落語「後家馬子」の舞台を行く
   

 

 五代目 桂文枝の噺、「後家馬子」(ごけまご)より


 

 大阪の玉造の近所の、お稲荷さんのそばの裏長屋でございます。この、長屋といぅのは、たいがい昔は長屋の路地(ろぉじ)の真中に井戸がありまして、ここがもぉ嫁はん連中の溜まり場所になっておりましてね。

 「なぁ、お松っつ姐はん」、「何だす、お竹はん」、「この長屋ほど、貧乏人の多い長屋はないなぁ」、「いえ、あの糊屋のお婆ぁはん。小金貯めてるそぉやないか。その金を人に貸してるちゅう話や。それに、あの目の不自由な眼鉄さん、あの人もお金貯めてんねやとぉ」。
 「そらそぉとお竹はん、あんた今時分にお米洗ろて何してんねや?」、「いや昨日もな、朝早よぉから親っさん起きるなり、『ひと仕事したらお金持って帰ってくるわ』ちゅうてからに、帳場行たところが、クジ間んが悪ぅてからに、一番あとになってしもたんやとぉ。今、『ひと仕事してきた』言ぅて、お金持って帰ってきたんでな、それでお米買ぉて、それからあんた、これからご飯を炊いて食べるとこやがな。そらそぉと、姐はんとこの兄さん、こないだ仕事休んでやったやないか?」、
 「雨の降った日があったやろがな。家の親っさん仕事から帰ってきてからに、『風呂行くのんもぉ大儀やさかい』言ぅてな、井戸端でパッチ脱いで足洗ろてたんや。野良猫が出てきよってから、パッチの上にシシ垂れしたんやがな。汚いもんやさかいに洗濯してからに干しといたん。ところが、明くる朝が雨や仕事に行かれへんがな。日が暮れに雨が上がったもんやさかいな、『ひと仕事してくるわ』言ぅもんの、『パッチまだ乾いてへんがな』言ぅたら、『えぇことがあるさかい、五厘で糊買ぉてこい』。どないすんのんかいなぁ? と思たらな、買ぉてきた糊と、それとあんた、鍋墨と練ってからに、パッチの代わりやいぅて足に塗って出て行ったやないかいな。八軒家まで行たらお客さんが、『末吉橋まで何ぼで行く?』て、こない言ぅねやとぉ、『七銭おくなはれ』言ぅたらな、『七銭高い、それ五銭にしとけ』こない言ぅけどもな、まぁまぁ遊んでるよりそれのほぉがましやと思て、ほで末吉橋まで行たところが、『何してんねん、わしの言ぅたんは末吉橋やないがな、わしの言ぅたんは住吉橋やがな』、『あほらしもない、住吉橋までそんなもん五銭で行けまっかいな』言ぅたら、『向こぉ行ったら何とかしたる』。そのつもりで行たところが、向こぉ行たってやっぱり五銭しかくれへんねやとぉ。まぁヤッサモッサて揉めてるとこへ、そこへ巡査が来て、それであんた交番所へ行てゴチャゴチャしゃべってたところが、うちの親っさん慌てもんやさかいな、手拭で足拭いたひょ~しにパッチがはげてしもて、さぁそれがあんた、巡査にえらい怒られてからにな、帰ってきたんやとぉ。今朝もご飯食べてたらな、その野良猫が出てきよったもんやさかいに、『おのれのためにえらい目ぇに遭ぉたわい』ちゅうて、割木バァ~ンと投げ付けたらな、猫に当たらんと障子の桟に当たってしもて、桟は折ってしまうわ、紙は破ってしまうわ、まぁえらい損。もぉあの猫見たら、腹が立ってしゃ~ないねがな」。
 「んまぁ~、そぉだっかいな。せやけどな姐はん、子どもがいてないさかい、えぇやないかいな。兄さんが仕事に行たあと、ちょっと手仕事できるけども、うちら子どもがいてるさかい手仕事ひとつでけへんやないか」、「今はあんたエライで、エライけど先になってみなはれな、子どもが大きなったら助かるやないか。それが証拠に奥のあのお辰(たつ)っつぁん、お櫛さんちゅう親孝行な娘がいてるもんやさかい、今、結構なもんやないかいな。それで、髪結ぃさんの修行してんねやとぉ」、「んまぁ、結構なこっちゃなぁ。親孝行て肝心やなぁ」、「そぉやがな。そらそぉとな、あのお辰っつぁん、(親指出して)これができてんねやとぉ」、「そぉ・・・」、「これがな、何でも馬方やとか博労やとか・・・」、「へぇ~ッ、馬子はんかいな」、「そぉやがな」。

