落語「昆布巻芝居」の舞台を行く
   

 

 四代目桂文我の噺、「昆布巻芝居」(こんまきしばい)より


 

 「番頭どん、番頭どん・・・」、「旦さん、わざわざ何でございます」、「今日はな、楽しみにしてますのじゃ、昼のおかず。久し振りにお清が腕によりかけてこしらえてくれてる。今日は何や、鰊(にしん)? 鮒、あぁそぉか鮒の昆布巻(こんまき)の味醂煮(みりんだき)、わしゃ好きやな~、鰊より好きじゃ。炊いてくれてるそぉやなぁ。けどな、ちょっと気ぃ付けてもらいたいで」、「何がでございます」、「裏長屋へ替って来たやもめがいてるやろ、よぉおかずをもらいに来るやろあれ。鼻がえらい利くよぉになってな、あっちゃこっちゃのおかずを当てよるんや。ほかのおかずやったらかめへんけどな、この昆布巻の味醂煮、こりゃわしゃ好きやさかい。二十三本か、そぉか、よっしゃよっしゃ。ほんならな、やらんよぉに頼んだで。やもめが来んうちにな、炊き上げてな、隠しとかないかんで」。

 「ごめん」、「何ぞ用事かな」、「結構な、美味しそぉなおかずでございますなぁ」、「何が」、「隠したってあきまへんがな。またちょ~だいしたいと思いますんで。今日はなんですな、昆布巻ですか・・・、鮒の昆布巻、味醂煮でんな。数が二十三本」、「数まで当てよったな、こいつわ。いやいや違う違う、そんなん炊いてへん」、「誤魔化したかてあきまへんがな、この鍋に入ってんのん」、「違うッ」、「ボチボチもぉ火ぃ止めたほぉがよろしぃで。せやなかったら、味が濃ぉなってしもたら美味いこともなんともない」、「こ、これッ、よその鍋の蓋に手をかけるやつがあるかいな、やめなはれ帰り、帰えんなはれホンマに・・・。そこ閉めとき、えぇか、そこピシャッと閉めときや。鍵はかけんでえぇ、誰が来るか分かれへんから、ホンマに油断も隙もないなぁ、わしゃなぁ、これ炊き上がったら親戚のうちへ預けに行ってくるさかいな。やもめ行ったか」。

 「ホンマにかなんなぁ、あらきっと鮒の昆布巻味醂煮に違いないねや、数も二十三本、間違いないねや。わしの鼻には間違いないねんけどなぁ、蓋開けられへんのが辛いがな。蓋をパッと開けられたら『やっぱり、ここにおまっしゃないかいな』言えんのになぁ・・・、諦めなしゃ~ないか。ここのおかず何やこれ? おッ、鰯炊いてるのんかこれ・・・? いや、違うわこれ・・・、何やこれ? 鰯のダシでオカラたいてんねや。こら不景気なおかずやなぁ・・・、こっち何や? こっちお茶漬けか、梅干し茶漬けか。不景気やなぁ、こないなったらもぉ、どぉしてもあの昆布巻食べたいけどなぁ。何とかあの蓋を取る手ぇさえあったら・・・、そぉや! 鍋の蓋取る手ぇあるで、あるある・・・、あそこの旦那はいたっての芝居好きや、そぉや、芝居の中でな、こぉ鍋の蓋を取るよぉな芝居をやったったらえぇねや。何ぞ・・・? あるある、そぉや、宮本武蔵の芝居。あれの、『鍋蓋試合』のとこがあるわ。あれやったら、鍋の蓋で刀受けて、こんなことできるんや。そぉそぉ、あれ演ったろ・・・」。

