落語「茶目八」の舞台を行く
   

 

 桂小米(枝雀)の噺、「茶目八」(ちゃめはち)より 江戸落語「王子の幇間」


 

 いろいろと職業にもありますが、中にはこの良家、えぇお家(うち)へ出入りいたしまして、ベンチャラ言ぅたり、また、なぶられたりして、まぁこれをお商売にしている、生活の糧にしている、こぉいぅ人があります。これを俗に『野太鼓』と言ぅんやそぉですが・・・。

 「お花・・・、あの茶目八、この頃こっち来よらんかえ?」、「この頃ちょっともこっちまいりませんねやわ」、「あいつ来よってもな、あんまり相手にしなや。ちょっと盗人の気があるよってになぁ」、「さよか、へぇ~」、「うちへ大掃除の手伝(てった)いに来よったんや、あれからわしの新しぃほぉの靴が片方(かたっぽ)があれへんねや。四、五日して茶目が来よってな、『え~、旦さんとこにえぇ靴が片っぽあるそぉでおますが、右ですか、左ですか?』と、こぉ言ぃよるさかいな、『右や』ちゅうたら、『そらちょ~どヨロシおますわ、わたしの甥がこないだ左足を怪我して、今、右より足に靴が履けまへんので、やってもらえまへんやろか?』と、こない言ぃよるさかいな。一週間ほどしてな、『旦さん、舶来のえぇ靴が一足、出物でおまんねやが、買ぉてもらわれしまへんやろか?』言ぃよってな、出物の靴みたいなもん嫌やけど、履いてみたらこれが足にピッチリ合うねがな。そらわたしの足に合うはずやがな、わたしが注文さしてこしらえさした靴や。それをまた一足にして、しかも本人のわたしに売りつけるやなんて」、「んまぁ~、ひどいことするやつですこと・・・、旦さん、噂をすれば影とやら、今、お向かいさんで大きな声でおしゃべりしてるのん、あれ茶目八の声と違いますか?」、「そぉいぅと茶目の声やなぁ、よしッ、ここに来よんねやろ、茶目が来よったらな・・・」、「はぁはぁ、はぁ、はぁはぁはぁはぁ・・・、へぇ~へ、分かりました」。

 さぁ、旦那と二号はんが打ち合わせをして、旦那のほぉは奥のほぉへ入ってしまいます。しばらくすると・・・。 「こんちわ。これわこれわ奥さん、また今日は一段とお美しゅ~ございます。え~、いつに変わらぬ美し・・・、ん、今日はちょっとご機嫌がうるわしゅ~ないよぉでおますが?」、「機嫌も悪いやろかいな、あんたうちの旦さんをどぉしたんや?」、「異なことを承りますが、旦さんどぉか遊ばしましたんか?」、「とぼけなはんな。あんた、こないだ、うちから旦さん引っ張り出してやったやないか」、「へぇ、こちらからお供して表へ出ましたですなぁ」、「あれから旦さん、いっぺんもこっちへ帰ってないやないか」、「あらもぉだいぶ前のことになりますねやが?」、「どぉせあんたがしょ~もない女ごでもへばり付けたんやろ」、「めっそぉな、わたしが左様なことするよぉな」、「人間やがな」、「しかし、あらもぉだいぶ前になりますねやが」、「あの旦さんには飽きがきてんねんやさかい」、「何のかんのて、口ではそぉおっしゃってますけども、そぉでおますかいなあんた、男前はえぇわ、金はあるわ・・・」、「けど、わては旦さん、変わりもんやさかい嫌い」。
 「えらいこと言ぃなはった。わたいもえらい目ぇに遭ぉてまんねがな」。