 言ぅておりますとこへ、入ってまいりましたのがお辰っつぁん。風呂帰りとみえまして、桶を小脇に抱え込みまして、流れる汗を手拭で拭きながら、こっちへ入ってまいります。「お辰っつぁん、あんた風呂行ってなはったんか?」、「ちょっと風呂浴びてきましたんやわ」、「綺麗に髪が結(い)えてまっしゃないか?」、「これな、お櫛に、『ちょっと撫で付けて』言ぅたところがな、お櫛が、『お母ちゃん、おんなじ結(ゆ)ぅねんやったら、もぉちゃんと結ぅたげるわ』言ぅて、こないしてちゃんとしてくれましたんやわ」、「んまぁ、綺麗に結(い)えたぁるがな。そらそぉと、お辰っつぁんえらいえぇ着物着てなはんなぁ?」、「これだっか? これ質(ひち)に置いてましたん、二十銭で出してきたとこ」、「質に置いたぁったん?」、「そぉでんがな」。
 「せやけどもな、お辰っつぁんの前やけれども、わて質屋ほどつまらんもんはないと思うわ。考えてみなはれ、ちょっとまぁ金借りよと思たら、なんや物持って行って、ただでも金借りるよぉにペェコラペェコラ頭下げ倒してからに、今度は出すときは高い利子取られて。まぁ、そんなことすんねやったら、おんなじこっちゃったらもぉ紙屑屋へ売ってしまうほぉがよっぽどましやと思うわ」、「何を言ぅてなはんねんお松っつぁん、そんなこと言ぅてたらあかんで。貧乏人は何といぅても質屋が大切。といぅのはあんた、お金欲しぃときには物持って行ったらちゃんと貸してくれまっしゃないか。ほんで今度また、物欲しぃときにはお金を持って行ったらちゃんと出してくれまっしゃないかいな。紙屑屋へ売ってみなはれ、あんた、あと欲しぃっちゅうときには何もおまへんやないか」、「あんたまた、えらい質屋の肩持ちなはんなぁ。ははぁ~、あんた何だんねんな、この頃小金貯めてるそぉだんなぁ・・・、あぁさよか・・・、えぇ男はんがいてるそぉだんなぁ、馬方やとか博労やとか、あぁ~、その人と質屋でもやるつもりだんな」、「あんた、またケッタイなこと言ぃなはんなぁ。ほっといとぉくなはれ、うちの男が馬方であろぉと博労であろぉと、そんなことあんたの世話になれへんねん、ほっといとぉくなはれ」。
 「『あんたの世話にならん』よぉそんなこと言ぅてなはんなぁ。あんたとこの兄さん(亭主)が死にはったときなぁ、うちの親っさん三日も仕事休んで手伝いに行ったんやで」、「何を言ぅてなはんねん、その代わりうちのほぉでちゃんとご飯食べさしたぁるやないかいな」、「ご飯ぐらい何だんねん。わて、あのとき醤油貸したけど、まだ返してもぉてしまへんで」、「醤油て何を言ぅてなはんねんな、あんたとこ、借金取りが来たいぅてうち逃げ込んできたときに、ご飯ちゃんと食べさしたぁるやないか」、「そのぐらいのことしたって何だんねんな。そぉでっしゃないか、偉そぉに言ぅことおまへんやないかいな」、「あんたが言ぃなはるさかいに・・・」、「言ぅたが何だんねんなッ」。

 さぁ、大喧嘩になった。仲に入ったお竹はんが、「まぁ、お松っつぁん姐はんも、お辰っつぁんもまぁ待ちなはれな。そこで暴れたらいかんがな、まぁ、何をしなはんねな。お辰っつぁん、あんたまぁお松っつぁん姐はんの目ぇ噛んでどないすんねん」、「わては辰やさかい玉を噛む」、「よぉそんなアホなこと言ぅてなはんなぁ。そんなとこで暴れたらあかんちゅうのに。井戸の中へ、そのお米がはまってしまうやないか・・・、お米がはまったら、わて食べられしまへんがな・・・。お米がはまってしもたがな。まぁ、ちょっと待ちなはれっちゅうのに。い、家主っさん、ちょっと来たげとくなはれ。家主っさんッ」。
 「どないしたんじゃ? こ、これ、待ちなはれ。わしの頭をどついてどないすんねん。お竹はん、いったいどないしたんや」、「家主っさん、なんでもな、お辰っつぁんとまぁお松っつぁん姐はんが、質屋のことでどぉよこぉよと、これが喧嘩の元でんねやがな」、「しょ~もないことで喧嘩をしなはんな。おまはんら二人が、利で理を争ぉたところで仕方がないやろ。ましてまた質屋のことで喧嘩をしたちゅなことが近所に知れてみ、恰好(かっこ)が悪いがな。もぉそんなしょ~もないことで喧嘩をしなはんな」、「お竹はん、わしゃあと、あんじょ~話を着けてやりたいけどな、これから行かんならんとこがあるさかい、あとはひとつよろし頼むわ。おまはんらもそぉやで。これ、お松っつぁん、親っさんが帰ってきたさかいいぅてこんなこと言ぅたらあかんでえぇか。男のこっちゃ、喧嘩に花が咲いてもいかん。また、お辰っつぁんもそぉやで、孝行娘のお櫛さんに、こんなこと聞かしたらいかんで。えぇか、まぁまぁあとは仲良ぉせなあかんで、分かったな。お竹はん、ほなひとつ頼むわ」。

