落語「鍋墨大根」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「鍋墨大根」(なべずみだいこん)より


 

  え~「誰もやらんよぉな珍しぃ噺をやってくれ」言われましてね、まぁ今の「深山がくれ」も珍しぃ噺ですけども、だいたいこの、みんながやらん珍しぃ噺といぅのはまぁオモロないんですわ。オモロかったらみなやりますわ、これね。

   桂南天さんといぅ古ぅ~い人がおりましてな、この人から教わったんですけど、この人はまたちょっと変わってまして、もぉ誰もやらんよぉな変な噺ばっかりやってた人なんです。とにかく、妙な噺ばっかりやってた。  「煙草入れ」なんて噺がありますが、今「煙草入れ」が分からんですなぁ、だいたいその、刻みタバコをキセルで吸ぅといぅ時代の煙草入れでっさかい、カマスといぅのがここにまぁタバコが入ってまんねん、こっち側の筒にはキセルが入ってるわけですわなぁ。
  この、杖を突きながら橋の上を歩いてたんですなぁ。昔の木の橋は土が溜まらんよぉにいぅんで、ところどころに三角の穴がこぉ開けてあった、そっから土落とすよぉになってましたんやなぁ。で、そこへその杖がパッとこぉ落ちたんですなぁ、「おッ、杖落とした」と思たけど見当たりまへんわねぇ。なんぼ探しても無い、「おかしぃなぁ、あんなとこに穴が開いてるが・・・」と、こぉ煙草入れを取り出しまして、キセルを取り出して。こぉやってこの穴に狙いをつけてスト~ンとやると、この穴から下へポ~ンとキセルが落ちた、「ははぁ~ッ、この理屈やなぁ」て、アホみたいな噺でございますけども。
 とにかくこの人に教えてもぉた噺はみぃ~んな説明が要る、もぉケッタイな噺でっせ。今、蚊帳なんかは見よ思たかて見られしませんけど、昔は「ワァ~ン」いぅぐらい蚊が飛んでたもんでございますが、蚊帳がなかったら難儀せんならん。その蚊帳を質(ひち)に置いて、それで酒呑んで寝てたやつがおる。ほな、蚊が馬鹿にしまんねんなぁ、「蚊帳わぁ~? 蚊帳わぁ~?」、「喧しなぁ、質に置いたわいッ」、「ふぅ~~ん」。
  え~、もぉこれに似たよぉな噺でございまっさかい、今日の「鍋墨大根」といぅ、題からしておかしな題ですなぁ。鍋墨といぅのが今、分かりまへんわなぁ、昔あのオクドさんで、ヘッツイさんでご飯を炊いてた時分なんか、木をくすべますわねぇ、薪で炊くわけです。  そぉすると、あんなもんで炊くちゅうと釜の底いっぱい煤が付くんです。これ、煤が付くと熱の効力が悪なりまんねやなぁ、で、ガリガリガリガリとそれをこぉ掻いた。  鍋もそぉです、これ鍋墨ちゅうやつが付きますわ。これをこぉガリガリガリガリと掻き落とすんですけど、あれ「釜墨」ちゅうことは言ぃまへんなぁ、昔からあら「鍋墨」なんですね。必ずこの鍋墨は落とすんですが、煤が落ちるわけですな。  煙突なんかでも、いっぱいこぉ煤がぶら下がる。それをこの錨みたいなもん吊るしといて、鎖でガ~ラガ~ラガ~ラガ~ラやって落としたり、こぉ竹の棹で掃除をしたりして、下いっぱい落ちてきますわ。  まぁあれ、膠(にかわ)で固めたらあの墨になるんですけどね、そらよっぽどぎょ~さん集まらなんだら墨にはなれしまへんけども、まぁ畑に埋めたり、肥やしにはならなんだやろと思いますけども、鍋墨といぅのはみなどこの家(うち)でもゴリゴリ、ガリガリやってた。