 「朝早よぉにうちの戸をドンド~ンと叩く人がおまんねん。開けてみたら旦さんが立ったはりまんねん、『旦さん、こんな早よぉから何事です?』ちゅうたら、『茶目、何も言わんとわしにちょっと付き合え』こぉおっしゃるもんでっさかいな、こら朝から一杯いただけんねやなと思て、表出ました。自動車にも電車にも乗らんと、南向いて歩きはりまんねや、『旦さん、どちらまでお供しまんねん?』ちゅうたら、『黙って付いといで』かれこれ一時間歩きました。アベノ橋まで出てきました、かれこれうちから四キロおまんねや。はは~ん、中華料理屋で一杯よばれんねやな、思てますとな、『突撃ぃ~ッ』ちゅう号令がかかりました。『いつもの行きつけの中華料理屋までですか?』ちゅうたら、『いや、あの電車と競争で、住吉神社までや』、『もぉそんなアホな』ちゅうたら旦さんが走ったはんのに、こっちも走らんわけにいかんわ、もぉ住吉神社へ着いたらヘトヘトですねや。ほたら、『反り橋上がれぇ~』ちゅう号令ですわ。わたいも上がろとしたが、足が滑って上がれまへんわ、そらそぉやわ、朝の早よぉから飲まず食わずで走りづめの歩きづめでっしゃろ、腹がペコペコに減って足が上がりまへんがな。旦さんサンドイッチ出して食べたはりまんねやがな。『旦さん、わたいにもチトおくなはれ』ちゅうたら、『もぉ、終いや』て、そんな殺生なことがおますかいな、『わてもぉ、腹ぺこでどないもなりまへんで』言ぅたら、『よし、腹大きしたる、付いてこい』、行きつけの、あの双葉ちゅう料理屋の二階へ上がりました。ツ~ッと襖開けるちゅうと、卓袱台(しっぽくだい)の上に天丼が十杯と親子丼十杯がザァ~ッと並んでまんねん、『さぁ、これ食え』、『わぁ~、いただきます、ごっつぉはんで』食べよぉと思て箸取ったら、『ちょっと待て。これひと箸でも付けたら、全部食べてしまわな承知せんぞ』と。もぉそんなあんた、わたいが何ぼ大食いかて、天丼十杯と親子丼十杯がどぉして食べられますねやな、しかしお腹が空いたぁるもんやさかい、『いただきます』て、食べた食べた。天丼三杯と親子丼二杯半食べましたんで。ほと、盃洗の水パ~ッとほかしてしもぉて、そこへ酒をなみなみと注いで、『さぁ、この酒呑め』もぉ、そんな殺生なあんた、丼いただくのんならいただきまっせ、もぉ丼がここんとこまできてまんねがな、『とてもやないが、このお酒はよぉ呑みません』ちゅうたら、『ん? お前、この酒よぉ呑まんか?』。いつも差してはる、あのプラチナの指輪をシュッと抜いて、盃洗の中へポチャ~と浸けはった。わて、酒は呑みとないけど、その指輪が呑みたいがな、『いぃえ、いただきます』て、目ぇつぶってグ~ッと呑んだ。口ん中へ入った指輪出して見たら、夜店で売ってるオモチャの指輪や、『そんな殺生なことがおますかいな』言ぅたら、『よし、すまん、すまん』ちゅうて、懐から紙入れ出して、手の切れるよぉな千円札ピャッピャッピャッピャッピャッ、五枚紙に包んで、『おい、これ取っとき』ポ~ンとくれはった。ありがたかったなぁ、わて、喜んでいただいて帰ってうちで開けたら、一円札が五枚入ってまんねん。通れへんがな今日日(きょ~び)、しかし、これをどこですり替えはったんやら、手品が上手いのなんの」。

