落語「太閤の猿」の舞台を行く
   

 

 初代 森乃福郎の噺、「太閤の猿」(たいこうのさる)より


 

 ♪何をくよくよ、川端柳、焦がるる何としょ
   水の流れを見て暮らす、東雲のストライキ
   さりとは辛いね、てなこと、おっしゃいましたかね~

 これはあの、「東雲節(しののめぶし)」と言ぃまして、明治32年の12月に名古屋の旭新地に遊郭がある。東雲楼といぅお見世がありまして。そこへ勤めてらっしゃったと言ぃますか、いわゆるあの春を鬻(ひさ)いでといぅ女の方でございますが、その方々がストライキをおやりになった。それでこの歌ができたといぅことになっとぉります。で「東雲のストライキ」といぅ言葉が入っとぉりますわなぁ。
  まっ、そぉいぅことで。大阪城の主といぅたら豊臣秀吉公でございます。この太閤殿下として、これはもぉ大変ご威勢が盛んでございます。で、その太閤殿下のもとに使えておりましたんが堺の鞘師(さやし)、刀の鞘を作る人ですね、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)といぅ方。こらご存じでしょ、頓知頓才が利く頭の回転が早い。お伽(とぎ)の衆として、つまり太閤殿下の話し相手としてお城のほぉへ行っておりました。なかなかのご寵愛(ちょ~あい)ぶりでございます。

 この新左衛門を秀吉公が、「世には『へつらう』といぅことがあると聞くが、それはその良きことか悪しきことか? どぉじゃな?」、「ははッ、申し上げます。世に『へつらう』といぅことは下世話で申しますと『喉元に入る』といぅことでございまして、いわゆる『おベンチャラ』でございます。これは悪しきことでござりまする、武士といたしましては忌むべきことでございまする」、「そぉか、では新左はへつらわんな?」、「へつらいません」、「そぉか、世情では『余の顔が猿に似ておる』と言ぅが、それはまことか?」。
 さぁ、何ぼ、『おベンチャラは悪しきこと』でも、ねッ、真実を言(ゆ)お思ても目の前に猿そっくりのんおりまっしゃろ、猿面冠者(さるめんかじゃ)と言われた秀吉公ですから。せやから、『えぇ、もぉ、その通りよぉ似たはりますわ』とは、これ言われへん。さぁどぉするか? そこが頭がえぇ、曽呂利新左衛門さん。「はッ、殿下が猿に似させられてるのではございません。猿、幸いを得て殿下に似たものかと存じます」、「なるほど、余が似ているのではなく、猿が余に似ておるか。んッ、面白い。では、余にそっくりの猿を探してまいれ」。
 君命でございます。さぁ、曽呂利新左衛門さん大変でございます、方々探しましたが、顔はもぉどの猿持って来てもピッタリなんでございますけども、体つきもこぉ似てるやつやないとあかんといぅことで方々探しました。幸いなこと、丹波の国にお百姓さんの飼い猿、こら年を経ております、毛ぇがもぉ真っ白になっとります白い猿でございます。もぉ体つきが太閤殿下そっくり。三百両といぅ高額のお金で購(あがな)い求めまして殿下にお目通り。

 「ん~ん、愛(う)いやつじゃ。おぉ、この猿が余に似たのか、そぉかそぉか。よし、それならばこの猿め、余と同等の風をさせよ。そして、余と同じよぉな扱いをせぇ」。さぁ、えらいことでございます、白羽二重(しろはぶたえ)の衣類、紫の踏込(ふみこみ)、角襟(かくえり)の羽織でございます。それから中啓(ちゅ~けぇ)と言ぃまして、扇子をこぉ半分ほど開けたやつ。これを持たしまして、お目通り。さぁもぉ、どちらが太閤殿下で、どちらが猿や分からん。
  「んッ、面白いやつじゃ、武村三左衛門宅へ預ける」。さぁ、武村三左衛門さんといぅ家来、さっぱりですわ。普通の人間預かんねやったらともかくも、猿や。しかもこれ、太閤殿下とそっくりで、ご寵愛の猿。もしものことがあったら切腹もんですわ。もぉあんた、見張り立たすや何かして、ひと部屋に鳥屋(とや)を作って、そん中へこの猿を入れまして、三食、太閤殿下のお召し上がりになるそのお膳をば、おんなじのん作って持ってまいります。