  大根はこれはもぉ、何千年も昔から日本人の好きな野菜でございましてね、「なんか野菜を一つ挙げてください」「大根」と、もぉ一番に言ぃますわなぁ、「八百屋で売ってるのは?」「大根」皆さんすぐこぉ、大根とおっしゃる。
  まぁほんとに、スズナ、スズシロなんて、春の七草の中へ入ってますのやなぁあれ。スズナが蕪(かぶら)で、スズシロが大根やそぉですけどね、そぉいぅ歴史のある食べもんなんですが、あれをこぉ売って歩く。

 振り売りと言ぃましてね、朸(おぉこ)に荷を、前と後ろのカゴに山のよぉに大根を積み上げて、 「大根要りまへんか、だいこだいこ~・・・、大根要りまへんかな?」、「大根屋はん」、「へいッ」、「情けない大根やなぁ」、「何を言ぅてなはんねん、これ今、畑から取ってきたとこだっせ。こらもぉ一本選りの大根や、えぇ大根や」、「『えぇ大根』て、頼んないなぁ細ぉて、もひとつ美味しぃよぉに思えんけども・・・、これあんた、一本何ぼで売るつもり」、「一本、六文でお願いしとりまんねん」、「六文? それやったらあんた、そこの八百屋へ行ったっておんなじ値ぇやないか。あんた、もぉちょっと負けなはれ」、「何を言ぅてなはんねん、新しぃことこの上ない、最前畑からこぉ引き抜いてきたばっかりで、それ洗ろてサッと持って来た大根だ」、「これあんたな、前と後ろのカゴに何ぼ入ってまんねん」、「五十本ずつ・・・、口開けでんねん、まだ一本も売れてしまへんねん、百本載ってまんねん。へ、口開けでっさかい」、「口開けやったら負けたらえぇ」、「何言ぅてんねん、口開けから負けたら、そんなゲンの悪いこと・・・、口開けやからスパッと買ぉとくなはれな。へ?百本みな買う」、「あんた、この大根な『百本みな買う』ちゅうたら何ぼで売りなはる」、「ほな空になりまんねや・・・、ほなまたじきに仕入れてきて、また売れますわなぁ・・・、そらまぁ、百本みな買ぉてくれはんねやったらぁ・・・、四百文ぐらいにしときまひょかなぁ」、「はぁ~、四百文なぁ。ほな五十本で二百文やなぁ」、「へぇへぇ、まぁ勘定はそぉなりますわなぁ」、「ほな、十本で四十文やなぁ・・・、ほならなぁ、十二文で三本、これとこれとこれ持ってきて、じき銭渡すさかいな、あそこの家分かったるやろ」、「そんな殺生なこと。百本やさかい四文にしてまんねや」、「ここであんたが四文に負けてくれたら、五十本や六十本、この長屋だけで売れてしまう、『ちょっと、ご近所の皆さん。大根屋さんがな、四文に負けてくれはりましたで。えぇ大根だっせ』じきに売れるじきに売れる、三本持ってきてや・・・」、「えらい嬶(かか)やなぁ、あいつわ・・・、みんな太ぉて長いえぇやつばっかりや。こんなえぇのんばっかり持ってかれてたまるかいホンマに、この辺のやつ持ってったれ・・・ 。へッ、お家。ここ置いときまっさかい」、「あ、そこに十二文出たぁるやろ、ちょっと、ちょっと待ち。わての言ぅた大根と違うやないか。わたしの言ぅたん、もっと長ぁい太ぉいやっちゃがな」、「これかて、あっこへ持ってったら、太ぉて長ぁいえぇ大根」、「誤魔化したかてあかん。わたし今、鍋墨をかいてたんや、手ぇ墨だらけやろ、鍋墨の印が付けたぁるさかいな、黒い印の付いたやつ三本持ってきなはれ」、「えらい女ごやなぁ~・・・、わしは商売人には向いてないとは思てたけど、こんなオバハン連相手によぉ商いせんで。あ~、口は下手やし、気は利かんし・・・、もぉ八百屋やめたろ、駕籠屋なったろ」。