 「え~、ごめん」、「また来たがなホンマに、もぉ油断も隙も・・・、うち炊いてない言ぅてるやろ」、「実は、わたいもぉご飯は食べてしまいましてん」、「なんやお前、もぉご飯済んだんかい」、「ちょっと芝居のお話をさしいただこかいなぁ思て来ましたんやけど」、「もぉ芝居見てるより面白かったがな。この男はな、芝居の話がうまいさかいな、聞かしてもらお。集まっといで」。
 「いつも出てるよぉな、『忠臣蔵』とか『一の谷』とか『菅原』とか面白いことおまへんわ。ちょっと出んよぉになった芝居の話しまひょか? へぇ『宮本武蔵』の芝居、どぉです? 『宮本武蔵』あれのね、ホンマの題は『仇討巌流島』と、こない言ぅんやそぉでんなぁ。その中で一番派手で面白い段、これは『木曽山中異人住(いじんすまい)の段』ですわ。こらよろしまっせホンマに。 後ろは山の背景、一面の銀世界ですなぁ、こら綺麗なもんでっせ。で、異人の館がありますねや。 囲炉裏がこぉ切ってありましてな、で、こぉ竹の自在鉤(じざいかぎ)には鉤鍋ちゅうてね、ちょ~どこんな鍋がかかってますわ、こんな鍋が・・・、湯ぅ沸かしてまんねんけどな、こんな鍋がかかってますねや。 上手にはこぉ寒紅梅(かんこばい)の盛(さかり)がありましてな、それで後ろには木剣(ぼっけん)が二本こぉかかってますわ。囲炉裏の前へ座って火箸で火をいじってるんが異人、笠原瑞応為之(ずいおぉためゆき)。 そして山幕、切って落とされまんねん」。

 芝居の説明が身振り手振りで始まりました。花道からサァ~ッと出て来んのが諸国を巡る武者修行中の宮本武蔵。
 いかに武蔵、われ笠原平六兵衛(へぇろくびょ~え)が末裔、笠原瑞応為之と申す者なり。この山中に移り住み、幼き頃より武術に身を委ね、編み出したるが合気の術。合気の術は百発百中、勝ちを取ること間違いなし。貴殿が右から打つや左から打つや、フラスコの中を見抜くよりも明らか。疑わしくば、いま立ち合ぉてみそぉらわんや。しからば、御免。後ろにあった木剣を二本取るっちゅうと、『エイッ! エェ~イッ!』 と。受けたこの木剣を火箸でこぉ向こぉへ撥ねる、『エイッ! エェイッ!』それを膝の下へ敷く、印を結ぶ・・・、「ん~んッ!」 動くまい。これこそわが極意ッ!さぁ、この印を解(ほど)くっちゅうと、行き場を失のぉて武蔵がこぉ前へつんのめる。そのあいだに異人が後ろへ回り込む、「おッ、異人はどこ行ったんやろ?」とりあえず木剣を武蔵が振り上げると、袖のとこからフ~ッと異人が顔を出す。「エェ~イッ!」打ち据えるがもぉそこには異人の姿がない、「どこへ行っ たんやろ?」キョロキョロ・キョロキョロ、下手のほぉへ行きかける。そぉすると上手のほぉで異人が、「おいで、おいで」をこぉしてる、「ん~ん」武蔵、もぉあせって持ってた木剣を異人めがけて、「エイッ!」と投げる。さぁ、なんにもこぉ、それを押さえるもんがないんで、近くにあった鍋の蓋を取ると・・・。
 「『エェ~イッ!』どぉです、昆布巻二十三本おまっしゃろ」、「えらいやっちゃなぁ~これ、え~ッ・・・、つまりその蓋を開けるために、こんだけの芝居してたんかいな? やるやる、やるがな。そら芝居見るだけの代金思たら安いもんや。やるけどもな、これもらうためにあんだけの芝居をするとは、味の濃いことしてくれたなぁ」、「へぇ、これより濃ぉならんうちに、もろて帰りまんねん」。

 



ことば

四代目 桂文我(かつら ぶんが);(1960年8月15日 - )は三重県松阪市出身の落語家。本名は大東幸浩(おおひがし ゆきひろ)。
 松阪市立中部中学校から落語が好きで学校に落語の部活がなかったので教師に頼んで部活を創設するほどであった。その後三重県立松阪工業高等学校でも部活を立ち上げる、卒業後、1979年(昭和54年)3月2代目桂枝雀に入門。同年7月、茨木市での「雀の会」にて桂雀司として初舞台。1995年(平成7年)、4代目桂文我を襲名。現在では東名阪を中心に、全国各地で年間約300回の落語会を開催。また自らの幼少時に落語や浪曲に触れた経験から、とくに1992年(平成4年)ころより、子供を対象にした落語会も多数開いている。珍しい噺の掘り起こしに力を入れるなど、熱心な落語研究家でもある。夫人はお囃子三味線のかつら益美。
 芸風は師・枝雀と違い爆笑派ではなくしっかりじっくり聴かす古典派。

