落語「さじ加減」の舞台を行く 桂文我の噺、「さじ加減」(さじかげん)より
■四代目 桂文我(かつら ぶんが);(1960年8月15日 - )は三重県松阪市出身の落語家。本名は大東幸浩(おおひがし ゆきひろ)。右写真。
■さじ加減(さじかげん);さじに物を盛る加減。特に、薬を調合するときの分量の加減。
毒薬に近いクスリでも微量加えることで、良薬になることもあれば、量を間違えれば治るどころか副作用で苦しむこともあります。力が無い医者は、葛根湯を飲ませるのが一番でしょう。
「生薬を調合する医者」 三谷一馬画
■瓦屋町(かわらやまち);大阪市中央区の町名。現行行政地名は瓦屋町一丁目から瓦屋町三丁目。
■住吉大社(すみよしたいしゃ);住吉神社(すみよしじんじゃ)。大阪市住吉区住吉二丁目9-89。全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと)の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。下図、境内図。
■反橋(そりばし);住吉神社境内の橋(通称太鼓橋)。正面神池に架けられた神橋は「反橋」と称し、住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれております。長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで、最大傾斜は約48度になります。この橋を渡るだけで「おはらい」になるとの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡り本殿にお参りします。現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君(太閤秀吉の妻)が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられております。
かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。下図。
住吉大社境内図、反り橋は、落語「茶目八」から孫引き。
■住吉新地(すみよししんち);大阪市住之江区浜口東に存在した遊廓で、上記住吉大社の正面口前にあった遊廓。その歴史は1922年(大正11年)に遡り、1958年(昭和33年)の売春禁止法施行まで続いた。大正時代後期には盛況を見せ、800名の芸妓を抱えた。
■御茶屋(おちゃや);今日では京都などにおいて花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。東京のかつての待合に相当する業態である。
■焙じ茶(ほうじちゃ);焙じ茶の「焙」の字は、「焙煎」の「焙」。 煎茶や番茶を強火で焙煎し、芳ばしい香りとこっくりとした味わいを出したお茶を、焙じ茶と呼ぶのです。 高温で焙煎するため、香りと味わいが煎茶に比べて優しく感じられるのも特徴です。
■三国一の富士額(さんごきいちの ふじびたい);美人の形容は色々ありますが、一つの言葉遊びとして、
三国一;日本・唐土(中国)・天竺(インド)の三国(当時はそれが世界だと思われていた)で、その中で最も優れていること。また、世界で最も優れていることの意にも用いる。世界一。
富士額;女性の額の髪の生え際が、富士山の頂の形に似ているもの。 美しい生え際とされた。上図。
■髪は烏の濡羽色(かみはからすの ぬればいろ);濡羽色(ぬればいろ)とは、烏の羽のような艶のある黒色のことです。別名「濡烏(ぬれがらす)」、「烏羽色(からすばいろ)」とも。万葉集の時代より「髪は、烏の濡れ羽色」といわれるように、黒く艷やかな女性の髪の毛を形容する言葉として用いられました。
■観世音菩薩(かんぜおんぼさつ);大乗仏教において特に崇拝されている菩薩の名。 世間の人々の救いを求める声を聞くとただちに救済する求道者の意。 救う相手の姿に応じて千変万化の相となるという。 阿弥陀仏の脇侍ともなる。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。
■勘当(かんどう);類義語の久離は、親族一同との関係の断絶を言い渡す場合に用いられる。なお、江戸時代の勘当は、本来、奉行所に届け出て公式に親子関係を断つものだが、公にせず懲戒的な意味を持つ内証勘当も行われた。
■平野町(ひらのまち);大阪市中央区の町名。旧東区に属していたが、現行行政地名は平野町一丁目から平野町四丁目。中央区は北区などとともに、大阪市および大阪都市圏の都市中枢を成す区。
■ブラブラ病(やまい);気鬱なやまい。とりたてて良くもならず悪くもならず長びいてはっきりしない病気。江戸時代、多く労咳(肺病)もしくは気鬱症、恋わずらいなどをいう。ぶらぶらわずらい。ぶらやまい。ぶらりやまい。ぶらりやみ。ぶらぶら。ぶら。
■子飼いの芸妓(こがいの げいぎ);①動物を子のときから飼い育てること。
その様に育てられた芸妓、芸者。
■身請け(みうけ);遊女などの身の代金や前借金などを代わって払い、その勤めから身を引かせること。
■身請け証文(みうけ しょうもん);身請け後に離縁する場合の生活保証を明記した身請け証文が伝えられている。保証人請け戻し(親元身請け・身抜け)の場合は身請け金や祝儀が少なくてすむため、客が身請けするのにこの形式をとることもあった。明治以後は、貸借元簿が根拠とされたが、この計算にも不明瞭(めいりょう)な点が多かったといわれる。