 「ひどいことする人やこと。わてもそんなえらい目に遭わされんあいだに、ほかの旦那に乗り換えてしまお思てんねやわ」、「へぇ、そらえぇ考えでおますなぁ。それやったら任しといとくれやす。時計屋で、男前はえぇし、金はあるし、気前はえぇし・・・」、「男前はな、浮気もんが多いさかい、わてもぉ懲りてんねやわ。顔もありさえすりゃえぇねやさかいに」、「顔のない人間がおますかいな」、「お金よりな、よぉ気心の知れた人で、ちょっとこの盗人の気のある人がわて好ましぃの」、「そらまた変わったご注文でおますなぁ」、「この気があったら、小遣いに不自由ささんやろ」、「打って付けのんがおますわ」、「そぉ? どこに?」、「『どこに』てあんた、ここに」、「『ここに』っちゅうと?」、「わたいでんがな」、「ほなもぉあんたに決めとこか」。
 「ほなもぉ御意(ぎょい)の変わりません内に・・・」、「な、な、何をしなはんねん。今日何曜日や思てなはんねん? 旦さんの来はる日ぃやないか、旦さん、ここ来はったらどないすんのん?」、「ほんに、こらいけまへんなぁ、こらちょっとホテルに」、「な、何を言ぅてなはんねん。未練残さんと、こっから二人で駆け落ちしよやないか」、「『かけおち』こらまた洒落ておまんなぁ。へぇ、行きまひょか」、「わて、旦さんに預かったもんがあんねんけど、あれどぉしたもんか知らん?」、「といぃますと?」、「へぇ、金の延べ棒と銀の塊やねやわ」、「そんなもん置いとくことがおますかいな。行きがけの駄賃、もろて行きまひょ、どこにおまんのん?」、「そこのな、押入れに入ったぁる、柳行李(やなぎごぉり)の中に一反風呂敷に包んで」。

 「これでおますか? いきまひょいきまひょ」、「そぉかて、重たい」、「いや、重たいぐらいのこと、何でもおまへん・・・、重たいけど、これだけあったらあんた、何でもじきに買えまっさかいね、何も未練残すことおまへんで。いよッとしょッと、よッこらせ・・・、さッ、行きまひょ」、「ちょっと待っとぉ、この三味線なぁ・・・」、「三味線、もぉ置いときなはれ、何ぼでも新しぃのん買えまんがな」、「せやけどな、これ命より大事にしてるもんやさかいに」、「難儀やなぁ、こっちかしなはれ、左の手で持って行ったげまっさ。早よ行きまひょ、早よ行きまひょ」、「ちょっと待っとぉ、この鉄瓶なぁ・・・」、「鉄瓶やみなほっときなはれ」、「お父さんの形見やさかい」、「こっちかしなはれ、右の手で持ったげまっさ。早よ行きまひょ、行きまひょ」、「ちょっと待っとぉ、この三面鏡なぁ・・・」、「もぉ、そんなかさの高いもんあんた」、「お母さんの形見やさかい」、「ん~ん難儀やなぁ、ほなこの風呂敷包みの上へ乗せなはれ。それで、ちょっと紐で胴括りして落ちんよぉにしなはれや。さッ行きまひょ、行きまひょ」、「ちょっと待っとぉ、この柱時計なぁ・・・」、「もぉ、そんなもんほっときなはれあんた、何ぼでも新しぃのん買えまんがな」、「そぉかてこれ、記念の時計やさかいに・・・、これな、こぉして紐で括ってあんたの首からこぉ掛けさしてもらうわ」、「何をしなはんねんあんた・・・」、「面白い恰好になったわ、ちょっと旦さん、ちょっと見てやっとくなはれ・・・」。
 「よぉ~、茶目八ッ」、「わぁ~ッ、旦さん」、「何じゃい、またいっぱい掛けられたんかいな? こぉらまたお前、えらい重たそぉに何担いでんねん?」、「何担いでるてあんた、金の延べ棒と銀の塊でんがな」、「アホ言え、そら漬けもんの重石(おもし)が二つ入ったぁんねがな」、「何じゃ重たいと思たがな・・・」、「茶目、いっぺんお前の姿、それ、鏡に映してみ。まるで火事の焼け出されやで」、「あ~、火事の焼け出されか・・・。 顔から火が出ましたんや」。

 



ことば

初代 三遊亭 圓遊(嘉永3年5月28日(1850年7月7日) - 明治40年(1907年)11月26日)は明治時代に活躍した江戸小石川小日向出身の落語家である。本名は竹内金太郎(たけうち きんたろう)。
 大きい鼻で知られており、「鼻の圓遊」ともよく呼ばれていた。寄席において、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。大きな鼻をもいで捨てるような振付けから「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸が「ステテコ踊り」の異名を得る。このために「ステテコの圓遊」の名で呼ばれるようになった。
 この『王子の幇間』(おうじの たいこ)は彼が一時期幇間をやっていたので創った噺だと言われています。これを上方に移して演じたのが「茶目八」です。

二代目 桂 枝雀二代目 桂 枝雀(かつら しじゃく、、1939年8月13日 - 1999年4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家。出囃子は『昼まま』。本名:前田 達(とおる)。 1961年(昭和36年)4月に「十代目桂小米」として正式に三代目桂米朝に弟子入りして基本を磨き、その後二代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓し、師匠の米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となった。高い人気を保っていた中でうつ病を発症し、1999年に自殺を図って意識不明となったまま死去した。

野太鼓(のだいこ);野幇間。 内職で太鼓持ちをする者。素人の太鼓持ち。転じて、芸がなくて、ただ客の座をとりもつだけの太鼓持ちを卑しめて呼ぶ語。町太鼓、野幇間(のほうかん)。

 幇間(ほうかん、たいこ)は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業。
 太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。 専業の幇間は元禄の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。 現在では東京に数名と岐阜に1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。

  

 台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院鎮護堂には1963年に建立された幇間塚(上写真)がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい たますけ)が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。悠玄亭玉介本名、直井厳、1907年5月11日 - 1994年5月4日。右絵;山藤章二画)。
 正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5-6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。 芸者と同じように、芸者置屋に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に接客した。
 一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。
 「幇間もち揚げての末の幇間もち」

 落語の世界にも幇間は多々登場します。
 『百年目』、『松葉屋瀬川』、『阿三の森』、『山号寺号』、『成田小僧』、『王子の幇間』、『搗屋無間』、『木乃伊取り』、『ふぐ鍋』、『たいこ腹』、『無筆の女房』、『愛宕山』、『つるつる』、『釣堀にて』、『小いな』、『三助の遊び』、『虱茶屋』、『冬の遊び』、『鰻の幇間』、『九州吹き戻し』等々。
 主役で登場する時も、脇役で登場する時もあります。また、野太鼓も学識もある幇間も登場します。
 落語の中では野幇間が大勢出てきますが、野幇間の1歩手前が、品川で居残りをした佐平次こと”いのさん”でしょう。落語「居残り佐平次」に詳しい。

噂をすれば影(うわさをすればかげ);(ことわざ)他人の噂をすると、その人が現れて影がかかる、即ち、噂をすると、すぐその人の耳に入りやすいので、他人の噂はしないか、注意してする方がよい。
 (慣用句)ある人の噂をしていたら、その当人が登場した状況を表わす慣用句。

アベノ橋(阿倍野橋);現在は「阿倍野」表記が多数を占めるが、本来「阿部野」が正しいとされる。大阪市天王寺区悲田院町と阿倍野区阿倍野筋を結ぶ大阪府道30号大阪和泉泉南線(谷町筋)の橋。JR西日本関西本線・大阪環状線および南海天王寺支線跡を跨ぐ跨線橋。 北詰は天王寺駅前交差点、南詰は近鉄前交差点で、近鉄前交差点以南はあべの筋と道路愛称が変わる。橋の東側はJR天王寺駅の駅前広場および駅舎(天王寺ミオプラザ館)に接している。橋名は四天王寺から住吉大社へ至る阿倍野街道に由来し、天王寺駅の南向かいにある近鉄大阪阿部野橋駅の駅名は当橋に由来する。

あの電車;阪堺電軌線(路面電車。チンチン電車)。下図住吉神社の絵図の中に、正面入り口を走る路面電車が描かれています。

住吉神社(すみよしじんじゃ);住吉大社。大阪市住吉区住吉2丁目9-89。全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと)の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。下図。

反橋(そりばし);住吉神社境内の橋(通称太鼓橋)。正面神池に架けられた神橋は「反橋」と称し、住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれております。長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで、最大傾斜は約48度になります。この橋を渡るだけで「おはらい」になるとの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡り本殿にお参りします。現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君(太閤秀吉の妻)が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられております。 かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。下図。

卓袱台(しっぽくだい);ちゃぶだい【卓袱台】、和室などで床に座って用いる、短い脚のついた木製の食卓。正方形・長方形・円形があり、折り畳み式のものが多い。明治時代から普及した。それ以前は1人用の箱膳が一般的であった。「ちゃぶ」は、「卓袱(しっぽく)」の中国語の音からとされる。

 卓袱料理、卓袱は卓を覆う布のことで、いまのテーブルクロスの意。転じてその卓をいい、さらにその卓上に並ぶ料理の意に転じた。「しっぽく」と読むのは唐音である。寛永(かんえい)年間(1624~44)に鎖国によって諸外国と国交を絶ったが、長崎だけは中国とスペイン、ポルトガル、オランダの諸国に開放していた。その長崎で、主として中国料理を中心に、日本料理の一部を加えてつくりあげたのが卓袱料理であり、地名をとって長崎料理ともいった。献立の特徴は、前菜風の小菜(しょうさい)、温菜(椀物(わんもの))、大皿、大鉢、梅椀(うめわん)(甘味)に分かれ、いずれも偶数の料理をそろえて、椀以外は大皿に盛る。食卓は円形で4人、8人など偶数で決められる。長崎にこの料理が生まれると、享保(きょうほう)年間(1716~36)に京都祇園(ぎおん)下河原に佐野屋嘉兵衛(かへえ)という者が長崎から上ってきて卓袱料理を始め、好評であったという。江戸にも同様のものができたが、あまり繁盛しなかった。卓袱料理のなかから豚の角煮は関西料理に取り入れられている。鹿児島の豚料理しゅんかんと豚骨(とんこつ)も、長崎の卓袱料理からの思い付き料理とみる人もいる。日本そばの種物にも、しっぽくの名のものがある。長崎ちゃんぽん、皿うどんも卓袱料理から出たもの。

天丼(てんどん);丼鉢に盛った飯の上に天ぷらを載せた日本の丼物。天ぷら丼(てんぷらどんぶり)の略称であるが、今日ではもっぱら「天丼」と呼ばれている。 食器を重箱としたものは天重(てんじゅう)と呼ぶ。
 天丼の誕生については、江戸時代の末期とする説があり、新橋にあった「橋善」の前身である蕎麦屋の屋台(1831年創業)を嚆矢とする説や、現存する店の中では最古の天ぷら屋とされる浅草雷門の「三定」(1837年創業)を先駆けとする説が唱えられている。また明治時代に開発されたという説では、天丼は1875年(明治8年)ごろに神田鍛冶町の「仲野」という店舗で発明されたものとしている。 天丼の価格は明治20年には3銭、大正8年は25銭、昭和12年は40銭程度であり、東京の庶民に古くから親しまれてきた日本流のファストフードである。

  

 左、エビ天丼。  右、親子丼。

親子丼(おやこどん);割下などで煮た鶏肉を溶き卵でとじ、飯の上に乗せた丼物の一種。「親子」という名称は鶏の肉と卵を使うことに由来する。 ネギやタマネギなどと共に煮て、彩りとしてミツバやグリーンピース、刻み海苔などを飾ることが多い。