昆布巻き;昆布はコンブともコブとも発音する。昆布・若布(わかめ)・鹿尾菜(ひじき)・水雲(もずく)〈以上褐藻(かっそう)〉、海苔(のり)・天草(てんぐさ)〈以上紅藻〉、それに緑藻などの海藻と海中の植物全てを含めて海草と言う。だからこの欄で紹介する資格は十分にある。
  北海道や東北地方が主な収穫地だが、昆布船を出し、投げ鉤(かぎ)・曳(ひき)鉤・懸(かけ)鉤などの手段で海底から引き上げる。海辺に漂着したものを拾うこともある。それを干し、店頭で売る。この過程を俳句でご案内する。「サロマ湖と海との境昆布舟」「昆布拾ふ乳房は濡れて滴(したた)れり」。そして「海の端踏んでは昆布干してゆく」。「干し昆布布のごとくに折りたたむ」と商品化し、「昆布屋で昆布永く親しく眺められ」となる。
  「昆布に針刺す」の言葉がある。何か心に誓うことがあると、昆布に針を刺して心を固くした。また人を呪う時は、それを井戸に沈めたり、昆布で人形を作り樹木に刺す風習があった。
  昆布の料理法は多いが、関西では出し汁の主流は昆布だ。関東では鰹(かつお)が中心になる。昆布巻は、大阪ではコンマキと発音し、専門に売る商人がいた。「幸ひと心祝ひに買ひもせん 見のがしならぬ夜の昆布店」の狂歌が残るように、“夜の昆布”は“喜こぶ”のしゃれで、「夜の昆布は見のがすな」と言われた。
  帯を解かずに男と情を交わすことを「昆布巻」と称した。山崎豊子作『ぼんち』に見える。正月の新婚家庭に、今でもありそうだ。「昆布」と掛けてマタニティドレスと解く、その心は鰊(にしん=妊娠)に合う。

   江戸時代後期、初代桂文治により始められ明治期の初代桂文我により完成された上方芝居噺であるが、大正から昭和期にかけ、娯楽が芝居から映画、レビュー、漫才、スポーツ、ラジオ放送など多様化するうち衰退、それに母体となる関西歌舞伎と上方落語の低迷もあって戦後はすっかり廃れていた。 わずかに東京の桂小文治や前述の花柳芳兵衛らが細々と継承していたのを桂米朝、六代目笑福亭松鶴、二代目露の五郎兵衛らの尽力で復活し、現在では「蛸芝居」・「質屋芝居」・「昆布巻芝居」・「そってん芝居」・[瓢箪場」などの上方ものはもちろん、「累草紙」などの江戸の芝居噺が移植されて演じられている。

 鮒の昆布巻き (ふなんこぐい=鮒の昆布巻き) 鹿島地方に古くから伝わる冬の保存食。 鮒を生きたまま昆布で巻き、大根と共に一昼夜煮込む。 佐賀平野には農業用水路や貯水用として堀がはり巡らされている。秋に水を抜く「堀干し」をするが、その際に獲れる鮒が使われる。 おくんちなどのハレの日に食べる。鹿島市では、毎年、二十日正月の前日、恵比寿様、大黒様にお供えするための鮒を売る「ふな市」が開催される。これは300 年以上続く伝統行事となっている。

(ニシン/鯡); ニシン目ニシン科の海水魚。別名、春告魚(はるつげうお)。魚体は細長く、体長は30-35cmほど。背側は青黒色、腹側は銀白色。日本付近では春、産卵のために北海道沿岸に現れる。 英語で ヘリング (英、独: Herring、蘭: Haring)といえばニシンも含むが、普通はタイセイヨウニシン( C. harengus )のことをいう。卵の塩蔵品は数の子(かずのこ)と呼ばれる。海藻に産み付けられた卵は子持ち昆布として珍重される。
 『守貞漫稿』には、「鯡を江戸で食する者は稀で、もっぱら猫の餌である。京阪では煮たり昆布巻にする。かつぎ売りの品は昆布まきにする」とあり、『年中番菜録』には、「鯡こんぶ巻、また平こんぶに取り合せて炊き、向付けにしてよし。下品なれども酒の肴には、時によりおかし。水に漬けおいて砂糖あめ等入れれば渋みなし」という。食通で知られる北大路魯山人は著書『魯山人味道』(平野雅章 編)で、「煮たもの焼いたものはさほどでも無いが、乾物を水でもどしたものを上手く料理すると美味しくなる」という。
 右写真、ニシンの昆布巻き。