 家主さんはポイッと行てしまいます。お辰っつぁんも、お松っつぁんも家の中へ入ってしまいましたが、あとに残ったお竹はん、これからご飯を食べよっちゅうので、洗ろてるお米を井戸の中へはめられてしもたんで、キョト~ンとしてるとこへ帰ってきたんが孝行娘のお櫛さん。
 「おばちゃん、ただいま」、「お帰り。あッ、ちょっとちょっとお櫛さん、あんたとこのお母はんと、えらい喧嘩したんやで。帰ったら機嫌が悪いかも知れんさかいな、逆ろぉたらあかんで。あんたも一生懸命、精出して働いてんねやなぁ、結構なこっちゃがな」。

 「お母はん、ただいま」、「えらい遅かったやないか、今日は何ぼほど儲けてきたんや」、「あのぉ、下駄屋はんで二つ結わしてもろて、それから酒屋さんで一つ、ここに二十銭おます。これでお酒買ぉて呑んどくれやす」、「二十銭? お酒がそんなんで足るか」、「いったい何ぼほど呑みなはんねん」、「あの、八っつぁんが来るやないかいな、八っつぁんが」、「何だっか、あの馬方はんの?」、「何ちゅうこと言ぃなはんねん。わてとこんな仲になったら、あんたのお父っつぁんやないか」、「わたしのお父っつぁんはな、あの、お仏壇(ぶったん)の中の位牌しかほかにおまへん・・・」、「んまぁ~、この子わ。親に向かって何ちゅうこと言ぃなはんねん」。
 別に怒ることはおまへんねんけども、表で今、「馬方、博労」と言われたことが根におまっさかいに、そばにあった鉄瓶をバ~ンッと投げ付けた。お櫛はパッと体をかわした。逃げよぉと思たが、そこへ入ってきましたのが馬方の八蔵。
 酒を呑んで千鳥足でえぇ具合にグ~ッと酔ぉて入ってきたんを見たお辰っつぁん、「あの八っつぁん、そのお櫛を捕まえて」、「よっしゃ」。

 八蔵は、わけ分からずにお櫛を捕まえよぉとする。お櫛は袖の下をかいくぐって一目散に逃げ出した。あとを八蔵が、「待てぇ~ッ」と追いかける。城の馬場から天満橋までやってまいりましたが、男の足に女の足、到底かなうわけがない。このまま捕まってはどんな置目に遭うやも知れんと、お櫛は橋の上から川ん中めがけてドボ~ンッ・・・。「お櫛ぃ~ッ・・・、あぁ~、おらぁ何といぅことをしてしもたんやろ。二、三日前の雨で水かさが増して、お櫛は助からんやろ・・・、それにひきかえ、向こぉのほぉでは面白そぉに騒いでる。お櫛はこのまま水泡、行く先は西方極楽浄土。三味や太鼓を経阿弥陀、迷わず成仏してくれよ・・・」、そのまま、あとも振り向かずにスッと帰ってまいります。

 「おい、お辰、とぉとぉ小娘は逃がしてしもた」、「まぁさよか、えらいすいまへんでしたなぁ。さぁさぁ、上がって一杯呑んどくれやす」、「いや、おらぁもぉ今日はこのまま帰るわ。おらぁ、これから出入りせんで」、「んまぁ・・・、何でだすねん」、「今日の喧嘩も、どっちみち俺のこっちゃろ。おらぁもぉこのまま、ここへは出入りせん」、「そんなこと言わんといとぉくなはれな。まぁ、お櫛がおらんよぉになったって、あんた一人ぐらい立て養いしまっしゃないか。そんなこと言わんと機嫌直して、さぁ、ここで一杯呑んどくれやす」。

