落語「遺言」の舞台を行く
   

 

 

 原作:小佐田定雄

 桂雀々の噺、「遺言」(ゆいごん)より


 

 身内なんか集まりますと個性豊かなキャラクターがですね、親戚のこの、人の集まりなんかでも、皆さん方のまぁ、ご親戚にもいらっしゃるでしょ、個性豊かなね、えぇそらもぉ。

 「はいはい、どちらさんですかいな?」、「この度はあの、親父のことでいろいろお世話になりました、あの、東京へ行とりました吉松でございます」、「えぇ、吉松、あらッ、吉松、吉っちゃんかいな、こっち入っといなはれ」、「お邪魔いたします・・・。家主さん、この度はいろいろと親父のことでお世話になりまして・・・ 」、「こないだうちからさぁ、『頭が痛い、なんじゃ風邪気味や』とは言ぅとったんじゃがな、それでも休まんと仕事してたもんやさかい、とぉとぉなぁ、こじらせてよぉなかったんじゃがな。で、すぐにあんたとこ、東京へ手紙を送ったんじゃがな」、「その手紙をもらいまして、すぐに飛んで帰ってきたよぉなわけでございまして・・・。うちの親父ちゅうのは、去年の暮れでしたかいなぁ、手紙をもらいましてね、『いっぺん大阪へ戻ってこい。お前に一言いぅておきたいことがある』とか何とかいぅてね」、「何じゃ、その『言ぅて聞かせておきたかった』ちゅうのは?」、「あの~、家主さん、何ぞ聞ぃてもぉてやございませんか」、「いやいや、わしゃなんにも聞ぃてないで、そぉじゃそぉじゃ、あとで親類の人が何人か来てはったで、家(うち)にもご挨拶にみえはったがな、ご丁寧に」、「そぉでございますか、誰が来てたか、てなことお分かりやございませんか?」、「親父さんちゅうのが、親類付き合いちゅうもんしはらへんかった人やろ、わしもな、初めてお目にかかる人ばっかりやった」、「あの、男か女か?」、「そぉそぉ、女の人やったわいな。口の端に大ぉきぃホクロのある人が・・・」、「あぁ、お松っつぁんのオバハンですわ」、「知ってんのかい?」、「小さい時分可愛がってもろてたんです」、「しかしまぁあの人、面白い人やなぁ」、「よぉしゃべる?」、「しゃべるてなもんじゃありゃせん、あの人が臨終の場へ顔をフッと出しただけで、パ~ッと明るなったなぁ」、「分かりました。ほな、これから行てまいりますんで」、「吉っちゃん、お前さんちょっと落ち着きなされ、全然変わってへんなぁ昔から。親父が言ぅておきたかったことちゅうのを聞ぃてくるてかい」、「どこやオバハン?『あぁ、玉造か?』気ぃ付けてな」、「分かりました、行てまいります」。