 毎日のよぉにお城へ上がって、この猿が太閤殿下といろいろ遊んどりますが、ある日のこと太閤殿下、運動がてらといぅわけで、城内のお廊下をばズ~ッとお歩きになる。で、太閤殿下だけかと思うと、その後ろからおんなじカッコした、おんなじ顔つきのこの猿がチョコチョコと付いて来よる。各お大名がご挨拶にといぅことで上がってまいります、遠目に見えるわけ。「おッ、殿下が来られた」ちょっと傍らへ寄って、「ははぁ~ッ」と目礼でございます、「あぁ、皆の者よく来たな。んッ、あとから来るのは猿じゃ、よく見ておけ」てなこと言ぃながら。「あぁ~、あれが殿下ご寵愛の猿めにござりまするか、よく似ておりますなぁ」、「さよぉ、まったくそっくりでござりまするなぁ」てなこと言ぅております。これを四、五日続けまして。今度はその廊下を歩く順番を変えました。この太閤殿下、先にこのお猿を歩かして、ほで、あとから殿下がチョコチョ コと付いておいでになる。大名のほぉ、それ分かりまへんさかいな。
 「おぉ、向こぉから殿下がお越しになった。ははぁ~ッ」、「コリャコリャ、そら猿じゃ。余(よ)は後ろじゃ」、「あぁ、これはこれはご無礼をいたしました」、「面白いなぁ、二度頭を下げよった」。しょ~もないこと喜んでおります。そぉこぉするうちに、それが飽きてきたんで太閤殿下は、今度は袋竹刀(ふくろしない)を猿に持たしまして、そしてこの人の首筋んところをパ~ンと打つ、これを教えました。猿の人真似と言ぃますよぉに、猿は知恵がございますから、すぐにその袋竹刀を持って人を叩くことを覚えてしまいよる。
 さぁ、何とかこの猿に、城に上がって来るお大名を叩かしてみたい。「今にも来んかいなぁ」と、お待ちになっております。そこへお越しになったんが、加藤清正公でございます。こらもぉ立烏帽子(たてえぼし)、素袍(すほぉ)大紋の袖をばかき合わせまして、丁重に、「加藤清正にござりまする、殿下にはうるわしきご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」、「おぉ清正、来たか、よぉ来た。猿、行けッ」。猿は袋竹刀持ちまして、清正んとこまで行って首筋をポ~ンッ、「こらッ、何をする」。これは殿下ご寵愛の猿、「ははぁ~ッ」叩かれて、ははぁ~ッちゅうて謝ってます、さぁ面白い。
 「こぉいぅことを殿下がなさるとは」と思ぉておりますと、ご家来の福島正則公、この方も剛勇の方でございますが、ズ~ッとご挨拶にお見えになりました。「福島左衛門尉(さえもんのじょ~)正則にございまする。殿下にはうるわしきご尊顔の態を拝し恐悦至極に存じ奉ります」、「おぉ正則か、よぉ来た。猿、行けッ」。猿、また袋竹刀持ってタタタッ。福島さんのこの首筋のとこポ~ンッ。「こらッ、何やつじゃ? こっちへ来い、こっちへ来い」、「正則殿ご辛抱でござる、殿下ご寵愛の猿めにござる」、「さよぉでござるか、よくぞおとどめ下された、お礼を申し上げる、ははぁ~ッ」。もぉ、やっぱり殿下の顔色見とかんことには、殿下の可愛がってられる猿が無茶するんですから、怒るにも怒れんわけでございます。このあと加藤嘉明(よしあきら)、片桐市正且元(いちのかみかつもと)登城してまいりますと、みなんな首筋のとこを猿に叩かれる。