 二人がチビチビ呑んでおりますとこへ、表の戸をば・・・、「(トントン・トントン)ちょっとお開け(トントントン)ちょっと開けとぉくれやす」、「どなた?」、「片町の義助でおます」、「死んだうちの人の弟だんがな。すいまへんけどもな、あんたしばらくのあいだ、その押入れの中入ってとぉくれはれ。わてが言ぅまで出てきたらあきまへんで」、「義助はん、ご機嫌さん」、「姉はん、ご機嫌さんだす。お達者でっかいなぁ?わてもまぁ、あれからといぅものはいろんな商売に失敗してしもて、今では、漁(りょ~)の好きなとこから、片町で網打ち渡世をしとりますねん。今日も、二、三日前の雨で水かさが増してんのん幸いに、一生懸命に漁をしとぉりますと、網にドシ~ッと掛かるもんがおます。見たら、これが女の死体。みると温もりがあんのでホッと覗いて見ると、これがこの家(や)のお櫛やおまへんかいな。気が付いたんで、『どぉしたんや?』と聞ぃたところが、『実はおじさん、これこれこぉいぅわけや』、『そんな馬鹿なことがあるかい』と、近所へ来て聞ぃてみるとお櫛の言ぅとぉり。兄貴が生きてるあいだは蝶よ花よと過ごしたお櫛が、今こんなことになったと世間に聞こえたら、恰好が悪いやおまへんかいな。それとも姉はん、その馬方とか博労とかいぅのがそんなにも可愛(かわい)んだすか」、「へぇ、かわいおます。可愛いて可愛いてなりまへんわ」、「実の我が子よりも?」、「可愛のぉてかいな・・・、馬子(孫)やもん」。

 



ことば

博労(ばくろう);牛馬の仲買人。 伯楽(博労)は古代中国の馬の鑑定の達人とも、また馬を守護する星の名ともされ、転じて村々を回って農家から牛馬を買い集め、各地の牛馬市などでこれを売りさばく者をさして呼んだ。
 ここでは差別的な職業のひとつとして描かれていることに注意しなくてはなりません。差別史があったことを知ったうえで噺を聞くのと、知らないで聞くのとでは大いにその意味が違ってきます。長屋の噺だってそうですし、他にもその残骸は有りますが、その過去に引きずられてはいけません。

五代目 桂 文枝(かつら ぶんし);(1930年 (昭和5)年 4月12日~(2005年3月12日没))、本名∶長谷川 多持。六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春団治と並び、昭和の「上方落語の四天王」と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。1984年1月、三代目桂春団治の後を受け、上方落語協会第4代会長に就任。右写真。
1994年まで務める。就任して最初の仕事が、交通事故で急逝した4代目林家小染の葬儀委員長だった。2005年3月12日、肺がんのため三重県伊賀市の病院で死去。74歳没。法名「多宝院光徳文枝居士」。墓所は印山寺。死去2ヶ月前の同年1月10日の大阪・高津宮での「高津の富」が最後の口演となった。
 落語に「はめもの」と呼ばれる上方落語特有のお囃子による音曲を取り入れた演目や、女性を主人公とした演目を得意とし、華やかで陽気な語り口が多い。 出囃子は「廓丹前」。小文枝時代は「軒簾」を用いていた(後に桂三枝が継承し、六代文枝襲名まで使用)。

後家(ごけ);夫と死別した妻、寡婦。未亡人と同義に通例用いられているが、「家」制度のもとで家長の没後も「婚家」にとどまり、中継的な家長ないしは若年の家長の後見の地位にある「妻」の身分をさすのが原義であろう。
 「後家」の用語は鎌倉期の文献にすでにみられるが、そこでは夫の死後も貞節を守って婚家にとどまる者は、嫡子幼少の場合は「中継相続人」として「御家人」の地位にあって所領を保つことができ、あるいは「相代行事人」として、幼少の家長の後見にあたることもできた。また「後家分」として亡夫の所領の一部を譲渡されることも通例であった。ともかく中世武家社会の「後家」の地位は相当に高く認められ、亡夫の後を受けて「家」の中心的存在となりえた。
 しかし近世武家社会では女性の地位は低下して、「後家」は所領処分、家督相続、後見などいっさいの権利を失い、ただ貞節を守って再嫁せず、とくに当主の嫡母は再婚、離縁を固く禁じられてもいた。しかし庶民の後家は「家」の相続主体となり「後見」の立場ももつことができ、さらには「後夫」を迎えることもできた。とはいえ婚家を離れての自由な再婚などは社会的に容認されなかった。
 明治民法では「後家」の名こそ消失したが、なお家長に死別した妻の地位はきわめて不自由で、後家の実質を久しくとどめてきた。現行民法のもと、「後家」の身分はまったく解消したが、「未亡人」とくに「女世帯主」の立場は、福祉法制の支えが若干あるものの、なおけっして安泰とはいえないものがある。
 日本大百科全書(ニッポニカ)