 「まぁえぇわい、玉造のオバハン久しぶりやねんホンマになぁ、小さい時分なぁ、何年ぶりやろなぁ、元気にしてんのかいな。この路地(ろぉじ)入ったとこやねんけど、オバハンいてるかなぁ? 久しぶりやなぁ、ごめん、こんちわ、いてはりますか」。
 「はいはいはい、んまぁ、まぁまぁまぁ~ッ、誰やと思たら吉っちゃんやないかいな。いやぁ~、久しぶりや、ご機嫌さん、元気? うわぁ嬉しぃわぁ、こっち上がっとぉ、お清、お清、お茶入れてんかいな・・・、久しぶり、元気やった? げんき? お茶、そこ置いといて。あんたこの子知らんやろ? 去年から来てくれてもろてんの、前のさぁおなべな、あの子もえぇ歳になってたんや、ずぅ~ッと一人身やったんや、わてのために嫁に行けへんよぉな気がして気ずつのぉ思てたん。それがさぁ、去年の春、『お家さん、ちょっと折り入ってお願いがおますのん』、『何やねん、えらい改まって?』、『実はわたし、縁談が・・・』、『結構なこっちゃないかいな』、『この歳になってお恥ずかしぃ』、『何を言ぅてんねんな、縁談にこの歳もあの歳もあるかいな、どぉいぅことになったぁんねん?』、『実は、お互いに郷(くに)にいてる時分から、男のほぉが大阪で一旗上げてから一緒になろちゅうて約束してくれたん。そらまぁ、一旗までいかんねんけれど、何とか養のぉてやれるよぉになったさかい、一緒にさせてもらわれしまへんやろか?』、偉いやろ、どぉ思う、どぉ思う? そやろ、ほかの男やの女ごはんに、お互いわき目も振らんと何年も待ってたんやて、わて嬉しぃて嬉しぃてな、ハハハハ、ハハハハ、ハハッ・・・ 」、「あの、実は今日ちょっとあの、改めてお尋ねしよと思いまして・・・」。
 「あんたら長屋へ家移りしてから、家替わってから何年なる? こっちも忘れるっちゅうことないねんけど、さぁ、貧乏暇なしちゅうんでな。兄さんあのとおりの気性やろ、もぉあんた、滅多に親戚付き合いちゅうもんしはらへんかった人やがな。 もぉ何年なる、今の家? はぁはぁ、五年? 六年? 七年? えッ、なに? まぁ、まぁまぁまぁ、十年にもなるかいな、いややの。ほな、わてもえらいお婆ぁさんになってしもてから、ハハハハ、ハハッ・・・。そぉそぉ、お婆さんちゅうたら、この裏手に住んでなはった妙香はん、あの時分まだ姉さんが生きてはったやろ、あんたよぉ一文菓子もろて、食べてた。あの時分な、まだ姉さんカンショ病みときてるがな、『あんな汚いもんもろて、うちの吉坊が病気にでもなったらどないしてくれんねん』て、嫌ろてたお婆さん。一昨年(おととし)の暮れやったかいなぁ、掛けたぁった頼母子講(たのもしこう)が当たって、『やったぁ~ッ』飛び上がったひょ~しにコテンッ! 逝てしもて、頼母子講のお金でえらい盛大な葬式出してしもてから、わて気の毒やらおかしぃやらで、ハハハハ、ハハッ・・・」、「昔よりひどなってる・・・。オバハン、ちょっと落ち着いて聞ぃてもらえますか。うちの親父のことで・・・」。
 「そぉそぉ、急なこっちゃたなぁ、わて、もぉ気の毒で気の毒で、よぉ見てられなんだわ」、「その時に・・・」、「はぁ? うん、まぁ? うん・・・、いいや、そんな手紙・・・、あぁそぉかいな、なるほど、確かにな、わたし臨終の場にいててんけどな、わたしがちょ~どオシッコ行ってるうちにコテンッと逝きはってん。なんも聞ぃてへんのん、ごめんな」、「ほかにその場にいてはったんは?」、「川口のお兄さんがいてはったわ。そぉそぉ、川口のお兄さんちゅうたら、あそこの一人娘のおヨネちゃんなぁ・・・」。

 「さいならぁ~・・・、あかんわ、帰ろ帰ろホンマにもぉ。待てよ、川口のオッサン、かなんなぁ、うちの親戚はもぉなんか知らんけど濃いぃわぁ。昔から、子ども時分から恐かったんやがな。子どもに対してパンパンパンッと物言ぅてな、もぉ愛想もこそもなかったんや。もぉ気が短じこぉて、嫌やねんけども行かないかんわい。川口か、ホンマにもぉ」。
 「いてるかな・・・、あの~、お邪魔いたします、こんちわ、ごめん」、「どいつじゃいッ」、「あの、わたいでやす」、「『わたい』で分かるかいッ」、「あの~、吉松です」、「帰ったんかいッ」、「へぇ」、「何やッ」、「あの~、親父の遺言」、「聞ぃてへんわいッ」、「ほかに、誰ぞ?」、「住吉の兄貴じゃッ」、「さいならぁ~」。

 「早いなぁおい、そんな人おるかおい、『久しぶりや、茶ぁでも飲んでいけ』言ぅやろホンマに。それが普通やないんかい、うちの親戚は普通のもんおらんなホンマにもぉ。待てよ、住吉て・・・、玉造から川口、住吉て、大阪の町マジに走り回ってんのかこれ、えらいこっちゃがな、住吉の・・・、あ~あ、もぉかなんであのオッサン、もぉ若いときから何や知らんボケてたんか知らんけど、おんなじことくどいんや。ホンマに行かなしゃ~ないわい、あのオッサンしかおらんもんなぁ。住吉かい、住吉、住吉・・・、ホンマにうちの親父何が言ぃたかったんやホンマに。早よ金残してるてはっきり書いといてくれよ、ホンマにどこにあるか。あぁあぁあぁ、住吉や」。