  この噂が奥州、伊達大膳大夫(だいぜんのたゆ~)政宗公の耳に入りまして、独眼竜政宗と言ぃますなぁ、伊達政宗。この人は偉い人でございましてね、永禄十年といぃますから1567年にお生まれになりました、これがあの東北の米沢でございます。ちょ~どその頃、織田信長公が上洛寸前でございまして三十四歳、そして豊臣秀吉公、太閤殿下が三十二歳の折でございます。その折に、お生まれになりましたが、もし二十年早くこのお生まれになったら、天下統一はこの伊達政宗公がなされたんではないかといぅ、名君でございました。ただあの、五歳の時にですね、ちょっとご病気になられまして、それが元で右目がご不自由(ふじゅ~)におなりになった。そこであの、独眼竜政宗といぅあだ名のよぉなものが付いたわけでございます。さぁ、この伊達政宗公の耳に入ったから、「いかに殿下のお言ぃ付けとは言ぃ条、猿が大名をぶつとはまことにもってけしからん。余が諌めてしんぜる」といぅことで、家来を連れまして猿を預かってる武村三左衛門の屋敷へお越しになりまして。

 「これはこれは、伊達のお殿さまで」、「あなたのところに、猿がおるそぉじゃが?」、「はぁ、殿下ご寵愛の猿でございまする」、「その猿にちょっと会わしてもらいたい」、「いえ、もしものことがございましては、わたくしめが腹を切・・・」、「分かっておる。明日(みょ~にち)な、城中でお会いすることになっておるが、前もってお顔だけでも拝見したい。おいッ、菓子折りを渡せ、いや、何も買ってくる物がなかったから、これ二百両ある、菓子でも買って食べてくれ」、「さよぉでございますか」。で、案内されまして。「この部屋か? ここに鳥屋があるな、この中か」、「はぁ、それではどぉぞ」。鳥屋の戸を開けますと、そっから猿がヌ~ッと出て来ました。
 政宗公、この猿をば首筋をグワっと掴みまして、「コリャッ、そのほぉか? そのほぉが殿下のお言ぃ付けと言ぃ条、大名を打つといぅのはそのほぉか? よぉ~し、余が一度懲らしめてやる、よいかッ」と言ぃながら、首筋をギュッと持ちまして、畳の目がございますな、そこへその鼻っ柱をくっつけましてゴシゴシゴシゴシ、大根おろし作ってるよぉなもんだ。真っ赤になってしもた。尻だけやない、鼻の頭まで真っ赤になって、「よいか、余は明日登城する。もしそのほぉが余を打てば、そのままでは捨て置かんぞ、その場において引っ裂いてくれる。よいか、余の顔を見よ」この顔を見せた。「うわぁ~ッ」てなもんで、「分かったか? 分かったなら入っておれ」バ~ン、鳥屋へ放り込んでしまわれました。

  さぁ、明くる日でございます。「伊達大膳大夫政宗にござりまする、殿下にはうるわしきご尊顔の態を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」、「おぉ、これはこれは伊達殿か、よぉ来られた」。清正とか、正則とか、嘉明とか且元とか、あぁいぅのはもぉ皆昔からの家来でございますから、「おぉ正則か、清正か」気軽に言ぅてはりますが、やはり伊達のお殿さんといぅのは客分でございます。もぉこの、丁寧な言葉をお使いになる、「伊達殿か、よぉ来られた」で、そんなに大事にしてるかと思うと、これ伊達政宗に猿でボ~ンとやってみたいなぁといぅ、これやっぱり起こりますわなぁ。頭を下げてるとこへ、「猿、行けッ」猿は知らんもんでっさかい、袋竹刀持ってチョコチョコ、政宗公の首筋を叩こぉとしますと政宗公がその独眼竜の顔でもってグイッとこぉ睨みます。「うわッ、きのうのオッサンやこれ。えらい目に遭ぉたがな鼻っ柱こすられて、叩いたら引き裂く言われたんや、こらあかん、逃げるにこしたことないわ」歩いてチョコチョコッと殿下のそばへ戻って来た。「猿どぉした? ん? 行かぬか、行けッ」、「難儀ななぁ、うちの大将、きのうの一件知らんねや。難儀やなぁ、と言ぅて行かなんだらいかんしなぁ、とにかく行ったろ」。ちゅなもんで、またチョコチョコと行きますと、政宗公にギョロッと睨まれます。「うわぁ~、くわばらくわばら」と言ぅて帰ってまいりますと、「猿行けッ」。行きゃ睨まれる、戻りゃ猿行け、行きゃ睨まれる、戻りゃ猿行け、もぉこのとき、中に入って一番猿が辛かった。
  そこでその、歌が出来上がったわけでございます。「猿とは、辛いね」、  ♪てなことおっしゃいましたかね~。