馬子(まご);馬をひいて人や荷物を運ぶことを職業とした人。 うまかた。 うまおい。
律令(りつりょう)制によりできた駅制の駅馬の馬子は、賦役に徴用された公民であったが、しだいに馬借(ばしゃく)とよばれる馬子が現れ、商品流通の発達した室町時代の主要街道で完全に職業化した。江戸時代になると、馬子は馬追い、馬方(うまかた)、馬曳(うまひ)きなどともよばれ、数も仕事も増えたが、旅人を恐喝し金品を巻き上げるなどの事件も増えた。なお、馬子が道中に歌った馬子唄(まごうた)には、いまも残るよい唄がある。
 渓斎英泉画『木曽街道六拾九次 廿弌 追分宿浅間山眺望』(部分) 国立国会図書館所蔵。

玉造(たまつくり);大阪市中央区と天王寺区の町名。または同市中央区と天王寺区の地域名称。
 古墳時代に勾玉などを製作する玉作部(玉造部)がこの地に置かれていたことが地名の由来とされている。 昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。前述の玉作部と、高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれている。 石山合戦では主戦場の一つとなり、豊臣秀吉による大坂城築城に際しては、当初玉造は町人地であったが、町家の郭外移転を伴う慶長初期の三の丸造営によって、大坂城三の丸に組み込まれ、細川・宇喜多・蜂須賀・前田・龍造寺・浅野・片桐などの屋敷が玉造に置かれた。しかし、大坂の陣によって全て灰燼に帰した。

玉造のお稲荷さん;大阪市中央区玉造2-3-8。玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)は、大阪市中央区玉造にある神社。旧社格は府社。登記上の宗教法人名称は稲荷神社(いなりじんじゃ)。
 江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建される。 明治時代になると府社に列せられている。 現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。現在の社殿は1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲で焼失した後、1954年(昭和29年)10月に再建されたものである。1986年(昭和61年)、創祀二千年を記念して境内に難波・玉造資料館が開館した。
 まけず・おとらず三ヶ津自慢競:江戸時代の江戸・京都・大坂の自慢くらべ。稲荷神社の部には、江戸・王子のいなり、京都・伏見のいなり、大坂・玉造のいなりと記されている。

 

長屋の真ん中に井戸(ながやの まんなかに いど);井戸が共有だったので炊事洗濯はみんな同じ場所でやってます。ですからその場所での会話を井戸端会議と言いました。 トイレ(惣後架/そうこうか)ももちろん共用です。なので今のように一箇所ではなく、長屋の戸数に比例して複数箇設置してありました。 子供も多かったので一個じゃ足りません。間取りは今風に言うと1Kタイプ。家賃が高いところは2Kや3Kタイプや二階建てもありました。ゴミ捨て場(芥溜/ごみため)があったほか、土地の守り神であるお稲荷さんがありました。 江戸は家事ばやいので風呂は長屋にはまず存在しませんので銭湯に行きます。

右写真、長屋の井戸 深川江戸資料館。

糊屋のお婆ぁはん(のりやの おばあさん);おしゃべりといえば糊屋の婆さんが出てくるほど。亭主はなくしていて、一人暮らしなんでしょうか、その名のとおり、表看板に姫糊を売り歩いていました。 姫糊は、現在の生活のなかでは出番が少なくなりました。今でも後糊つけは行われるので、ビニールのチューブに入ってスーパーの家庭用品棚あたりに並んでいます。 クリーニング屋などないし、洗濯後にアイロンをかけたりもしなかったその昔は、木綿物の洗濯物は、姫糊を薄くといた水につけ形を整えて干すことがどこの家でも行われていた。洗濯の干し板〔張り板〕といって、幅30~55cm、丈180cm、厚さ2cmほどの板に、姫糊をといた水にしたした洗濯物を張り付けて干すこともあった。乾いたあとは、糊がつよいとぴんとはって薄い板のようになる。 江戸っ子はどういうものか、ゴワゴワに糊の利いてピンと張った浴衣をとりわけ好んだようで。
 余談ですが、姫糊の作り方は、まず米を洗って粉に挽きます。その粉に水を加えて、弱火でよくかきまぜながら煮て作る。米は屑米を使うこともありました。米を柔らかく煮て、突きすぶして作ることもある。当時は防腐剤などなかったので、夏場の売れ残りは加熱して腐敗を防いでいた。 しかし、作り方はいたって簡単だが長屋の狭いところで作るのは大事なので、たいていは仕入れてきて、決まった得意先を売って回っていました。また、糊屋の婆さんが売り歩くのは、晴れた洗濯日和の日に限られていた。

帳場(ちょうば);① 夫役に当てられ運送・道普請などをすべき受持の区域。また、一般に仕事場の受持区域や得意先。持ち場。
 ② 宿場と宿場との距離。また、ある区間の距離。 
 ③ 馬子(まご)・駕籠舁(かごかき)・人力車夫などのたまり場、寄場。