味醂煮(みりんだき);大阪ことばで煮ることを「たく」
と言います。みりんを用いて煮ること。

宮本武蔵(みやもとむさし);武蔵に関わる物語は江戸時代から脚色されて歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材にされ、吉川英治が1935(昭和10)年8月23日~1939年7月21日まで朝日新聞に連載した小説『宮本武蔵』によって最強の青年剣士武蔵のイメージが一般に広く定着した。
 江戸時代初期の剣術家、大名家に仕えた兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。 後世、演劇、小説、漫画、映画やアニメなど様々な映像作品の題材になり、現代では「剣聖」と呼ばれることもある。特に吉川英治の小説『宮本武蔵』が有名であるが、史実と異なった創作が多いことに注意する必要がある。 外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二十九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載がある。 絵画や武具・馬具づくりも能くした。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』といった水墨画や鞍、木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。 島田美術館が所蔵する有名な肖像画は作者不詳であるが、身体を緩めている様は『五輪書』が説く極意に一致しており、自画像とする説もある。右図。

宮本武蔵の芝居;『鍋蓋試合』、正式な名題は『仇討巌流島』その中で一番派手で面白い段、これは『木曽山中異人住(いじんすまい)の段』ですわ。こらよろしまっせホンマに。 後ろは山の背景、一面の銀世界ですなぁ、こら綺麗なもんでっせ。で、異人の館がありますねや。 囲炉裏がこぉ切ってありましてな、で、こぉ竹の自在鉤(じざいかぎ)には鉤鍋ちゅうてね、ちょ~どこんな鍋がかかってますわ、こんな鍋が・・・、湯ぅ沸かしてまんねんけどな、こんな鍋がかかってますねや。上手(かみて)にはこぉ寒紅梅(かんこばい)の盛(さかり)がありましてな、それで後ろには木剣(ぼっけん)が二本こぉかかってますわ。囲炉裏の前へ座って火箸で火をいじってるんが異人、笠原瑞応為之(ずいおぉためゆき)。 そして山幕、切って落とされまんねん」。 桂文我

 『鍋蓋試合』、正式な名題は『仇討巌流島』その中で一番派手で面白い段、これは『木曽山中異人住(いじんすまい)の段』ですわ。
 「宮本武蔵が、信州木曽山の麓の居酒屋で休んでいると、不思議な少年が道場の連中を打ちのめしたのを目撃した。武蔵は興味を持ち、少年の跡を追った。山中で迷った武蔵が一軒の草ぶき家を見つけて門を叩くと、七十余り髪も髭も真っ白な老人と少年がいた。武蔵が、『一夜の宿と要ってご教授を』と頼むと、老人は囲炉裏の前に座ったまま、『お相手いたす』という。武蔵がビワの木剣を両手に構えると、老人は鍋蓋の上にあった菜箸を中段につけた。すると老人の姿が隠れてしまう。にらみ合ううちに、武蔵がエイッと打ち込むと。老人は鍋蓋を取って木剣を受けて押さえ、菜箸でもう一本の木剣を落とそうとした。とても及ばないと武蔵は、『参った』この老人が実は塚原卜伝であった」。 小島英煕『素顔の剣豪たち』より
 塚原卜伝は1571年亡くなってますし、宮本武蔵 は1584年に生まれてますから、この事実は有り得ません。

異人(いじん);言ぃましてもね、よその国の人やおまへんねん。まぁ剣術の達人とかな、もぉ我々ではでけんよぉな技を使うよぉな人のことを「異人」と、こぉ言ぅんやそぉですねん。 桂文我

寒紅梅(かんこばい);植物「ウメ」の園芸品種。庭園に栽培される。花は八重で紅色。はっさく梅。寒中に紅色の八重の花が咲く。右写真。

忠臣蔵(ちゅうしんぐら);歌舞伎 通し狂言仮名手本忠臣蔵  浄瑠璃のひとつ。並木宗輔ほか合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期にとり、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。(広辞苑より)
 落語「淀五郎」参照。また、落語「四段目」、「忠臣蔵」、「天野屋義平」、「中村仲蔵」、赤垣源蔵」、「元禄女太陽伝」、「九段目」、「七段目」、「徂徠豆腐」、「忠臣ぐらっ」。など忠臣蔵に関する噺は沢山有ります。

一の谷;『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』:文楽および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、宝暦元年(1751年)11月に大坂豊竹座にて初演。並木宗輔の作。三段目の切は特に『熊谷陣屋』(くまがいじんや)と通称される。ただし宗輔はこの作の三段目までを執筆して病没したので、浅田一鳥らが四段目以降を補って上演した。版行された浄瑠璃本には、作者として浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三・難波三蔵・豊竹甚六の連名のあとに、「故人」として並木宗輔の名が記されている。眼目は三段目の「熊谷陣屋」。