 「ごめん、こんちわ、オッサンこんちわ、お邪魔します」、「はいはい、ちょっと待っとくなされや、はいはい・・・、あのぉ、どちらさんでございますかいなぁ」、「あの吉松でございます」、「吉松、きちまつ、吉松さんでございますか?はぁはぁ、吉松。どちらの吉松さんでございますかいな? すぐ思い出しますよってな・・・。えらいすんませんが、どちらの吉松さんでございますかいなぁ?」、「あの、源兵衛の倅(せがれ)の」、「はいはい、源兵衛。源兵衛ちゅうたら、そらわしの弟やが・・・、あんたはんは」、「その、せがれの吉松でございますがな」、「嬉しぃなぁ、よぉ帰ってきなさった。ちょっと待っててや・・・、お小夜、お小夜。吉坊が帰ってきた吉坊が。あの源兵衛とこの、東京行ってたんじゃがな、東京から、いや大きなって分からなんだ、吉坊じゃ。この子はなぁ、羊羹が好きやったでな、羊羹分厚っつぅ切ってこっち持ってきたっとぉくれ・・・、お小夜、お小夜・・・、おれへんのんかいなぁ? そぉじゃそぉじゃ、婆(ば)さんはな、昼ちょっと過ぎてから、『爺さん、住吉っさんのほぉへお詣りしてきます』ちゅうて出かけたんじゃ、そぉじゃそぉじゃ。羊羹は堪忍してや」。
 「羊羹どぉでもよろしんだオッサン、今日寄してもらいましたん、実は親父のことでございまして」、「そぉじゃがな、急なこっちゃったよってなぁ、お前さんもビックリしたじゃろぉと東京で。そぉかそぉか、いやまぁまぁ心配もひと通りやなかった、でもまぁまぁ、よぉ帰ってきなさったなぁ、嬉しぃでわしは。ちょっと待っててや・・・。お小夜、お小夜・・・、吉坊が帰ってきたで吉坊が、いやいや、源兵衛とこのせがれ、吉坊じゃ吉坊じゃ、そぉじゃそぉじゃ、見違えて分からなんだ、大きなってなぁ。この子は羊羹が好きやでな、羊羹分厚つぅ切ってこっち持ってきたっとぉくれ・・・。嬉しぃなぁ、ちょっと待っててや・・・、お小夜、お小夜・・・、おれへんのんかいなぁ・・・? そぉじゃそぉじゃ、婆さんは昼ちょっと過ぎてから、『爺さん、住吉っさんのほぉへお詣りに行てきます』ちゅうて出かけたんじゃ、そぉじゃそぉじゃ、羊羹は堪忍してや」。
 「羊羹よろしぃねんオッサン。今日寄してもらいましたん、親父のことでございまして、手紙もらいまして、『わたしに言ぅておきたかったこと』ちゅうのん・・・」、「言ぅてぇでかいな、そらもぉ親子やもんなぁ、ちょっと待っててや。お小夜、お小夜・・・」、「オッサン、何しゃべってはりまんねんあんた? 婆さんはね、昼ちょっと過ぎてから、『爺さん、住吉っさんのほぉへお詣りに行てきます』ちゅうて出かけたんと違いますか?」、「はいはい、『住吉さんへお詣り』よぉ知ってるなぁ、聞ぃてたんかいな、羊羹は堪忍してや」、「羊羹よろしぃねがな、ホンマにもぉ。お願いいたします。思い出しとぉくなはれ、わたい、親一人子一人でんねん、お願いします、『わたいへ言ぅておきたかったこと』ちゅうのわ?」、「そぉじゃそぉじゃ、ホンマやで気の毒で、もぉなぁ、あのときは大変じゃったなぁ。ホンマやで、そらなぁ、心配もひと通りやなかったやろなぁ、そら本人も悟ってたんやなぁ。お布団から細ぉい手ぇ出してな、『これだけは兄貴の口から吉松のやつに言ぅてやってもらいたい』ちゅうてな」、「親父の遺言は何でんねん」、「しっかり聞きや、ホンマやで。本人も悟ってたんやなぁ。お布団から細ぉい手ぇ出してな、『これだけは兄貴の口から吉松のやつに言ぅてやってもらいたい』いぅてな」、「その親父の遺言は何でんねん?」、「しっかり聞きや。本人も悟ってたんやなぁ・・・、お布団から細ぉい手ぇ出してな、『これだけは兄貴の口から、吉松のやつにやで、言ぅてやってもらいたい』ちゅうて・・・、しっかり聞きや。なぁ、その言ぅてやってもらいたいっちゅうのはな・・・。何やったかいなぁ? 何やったかいなぁ? そぉやそぉや、忘れた」。
 「わたし、洒落や冗談でこんなことしてるんやおまへんであんた。東京で手紙受け取ってから、もぉワラジも脱がんと走りづめでんがなあんた。頼んまっせ早よ、ここで三軒目だ、頼んまっせ思い出しとくなはれ、早よ思い出しとくなはれ」、「分かった分かった、分かった、ハイハイ。思い出した、今ので」、「思い出した?」、「思い出した・・・、お前さん気が短いやろ。『あんまり、イライラしたらあかんわ』言ぅてたわ」。

 



ことば

桂雀々(かつら じゃくじゃく);(1960年8月9日 - )は大阪市住吉区我孫子出身の上方落語家。師匠 二代目桂枝雀。既婚で、一女一男あり。通称「けい じゃんじゃん」。本名:松本 貢一。右写真。
 1977年6月1日に桂枝雀に入門。同年10月の名古屋雲竜ホール(現在のDIAMOND HALL)「枝雀独演会」にて「浮世根問」で初舞台。2005年2月19日より、一門や所属事務所の異なるメンバー6人で開催している「RG研進会」(現「新鋭・上方落語会」、MZ研進会に由来)発起人。 「ぎんざNOW!」の縁で関根勤・小堺一機が所属する浅井企画とも契約していた時期があり、TBSラジオ「コサキンDEワァオ!」にときおり出演、横山ノックのものまねで関根、小堺を喜ばせた。
 2011年10月より、「大阪でやれることは全てやった、51歳をきっかけにリセットして東京で勝負したい」という思いから、住居と活動拠点を東京に移し、長らく所属であった米朝事務所も離れた。東京では2DKのマンションで娘と二人暮らし(妻と息子は大阪在住)。娘の麻生唯はタレントとして活動している。 2017年、芸歴40周年を迎える。記念公演「地獄八景亡者戯2017」を東京国際フォーラムにて開催。特別ゲストに、入門当時から親交があり、落語家の先輩でもある明石家さんまが出演。さらに、落語中にシークレットゲストとして、サザンオールスターズの桑田佳祐が出演。連続テレビ小説の「ひよっこ」で使われていた主題歌の「若い広場」を初披露した。

遺言(ゆいごん);人が自分の死後、その効力を発生させる目的で、あらかじめ書き残しておく意思表示。
 遺言が法律上の効果を生じるためには、民法の定める一定の方式に従ってなされることを要する(→遺言証書。960条)。遺言でなしうる行為は、認知、後見人の指定、相続人の廃除、遺贈、寄付行為、相続分(→相続)の指定、遺産分割方法の指定、そのほか法律で定められているものにかぎられ、それ以外の事項に関するものは法的効果を生じない。遺訓、遺誡などの道徳的内容のものは法律上の遺言ではない。満15歳に達し、意思能力のある者は独立して遺言をすることができる(961、962、963条)。ただし、成年被後見人(→成年後見制度)が遺言をするには医師2人以上の立ち会いを要する(973条)。なお、遺言の内容を実現するため特別の行為が必要なときは、遺言執行者が置かれる(1006条以下)。
 この噺のように、 死後のために生前に言いのこすことばは、民法の中では規制されていない。

家主さん(やぬしさん);長屋の管理を任されている管理人。
 そのよび名から長屋の持ち主のように思われがちですが、じつは土地・家屋の所有者である地主から、長屋の管理を任されている使用人で、家守(やもり)、大家(おおや)、差配(さはい)ともよばれていました。現代で言う管理人です。豊かな地主は多くの長屋を持ち、それぞれに大家を置いた。  その仕事は、貸借の手続き・家賃の徴収・家の修理といった長屋の管理だけでなく、店子と奉行所のあいだに立って、出産・死亡・婚姻の届け出・隠居・勘当・離婚など民事関係の処理、奉行所への訴状、関所手形(旅行証明書)の交付申請といった、行政の末端の種々雑多な業務を担当していました。  それだけに店子に対しては大いににらみをきかせ、不適切な住人に対しては、一存で店立て(強制退去)を命じることもできました。  大家の住まいは、たいてい自分が管理する長屋の木戸の脇にあり、日常、店子の生活と接していましたから、互いに情がうつり、店子からはうるさがられながらも頼りにされる人情大家が多かったようです。
(「大江戸万華鏡」 農山漁村文化協会発行より) 落語「持参金」から孫引き。

