落語「太閤の猿」の舞台を行く 初代 森乃福郎の噺、「太閤の猿」(たいこうのさる)より
■初代 森乃福郎(もりの ふくろう);(1935年9月3日 - 1998年12月27日) 本名:仲川吉治(なかがわ よしはる)。右写真。
■太閤(たいこう);平安時代、摂政・太政大臣の別称。
のち関白を辞したあとも内覧の宣旨をうけている者、または関白を子に譲った者の称となった。豊臣秀吉は関白を養子秀次に譲り、みずから太閤と称した。
■東雲節(しののめぶし);明治時代の流行歌。歌詞の中の「シノノメノ ストライキ」が曲名となった。その起源は明治31年(1898)ころ名古屋の娼妓佐野ふみ(源氏名、東雲)が楼主の脅迫に堪え切れず、米人宣教師モルフィ(U.S.Murphy)の家に脱走した事件を風刺した歌。名古屋の遊郭旭新地の東雲楼の娼妓のストライキから生まれた。熊本の二本木遊郭の東雲楼のことをうたったからともいうが誤りである。演歌師によって全国的に広がった。ストライキ節。1902年から2年間に娼妓は全国で約1万2千人減少した。が、単に公娼が私娼になったに過ぎないという考えもある。
『何をくよくよ川端柳
一般的には、作詞者、作曲者は不詳とされ、歌詞にも様々な異同がある。
■ストライキ(strike);労働者の争議行為の一つであり、労働者が自分たちの要求を通すために、団結して一時的に労働の提供を拒否することをいう。ストと省略されることも多い。罷業あるいは同盟罷業とも訳される。経済学的には、労働者の行う労働力商品の一時的な売り止め行為を意味する。これに対抗するものとして、使用者の行うのがロックアウト(工場閉鎖)である。ストライキは、集団的に作業を怠るサボタージュ(怠業)とは区別される。また休暇闘争や残業拒否闘争などは、スト類似効果のある争議行為ではあってもストライキではない。 なお日本では、公務員といった官公労働者のストライキを法律で禁じている。
■豊臣秀吉(とよとみ ひでよし);羽柴秀吉【はしばひでよし(1536~1598)】
織田信長家臣。木下弥右衛門の男。官途は筑前守。通称藤吉郎。別名豊臣秀吉。室は杉原定利の娘(禰々姫)。1554年、足軽衆として織田信長に仕えた。1566年、「美濃稲葉山城の戦い」で蜂須賀正勝、前野長康、竹中重治、牧村利貞、丸毛兼利とともに墨俣城を築城して斎藤龍興勢と戦い戦功を挙げた。1568年、「近江観音寺城の戦い」で織田信長に従い六角義賢、六角義治勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長に従い撤退する織田信長勢の殿を務め、朝倉義景、浅井長政勢と戦い敗退した。1573年、「一乗谷城の戦い」で織田信長に従い朝倉義景、浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。近江長浜城(180,000石)を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀勢と戦い討死したため、毛利輝元と和議を結び備中高松城から畿内に転進した。「山城山崎の戦い」で明智光秀勢と戦い明智光秀を討取る戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家と戦い柴田勝家を討取る戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で松平元康勢と戦い敗退した。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直勢と戦い北条氏直を滅ぼして、松平元康を駿河駿府城から武蔵江戸城に転封させた。1592年、「文禄の役」で明国、李氏朝鮮勢と戦い敗退した。1598年、継嗣の羽柴秀頼を五大老に託して病没した。
右図、豊臣秀吉像(狩野光信画)
「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿から猿と呼ばれた。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。
秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。
羽柴秀吉家臣団【はしばひでよしかしんだん】:
羽柴秀吉は足軽から織田信長に仕え方面軍司令官から天下人まで登りつめた。その能力、人柄は並はずれていたが、最大の弱点が戦国武将に必要な譜代衆や枝連衆を形成できない点にあった。連衆で能力が高かったのは弟の羽柴秀長のみであった。1591年、羽柴秀長は、羽柴秀吉が全国を平定すると病没した。羽柴秀長も実子かおらず、姉の子を養子(羽柴秀保)に迎えたが大和羽柴家の家督を相続後病没した。1598年、羽柴秀吉が病没したため、武断派(加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政など)と文治派(石田三成、増田長盛、長束正家など)が対立した。
■お伽衆(おとぎしゅう);室町時代後期から江戸時代初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした。御迦衆とも書き、御咄衆(おはなししゆう)、相伴衆(そうばんしゅう)などの別称もあるが、江戸時代になると談判衆(だんぱんしゅう)、安西衆(あんざいしゅう)とも呼ばれた。
■曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん);右絵図。豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物。落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。堺で刀の鞘を作っていた杉本新左衛門(坂内宗拾)という鞘師で、作った鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。
逸話も残っている。
■へつらう(諂う);人の気に入るようにふるまう。こびる。おもねる。追従(ツイシヨウ)する。
■君命(くんめい);君主の命令。
■白羽二重(しろはぶたえ);経糸(タテイト)に生糸、緯糸(ヌキイト)に濡らした生糸を織り込んだ、緻密で肌触り良く光沢のある平組織の上質な白生地。主として紋付の礼装に用いる。福井・石川・富山などが主産地。書言字考節用集「光絹、ハブタヘ」。
■踏込(ふみこみ);踏込袴(ふんごみばかま)と言い、裾(すそ)を次第に細く仕立てたもので裾細袴ともいう。信長、秀吉の頃から直垂(ひたたれ/垂領(タリクビ)の下に用いていたともいわれ、野袴の一種であり徳川時代には半袴の代わりに武士の用いるものとなった。
■角襟(かくえり)の羽織;直垂(ヒタタレ)のように、前身(マエミ)の正面中央を欠いて、背から前身の左右にとりつけたえりの様式。方領(ほうりょう)。
■中啓(ちゅ~けぇ);親骨の上端を外へそらし、畳んでも半ば開いているように造った扇。末広。右図、広辞苑。
■武村三左衛門(たけむら さんざえもん);この猿の噺で、創作の人物。
■福島正則(ふくしま まさのり);(1561~1624)
福島正信の男。官途は左衛門尉。室は津田長義の娘(照雲院)。1578年、「播磨三木城の戦い」で羽柴秀吉に従い別所長治勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「山城山崎の戦い」で羽柴秀吉に従い明智光秀勢と戦い戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に従い柴田勝家の家臣拝郷家嘉勢と戦い戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で父の福島正信とともに羽柴秀吉に従い松平元康勢と戦い敗退した。1587年、「九州征伐」で羽柴秀長に従い島津義久勢と戦い戦功を挙げた。伊予今治城(110,000石)を領した。1590年、「伊豆韮山城の戦い」で織田信雄、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷とともに北条氏直の家臣北条氏規勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総とともに李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1595年、尾張清洲城(240,000石)を領した。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で池田輝政とともに織田信秀勢と戦い戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」で松平元康に従い石田三成、小西行長、宇喜多秀家勢と戦功を挙げた。安芸広島城(498,200石)を領した。1619年、武家諸法度違反に問われ改易処分に処された。
■片桐且元(かたぎり かつもと);(1556~1615)
羽柴秀吉家臣。片桐直貞の男。官途は東市正。室は片桐半右衛門の娘。別名「賤ヶ岳の七本槍」。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で福島正則、加藤清正とともに羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「朝鮮晋州城の戦い」で細川忠興に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1598年、摂津茨木城(10,000石)を領した。羽柴秀頼の傅役を務めた。1600年、「近江大津城の戦い」で弟の片桐貞隆が石田三成に従い京極高次勢と戦い戦功を挙げた。羽柴秀頼と松平元康の取次役を務め、大和国内で28,000石を領した。1614年、「方広寺鐘銘事件」で大野治長、淀殿から松平元康との内通を疑われ、大坂城を退去した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。羽柴秀頼に従い殉死した。
■加藤清正(かとうきよまさ);(1562~1611)