盃洗(はいせん);酒席で盃(さかずき)を洗うための水を入れる器を盃洗といいます(右写真)。一つの盃で酒を酌み交わすことにより心を通わすと考えた日本では、昔から献盃(けんぱい)や、お流れ頂戴(ちょうだい)と称し、盃がやりとりされました。盃洗はその際に用いられるもので、料亭などでは高尚な絵付けをされたものが多くみられました。
 漆器に蒔絵を施した盃洗は、台座に丁寧に載せられて宴席に出されていました。同様に、盃を載せるための台座も存在し、盃台と呼ばれています。古来、日本では食の基本となるのは「米」であり、米を原料とするものの中で最も手間をかけて作られるのが清酒です。清酒は米から造られる最も尊いものとして神棚の中央に供えられます。その酒を大切に扱う気持ちの表れとして、酒を介した儀礼、酒盃のやりとりを通じた、うるわしい文化が育まれ、盃台や盃洗などの酒器類も用いられるようになった。

プラチナの指輪;プラチナ=原子番号78の元素。元素記号は Pt。白金族元素の一つ。プラチナと呼ばれることもある。 単体では、白い光沢(銀色)を持つ金属として存在する。化学的に非常に安定であるため、装飾品に多く利用される一方、触媒としても自動車の排気ガスの浄化をはじめ多方面で使用されている。酸に対して強い耐食性を示し、金と同じく王水以外には溶けないことで知られている。なお、同じく装飾品として使われるホワイトゴールド(白色金)は金をベースとした合金であり、単体である白金(プラチナ)とは異なる。
 これまでに人類によって産出された白金の総量は約40000トン、体積にして約200立方メートル(一辺が6メートル弱の立方体)ほどである。稀少な貴金属なため、「プラチナチケット」などのように、入手し難い貴重な物の比喩として使われることもある。
 男物のプラチナの指輪、貴金属のプラチナを使って大ぶりで目方の掛かった指輪に仕上げた高価な物。それが、それが、夜店で売ってるオモチャの指輪だったとは・・・。

御意(ぎょい);目上の人や高貴な人の考えを意味する語のこと。また、「御意のとおり」の略語として、相手の発言に同意したり、命令に従う意志を示したりする際に用いる返事である。御意の語は現代ではほとんど用いられないが、時代劇や時代小説などではしばしば見られる。例えば、殿様が自分の考えを述べた時に、家来がその通りである、ごもっともであると思った時に「御意のとおり」「御意にございます」「御意」などと返答する。

駆け落ち(かけおち);男女が付き合うことを親に反対され、最後の手段として一緒に逃げることを指します。その後、親の知らない場所で同棲生活を始めることまでを駆け落ちの定義とすることも。 認められない理由は様々で、主に仕事、収入、身分、学歴などが挙げられます。 昔から駆け落ちをする男女は多く、駆け落ちを題材として小説や映画なども多く作られているのが特徴です。

柳行李(やなぎごぉり); 行李柳(こりやなぎ)の若枝の皮をはぎ、乾燥させ、麻糸で編んで作った行李。衣類などを入れるのに用いる。やなぎごり。
 行李柳、ヤナギ科の落葉低木。原産は朝鮮半島といわれる。長野・兵庫・高知県などで湿地に栽培。葉は線状で対生。春、褐紫色の穂状すいじょう花序をつけ、雌雄異株。新枝の皮を剥いだものを漂白して柳行李の材料とする。

 兵庫県には、豊岡市を中心に、伝統工芸「豊岡杞柳(きりゅう)細工」が伝わっている。豊岡杞柳細工とは、一般にいう「柳行李」のこと。丈夫で軽く、通気性もよいことから、古くから衣類をしまったり、旅の荷物を運ぶ際に重宝された。現在では、行李だけでなくバスケットやバッグも編まれ、いまでも愛好者は多い。 豊岡杞柳細工の歴史は古く、一説では、1世紀に新羅の王子、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が伝授したものだともいわれている。実際に、奈良時代に作られた「但馬国産柳箱」が東大寺の正倉院に残されていることから、少なくとも1200年以上も前から作られていたものであることは確かだ。 豊岡杞柳細工がその名を高めたのは、江戸時代に入ってから。もともと豊岡市一帯は、杞柳細工の材料となるコリヤナギの自生地。積雪のため農作業のできない冬季の副業として、杞柳細工が盛んになった地域だ。それが藩の一大産業として奨励され、1763年に専売制が確立、それによって「豊岡の柳行李」として江戸をはじめ全国で使われるようになった。