 



ことば

初代 森乃福郎(もりの ふくろう);(1935年9月3日 - 1998年12月27日) 本名:仲川吉治(なかがわ よしはる)。右写真。
  京都・先斗町の御茶屋の息子に生まれる。子供のころから演芸が好きで京都府立鴨沂高等学校在学中の1955年に新関西新聞主宰の演芸コンクールで「強情灸」を演じた、その時の審査員の奥野しげるの紹介で高校卒業後、1956年4月に三代目笑福亭福松(前名は二代目文の家かしく、三友派で活躍した二代目桂文之助の実子)に入門、笑福亭福郎を名乗り、同年12月に戎橋松竹で初舞台。1961年後半、藤山寛美の命名で森乃福郎に改名し、終生この名で通した。師の実父の名跡であり、福郎自身も憧憬を抱いていた三代目桂文之助を1987年に襲名する計画が、所属する松竹芸能で立ち上がっていたが、同時に二代目笑福亭松翁を襲名する予定であった六代目笑福亭松鶴が前年に亡くなったため、立ち消えになっている。1989年ころに体調を崩し片肺を摘出してからは第一線から退き、タレントの活動をセーブし落語の活動を中心とした落語会、浪花座などに出演。その後入退院を繰り返し、肺炎併発による呼吸不全のため死去。63歳没、早い死去であった。
 三代目桂米朝と並んで落語家タレントの草分け的存在であった。漫談をメインとするようになったのは、1961年に花月亭九里丸が引退して関西から漫談家がいなくなることを憂慮した松竹新演芸の勝忠男が説得した結果である。

太閤(たいこう);平安時代、摂政・太政大臣の別称。 のち関白を辞したあとも内覧の宣旨をうけている者、または関白を子に譲った者の称となった。豊臣秀吉は関白を養子秀次に譲り、みずから太閤と称した。
 敬称は摂政・関白と同じく「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。本来は太閤下(たいこうか)と呼ばれていたが、やがて略されるようになった。大殿(おおとの)とも呼ばれる。 また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という。
 豊臣秀吉が養嗣子の秀次に関白を譲った後も慣例より太閤と呼ばれたが、秀吉の死後も太閤といえば秀吉を指すことが多く、太閤検地のような語を構成することもある。このことから「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言までできるほどだった。特に秀吉を指すことを強調する場合は豊太閤(ほうたいこう)と呼ばれる。
 明治維新で旧来の太政官制が廃止され摂政・関白がなくなると、太閤の語もやがて過去のものとなるはずだったが、百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引し、艶福家の点でも共通する伊藤博文が、豊太閤に倣って今太閤(いまたいこう)と呼ばれるようになった。さらに戦後には高等教育の学歴を持たずに内閣総理大臣まで上り詰めた田中角栄も今太閤と呼ばれるようになった。 このように「今太閤」は貧しい生まれから立身出世して大きな権力を握るに至った者の代名詞として使われるようになり、この他にも保守政治家の三木武吉、阪急電鉄の小林一三、松下電器の松下幸之助、大映の永田雅一らも今太閤と、また吉本興業の吉本せいは女今太閤と呼ばれた。