 この転換の仕方がまた理屈もなんにもないんですわなぁ。大根売りやめて駕籠屋になるっちゅうんだ。そら、おんなじよぉに担ぐものには違いないけどもね。ところが、大根売って歩いて要領の悪い人は、駕籠屋んなってもおんなじこってすわなぁ。ほかの駕籠屋、みな客拾ろて行ってしもてんのに、ここの駕籠屋だけ、まぁ相棒は玄人(くろぉと)やさかいしっかりしてまんねけど、これは頼んないさかい、客よぉ引きまへんねや。
 「おい、小便(しょんべん)してるあいだに、お前客の一人でも引ぃたか思たら、やっぱりボ~ッと立ってけつかんなぁ」、「いや、通らへん」、「ほかの駕籠屋みな客つかんで行ってしまいよったやないか。うちだけやないかい残ってるのわ」、「どんならんでホンマに。お前愛想がないわ、ちょっと通ってる人に声かけぇ」、「通れへんねがな」、「ついてないねや、お前はもぉ・・・、えらいやつと組んだでホンマに・・・ 」。

 「駕籠屋。堀江までやってもらいたい」、「へッ、喜んでやらしてもらいます」、「何ぼで行てくれる?」、「え~、この街道からちょっとおまっさかい、一朱張り込んだっとくなはれ」、「一朱か、すまんけどなぁ、二朱に負けといて」、「わて一朱言ぅてお願いしてまんねん」、「一朱と決めたかて、どぉせ酒手やとか走り増しやとか心づけやとかいぅてな、祝儀出さんならん『ゴジャゴジャなし、あっさり二朱で行てくれ』っちゅうねん」、「分かりましてございます、喜んで走らしてもらいます」、「そぉか、そぉと決まったらわしも分からんことは言わん、二人とも不景気な顔してるやないかい、天保銭一枚ある、これでな、茶碗酒キュ~ッと一杯ずつやっといで」、「えらいすんまへんなぁ、おい相棒お礼申せ。ほな、ちょっとキュッとやってきますよって」、「あ、よけ呑みなや」。
 「関取、もぉよろしぃ、出て来なはれ」、「駕籠屋は向こぉ行きましたかいな」、「おまはんの顔見たら何ぼ言ぃよるや分からんで、その体やがな、そらまぁ倍では済まんかも分からん。行てる間にな、駕籠に乗り込んどき、乗り込んどき」、「ほなまぁ、乗せてもらいまっさ」、「履きもんなおしてな履きもん、その雪駄見たら目ぇむきよるでお前。そぉ、そぉなおして・・・、で、垂れをちゃんと下ろしてな、そっち側も下ろして、こぉやっといたら分かれへん」、「それからな・・・、これちょっと取っといてんか」、「いやいや、いつもすまんこっておます」、「お上さんによろしゅ~な、ほんならまたいずれ、場所が始まったら会いに行くさかい」、「おおきに、今日はご馳走(ごっつぉ)はんでおました」。
 「お待っとぉさんでおました、へッ、一杯キュ~ッと引っかけてきました。あ、もぉちゃんと乗り込んではりますねや、やらしてもろてもよろしぃか?」、「あぁ、やってんか」、「お履きもんもなおってまんなぁ」、「おい、前へ回れ前へ、行くで。ヤ、ウンッ・・・、何をフラフラしてるねんお前、一杯や二杯の酒でお前何を・・・、しっかり腰切れッ! ヤッ・・・、なんぼ、元八百屋やったか知らんけどなぁおい、もぉ駕籠屋なってから十日からになんねんで、肩の真ぁ下へケツ持って行け真ぁ下へ。行くで、えぇな」、「イヨッ・・・、お、重たいなぁこれ。おい、あれ痩せぇた人やったなぁ」、「そや、どっちか言ぅたら痩せた人やったんや」、「この重さはこれ、千両箱三つぐらい、ヤッ・・・、ホンマに重たいなぁおい、おかしぃなぁ。ちょっといっぺん駕籠下ろせ」、「えらいすんまへん、ちょっと覗かしてもらいます・・・、なんや関取やないか、あんまり重たいと思た」、「はははぁ~、バレたか」、「相棒おい、中身が変わってんねやがな」、「あ~、最前の客に、墨付けといたらよかった」。