パッチ;股引きと似たような衣類の「パッチ」との違いです。 確かにパッと見て、股引きとパッチの違いを区別する要素はあまり見当たりません。 だが、見た目では違いが少ない中で、日本で言われている違いは大きく分けて2つほどあります。 その2つの違いは、日本の中でも統一していないのです。 その違いは、関東と関西では異なります。
 関東では、股引きとパッチの違いとして「素材」で名称を区別しています。 木綿で作られているものを「股引き」と呼び、絹やちりめんで作られているものを「バッチ」と呼んでいます。
 関西では「丈の長さ」で区別しています。 こちらの方が素材よりは比較的区別がしやすいと思います。 バッチと呼ばれるものは丈が長くできており、股引きとよばれるものは丈が短くできています。 日本にはその地方によって方言などの様々な違いがあり、お互いの地方の文化に対して疑問を抱き合っているのですが、股引きとパッチの違いもその1つです。
 右写真、江戸の股引を着用、上半身にはドンブリ(腹掛け)を着けています。
 着用したいと思う理由のほとんどが、下半身の「保温」です。 「ももひき」とは、おじさんが履いている下着のラクダのイメージが強いのですが、そのイメージは現実とは全くといっていいほど違います。
 現在では着物は着ないので着用はいたってまれですが、東京のお祭りなどでは制服のようにモモヒキが着用されています。

シシ垂れ(ししたれ);(大阪ことば)小便(小児語)。小便タレ。小児は舌が回らないので、一語の主音を踊らせて言うことが多い。大便のことはババ。

八軒家(はっけんや);(現・大阪市中央区天満橋京町1−1)天満橋南詰の西側。天満橋から天神橋までの大川の左岸は、大阪と京伏見を結ぶ水運の発着所であった。周辺に八軒の旅宿があったことから八軒家と言われるようになったという。
 落語「三十石」より、右図、八軒家の船着き場。

末吉橋(すえよしばし);末吉橋(南船場1丁目-2の東)は、南蛮貿易で活躍した平野の豪商末吉孫左衛門が架けたと言い伝えられている。その末吉家の別邸が橋の西詰にあったとも言われている。江戸時代の末吉橋は町橋で、橋筋の町々の募金によって維持されていた。 末吉橋は明治43年、市電第3期線の事業で、鋼橋になり、その後、第一次都市計画事業によってコンクリート製のアーチ橋が架けられた。隣接した長堀川の安綿橋と同じデザインになっており、統一性のある風景を作っていた。戦後、長堀川が埋め立てられとき、拡幅されて今日に至っている。八軒家から約2.2km。

住吉橋(すみよしばし);(南堀江1丁目18の南)、道頓堀川の東側沿岸部は早くから開けたが、西側の本格的な開発の開始は元禄時代末期からのことである。堀江一帯の開発にともなって住吉橋、幸橋、汐見橋、日吉橋の4橋が架けられた。西道頓堀川の沿岸は、土佐や薩摩などからの入港船の荷揚げ場となり、多くの銅吹屋も営業していた。住吉橋は、橋の上に立つとはるか南に住吉の高燈篭を望むことができたためこの名が付けられたという。 享保九年(1791)に発生した大坂最大の火災であった妙智焼では、住吉橋も被害を受けた。また、宝永4年(1707)と嘉永7年(1854)の津波によって、道頓堀川の橋は破壊されている。住吉橋から約2.1km、最低でも倍の料金をもらわなくては合いません。

割木(わりき);木を小割りにした、たきぎ。まき。割薪(わりまき)。

髪結(かみゆい);髪を結う職人。平安・鎌倉時代には男性は烏帽子(えぼし)をかぶるために簡単な結髪ですんでいたが、室町後期には露頭(ろとう)や月代(さかやき)が一般的になり、そのため、結髪や月代そりを職業とする者が現れた。別に一銭剃(いっせんぞり)、一銭職とも呼ばれたが、これは初期の髪結賃からの呼称とされる。また取りたたむことのできるような簡略な仮店(〈床〉)で営業したことから、その店は髪結床(かみゆいどこ)、〈とこや〉と呼ばれた。近世には髪結は主に〈町(ちょう)抱え〉〈村抱え〉の形で存在していた。三都(江戸・大坂・京都)では髪結床は、橋詰、辻などに床をかまえる出床(でどこ)、番所や会所の内にもうける内床があるが(他に道具をもって顧客をまわる髪結があった)、ともに町の所有、管理下におかれており、江戸で番所に床をもうけて番役を代行したように、地域共同体の特定機能を果たすように、いわば雇われていた。そのほか髪結には、橋の見張番、火事の際に役所などに駆け付けることなどの〈役〉が課されていた。さらに髪結床は、《浮世床》や《江戸繁昌記》に描かれるように町の社交場でもあった。なお、女の髪を結う女髪結は、芸妓など一部を除いて女性は自ら結ったことから、現れたのは遅く、禁止されるなどしたが、幕末には公然と営業していた。