東雲節(しののめぶし);明治時代の流行歌。歌詞の中の「シノノメノ ストライキ」が曲名となった。その起源は明治31年(1898)ころ名古屋の娼妓佐野ふみ(源氏名、東雲)が楼主の脅迫に堪え切れず、米人宣教師モルフィ(U.S.Murphy)の家に脱走した事件を風刺した歌。名古屋の遊郭旭新地の東雲楼の娼妓のストライキから生まれた。熊本の二本木遊郭の東雲楼のことをうたったからともいうが誤りである。演歌師によって全国的に広がった。ストライキ節。1902年から2年間に娼妓は全国で約1万2千人減少した。が、単に公娼が私娼になったに過ぎないという考えもある。
 「何をくよくよ川端柳」と歌い出す歌詞は、都々逸(どどいつ)でも周知のポピュラーなもので、『鉄道唱歌』の後を受け、1900年から日本各地で流行した。
 出典 精選版 日本国語大辞典

 『何をくよくよ川端柳
  焦がるるなんとしょ
  水の流れを見て暮らす
  東雲のストライキ
  さりとはつらいね
  てなこと仰いましたかね』

 一般的には、作詞者、作曲者は不詳とされ、歌詞にも様々な異同がある。

ストライキ(strike);労働者の争議行為の一つであり、労働者が自分たちの要求を通すために、団結して一時的に労働の提供を拒否することをいう。ストと省略されることも多い。罷業あるいは同盟罷業とも訳される。経済学的には、労働者の行う労働力商品の一時的な売り止め行為を意味する。これに対抗するものとして、使用者の行うのがロックアウト(工場閉鎖)である。ストライキは、集団的に作業を怠るサボタージュ(怠業)とは区別される。また休暇闘争や残業拒否闘争などは、スト類似効果のある争議行為ではあってもストライキではない。 なお日本では、公務員といった官公労働者のストライキを法律で禁じている。

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし);羽柴秀吉【はしばひでよし(1536~1598)】 織田信長家臣。木下弥右衛門の男。官途は筑前守。通称藤吉郎。別名豊臣秀吉。室は杉原定利の娘(禰々姫)。1554年、足軽衆として織田信長に仕えた。1566年、「美濃稲葉山城の戦い」で蜂須賀正勝、前野長康、竹中重治、牧村利貞、丸毛兼利とともに墨俣城を築城して斎藤龍興勢と戦い戦功を挙げた。1568年、「近江観音寺城の戦い」で織田信長に従い六角義賢、六角義治勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長に従い撤退する織田信長勢の殿を務め、朝倉義景、浅井長政勢と戦い敗退した。1573年、「一乗谷城の戦い」で織田信長に従い朝倉義景、浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。近江長浜城(180,000石)を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀勢と戦い討死したため、毛利輝元と和議を結び備中高松城から畿内に転進した。「山城山崎の戦い」で明智光秀勢と戦い明智光秀を討取る戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家と戦い柴田勝家を討取る戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で松平元康勢と戦い敗退した。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直勢と戦い北条氏直を滅ぼして、松平元康を駿河駿府城から武蔵江戸城に転封させた。1592年、「文禄の役」で明国、李氏朝鮮勢と戦い敗退した。1598年、継嗣の羽柴秀頼を五大老に託して病没した。
 『戦国人名事典』by新人物往来社。

 右図、豊臣秀吉像(狩野光信画)

 「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿から猿と呼ばれた。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

  羽柴秀吉家臣団【はしばひでよしかしんだん】: 羽柴秀吉は足軽から織田信長に仕え方面軍司令官から天下人まで登りつめた。その能力、人柄は並はずれていたが、最大の弱点が戦国武将に必要な譜代衆や枝連衆を形成できない点にあった。連衆で能力が高かったのは弟の羽柴秀長のみであった。1591年、羽柴秀長は、羽柴秀吉が全国を平定すると病没した。羽柴秀長も実子かおらず、姉の子を養子(羽柴秀保)に迎えたが大和羽柴家の家督を相続後病没した。1598年、羽柴秀吉が病没したため、武断派(加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政など)と文治派(石田三成、増田長盛、長束正家など)が対立した。

