落語「後家馬子」の舞台を行く 五代目 桂文枝の噺、「後家馬子」(ごけまご)より
■博労(ばくろう);牛馬の仲買人。 伯楽(博労)は古代中国の馬の鑑定の達人とも、また馬を守護する星の名ともされ、転じて村々を回って農家から牛馬を買い集め、各地の牛馬市などでこれを売りさばく者をさして呼んだ。
■五代目 桂 文枝(かつら ぶんし);(1930年 (昭和5)年 4月12日~(2005年3月12日没))、本名∶長谷川 多持。六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春団治と並び、昭和の「上方落語の四天王」と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。1984年1月、三代目桂春団治の後を受け、上方落語協会第4代会長に就任。右写真。
■後家(ごけ);夫と死別した妻、寡婦。未亡人と同義に通例用いられているが、「家」制度のもとで家長の没後も「婚家」にとどまり、中継的な家長ないしは若年の家長の後見の地位にある「妻」の身分をさすのが原義であろう。
■馬子(まご);馬をひいて人や荷物を運ぶことを職業とした人。 うまかた。 うまおい。
■玉造(たまつくり);大阪市中央区と天王寺区の町名。または同市中央区と天王寺区の地域名称。
■玉造のお稲荷さん;大阪市中央区玉造2-3-8。玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)は、大阪市中央区玉造にある神社。旧社格は府社。登記上の宗教法人名称は稲荷神社(いなりじんじゃ)。
■長屋の真ん中に井戸(ながやの まんなかに いど);井戸が共有だったので炊事洗濯はみんな同じ場所でやってます。ですからその場所での会話を井戸端会議と言いました。
トイレ(惣後架/そうこうか)ももちろん共用です。なので今のように一箇所ではなく、長屋の戸数に比例して複数箇設置してありました。
子供も多かったので一個じゃ足りません。間取りは今風に言うと1Kタイプ。家賃が高いところは2Kや3Kタイプや二階建てもありました。ゴミ捨て場(芥溜/ごみため)があったほか、土地の守り神であるお稲荷さんがありました。
江戸は家事ばやいので風呂は長屋にはまず存在しませんので銭湯に行きます。
右写真、長屋の井戸 深川江戸資料館。
■糊屋のお婆ぁはん(のりやの おばあさん);おしゃべりといえば糊屋の婆さんが出てくるほど。亭主はなくしていて、一人暮らしなんでしょうか、その名のとおり、表看板に姫糊を売り歩いていました。
姫糊は、現在の生活のなかでは出番が少なくなりました。今でも後糊つけは行われるので、ビニールのチューブに入ってスーパーの家庭用品棚あたりに並んでいます。
クリーニング屋などないし、洗濯後にアイロンをかけたりもしなかったその昔は、木綿物の洗濯物は、姫糊を薄くといた水につけ形を整えて干すことがどこの家でも行われていた。洗濯の干し板〔張り板〕といって、幅30~55cm、丈180cm、厚さ2cmほどの板に、姫糊をといた水にしたした洗濯物を張り付けて干すこともあった。乾いたあとは、糊がつよいとぴんとはって薄い板のようになる。
江戸っ子はどういうものか、ゴワゴワに糊の利いてピンと張った浴衣をとりわけ好んだようで。
■帳場(ちょうば);① 夫役に当てられ運送・道普請などをすべき受持の区域。また、一般に仕事場の受持区域や得意先。持ち場。
■パッチ;股引きと似たような衣類の「パッチ」との違いです。 確かにパッと見て、股引きとパッチの違いを区別する要素はあまり見当たりません。 だが、見た目では違いが少ない中で、日本で言われている違いは大きく分けて2つほどあります。 その2つの違いは、日本の中でも統一していないのです。
その違いは、関東と関西では異なります。