 女髪結い、彼女たちは筋目櫛や梳き櫛などを風呂敷に包んで顧客を訪ね、要望を聞きながら最新の髪形を結っていった。江戸時代後期には毎年のようにスタイルブックが売り出され、髪結いはそれを参考にアレンジを加えて結っていた。 女髪結い自体は着古した地味な衣装に前垂れを帯代わりにするような堅実で質素な女性が多かったのだが、幕府は他人に髪を結わせるという行為が贅沢だとして、たびたび禁止令を出していた。 髪結い料は安永ごろの資料を見ると一回で200文程度で、物価や時代によって多少の変動があった。また、遊郭の女郎や大店の妻女からは季節ごとに祝儀の品が届いた。 
 右図、「女髪結」 歌麿筆。

質屋(しちや);財産的価値のある物品を質(担保)に取り、流質期限までに弁済を受けないときは当該質物をもってその弁済に充てる条件で金銭の貸し付け業務を行う事業者。質店や質舗、名古屋及び関西ではひちやとも呼ばれ、一六銀行(いちろくぎんこう)と言う俗称でも知られる。物品を質草にして金銭を借り入れることを「質入れ」といい、借入金を弁済して質草を取り戻すことを「質請け」という。

家主っさん(やぬしさん);近世、地主や貸家の持ち主の代わりに、貸家の世話や取り締まりをする者。やぬし。大家。差配(さはい)。
  主人不在の家屋敷を預かり、その管理・維持に携わる管理人のこと。家主(やぬし、いえぬし)、屋代(やしろ)、留守居(るすい)、大家(おおや)などとも呼ばれた。日本の近世社会は、家屋敷の所持者である家持を本来の正規の構成員として成立していたが、なんらかの事由で家屋敷の主人が長期にわたって不在となる場合、不在中の主人に委嘱され、家屋敷の管理・維持にあたるのが、家守の基本的性格である。

  長屋は「地主」の所有物で、「大家」は地主から長屋の管理や賃料の徴収を委託され、地主から給料をもらっていた。「家主」や「家守(やもり)」とも呼ばれていたが、家守が一番仕事の内容に近いだろう。  江戸時代の大家には別の顔もあった。地主に変わって「町役人」として町政にも携わっていた。新しい入居者があれば、大家は当人の名前や職業、年齢、家族構成などを町名主に届け、名主が人別帳(にんべつちょう)という戸籍簿に記載して奉行所に届ける仕組みになっていた。また、長屋の店子から罪人が出ると、連座といって連帯責任を取らされるので、入居者や保証人の身元調査は厳重に行われた。大家はたいがい、裏長屋の入り口の一角に住んでいたりした。近くに住んで、常に睨みをきかせているわけだから「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉が生まれた。
  大家の職制
   * 大家が五人組を構成しその中から月交代で月行事(がちぎょうじ)を選び町政に当たった。
   * 町触れ伝達。
   * 人別帳調査。
   * 火消人足の差配。
   * 火の番と夜回り。
   * 店子の身元調査と身元保証人の確定。
   * 諸願いや家屋敷売買の書類への連印。
   * 上下水道や井戸の修理、道路の修繕。
   * 長屋の住人の世話を焼いたり、喧嘩・口論の仲裁。冠婚葬祭の対応。
   * 店子が訴訟などで町奉行所へ出頭する際の付き添い。
   * 家賃を集金したり長屋全体の管理業務。

  大家の余録として、長屋から出る人糞(糞尿)やゴミです。 長屋の便所に貯まる糞尿は江戸近郊から百姓たちがわざわざ肥料として買いに来るのです。 ゴミもそうです。売上金は暮れの店子に配る餅代にその一部を当てました。
 落語「裸の嫁入れ」から孫引き。

利で理を争おたところで;福沢諭吉の言葉。多くの賛否両論の論争を巻き起こしてきたが、今でも部分的に通用する考え方だ。 利を争うのは嫌らしいという風土が今でも日本では根強い。でも、いろいろな社長さんとお付き合いをしてきて、「利を争う」社長さんほど理性的な人が多く、かえって仲良くなれたし可愛がってももらった。そして、従業員には厳しくても親分肌は見せないし、サービス残業は絶対にさせなかったり、理不尽なことは絶対に言わなかった。でも法律の許す範囲内では、リーマン・ショックでは、リストラをバシバシする一面もあったが、その論理は明晰であった。社長は自分を庇護する親分であって欲しかった従業員は恨んでいるだろうが。
 道徳的な訓話をたれキレイ事を言いたがる社長さんとはあまり親しくなれなかったし、そういう会社に限ってサービス残業は日常茶飯事で、あまりに理不尽ではないかと疑問のある言動が多かった。
 野末雅寛(哲学エンジニア)氏の話から