お伽衆(おとぎしゅう);室町時代後期から江戸時代初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした。御迦衆とも書き、御咄衆(おはなししゆう)、相伴衆(そうばんしゅう)などの別称もあるが、江戸時代になると談判衆(だんぱんしゅう)、安西衆(あんざいしゅう)とも呼ばれた。
 豊臣秀吉は読み書きが不得手であり、それを補うべく耳学問の師として御伽衆を多く揃えた。『甫庵太閤記』によれば800人もいたという。秀吉の御伽衆として最も有名な者は、山名禅高と曽呂利新左衛門であろう。禅高は名門山名家の末裔であるが、秀吉や家康に仕えた際にこの天下人と交わした逸話がかなり残っている。曽呂利は(正体不明の人物であるが)軽口・頓智に富み、狂歌の達人として人気者だった。

曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん);右絵図。豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物。落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。堺で刀の鞘を作っていた杉本新左衛門(坂内宗拾)という鞘師で、作った鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。
 また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる。 茶道を武野紹鴎に学び、香道や和歌にも通じていたという(『茶人系全集』)。『時慶卿記』に曽呂利が豊臣秀次の茶会に出席した記述がみられるなど、『雨窓閑話』『半日閑話』ほか江戸時代の書物に記録がある。本名は杉森彦右衛門で、坂内宗拾と名乗ったともいう。
 大阪府堺市堺区市之町東には新左衛門の屋敷跡の碑が建てられており、堺市内の長栄山妙法寺には墓がある。没年は慶長2年(1597年)、慶長8年(1603年)、寛永19年(1642年)など諸説ある。

 逸話も残っている。
  ・ この噺、 秀吉が、猿に顔が似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」と言って笑わせた。
  ・ 秀吉から褒美を下される際、何を希望するか尋ねられた新左衛門は、今日は米1粒、翌日には倍の2粒、その翌日には更に倍の4粒と指数関数の法則で日ごとに倍の量の米を100日間もらう事を希望した。米粒なら大した事はないと思った秀吉は簡単に承諾したが、日ごとに倍ずつ増やして行くと100日後には膨大な量になる事に途中で気づき、他の褒美に変えてもらった。
 計算してみると、19日で、約10kg、まだ大したことはありません。29日で約10トン、チョッと気になる量です。49日で現在日本の米の総生産量8、483、000トンを軽く越えます。100日だったら全世界の穀物生産量の何年分も軽く超えてしまいます。
  ・ 御前でおならをして秀吉に笏で叩かれて、とっさに、「おならして国二ヶ国を得たりけり頭はりまに尻はびっちう(びっちゅう)」という歌を詠んだ。
  ・ ある時、秀吉が望みのものをやろうというとに「耳のにおいを毎日嗅がせてほしい」と願い、人々の前で口を秀吉の耳に寄せるようになった。大名たちは陰口をきかれたかと心落ち着かず、新左衛門に山のような贈物を届けたという。
 ウイキペディア

へつらう(諂う);人の気に入るようにふるまう。こびる。おもねる。追従(ツイシヨウ)する。

君命(くんめい);君主の命令。

白羽二重(しろはぶたえ);経糸(タテイト)に生糸、緯糸(ヌキイト)に濡らした生糸を織り込んだ、緻密で肌触り良く光沢のある平組織の上質な白生地。主として紋付の礼装に用いる。福井・石川・富山などが主産地。書言字考節用集「光絹、ハブタヘ」。

踏込(ふみこみ);踏込袴(ふんごみばかま)と言い、裾(すそ)を次第に細く仕立てたもので裾細袴ともいう。信長、秀吉の頃から直垂(ひたたれ/垂領(タリクビ)の下に用いていたともいわれ、野袴の一種であり徳川時代には半袴の代わりに武士の用いるものとなった。
 直垂(ひたたれ(右図、広辞苑)/垂領(タリクビ)式の上衣で、袴と合せて用いた、武家の代表的衣服。もと庶民の衣服。鎌倉時代に武家の幕府出仕の服となり、近世は侍従以上の礼服とされ、風折烏帽子(カザオリエボシ)・長袴とともに着用した。公家も内々に用いた。地質は精好(セイゴウ)、無紋、5ヵ所に組紐の菊綴(キクトジ)・胸紐があり、裏付きを正式とした。長直垂

