落語「大仏の眼」の舞台を行く
   

 

 桂七福の噺、「大仏の眼」(だいぶつのめ)より


 

 大仏さんの目がその昔落ちた、といぅ噺がありましてね。

  子供の時分よぉナゾナゾにしてました。「大仏さん建てたん誰でしょ?」、「大工さん」。ちゅうと「ブ、ブ~ッ」、「正解は?」、「大仏さんは座ってる、立ってな~い」というね、そぉいぅのんがありましたなぁ。
  「大仏殿と大仏っつぁんと、どっちが大きぃと思いますか?」ちゅうのでね、「大仏殿の中に大仏っつぁん納まってんねやさかい、大仏殿のほぉが大きぃやろ」いぅてね、ほたら「ブ、ブ~ッ」、「正解は?」、「大仏っつぁんは中で座って納まっている、立ち上がったら大仏殿より遥かに大きぃ」。
  徳島の子供たちは修学旅行で行きますなぁ、小学校のときにね。わたしも行きましたなぁ、そぉすると柱に穴が開いてましてね、あの穴、鼻の穴とおんなじ大きさらしぃですね。「嘘つきはこの柱の穴を通り抜けることができない」ちゅな謂れもあるんやそぉですけども、あれは鼻の穴とおんなじ大きさで、言ぅたら、「大仏さんの鼻の穴はこれぐらい大きぃですよ」といぅことを表わしていると解説されてます。

 あの大仏さんの目が落ち込んでしまった、中はガランドウです、空洞になってます。身は詰まってないんですね。その大仏さんの目が内側へポコ~ンと落ち込んでしまった。当時のお偉方、慌てましてね、「大仏さんの目が落ちた、えらいことになった、すぐに直さなければならない」それぞれの業者に発注をいたしましてね。
  「見積りをまず出しなさい。修復期間は何年かかるであろぉ? 費用は何千両、何万両かかるかも分からない、人もたくさん要るであろぉ、大きな仕事になる、えらいことになった」と大騒ぎをしておりまして、さぁ大仏さんの目ぇ、これ何とか直す手立てはないかと考えとりますところへ、あるひと組の親子、父親と子供がやってまいりまして。
  「あのぉ~、大仏っつぁんの目ぇ、あれ、我々親子が直してみよと思うのですが、いかがなもんでございましょ~?」、身なりを見ると着薄いなりをしている、大きなお金を扱えそぉにもないし、また人をぎょ~さん動かせそぉな雰囲気もない。けどまぁ、ダメで元々です。「そぉ言ぅならまぁ、どれだけのことがやれるか分からんがやってみなさい。工期は幾ばくぐらいかかりますかな?」、「まぁ、今日半日もあれば何とかなると思います」、「なに? 半日? ならばすぐにやってみなさい」。

 親子がツカツカと大仏殿へとやってまいります。下から目の辺りをこぉ見上げまして、前にこぉ引っ掛けの付いた縄、長~いものをズ~ッと出しまして、親っさんが頭の上で鉤縄をグルッ、グルッ。勢いよぉ回したかと思うとビュッと投げたら、その鉤縄がシュ~ッ、大仏さんの目ぇの穴の所へ引っ掛かった。ググッと引っ張って、「これで大丈夫」引っ張って外れないとなれば、そばにありました柱にグルグルグルッと巻き付けて強さを確かめる。そぉすると次に出番となったのが子供でございます。金槌一本ヒョイッと握りまして、タタタタ・タタッ。縄伝ぉて大仏の目ぇのところまで行くと、中へポイッと入り込んで、内側からその鉤縄をヒョイッと外す。お父っつぁん、もぉ仕事ありませんわ。その縄を手繰りしておりましたら、しばらくいたしますと中に落ち込んでた目ぇをその子供が持ち上げて来よったんで。大仏さんの落ち込んだ目玉の形の所へ当てがいまして。
 「お父っつぁ~ん、こ~の辺かぁ~? 」、「もぉちょっと、そこそこ、それぐらい。それで大丈夫や、よっしゃ、よっしゃ」、声をかけますと、中から子供が金釘でも打つ音でしょ~かなぁ、「カ~ン、カ~ン、カ~ン」といぅ音が響ぃた。見物人がぎょ~さんこの大仏さんを取り囲んどります。ビックリしたのがこの見物人で。
 「おぉ~ッ、えらいこってっせ。何千両、何万両かかるか分からん言ぅてたん、あの親子二人でやってしまいましたがな。あの小さな子供が目ぇから入って、目玉ちゃんと直しましたがな、「一体いつまでかかるのか? 何万人の仕事になるのか?」言ぅてたけど、親子二人で直しましたなぁ」、「いやぁ、偉いもんですなぁ、あないして直す方法があるとは思いまへんでしたなぁ。見事なもんです、天晴れ」、「いやいや、これ天晴れでは済みまへんで、あの子供どないして出て来まんねん? 目ぇから入って、入ったその目ぇ塞いでしもたら出られへん。えらいことになったなぁ。あの子供、中でひもじぃ思いして死んでしまうがな」。
 「うわぁ~、可哀相なことになった。大仏さんを直すために幼い子供の命が一つ失われるのか、可哀相に・・・」。大仏さんを取り囲んで、みんな子供の無事を祈って、『ナンマンダブツ、ナンマンダブツ』、もぉ宗派関係ないですわなぁ、念仏唱えたりいろんなお願い事をしている。
 皆の心配をよそにこの子供、大仏さんの中から、鼻の穴を通ってシュ~ッと出て来て、大仏さんの手の平の上へポンッと飛び乗りよった」。見物人喜びよって。
 「あぁ~良かった、あの子供出て来たがな。鼻の穴から出て来て、手の平へ立ちましたで」、「ホンに賢い子供ですなぁ」、「ホンに頭の切れる子供でんなぁ」、「賢いなぁ、賢いなぁ」。
 賢いはずです、その子供、目から鼻へ抜けよった。