■シシ垂れ(ししたれ);(大阪ことば)小便(小児語)。小便タレ。小児は舌が回らないので、一語の主音を踊らせて言うことが多い。大便のことはババ。
■八軒家(はっけんや);(現・大阪市中央区天満橋京町1−1)天満橋南詰の西側。天満橋から天神橋までの大川の左岸は、大阪と京伏見を結ぶ水運の発着所であった。周辺に八軒の旅宿があったことから八軒家と言われるようになったという。
■末吉橋(すえよしばし);末吉橋(南船場1丁目-2の東)は、南蛮貿易で活躍した平野の豪商末吉孫左衛門が架けたと言い伝えられている。その末吉家の別邸が橋の西詰にあったとも言われている。江戸時代の末吉橋は町橋で、橋筋の町々の募金によって維持されていた。
末吉橋は明治43年、市電第3期線の事業で、鋼橋になり、その後、第一次都市計画事業によってコンクリート製のアーチ橋が架けられた。隣接した長堀川の安綿橋と同じデザインになっており、統一性のある風景を作っていた。戦後、長堀川が埋め立てられとき、拡幅されて今日に至っている。八軒家から約2.2km。
■住吉橋(すみよしばし);(南堀江1丁目18の南)、道頓堀川の東側沿岸部は早くから開けたが、西側の本格的な開発の開始は元禄時代末期からのことである。堀江一帯の開発にともなって住吉橋、幸橋、汐見橋、日吉橋の4橋が架けられた。西道頓堀川の沿岸は、土佐や薩摩などからの入港船の荷揚げ場となり、多くの銅吹屋も営業していた。住吉橋は、橋の上に立つとはるか南に住吉の高燈篭を望むことができたためこの名が付けられたという。
享保九年(1791)に発生した大坂最大の火災であった妙智焼では、住吉橋も被害を受けた。また、宝永4年(1707)と嘉永7年(1854)の津波によって、道頓堀川の橋は破壊されている。住吉橋から約2.1km、最低でも倍の料金をもらわなくては合いません。
■割木(わりき);木を小割りにした、たきぎ。まき。割薪(わりまき)。
■髪結(かみゆい);髪を結う職人。平安・鎌倉時代には男性は烏帽子(えぼし)をかぶるために簡単な結髪ですんでいたが、室町後期には露頭(ろとう)や月代(さかやき)が一般的になり、そのため、結髪や月代そりを職業とする者が現れた。別に一銭剃(いっせんぞり)、一銭職とも呼ばれたが、これは初期の髪結賃からの呼称とされる。また取りたたむことのできるような簡略な仮店(〈床〉)で営業したことから、その店は髪結床(かみゆいどこ)、〈とこや〉と呼ばれた。近世には髪結は主に〈町(ちょう)抱え〉〈村抱え〉の形で存在していた。三都(江戸・大坂・京都)では髪結床は、橋詰、辻などに床をかまえる出床(でどこ)、番所や会所の内にもうける内床があるが(他に道具をもって顧客をまわる髪結があった)、ともに町の所有、管理下におかれており、江戸で番所に床をもうけて番役を代行したように、地域共同体の特定機能を果たすように、いわば雇われていた。そのほか髪結には、橋の見張番、火事の際に役所などに駆け付けることなどの〈役〉が課されていた。さらに髪結床は、《浮世床》や《江戸繁昌記》に描かれるように町の社交場でもあった。なお、女の髪を結う女髪結は、芸妓など一部を除いて女性は自ら結ったことから、現れたのは遅く、禁止されるなどしたが、幕末には公然と営業していた。
女髪結い、彼女たちは筋目櫛や梳き櫛などを風呂敷に包んで顧客を訪ね、要望を聞きながら最新の髪形を結っていった。江戸時代後期には毎年のようにスタイルブックが売り出され、髪結いはそれを参考にアレンジを加えて結っていた。
女髪結い自体は着古した地味な衣装に前垂れを帯代わりにするような堅実で質素な女性が多かったのだが、幕府は他人に髪を結わせるという行為が贅沢だとして、たびたび禁止令を出していた。
髪結い料は安永ごろの資料を見ると一回で200文程度で、物価や時代によって多少の変動があった。また、遊郭の女郎や大店の妻女からは季節ごとに祝儀の品が届いた。