角襟(かくえり)の羽織;直垂(ヒタタレ)のように、前身(マエミ)の正面中央を欠いて、背から前身の左右にとりつけたえりの様式。方領(ほうりょう)。
  直垂 (ひたたれ) ・素襖 (すおう) などのように、前身 (まえみ) の左右の端につけた方形の襟。正面中央で合わせて着用する。

中啓(ちゅ~けぇ);親骨の上端を外へそらし、畳んでも半ば開いているように造った扇。末広。右図、広辞苑。

武村三左衛門(たけむら さんざえもん);この猿の噺で、創作の人物。

福島正則(ふくしま まさのり);(1561~1624) 福島正信の男。官途は左衛門尉。室は津田長義の娘(照雲院)。1578年、「播磨三木城の戦い」で羽柴秀吉に従い別所長治勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「山城山崎の戦い」で羽柴秀吉に従い明智光秀勢と戦い戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に従い柴田勝家の家臣拝郷家嘉勢と戦い戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で父の福島正信とともに羽柴秀吉に従い松平元康勢と戦い敗退した。1587年、「九州征伐」で羽柴秀長に従い島津義久勢と戦い戦功を挙げた。伊予今治城(110,000石)を領した。1590年、「伊豆韮山城の戦い」で織田信雄、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷とともに北条氏直の家臣北条氏規勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総とともに李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1595年、尾張清洲城(240,000石)を領した。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で池田輝政とともに織田信秀勢と戦い戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」で松平元康に従い石田三成、小西行長、宇喜多秀家勢と戦功を挙げた。安芸広島城(498,200石)を領した。1619年、武家諸法度違反に問われ改易処分に処された。
 『戦国人名辞典』by新人物往来社。

片桐且元(かたぎり かつもと);(1556~1615) 羽柴秀吉家臣。片桐直貞の男。官途は東市正。室は片桐半右衛門の娘。別名「賤ヶ岳の七本槍」。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で福島正則、加藤清正とともに羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「朝鮮晋州城の戦い」で細川忠興に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1598年、摂津茨木城(10,000石)を領した。羽柴秀頼の傅役を務めた。1600年、「近江大津城の戦い」で弟の片桐貞隆が石田三成に従い京極高次勢と戦い戦功を挙げた。羽柴秀頼と松平元康の取次役を務め、大和国内で28,000石を領した。1614年、「方広寺鐘銘事件」で大野治長、淀殿から松平元康との内通を疑われ、大坂城を退去した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。羽柴秀頼に従い殉死した。
 『戦国人名事典』by新人物往来社。
 右図、片桐東市正且元(落合芳幾画「太平記英勇伝七十五」より)

加藤清正(かとうきよまさ);(1562~1611) 羽柴秀吉家臣。加藤清忠の次男。官途は主計頭。通称虎之助。室は菊池武宗の娘(川尻殿)。身の丈は六尺。福島正則とともに羽柴秀吉に養育された。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉に従い毛利輝元の家臣吉川経家勢と戦い戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1588年、肥後隈本城(195,000石)を領した。1592年、「文禄の役」で小西行長とともに先陣を務め、李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1598年、「第二次蔚山城の戦い」で李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い小西行長、立花宗茂勢と戦い戦功を挙げた。肥後隈本城(515,000石)を領した。1611年、浅野幸長とともに羽柴秀頼と松平元康の取次役を務めた。
 ウィキペディア(Wikipedia)。

加藤嘉明(かとう よしあき);(1563~1631) 加藤教明の男(加藤景泰の養子)。官途は左馬助。通称は孫六。別名「賤ヶ岳の七本槍」。室は堀部市右衛門の娘。父の加藤教明とともに羽柴秀吉に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1586年、淡路志智城(15,000石)を領した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で仙石秀久とともに島津義久勢と戦い敗退した。1592年、「文禄の役」で九鬼嘉隆とともに海賊衆を率い李氏朝鮮海賊衆と戦い戦功を挙げた。伊予松前城(100,000石)を領した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康に従い江戸城留守居役を務めた。1627年、岩代会津若松城(400,000石)を領した。治水、鉱山開発、交通網整備、蝋、漆器など産業育成に務め、内政の充実をさせた。
 ウィキペディア(Wikipedia)。