 



ことば

深山がくれ;落語「深山がくれ」、クリックすると噺の解説があります。

初代 桂南天(かつら なんてん);この人から「鍋墨大根」教わったんですけど、この人はまたちょっと変わってまして、もぉ誰もやらんよぉな変な噺ばっかりやってた人なんです。とにかく、妙な噺ばっかりやってた。
 (1889年 - 1972年9月20日)は、落語家(上方噺家)。本名: 竹中 重春。享年83。持ちネタは膨大で、小咄はほとんど無数に近いほど記憶していた。非常に芸達者な人でもあり、「諸芸十八般」(「武芸十八般」の洒落)と称し、紙切り、錦影絵、指影絵、滑稽手品、記憶術、軽口、寄席踊り(乞食のずぼら踊り)、一人喜劇などを物にし、本業の落語よりも色物として活躍することが多かった。 個人で演芸大会を開いたり、巡業中は二つの名を使い分けたりなどもしたという。戦後は噺家不足となったため、「口合按摩」「さかさまの葬礼」などの落語もよく高座に掛けた。録音は1965年頃に収録した「口合按摩」(三代目桂米朝所蔵)、映像では読売テレビの「ずぼら」の一部の映像が現存する。
 後輩の米朝は、南天に私淑して多くの稽古や聞き取りをしており、上方芸能の貴重な遺産を次代へ引き渡す役回りを担ったとも言える。ちなみに、南天が演じていた錦影絵は、口伝により現在でも米朝一門で継承されている。また遺品、写真なども米朝宅に多く保存されている。 芸人としては、いわゆる器用貧乏に終わり、生活には恵まれなかったが、それを苦にすることもなく、飄々として生涯を終えた。

鍋墨(なべずみ);鍋・釜の底についた黒いすす。
 桂米朝が言うには、昔あのオクドさんで、ヘッツイさんでご飯を炊いてた時分なんか、木をくすべますわねぇ、薪で炊くわけです。そぉすると、あんなもんで炊くちゅうと釜の底いっぱい煤が付くんです。これ、煤が付くと熱の効力が悪なりまんねやなぁ、で、ガリガリガリガリとそれをこぉ掻いた。鍋もそぉです、これ鍋墨ちゅうやつが付きますわ。これをこぉガリガリガリガリと掻き落とすんですけど、あれ「釜墨」ちゅうことは言ぃまへんなぁ、昔からあら「鍋墨」なんですね。必ずこの鍋墨は落とすんですが、煤が落ちるわけですな。

■「おくどさん」とは「かまど」のことです。京都以外の関西圏では「へっつい」と呼ぶこともあります。山陰地方ではお料理の煮炊き設備そのもののことを「おくどさん」と呼ぶ。
 京都では食べ物をはじめいろんなものによく「お」や「さん」を付けます。「おいなりさん」とか「おいもさん」、「お粥(かゆ)さん」などもそうです。「お」と「さん」の接頭語と接尾語については説明がつきますが、肝心の「くど」の語源については諸説あります。「火途(かど)」が「くど」になった、或いは「燻道(くんどう)」が訛って「くど」になった等々。竈や台所、食事の神である「久度の神」に因んでいるなど、説はいくつかあります。京町家では通り庭の中ほどか、やや奥にこのおくどさんを設え、台所とし出窓から明かりを取り入れ、炊事から出る湯気や煙を外に出すよう、天井も高くしてあります。