■質屋(しちや);財産的価値のある物品を質(担保)に取り、流質期限までに弁済を受けないときは当該質物をもってその弁済に充てる条件で金銭の貸し付け業務を行う事業者。質店や質舗、名古屋及び関西ではひちやとも呼ばれ、一六銀行(いちろくぎんこう)と言う俗称でも知られる。物品を質草にして金銭を借り入れることを「質入れ」といい、借入金を弁済して質草を取り戻すことを「質請け」という。
■家主っさん(やぬしさん);近世、地主や貸家の持ち主の代わりに、貸家の世話や取り締まりをする者。やぬし。大家。差配(さはい)。
長屋は「地主」の所有物で、「大家」は地主から長屋の管理や賃料の徴収を委託され、地主から給料をもらっていた。「家主」や「家守(やもり)」とも呼ばれていたが、家守が一番仕事の内容に近いだろう。
江戸時代の大家には別の顔もあった。地主に変わって「町役人」として町政にも携わっていた。新しい入居者があれば、大家は当人の名前や職業、年齢、家族構成などを町名主に届け、名主が人別帳(にんべつちょう)という戸籍簿に記載して奉行所に届ける仕組みになっていた。また、長屋の店子から罪人が出ると、連座といって連帯責任を取らされるので、入居者や保証人の身元調査は厳重に行われた。大家はたいがい、裏長屋の入り口の一角に住んでいたりした。近くに住んで、常に睨みをきかせているわけだから「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉が生まれた。
大家の余録として、長屋から出る人糞(糞尿)やゴミです。 長屋の便所に貯まる糞尿は江戸近郊から百姓たちがわざわざ肥料として買いに来るのです。 ゴミもそうです。売上金は暮れの店子に配る餅代にその一部を当てました。
■利で理を争おたところで;福沢諭吉の言葉。多くの賛否両論の論争を巻き起こしてきたが、今でも部分的に通用する考え方だ。
利を争うのは嫌らしいという風土が今でも日本では根強い。でも、いろいろな社長さんとお付き合いをしてきて、「利を争う」社長さんほど理性的な人が多く、かえって仲良くなれたし可愛がってももらった。そして、従業員には厳しくても親分肌は見せないし、サービス残業は絶対にさせなかったり、理不尽なことは絶対に言わなかった。でも法律の許す範囲内では、リーマン・ショックでは、リストラをバシバシする一面もあったが、その論理は明晰であった。社長は自分を庇護する親分であって欲しかった従業員は恨んでいるだろうが。
福沢諭吉『文明論之概略』より、
■城の馬場(しろのばば);府庁からJR森ノ宮駅周辺まで広がっていた芝生の広場が「馬場」と呼ばれ、現在の町名にも残る。江戸時代に、馬場は城代や将軍の親衛隊「大坂大番」が陣容を整えた場所で、「番場」とも書いた。
■天満橋(てんまばし);北区天満1丁目南、旧大川に架かる橋で、東南に大阪城があり、西に八軒屋が有る。
「天満橋」 北斎画
■西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど);〘名〙 仏語。阿彌陀仏の浄土。この娑婆世界から西方に十万億の仏土を隔てたかなたにあるという安楽の世界。極楽浄土。西方極楽。西方安楽国。西方安養世界。西方世界。西方。「西方浄土」という表現は11世紀以降、浄土教の流布に伴って一般化した。平安朝末から中世には、落日に向かって西方浄土を観想する日想観が流行した。
■片町(かたまち);大阪市都島区の南部に位置する。北は東野田町、東はJR大阪環状線を挟んで城東区新喜多、南は寝屋川を挟んで中央区大手前および城見、西は旧淀川(大川)を挟んで北区天満とそれぞれ接する。
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