鳥屋(とや);鳥を飼っておく小屋。この噺では、猿を入れておく小屋。

袋竹刀(ふくろしない);竹刀(四つ割竹刀)が考案される以前に剣術の稽古に用いられていた道具の一種。韜、撓、品柄などとも。袋を付けず単にシナイ、シナエともいう。 新陰流では上泉信綱が考案したと伝えられ、蟇肌竹刀(ひきはだしない)とも呼ぶ。
 多くの流派では、一本の竹を幾つかに割り、革を被せて筒状に縫い合わせ、保護したもの。流派によって竹を割る数は四つ割り、八つ割、先を多く割る、割竹を数本袋に詰める、剣道の竹刀ように数本の竹を中結したもの、などさまざまである。長さは流派によって異なり、新陰流では、革に赤漆を施して表面の劣化を防ぎ、全長を三尺三寸(小太刀一尺七寸五分)と定め、縫い目を以って刃と見立てる。非常に軽量であり、ビニール傘よりわずかに重い程度。

立烏帽子(たてえぼし);風折烏帽子に対して、中央部の立った本来の烏帽子をいう。前方を押し込み、また紐で落下を防ぐことも行われた。後世は紙で作り、漆で塗り固めて硬化し、皺(サビ)の別もできた。
 右図、広辞苑。

素袍(すほぉ);右図、広辞苑。直垂(ヒタタレ)の一種。大紋から変化した服で、室町時代に始まる。もと庶人の常服であったが、江戸時代には平士(ヒラザムライ)・陪臣(バイシン)の礼服となる。麻布地で、定紋を付けることは大紋と同じであるが、胸紐・露・菊綴(キクトジ)が革であること、袖に露がないこと、文様があること、袴の腰に袴と同じ地質のものを用い、左右の相引と腰板に紋を付け、後腰に角板を入れることなどが異なる。袴は上下(カミシモ)と称して上と同地質同色の長袴をはくのを普通とし、上下色の異なっているのを素襖袴、半袴を用いるのを素襖小袴という。素襖。

大紋(だいもん);大形の好みの文様または家紋を5ヵ所に刺繍や型染めなどで表した、平絹や麻布製の直垂ヒタタレ。室町時代に始まり、江戸時代には五位の武家(諸大夫)以上の式服と定められ、下に長袴を用いた。袴には、合引と股の左右とに紋をつける。ぬのひたたれ。
 右図、大紋 広辞苑
 落語「本能寺」に信長、光秀が大紋を着た絵図(歌川豊宣画)があります。

恐悦至極(きょうえつしごく);つつしんでよろこぶこと。他人によろこびをいう時の語。

伊達大膳大夫(だいぜんのたゆ~)政宗;(噺から)『独眼竜政宗と言ぃますなぁ、伊達政宗。この人は偉い人でございましてね、永禄十年といぃますから1567年にお生まれになりました、これがあの東北の米沢でございます。ちょ~どその頃、織田信長公が上洛寸前でございまして三十四歳、そして豊臣秀吉公が三十二歳の折でございます。その折に、お生まれになりましたが、もし二十年早くこのお生まれになったら、天下統一はこの伊達政宗公がなされたんではないかといぅ、名君でございました。ただあの、五歳の時にですね、ちょっとご病気になられまして、それが元で右目がご不自由(ふじゅ~)におなりになった。そこであの、独眼竜政宗といぅあだ名のよぉなものが付いたわけでございます』。
  上記、伊達(大膳大夫)政宗公は伊達家中興の祖第九代当主。「独眼竜」の伊達政宗は第十七代当主で、まったくの別人です。

  第十七代当主 伊達政宗(だて まさむね);(1567~1636)安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。輝宗の長男。幼名、梵天丸、長じて藤次郎。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。戦後、仙台藩六二万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣。和歌・茶道に通じ、桃山文化を仙台に移した。

 右図、伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆、江戸中期頃) 数少ない隻眼で描かれた肖像画。

言い条(いいじょう);言い立てるべき事柄の箇条。言いぶん。



                                                            2022年7月記

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