「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。
噺の中の証文は、その廓(見世)でいつまで、幾らで働くか、前借金はいくらかという、身柄を拘束する証文。
■書いたもんが物言う;堅い口約束より、文章で残された証文の方が証拠能力として力が強い。
■ブイブイ;偉そうに威張っているさま。「この辺でブイブイ言わしてるのん知らんのか」などと使うが、自称の場合は大したことはない。
■家主(いえぬっ)さん;家主(やぬし)。近世、地主や貸家の持ち主の代わりに、貸家の世話や取り締まりをする者。やぬし。大家。差配(さはい)。
長屋は「地主」の所有物で、「大家」は地主から長屋の管理や賃料の徴収を委託され、地主から給料をもらっていた。「家主」や「家守(やもり)」とも呼ばれていたが、家守が一番仕事の内容に近いだろう。
大家の職制、
大家の余録として、長屋から出る人糞(糞尿)やゴミです。 長屋の便所に貯まる糞尿は江戸近郊から百姓たちがわざわざ肥料として買いに来るのです。 ゴミもそうです。売上金は暮れの店子に配る餅代にその一部を当てました。
■金輪際(こんりんざい);仏教用語に由来する。 「金輪」は三輪と呼ばれるもののひとつで、大地の世界を意味し、その下に水輪、風輪と続き、さらに虚空があるとされる。 金輪際は、金輪と水輪の接する部分で、金輪の最も奥底にある場所を意味した。 その意味から、金輪際は「底の底まで」「とことんまで」という意味で用いられるようになった。
■西のご番所(にしのごばんしょ);大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)は、江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の1つ。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取り、東西の奉行所はそれぞれ「東の御番所」「西の御番所」と呼ばれていた。初名は大坂郡代(おさかぐんだい)。老中支配下で大坂城下(大坂三郷)及び摂津・河内の支配を目的としていた。
元和5年(1619年)8月22日に久貝正俊(東町奉行)・嶋田直時(西町奉行)がそれぞれ役高3千石をもって任じられたのが始まりとされている。水野守信(信古)を初代東町奉行とする説もあったが、今日では否定されている。
願書をご番所へと提出;町奉行所に届けられた民事訴訟を審理する日を「御用日」、特に金公事(金銭貸借に関する訴訟)を扱う日を「御金日」と呼んだ。御用日は、毎月2日、5日、7日、13日、18日、21日、25日、27日と月に8回あった。摂津・河内・和泉・播州の四ヵ国の訴訟だけでなく、大坂が全国各地からの物資が流入する拠点であるという性格から西日本の各地からも訴訟が持ち込まれた。
■差し紙(さしがみ);江戸時代、被疑者、訴訟関係者などを日時を指定して奉行所に呼び出すために発する召喚状。江戸へ在方の者を呼び出すときは、これを江戸宿へ渡し、江戸宿から飛脚で伝達した。召喚に応じない者は処罰された。
■お白州(おしらす);江戸時代の奉行所など訴訟機関における法廷が置かれた場所。
お白洲には突棒・刺股・拷問用の石などが置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられている。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いており、時代劇などに見られる屋外に白砂利敷の風景ではなかった。
■小笠原伊勢守(おがさわら いせのかみ);東奉行所、西奉行所の名鑑の中には存在しない。西奉行所45代目.小笠原長功(慶応3年(1867年)1月29日 - 明治元年(1868年)2月23日)は別人です。どこからこの名前を拾ってきたのでしょうか。
■石子伴作(いしこ ばんさく);大岡政談、「池田大助捕物帖」に出てくる、大岡忠相の懐刀、八の字眉に眇目、おまけに獅子鼻の与力のこと。
■示談(じだん);江戸時代は意外にも訴訟社会というぐらい、非常に訴訟が多いのです。特に多いのは、お金に関する訴訟です。これは、要するに、金を借りて返せないということです。不良債権問題は、今でも大問題ですが、これは、江戸時代も頻繁にあるわけです。そこでは土地を処分したり、家屋を処分したりとかいろいろ出てきて、江戸時代は、民事訴訟的な、あるいは、私法的なものが非常に発展します。しかし、基本的に民事訴訟というのは、相対(あいたい)で済ますことがお上の考え方です。金公事は、相対で済ますということです。あまりにも訴訟が多いので、相対済まし令というのが、八代将軍吉宗の時に出されます。“相対で”というのは、当事者同士で話し合い(示談)で決定しなさいということです。
■二文で買ぉて来た猫の皿;この皿は雑器どころか使い古しの猫の皿だったのでしょう。貨幣の単位で最小は1文で、それ以下はありません。色を付けてもう一文で夜店で二文で売っていたのです。
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