大根(だいこん);古名は「おおね」で大根の字が当てられていましたが、後に音読みの「だいこん」になりました。生のまますりおろせば、自然の辛みが味わえ、コトコト煮れば甘みが増す、和食においてなくてはならない食材です。 春の七草の一つに「すずしろ」と数えられることからも、日本の食卓との深い関わりが伺えます。通年出回っていますが、冬の時期の大根は甘みがより増してくるのが特徴。煮物やおでんなどに向いています。 大根は、かつては全国各地で固有のものが栽培され、200品種を超えるといわれていましたが、最近では青首大根が主流。甘みがあり、大きさも手ごろなことから、青果売場にならんでいます。一方、地方ごとに工夫された漬け物や切り干しなどの保存食として加工されたものも広く流通されるようになりました。
 大根は、生でも煮ても焼いても消化が良く、食当たりしないので、何をやっても当たらない役者を「大根役者」と呼ぶ。同じ理由で、なかなか当たりを打てない野球の打者を「大根バッター」とも呼ぶ。また極端なダウンスイングのことを「大根切り」という。

振り売り(ぼてふり);近世までの日本で盛んに行われていた商業の一形態である。ざる、木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで商品またはサービスを売り歩く様からこう呼ばれる。棒手売(ぼてふり)におなじ。

 『守貞謾稿』では、油揚げ、鮮魚・干し魚、貝の剥き身、豆腐、醤油、七味唐辛子、すし、甘酒、松茸、ぜんざい、汁粉、白玉団子、納豆、海苔、ゆで卵など食品を扱う数十種類の振売商売を紹介している。中でも「冷水売り」は“夏日、清冷の泉を汲み、白糖と寒ざらし粉の団子を加え一椀四文で売る、求めに応じて八文、十二文で売るときは糖を多く加える也、売り詞(ことば)「ひゃっこいーひゃっこい」。一椀たいがい六文、粉玉を用いず白糖のみを加え、冷や水売りと言わず砂糖水売りと言う”と紹介されている。京阪ではこれに似たものを道ばたで売っている。『守貞謾稿』や落語の題材に食品以外にもほうき、花、風鈴、銅の器、もぐさ、暦、筆墨、樽、桶、焚付け用の木くず、笊、蚊帳、草履、蓑笠、植木、小太鼓、シャボン玉など日用品や子供のおもちゃ、果ては金魚、鈴虫・松虫などの鳴き声の良い昆虫、錦鯉など愛玩動物を商う振売も紹介されており、その中には現代も残っている「さおだけ売り」や、相撲の勝負の結果を早刷りにして売る「勝負付売り」も紹介されている。 江戸幕府は、庶民の暮らしが豪華になるとそれを「身分不相応」として取り締まることが多くあり、1つ六十文もするような高級なすしを作る職人を捕らえたとある。

 食品、日用品を売るほかに、生活の中で必要なサービスを売り歩くもの、ある種の物品を買い歩くものも存在した。前者は錠前直し、メガネ直し、割れ鍋直し、あんま、下駄の歯の修繕、鏡磨き、割れた陶器の修繕、たがの緩んだ樽の修繕、ねずみ取り、そろばんの修理、こたつやぐらの修繕、羽織の組紐の修繕、行灯と提灯の修繕、看板の文字書きなど。修理用の道具や材料を入れた箱などを天秤棒にぶら下げて歩く姿は普通の振売と全く変わらない。単純に食品を売るよりも、多少の職人技が求められる。 後者は紙くず、かまどの灰、古着、古傘、溶けて流れ落ちたろうそくのカスを買い歩く。江戸時代においては紙は浅草紙等など再生紙として利用しており、買い集め溶かしてすき直し、再生した。かまどの灰は畑の肥料に使い、古着は仕立て直すか布地に再生し、古傘は張り直して使い、ろうそくのカスは集めて溶かして芯を入れ直せば新しいろうそくとして売り出すことができた。

