隆盛の基盤を築いた、二代目・狩野元信(1476 - 1559)は正信の嫡男で、文明8年(1476年)に生まれた。現存する代表作は大徳寺大仙院方丈の障壁画(方丈は永正10年(1513年)に完成)、天文12年(1543年)の妙心寺霊雲院障壁画などである。大仙院方丈障壁画は相阿弥、元信と弟・之信が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった足利将軍や細川家との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった石山本願寺の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。 元信は晩年には「越前守」を名乗り、また「法眼(ほうげん)」という僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父正信の得意とした漢画、水墨画に大和絵の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。

梅の間、松の間、桜の間;梅と松と桜やさかい、三光(参考)にならなしょがおまへん。
 三光=花札の役の一種。松に鶴、桜に幔幕、薄に月、3枚の「光札」が揃ったもの。

  三光の揃いの役

  

 狩野探幽筆、二条城二の丸御殿大広間、「松の間」。

牡丹の間、菊の間、紅葉(もみじ)の間;花札の役の一種。牡丹、菊、紅葉に青い短冊が描かれた3枚が揃ったもの。青の短冊で、青短が揃った。

 牡丹の間に有ったという、狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館。

鶏(にわとり)の間;休息の間。大きな鶏の絵が描いてあるその前へ、お座布に座ってお茶をいただいとぉりますと・・・。

 右図、伊藤若冲_「群鶏図」部分 宝暦11年(1761年)-明和2年(1765年)頃、絹本着色、宮内庁三の丸尚蔵館蔵。

衣擦れの音(きぬずれのおと);歩くときに、着ているきものや衣服の裾がすれ合うことです。またその音のことを言います。ここでいう「きぬ」は蚕の繭からとれる「絹」ではなく、もともときもの、衣服のことを表す日本語です。 そのため、「きぬずれ」は「絹擦れ」とは書かず、着ているものを表す「衣」を使い、「衣擦れ」と表記します。

 襖の向こうで愛しい女性が身支度をしている時の、衣と衣が擦れあう音。 帯をほどく音や、腰ひもをほどく音など・・・ 聴覚だけが研ぎ澄まされ、妄想が暴走を始める・・・。 着物男子と着物女子の衣と衣が重なり合うときの音もまた然り。 衣擦れの音とはそんな夜のイメージです。 が、廊下を通る腰元の衣擦れの音だなんて・・・。

腰元の小萩(こはぎ)さん、牡丹さん、紅葉さん;花札に縁があるなぁ;

    

 猪鹿蝶の役。猪=萩、鹿=モミジ、蝶=牡丹。
 

手込め(てごめ);手荒い仕打ちをすること。力ずくで自由を奪い、危害を加えたり物を略奪したりすること。。

糾明(きゅうめい); 罪、不正などを問いただし、悪い所を追及してはっきりさせること。糺問。糾行。。

鶏鳴狗盗(けいめいくとう);《斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)が秦に幽閉されたとき、食客のこそどろや、にわとりの鳴きまねのうまい者に助けられて脱出したという「史記」孟嘗君伝の故事から》にわとりの鳴きまねをして人を欺いたり、犬のようにして物を盗んだりする卑しい者。また、どんなくだらない技能でも、役に立つことのあるたとえ。

孟嘗君(もうしょうくん);宣王(せんおう)が亡くなり、湣王(びんおう)が即位した。 靖郭君(せいかくくん)の田嬰(でんえい)は、宣王の腹違いの弟である。 薛(せつ)に封ぜられた。 (彼には)文(ぶん)という子どもがいた。(彼は)数千人の食客(しょっかく)を養っていた。 (彼の)名声は諸侯の間で有名であった。 孟嘗君(もうしょうくん)と号した。
  秦の昭王(しょうおう)は彼の賢いことを聞いて、そこでまず人質を斉に送り(孟嘗君との)会見を望んだ。 (孟嘗君が秦に)着くと、昭王は引き止めて、捕らえて孟嘗君を殺そうとした。 孟嘗君は、昭王のお気に入りの婦人のところへ人をやって助けてもらうよう頼んだ。 婦人はこう言った。 「あなたの持っている狐白裘(こはくきゅう=狐の脇の下にある白い毛で作った衣服)をいただけたら(助けて差し上げたい)と思います。」 (ところが、そもそも)孟嘗君は(狐白裘を)すでに昭王に献上してしまい、他に狐白裘を持ち合わせていない。(困ったところ、孟嘗君と同行している)食客の中にコソ泥の上手な者がいた。 (彼は)秦の蔵に忍び込み、狐白裘を盗み出し婦人に献上した。 婦人は(孟嘗君のために)取りなして(孟嘗君は)許されることができた。
  すぐに馬で逃げ去り、姓名を変えて、夜半に函谷関(かんこくかん)に着いた。 関所の規則では、(夜が明けて)鶏が鳴いたそのときに、旅人を通すことになっていた。 (孟嘗君は)秦王が後になって(自分を許したことを)後悔し、自分を追ってくることを恐れた。 (困っていると、孟嘗君一行の)食客の中に鶏の鳴き声が上手な者がいた。(彼が鶏の声をまねて鳴くと、周囲の)鶏は皆鳴き出した。 そこで(関所の役人は孟嘗君一行の)車を通した。 (関所を)出ると間もなく、思ったとおり追っ手がやってきたが、追っ手は間に合わなかった。
  孟嘗君は(斉に)帰ると秦を恨み、韓と魏の二国とともに秦を攻め、函谷関に入った。 秦は城を割譲して和睦した。
  孟嘗君は斉の宰相となった。 (しかし)ある人が孟嘗君のことを王に讒言(ざんげん=おとしめるために悪く言うこと)した。 そこで(斉を)逃げ出した。 (十八史略)

 


                                                             2022年2月記

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