 上図:「組討」 熊谷が沖へと向う敦盛を呼び戻すという場面。四代目中村歌右衛門の熊谷次郎直実、初代中村福助の無官太夫あつ盛。嘉永3年(1850)5月、大坂中の芝居。五粽亭広貞画。

 「熊谷陣屋」、自らの陣に戻った熊谷は、我が子の敵を討つために訪れた敦盛の母・藤の局(ふじのつぼね)と、妻・相模(さがみ)に敦盛の最期の様子を物語ります。 義経による首実検が行われることになり、熊谷は討ち取った首とともに、義経から与えられた制札を差し出します。制札から、後白河院(ごしらかわいん)の落胤(らくいん)である敦盛の命を救うため、子を身代りにするよう示していると察した熊谷は、実子の小次郎(こじろう)を犠牲にしていました。主君への忠義のため子を失い、無常を感じた熊谷は出家するのでした。

菅原;『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』:人形浄瑠璃のひとつ。時代物。竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲合作。1746年初演。菅原道真の配流を軸に、武部源蔵の忠義、白太夫の三つ子の兄弟梅王・松王・桜丸の悲劇を配する。「車引き」「寺子屋」の段が有名。

  概略:菅原伝授手習鑑(寺子屋の段)
  源蔵は小太郎の顔を見て、これを菅秀才の身替りにしようと考えたのである。今日寺入りしたばかりの子を、いかに菅秀才の身替りとはいえ命を奪わなければならぬとは…戸浪はもとより源蔵も「せまじきものは宮仕え」とともに涙に暮れるのであった。 やがて菅秀才の首を受け取りに、春藤玄蕃と松王丸が来た。松王丸は病がちながら、菅秀才の顔を知っているので首実検のためについてきている。村の子供たちをすべて帰したあと、いよいよ菅秀才の首を討つ段となり、源蔵は首桶を渡された。源蔵は奥で小太郎の首を討ち、それを首桶に入れて出てきて松王丸の前に差し出す。張り詰めた空気の中、松王丸は首を実検した。ためつすがめつ、首を見る松王丸。 「ムウコリャ菅秀才の首討ったわ。紛いなし相違なし。」 松王丸は玄蕃にそう告げた。玄蕃はそれに満足して首を収め、時平公のところへ届けようと手下ともども立ち去る。松王丸は病を理由に、玄蕃とは別れて帰ってゆく。あとに残った源蔵と戸浪はひとまず安堵した。  だが今度は小太郎の母親が、小太郎を迎えにやってきたのである。 致し方ないと源蔵は、隙を見て母親に斬りかかった。しかし源蔵は思いもよらぬ言葉を聞く。源蔵の刀をかわした母親は涙ながらに言った、「菅秀才のお身代り、お役に立ってくださったか」と。そこに松王丸も現われる。小太郎とはじつは松王の実子、その母親とは松王の女房千代だったのである。松王丸はじつは菅丞相に心を寄せ、牛飼いとして仕えながらもそれに仇なす時平とは縁を切りたいと思っていた。そして菅秀才の身替りとするため、あらかじめ小太郎をこの寺子屋に遣わしていたのだった。松王丸はなおも嘆く千代を叱るが、源蔵夫婦と菅秀才は小太郎のことに涙する。松王丸が駕籠を招き寄せると、中から菅丞相の御台所が現われ菅秀才と再会する。以前北嵯峨で御台を助け連れ去った山伏とは、松王丸であった。
(概略:落語「軒付け」より孫引き。落語「菅原息子」に詳しい。

フラスコ(葡: Frasco、英: Flask);化学実験で使う口の小さい容器(試験管の一種)で、蒸留や攪拌に用いる。主としてガラスで出来ている。溶液を正確に計量するために用いるメスフラスコ、アルコールランプで加熱するのに適する丸底フラスコや、ナスフラスコ、机の上に固定しておくことができ、溶液の保存に便利な三角フラスコ、平底フラスコ、三ツ口フラスコ、セパラブルフラスコ、微生物培養時に通気を確保できる坂口フラスコ、バッフル付きフラスコなどがある。 透明(白色)が一般的であるが、遮光性が必要な操作の場合のためには褐色のものを用い
る。
   

 左から、三角フラスコ、三ツ口フラスコ、ナスフラスコ、メスフラスコ。

 


                                                            2022年3月記

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