(おおこ);物を担(にな)うのに用いる棒。物にさし通して両端を二人でかつぐものもあり、一人で両端に物をかけたり草や薪の束に突きさして担うものもある。天びん棒。
  運搬用のにない棒。両端を尖(とが)らせたものにも、天秤(てんびん)棒にもいう。

口開け(くちあけ);物の口をひらくこと。特に、物事をする一番初め。商店で、その日の最初の商売。

誤魔化す(ごまかす);都合の悪いことを隠したり、相手に分からないようにすること。 あるいは、質問などについてまともに答えないで、うやむやにすること。
 ごまかすは、江戸時代から見られる語で、漢字で「誤魔化す」と書くのは当て字。 ごまかすの語源には、二通りの説がある。 ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。 この説は、弘法大師の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからとされる。
 もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説。 「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことから、「ごまかす」と言いうようになったというものである。右写真

玄人(くろうと);技芸などに深く熟達した人。あるいは、一つのことを職業、専門としている人。専門家。くろと。
 「玄人」の語源は「黒人(くろひと)」です。平安時代、白塗りをしただけで芸のない人のことを「白人(しろひと)」といっていました。 また、囲碁の対局で下位の人が白い石を打つことから、未熟な人を「白人」といいました。「黒人」はこの「白人」の反対の意味で用いられるようになった言葉です。 「黒人」が変化して「玄人」に 「黒人」の「黒」から「玄」に変化したのは、「玄」に「奥深い」という意味合いがあるためとされています。 「白人」の読み方は時代を経るにつれて、「しらうと」から「しろうと」に変わり、文字も「素人」に変化しました。同様に「黒人」の読みも「くろうと」になり、文字も「玄人」となりました。

駕籠屋(かごや);駕籠かきを置き、客の求めに応じて駕籠を仕立てる家。また、それを営む人。
 駕籠屋は、江戸・京都・大坂に辻駕籠(つじかご。町駕籠ともいう)が、街道に宿駕籠(しゅくかご)があった。江戸市中では、延宝3年(1675)、辻駕籠300挺に限って営業を許可した。辻駕籠は、次第に増加し、正徳元年(1711)には1800挺があったが、幕府はこれを600挺に制限した。庶民が駕籠に乗ることは贅沢(ぜいたく)とされたからである。しかし、このような制限令は次第に有名無実化し、江戸時代後期には、各町に駕籠屋があって、庶民に利用されていた。駕籠の仕様は、竹を編んで作った乗り台を畳表状の覆いでかこった四手駕籠(よつでかご)が中心である。庶民用で最上級の駕籠は、四方を板張りにして一部を漆塗りとした法泉寺駕籠(ほうせんじかご)がある。これに乗るには裃(かみしも)を着ける必要があり、武家も利用したという。これに次ぐ「あんぽつ」という簡素な板張りの駕籠がある。街道を行く宿駕籠は、構造はほぼ同じであるが、覆いがない。宿駕籠は、俗に雲助(くもすけ)という人夫が担いだが、途中で法外な値段を要求したりするので、雲助駕籠とも呼ばれて嫌われた。 後に人力車が普及して駕籠はすたれ、駕籠者や駕籠舁の多くは人力車の車夫に転職した。
 右図、四つ手駕籠 歌川国貞(三代目広重)。