 



ことば

江戸落語、八代目桂文楽の98話「大仏餅」の中でも語られる、目から鼻に抜けるの噺が有ります。

 大仏さま お身拭い:120人程の東大寺僧侶や関係者が、早朝より二月堂の湯屋で身を清め、白装束に藁草履姿で大仏殿に集合、7時より撥遣作法が行われた後、全員でお経を唱え、年に一度の大仏さまの「お身拭い」を始める。 9時半頃には終了。そのあと、大仏殿の消防設備の放水訓練などが行われる。
 現在は毎年行うが、以前は東大寺の住職の任期中に一度行われる程度。その上、大仏殿の参道が砂利道であったため、大仏殿内にはいってくる砂埃の量も多く、掃除ではかなりの量の埃が集められたという。 「お身拭い」が8月7日に日を定めて毎年実施されるようになったのは昭和39年から。その後参道も石畳で舗装され砂埃も減ったので、現在では埃の量そのものは以前よりずいぶん少なくなっている。 東大寺解説

 8月7日に行われる、大仏さま お身拭い。子供の大きさを想像して目から鼻に抜けて下さい。

東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう);奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に東大寺大仏、奈良大仏として知られる。 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。

 東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。
 制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。
 大仏と大仏殿はその後、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。 現存の大仏は像の高さ約14.7m、基壇の周囲70mで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。大仏は昭和33年(1958年)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。
 現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5m、奥行50.5m、棟までの高さ49.1mである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている。大仏殿はしばしば「世界最大の木造建築」と紹介されるが、20世紀以降の近代建築物の中には、大仏殿を上回る規模のものがある。よって「世界最大の木造軸組建築」という表現の方が正確であろう。

 江戸期においては方広寺大仏(京の大仏)の方が、規模(大仏の高さ、大仏殿の高さ・面積)で上回っていた。これは豊臣秀吉が発願したもので、秀吉の造立した初代大仏、豊臣秀頼の造立した2代目大仏、江戸時代再建の3代目大仏と、新旧3代の大仏が知られるが、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。
 東海道中膝栗毛では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である。(なお初版刊行の1802年には、大仏・大仏殿は既に焼失している)。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について、「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う 」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也」という感想を日記に残している(在京日記)。一方方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也」と記している。
 方広寺(3代目)大仏は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。
 ウイキペディア

桂七福(かつら しちふく);(1965年1月17日 - )は、上方落語家で、本名は中川 博之(なかがわ ひろゆき)。徳島県東みよし町出身。妻との間に2人の子供。身長181cm体重100kgと、落語家の中では、かなり大柄。右写真。
 1991年に桂福団治へ入門。藤本義一に桂七福を命名していただく。
 1984年『徳島県文化芸術祭 舞台公演部門奨励賞』
 1998年『徳島県福祉功労賞 個人受賞』

大仏殿の柱の穴;穴の開いた柱は表鬼門・丑寅(東北)の1本だけ。陰陽道で建物の中心から見て北東側は鬼門に当たり、柱に穴を開けることによって邪気を逃がす役割をしていると言われます。現在の穴は江戸時代の補修された時の物ですが、創建時から有ったと言われます。
 柱の材質は樹齢約250年の米松で、柱の直径が1m20cmに穴の大きさは縦37cm、横幅30cmです。大仏さんの鼻の穴と同じ大きさだと言います。

 

 上、鬼門の穴を抜ける参拝者。

着薄いなり;本来重ね着をする着方だが、上衣を着ない薄手の着方。はたから見ると寒そうな、経済的に恵まれないような風体。 

ダメで元々; 試みて失敗したとしても、試みなかったとしても、結果は同じと考えること。試みた方がまだ増しである場合にいう。だめもと。

目から鼻へ抜けた;物事に対しての理解が非常に早く、また、抜け目がなくすばしこい様子を表す言葉。目は、物事を見分ける視覚という役割を持っていて、鼻は物事を嗅ぎ分ける嗅覚の働きがあります。つまり、目から鼻へぬけるとは、視覚と嗅覚が連動し、目で物事の本質を捉えて、鼻で使い嗅ぎ分けるという優れた働きから、抜け目がなく非常に賢い様子。

 


                                                            2022年8月記

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