 福沢諭吉『文明論之概略』より、
 《利を争うは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり。今、我日本は外国人と利を争うて理を闘(たたかわ)するの時なり。内にいて澹白(たんぱく)なる者は外に対してもまた澹白ならざるを得ず、内に愚鈍なる者は外に活潑なるを得ず。士民の愚鈍澹白は、政府の専制には便利なれども、この士民を頼りて外国の交際は甚だ覚束(おぼつか)なし。一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個(どくいっこ)の栄辱(えいじょく)を重んずるの勇力あらざれば、何事を談ずるも無益なるのみ。けだしその気象なくまたその勇力なきは、天然の欠点にあらず、習慣に由りて失うたるものなれば、これを恢復するの法もまた習慣に由らざれば叶うべからず。習慣を変ずること大切なりというべし》。 (部分)

城の馬場(しろのばば);府庁からJR森ノ宮駅周辺まで広がっていた芝生の広場が「馬場」と呼ばれ、現在の町名にも残る。江戸時代に、馬場は城代や将軍の親衛隊「大坂大番」が陣容を整えた場所で、「番場」とも書いた。
  馬場は普段は開放されており、旧暦2月の稲荷社の祭礼「初午(はつうま)」の日は、茶店も出てにぎわった。明治時代に旧陸軍の施設ができ、立ち入りは制限されてしまった。昭和に入って、天守閣が再建され、今や年間250万人の観光客が訪れる人気スポットとなっている。
  大阪城天守閣の宮本裕次研究副主幹(53)は「馬場は普段は凧揚げを楽しみ、武者行列を見物する現在の公園の原型のような場所だった」と話している。
 読売新聞オンライン 2019/01/13

天満橋(てんまばし);北区天満1丁目南、旧大川に架かる橋で、東南に大阪城があり、西に八軒屋が有る。
 天満橋・天神橋・難波橋は江戸時代以来、大坂の町にとって最も重要で、最も親しまれてきた橋である。当時としては最大級の橋で、この三橋は浪華の三大橋と呼ばれた。江戸時代には、ともに公儀橋に指定され、幕府の直轄管理となっていた。大坂の市街地を南北に結ぶ三大橋は市民の生活にも密接に関わる橋となり、都市発展に重要な役割をはたした。東西の町奉行所が、天満橋の南側にあり(のち西町奉行所は本町橋の東北詰へ移転)、谷町筋から東側には様々な役所があった。橋の北側には役所の倉庫や町与力の屋敷があり、天満橋はこれらの役人の通勤経路や役所間の連絡にも利用されたと考えられ、公の性格が非常に強い橋であったと言えよう。
  天満橋・天神橋は、明治18年7月初めの大洪水によって両橋とも流失し、その復旧事業として、両橋ともに鉄橋に架け替えられた。この鉄橋の主要部材は天神橋と同じく、全てドイツ製であったが、鉄製の高欄、照明柱、橋名額は両橋とも国産品が用いられた。橋名額は現在も北詰の公園内に保存されている。
  現在の天満橋は、昭和10年に重厚なゲルバー式鋼桁橋に架け替えられたものである。この桁の形状に対して当時の担当者が「のびのびとした、鳥が翼を広げたような形」と表現したように、景観上バランスのよい桁橋である。
  戦後、自動車交通の発達により天満橋は、交通上のボトルネックになり、昭和45年に高架橋が建設された。在来の天満橋の上に重ねる型式とし、設計荷重としては旧市電の軌道敷部の荷重と高架橋のそれと置き換えるように考えられた。さらに、平成元年に旧橋部が改装された。
 大阪市 建設局道路部橋梁課

  

 「天満橋」 北斎画

西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど);〘名〙 仏語。阿彌陀仏の浄土。この娑婆世界から西方に十万億の仏土を隔てたかなたにあるという安楽の世界。極楽浄土。西方極楽。西方安楽国。西方安養世界。西方世界。西方。「西方浄土」という表現は11世紀以降、浄土教の流布に伴って一般化した。平安朝末から中世には、落日に向かって西方浄土を観想する日想観が流行した。

片町(かたまち);大阪市都島区の南部に位置する。北は東野田町、東はJR大阪環状線を挟んで城東区新喜多、南は寝屋川を挟んで中央区大手前および城見、西は旧淀川(大川)を挟んで北区天満とそれぞれ接する。
 元は京橋片原西町・京橋片原東町という町名で、京橋北詰から東へ京街道が伸びており、両町とも街道の片側(北側)にだけ家屋が立ち並ぶ片側町だったことから「片町」と通称されたことによる。



                                                            2022年6月記

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