玉造(たまつくり);大阪市中東部、大阪城の南東一帯の地区。中央区、天王寺区にまたがる。地名は、古代玉作部が勾玉 (まがたま) をつくったところと伝えられることに由来。古くから交通の要地で、江戸時代は奈良街道を利用しての伊勢参詣路の起点としてにぎわった。現在は機械器具、雑貨などの中小規模の工場が立地。
 職住混在地域で、上町台地に展開する文教地区の一画を占める。西区の川口と並んで大阪市街におけるキリスト教の布教拠点となった地で、ミッションスクールが多い。
 玉造駅(たまつくりえき)は、大阪市天王寺区玉造元町および玉造本町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の接続駅となっている。

気ずつない(気術無い);切ない。苦しい。気がねな。気づまりな。気持ちが絶え難い。

一文菓子(いちもん がし);子供が買えるような最安値の駄菓子。
 昭和の頃までは近所の駄菓子屋で売られていましたが、消費税の導入とともにお店はめっきりと減ってしまい、今ではコンビニやスーパー、ショッピングモールなどで売られるようになりました。 駄菓子屋の菓子がそのままむき出しだった頃の不衛生なイメージは今はなく、小分けに包装され、レジで読み込むためのバーコードもついています。「駄(ダ)」という文字には値打ちのない、粗悪ななどの意味がありますが、なぜそんな風に呼ばれるようになったのでしょうか。 駄菓子の歴史をたどっていくと、江戸時代までさかのぼります。 白砂糖で作られた高級な「上菓子」に対し、麦・ひえ・あわ・豆・くず米などに飴(あめ)・黒砂糖などをあしらって作った安価で大衆的な菓子が「駄菓子」で、江戸時代にはまだ「雑菓子」「番太郎菓子」「一文菓子」などとも呼ばれていました。
 駄菓子事典 https://dagashijiten.com/history/

カンショ病み(癇性病み);大阪弁で、異常な程の清潔好きを『かんしょやみ(癇性病み)』と言う。
 大辞泉によると 癇性かん‐しょう〔‐シヤウ〕【癇性/癇症/疳性】[名・形動]
 1 ちょっとした刺激にもすぐ怒る性質。激しやすい気質。また、そのさま。「―な(の)子供」
 2 異常に潔癖な性質。また、そのさま。神経質。「―に部屋の隅まで掃除する」 。

頼母子講(たのもしこう);金銭の融通を目的とする民間互助組織。 一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。 頼母子。

川口(かわぐち);大阪市西区の町名。西から南は本田、東は木津川を挟んで江之子島、北は安治川を挟んで福島区野田および北区中之島にそれぞれ接する。この地が大阪湾と大阪市街を結ぶ二大水路である安治川と木津川の分岐点に位置していることから用いられた通称であることに由来する。
 地内に駅はなく、最寄り駅は木津川を越えた東側の大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の阿波座駅。

住吉(すみよし);住吉は大阪南部に位置する緑豊かな地区で、その地名は長い歴史を持つ住吉大社にちなんでいます。象徴ともいえる反橋は、大社内の穏やかな池に架かる木造の橋。長居公園には陸上競技場とサッカー スタジアムがあり、大和川の緑地はジョギングや散歩をする人に人気です。近くのカフェや書店、おしゃれなバーは大阪市立大学杉本キャンパスの学生で賑わっています。
 上町台地の南部、大阪市の最南部に位置し、大和川を隔てて堺市の堺区・北区と隣接している。6本の鉄道、あびこ筋とあべの筋の2本の主要道路が、いずれも都心部と南北に結ばれている。区の北部は、阿倍野区南部から続く住宅街で、阿倍野区の帝塚山一丁目から住吉区の帝塚山中、帝塚山西とお屋敷町となる。その南に位置する住吉大社を中心にした住吉、上住吉は、旧家の多い昔からの静かな住宅地域であり、その周囲に清水丘、墨江、遠里小野、南住吉、山之内などの勤め人階層の多い住宅地が続いている。

住吉っさんのほぉへお詣り;お小夜婆さんが行っていた神社。住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。
 大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の一つである。下図。

第一本宮 底筒男命(そこつつのおのみこと)
第二本宮 中筒男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮 表筒男命(うわつつのおのみこと)
第四本宮 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) 

大阪のおばちゃん;おせっかいでヒョウ柄の服を着て、大阪弁で人の話の中に割り込んできておしゃべり、飴ちゃんあげる、と言うイメージがあります。これは私東京人から見たイメージですが・・・。



                                                            2022年5月記

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