一反風呂敷(いったん ふろしき);もともとふろしきとしての生地はなく着物の生地をつないで大きな布にして物を包んで運搬具として使われていました。この着物の生地の巾がだいたい1尺(約38cm)当時は小柄な方が多かったのでもう少し小さいですが・・・。 反物の長さが約11~12mあります。 この約12mを2mづつに切ると約38cm巾で2mの長さの生地が6枚出来ます。 この6枚を横につなぐと生地巾が約2mで長さが約2mの布が出来ます。 丁度一反から約2m角の1枚の風呂敷ができます。で、一反風呂敷と言います。
 二四幅は買い物に、四幅は引越し・帰省に使われていた。六幅(一反風呂敷)は、火災が多かった江戸において、一時期は布団の下に敷き、火事などの災害発生時に寝具の上に家財道具を放り投げ、一切合財をそのまま風呂敷に包んで逃げるために使われていたという。現代では、二幅(約68cm×約71cm)・中幅(約45cm四方)・二四幅(約90cm四方)が主流で、四幅(約136cm×約142cm)はコタツ掛けに、六幅はテーブル掛けや壁飾りなどにも使われている。

三味線(しゃみせん);日本の有棹弦楽器。もっぱら弾(はじ)いて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面にネコやイヌの革を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、イチョウ形の撥(ばち)で弾き演奏する。
 日本音楽史上、一般民衆が手にすることの出来た楽器は、神楽の笛、太鼓、鈴であり、ついで三味線であった。 文政年間のオランダの商館長メイランは日本の音楽事情について「楽器の中では三味線が一番ひろく用いられる」と記している。
 右図、三谷一馬画「長唄師匠」。ここでも楽器と言えば三味線が使われています。
 

鉄瓶(てつびん);湯沸かしに取っ手と注ぎ口が付いた道具は薬用用途のものが13世紀には存在したが、「鉄瓶」と名付けられて茶の湯に使用されるようになったのは江戸後期とされている。
 茶道具として考案された鉄瓶は次第に民具としても普及し、江戸中期から明治初期の草双紙の挿絵にも描かれている。日常生活では台所で大量の湯を沸かすときは釜、居室で茶を入れる程度の湯を沸かすときは鉄瓶が用いられるようになった。 第二次世界大戦後、高岡市などではアルミニウムを原料とする鍋、釜、火鉢などの製造が盛んになり、やかんも製造されるようになった。これらの製造で「釜鍋景気」と呼ばれる時期が数年間続いたが、この時期から鉄瓶はアルマイト製のやかんに代替されることとなった。

   

形見(かたみ);死んだ人、または遠く別れた人を思うよすがとなるもの。死後または別後にその人のものとして残されたもの。遺品や遺児。
 形見の由来は「形を見る」ことで、今はいなくなってしまった人が、形になって見えるように感じられるものという意味です。 形見分けでは、亡くなった人が日常的に使っていた物品を、遺品として身近な人たちで分けます。

三面鏡(さんめんきょう); 鏡三面を持つ鏡台。自分の姿を三方から見られるように鏡を取りつけた鏡台。

紐で胴括りして(ひもで どうくくりして);背負う荷物の上に新しい荷物を載せるのに、乗せただけではバランスが取れず、下の荷物と上の後から乗せたものを風呂敷の上から紐で結ぶ縛り方。
 右図、三谷一馬画による小間物屋が背負いものの上に小物を乗せて胴括りしている様子。

 


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