■堀江(ほりえ);大阪府大阪市西区南東部の地域名称。一般的に北堀江及び南堀江を指す。
 江戸幕府は天和3年(1683年)に淀川水系の河川改修を河村瑞賢に命じ、河川改修と並行して新地開発も行われるようになった。安治川開削と安治川新地、堂島川・曽根崎川改修と堂島新地が成立したのち、元禄11年(1698年)から堀江川開削と堀江新地の開発が始まった。 堀江川の名は、仁徳天皇が開いたという「難波の堀江」に由来するが、両者は場所が一致せず直接の関係はない。「難波の堀江」は上町台地北端から現在の吹田市江坂辺りまで長く伸びていた「天満砂堆」という砂州を切り開いて、当時の淀川水系・大和川水系を西流させたもので、現在の大川天満橋付近にあたる。
 元禄11年(1698年)和光寺という大きな寺が作られた。長野の善光寺は、本田善光が「難波の堀江」から金銅製阿弥陀像(欽明天皇の時代に百済の聖王(聖明王)から献呈されたが、仏教を嫌う守旧勢力によって川に投げ捨てられた)を拾い上げて故郷に祀ったことが起源とされているが、これにちなみ智善上人が「この場所こそ善光寺如来の出現の地」であると寺堂を建立した。この寺には大きな池があって真ん中に浮御堂があり阿弥陀如来をまつっていたため通称『あみだ池』と呼ばれ親しまれ、周辺は娯楽の中心となっていった。境内および周辺には講釈の寄席・浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居・軽業の見世物や物売りの店が並び、2月の涅槃会に4月の灌仏会は特に賑やかだった。富くじの興行や植木市も有名であった。なお、和光寺が立地する堀江新地北部の当時の町名・御池通や、堀江の西部を南北に貫く通り・あみだ池筋の名はこの寺に由来する。
右図、芳瀧画 あみだ池 (浪花百景)

一朱(いっしゅ);江戸時代の金貨の一種。 形状は一分金を中央から横に切断したような正方形で,日本の金貨のなかでも珍しい形である。 一朱金16枚で小判1両に換えられた。1両=4分=16朱、4進法です。1両を8万円として、1朱は現在の価格で約5千円。

天保銭(てんぽうせん);天保通宝(てんぽうつうほう)は、江戸時代末期から明治にかけての日本で流通した銭貨。天保銭(てんぽうせん)ともいう。形状は小判を意識した楕円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「天保通寳」、裏面には上部に「當百」と表記され、下部に金座後藤家の花押が鋳込まれている。素材は銅を主成分とした合金製で鉛や錫なども含んでいる。重量は5.5匁(約20.6g)。サイズは縦49mm、横32mm程度である。
 天保6年(1835年)に創鋳された。貨幣価値は100文とされ、当百銭とも呼ばれたが、実際には80文で通用した。いずれにしても質量的に額面(寛永通宝100枚分)の価値は全くない貨幣で、経済に混乱を起こし偽造も相次いだという。明治維新後も流通したが、明治24年(1891年)12月31日を最後に正式に通用停止となり、明治29年(1896年)で新貨幣との交換も停止となった。新通貨制度では天保通宝1枚=8厘(寛永通宝銅一文銭1枚=1厘)と換算され、1銭に足りなかったために、新時代に乗り遅れた人やそれに適応するだけの才覚の足りない人を揶揄して「天保銭」と呼ぶこともあったという。

 上、天保銭表裏。

千両箱三つ(せんりょうばこ みっつ);千両の銭貨を入れておく木製又は金属張りの箱。 ミカン箱を小さくした大きさ。10両盗むと首が飛ぶ時代に、100人分の首の重さがあったのでしょう (^_-) 。 千両箱というのは、25両包みの小判が40個入った木箱でした。箱のサイズ、幅約25cm、長さ約50cm、深さ約13cm。重さは、約4kg。ただ、これは箱の重さだけ。中身がキッチリ詰まった千両箱は、小判100枚(百両)はおよそ300匁、つまり1125gとされているから、千両箱の中身はその10倍で11250g(11kg強)になります。これに箱の重量を加えれば、13~14kgという重さになります。また、小判だけではなく二朱金を詰めたものもあった。小判や金貨の種類によっては20kgありました。  (造幣博物館にて)
 江戸東京博物館でも形は違いますが、同重量が有ったと言います。どちらにしても三つ合わせても14kgX3=42kg、子供の体重ぐらいしか有りません。

   千両箱、江戸東京博物館蔵。



                                                            2022年3月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system