羽柴秀吉家臣。加藤清忠の次男。官途は主計頭。通称虎之助。室は菊池武宗の娘(川尻殿)。身の丈は六尺。福島正則とともに羽柴秀吉に養育された。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉に従い毛利輝元の家臣吉川経家勢と戦い戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1588年、肥後隈本城(195,000石)を領した。1592年、「文禄の役」で小西行長とともに先陣を務め、李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1598年、「第二次蔚山城の戦い」で李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い小西行長、立花宗茂勢と戦い戦功を挙げた。肥後隈本城(515,000石)を領した。1611年、浅野幸長とともに羽柴秀頼と松平元康の取次役を務めた。
■加藤嘉明(かとう よしあき);(1563~1631)
加藤教明の男(加藤景泰の養子)。官途は左馬助。通称は孫六。別名「賤ヶ岳の七本槍」。室は堀部市右衛門の娘。父の加藤教明とともに羽柴秀吉に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1586年、淡路志智城(15,000石)を領した。1587年、「豊後戸次川の戦い」で仙石秀久とともに島津義久勢と戦い敗退した。1592年、「文禄の役」で九鬼嘉隆とともに海賊衆を率い李氏朝鮮海賊衆と戦い戦功を挙げた。伊予松前城(100,000石)を領した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康に従い江戸城留守居役を務めた。1627年、岩代会津若松城(400,000石)を領した。治水、鉱山開発、交通網整備、蝋、漆器など産業育成に務め、内政の充実をさせた。
■鳥屋(とや);鳥を飼っておく小屋。この噺では、猿を入れておく小屋。
■袋竹刀(ふくろしない);竹刀(四つ割竹刀)が考案される以前に剣術の稽古に用いられていた道具の一種。韜、撓、品柄などとも。袋を付けず単にシナイ、シナエともいう。
新陰流では上泉信綱が考案したと伝えられ、蟇肌竹刀(ひきはだしない)とも呼ぶ。
■立烏帽子(たてえぼし);風折烏帽子に対して、中央部の立った本来の烏帽子をいう。前方を押し込み、また紐で落下を防ぐことも行われた。後世は紙で作り、漆で塗り固めて硬化し、皺(サビ)の別もできた。
■素袍(すほぉ);右図、広辞苑。直垂(ヒタタレ)の一種。大紋から変化した服で、室町時代に始まる。もと庶人の常服であったが、江戸時代には平士(ヒラザムライ)・陪臣(バイシン)の礼服となる。麻布地で、定紋を付けることは大紋と同じであるが、胸紐・露・菊綴(キクトジ)が革であること、袖に露がないこと、文様があること、袴の腰に袴と同じ地質のものを用い、左右の相引と腰板に紋を付け、後腰に角板を入れることなどが異なる。袴は上下(カミシモ)と称して上と同地質同色の長袴をはくのを普通とし、上下色の異なっているのを素襖袴、半袴を用いるのを素襖小袴という。素襖。
■大紋(だいもん);大形の好みの文様または家紋を5ヵ所に刺繍や型染めなどで表した、平絹や麻布製の直垂ヒタタレ。室町時代に始まり、江戸時代には五位の武家(諸大夫)以上の式服と定められ、下に長袴を用いた。袴には、合引と股の左右とに紋をつける。ぬのひたたれ。
■恐悦至極(きょうえつしごく);つつしんでよろこぶこと。他人によろこびをいう時の語。
■伊達大膳大夫(だいぜんのたゆ~)政宗;(噺から)『独眼竜政宗と言ぃますなぁ、伊達政宗。この人は偉い人でございましてね、永禄十年といぃますから1567年にお生まれになりました、これがあの東北の米沢でございます。ちょ~どその頃、織田信長公が上洛寸前でございまして三十四歳、そして豊臣秀吉公が三十二歳の折でございます。その折に、お生まれになりましたが、もし二十年早くこのお生まれになったら、天下統一はこの伊達政宗公がなされたんではないかといぅ、名君でございました。ただあの、五歳の時にですね、ちょっとご病気になられまして、それが元で右目がご不自由(ふじゅ~)におなりになった。そこであの、独眼竜政宗といぅあだ名のよぉなものが付いたわけでございます』。
第十七代当主 伊達政宗(だて まさむね);(1567~1636)安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。輝宗の長男。幼名、梵天丸、長じて藤次郎。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。戦後、仙台藩六二万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣。和歌・茶道に通じ、桃山文化を仙台に移した。
右図、伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆、江戸中期頃)
数少ない隻眼で描かれた肖像画。
■言い条(いいじょう);言い立てるべき事柄の箇条。言いぶん。
2022年7月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |