落語「さじ加減」の舞台を行く
   

 

 桂文我の噺、「さじ加減」(さじかげん)より


 

 さて、このお噺、大阪の瓦屋町(かわらやまち)に阿部玄益といぅお医者さんがございました。お父さんが玄慶さんと申しましてご名医でございます。玄益さん、歳が二十五、男の道楽を一切いたしません。呑む・打つ・買うを一切せん。お父っつぁんの跡を継ごぉといぅので、一生懸命医者の勉強をいたしております。 ただ一つだけ、楽しみにいたしておりますのが神社仏閣巡りでございまして、今日もきょうとて、気の置けん友達の喜助さんと住吉大社、ここへお参りをいたします。四社の社、細かくお参りをいたしまして、反り橋も渡る。表へ出てまいりますといぅと住吉新地(すみよしじんち)と申します色街がございますが、ここまでやってまいりますとポツッ、ポツッと雨が降ってきた。

 「あッ、先生、えらいこった。雨が降ってきました、具合悪いなぁこら。これ両側見てみなはれ御茶屋並んでますがな、あそこの<加納屋>ちゅう御茶屋、どぉです、あそこでちょっとお座敷借りてですな、雨宿りに一杯呑みまへんか?」、「わたしはどっちかいぅたら焙じ茶に餅のほぉがよろしぃ」、「あのなぁ、御茶屋の座敷上がって焙じ茶飲んでる場合やおまへんやろ、ちょっと付き合いなはれ」。
 「加納屋はん」、「お越しやす」、「ちょっと雨宿りにな、使いたい、座敷頼みますわ。お膳一つずつ頼みましたで、ほんで酒どんどん運んで、芸妓一人だけ、別嬪(べっぴん)の若いの頼みましたで。ほな先生、上がりまひょ」、盛り上がってきましたなぁ。

  一人で勝手に盛り上がっておりますなぁ。さぁ、「まぁ付き合いや」といぅので座敷上がってチビチビ、舐めるよぉにお酒を呑んでおりますところへ、やってまいりましたのが芸妓のお花さん。歳は十八でございますが、住吉新地では五本の指に入るといぅ器量よしでございます。
  まずこの、三国一の富士額(ふじびたい)、髪は烏の濡羽色、鼻は高からず低からずといぅちょ~どえぇあんばいの高さ、そして色が抜けるほど白い。どのぐらい白いかといぅと、透き通って見えたっちゅうんですなぁ。喉のとこにこぉアザのよぉなものがある、「あ、あれアザかいなぁ?」と思て見てみましたら、朝食べた味噌汁の具ぅのワカメの引っ掛かってんのんが見えたといぅ、それぐらいの色の白さでございます。
  堅物(かたぶつ)の玄益さんでございますが、この観世音菩薩のよぉなお花さんのお酌だけはよぉ断らん、「おひとつ、どぉぞ」、「ちょ、ちょ~だいいたします」頭の天辺から声が出ております。進められるままに酒を呑み、気が付きましたら我が家へ帰って来て、布団の中へ入ってるんですなぁ。家のもんに聞ぃてみますといぅと、機嫌よぉ駕籠に揺られて帰って来たといぅ話。

 さぁ、こののちは頭の中には、「お花、お花、お花」毎日まいにち住吉通いが始まった。自分の小遣だけではどぉにも仕方がないといぅので、親の金に手を付けるよぉになる。小言を言われますが、言ぅことを聞かん。そぉなりますといぅと、この勘当といぅことになりますな。しかし頼りがございません、身寄りが少のぉございます、「えらいことになったなぁ、どないしょ~か知らん?」  平野町(ひらのまち)といぅ所にえぇよぉな長屋を一軒見付けましたので、とりあえずそこへ住みまして医者の看板を出します。元々腕がよろしゅ~ございます、そしてお年寄りから小さい子どもまで、分け隔てなくまことに親切に治療をいたしますので評判が上がります。
  半年ほど経ちました頃にはそこそこの蓄えもできて、近所の付き合いもよぉなってきたんですなぁ。

 「ああっ、そぉや、お花どないしてるんやろ? 『あしたも来るわ』っちゅうてプツッと行かんよぉになったんや。勝手に足が住吉へ向こてたみたいやなぁ、加納屋はんや。もぉ、親の金に手ぇ付けることもないさかい、ちょっとだけ寄っていこ」。「ごめんやす」、「へ、お越しを。あんさん、阿部の先生。おいッ、安部の先生が久し振りにお越しになった、お座布、お茶(おぶ)入れて、どぉも先生、どないしてはりましたんや今まで? はぁ? 勘当喰ろて。さよか、苦労しはりましたんやなぁ。久し振りにお花に会いに? 先生、あんたお花のこと知りまへんわなぁ」、「何ぞおましたか?」、「あんたプッツリ来んよぉになる前に、なんか約束しましたやろ、そぉそぉ、夫婦(みょ~と)約束。座敷へ出てる女でも、あんたまともにそれを受ける女はいてまんねやで。『先生、せんせぇ』言ぅてな、そのうちに気ぃ病んでしまいましてん。医者に見せましたら、『ブラブラ病(やまい)』ちぃまんねんて、『あっち向いてぇ』言ぅたら、『ふ~ん』、『こっち向いてぇ』言ぅたら、『ふ~ん』ちゅな、こんな病になってしまいました。あのお花はな、うちの子飼いの芸妓やおまへんでしたんや、あれはな、近江屋の子飼いの芸妓でしたんや、それをうちの座敷へ借りてきただけですねん。近江屋がなぁ、文句言ぃに来まして、『あんたとこの座敷へ出したさかい、こんな目に遭わんならんねや。あんたとこで何とか面倒見てもらわなどんならん』ちゅうて。うち、離れ一つ当てごぉて面倒見てまんねんけどな、こんな家業してまして病人一人置いてるてあんた、難儀してまんねやで」、「そら、えらいすんまへんでした、わたいがお花病気にさしたよぉなもんや。けどな、わたしは医者でっさかい、治せると思いますわ。お花の看病さしてもろたらあきまへんやろか」、「え? あんた見とくなはる? ありがたい。それやったら先生どぉです?いっそのこと、身請けしてもろて看病したら」、「身請け、結構です、身請けてどぉさしてもろたらよろしぃやろ」、「十両出してもらいましたらな、わたしが近江屋に話さしてもらいますわ。十両あったら大丈夫と思いま、十両っちゅう金、手回りまへんか」、「いえ、長屋は物騒でっさかいな、有り金みんな持ち歩いてますねん。十二、三両あったと・・・、ありますわ、この十両でお願いいたします」、「金持ちやなぁ、あんた。さよか、へぇ~、分かりました、わたし話つけてきます。大丈夫、わたし、中へ立つのん好きな男ですねん、心配要りまへん、ちょっと待ってとくなはれ、身請けしてきまっさかい」。

 「近江屋はん、こんちわ」、「加納屋さん、わたしはもぉあんたには頭が上がらん、うちで面倒見ないかんのに、あんたの元へ置いて、えらい申し訳ない」、「いやいや、そんなことかめしまへん。それより、あんたを喜ばそ思て来ましたんや。阿部の先生、玄益さん、来はりましたんや。でね、なんとあんた、『お花を身請けして、療養しょ~』て、こない言ぅたはりまんねん」、「お花の体は良ぉなりますやろなぁ」、「良ぉなるかどぉかは分かりまへんけどな、けど結構な話でっしゃないかいな。で、先生がおっしゃるには、『身請けの金、三両出す』て、こない言ぅてますねん。まぁそこですがな、三両もろてでっせ、そのまま病人送り込んでもえぇよぉなもんですが、それではあまりにも不人情でっしゃろ。金のことでゴジャゴジャ言わずに、もぉ病人にいっそのこと見舞いとして三両付けてですな、向こぉへ送り込んでやったら、そしたらえぇんと違いまっか? どぉです?」、「金のことなんかどっちでもよろしぃんで、ひとつ迷惑かけますけど・・・」、「それでよろしぃか、なぁ、偉いなぁホンマに、先生は、『三両、身請けに出す』っちゅうし、あんたは、『それを見舞いに付ける』っちゅうしなぁ、世の中えぇ人ばっかりでよかったですなぁ」。

 この男が一番悪いんでございます。十両をそのまま懐に入れてしまいます。さっそく、駕籠を呼びましてお花を乗せますといぅと、平野町の玄益さんのお家(うち)へこぉ送り届ける。
  これから、一生懸命に腕のえぇ名医が治療いたしますと、えらいもんですなぁ、ドンドン・ドンドン良ぉなってまいります。薄紙を剥がすがごとく良ぉなると申しますがね、厚紙を引きちぎるがごとくドンドン・ドンドン良ぉなってまいります。半年もいたしましたらスックリ体が元通りになった、「ありがたい、これやったら加納屋さんに手紙を出そぉ」と、喜びの手紙を送ります。

 「近江屋はん」、「加納屋さん、もぉあれきりにしまして、えらい面目ない」、「いや、そんなことはどっちでもよろしぃねん。実はあんた、先生とっから手紙が来ましてな」、「何です」、「お花の体が、良ぉなりましたんや。まだ若い別嬪でっしゃないかいな、どぉです? また座敷でひと儲けふた儲けできまっしゃないか、連れ戻して座敷上げまひょ」、「先生に身請けしてもろた」、「中に立ちました、えぇ三両、そぉでしたなへぇ。けどあんた、あの時に身請けの証文を渡しましたか?」、「証文はまだうちにあります」、「お宅にある、証文がある。それやったら、未だにお花の体はあんたとこのもんだ。世の中は書いたもんが物を言ぃますねん、先生に四の五の言わしますかいな、大丈夫心配要らん、すぐに連れて帰って来ま。ゴジャゴジャ言ぃなはんな、わたい中に立つのん好きな男ですねん、ゴジャゴジャ言ぃなはんなよろしぃな、ちょっと行ってきまっさかい」。

 「実はお花の体が元へ戻ったちゅうことを近江屋に話しましたらな、『もぉいっぺん座敷へ出したい』と、こぉ言ぅてますねん。えらいすんまへんけど、ちょっと連れて帰りますけど、ゴチャゴチャ言ぃなはんなや。さ、お花、住吉へ戻ろ」、「ちょ、ちょっと待った。わたし確か十両のお金出して身請けしました」、「あぁ、そぉそぉ、わたい中に立ちましたなぁ。あんた、あの時、身請け証文もらいましたか」、「証文? いえ、証文は・・・」、「近江屋にその身請け証文があるんなら、お花の体はまだ近江屋のもんですわ。書いたもんが物言ぃまっさかい」、「そんな不人情な」、「不人情もクソもあるかい、とりあえず行こッ」。
 「ご免を・・・」、「家主(いえぬっ)さん、今ちょっと取り込んでおりますので・・・」、「ちょっと入らしてもらお。どぉもどぉも、はい、あんた? あぁ、加納屋さん、住吉新地の御茶屋の旦那? そぉですかいな。わたしはこの長屋三十六軒の家主、佐兵衛と申しますねん。いや、表通ったらあんたらの話が聞こえてきた。聞ぃたらあんた、お花さん連れて行きなはるそぉや。先生が身請けしたと聞ぃてますんやが?」、「家主っさん、そぉでんねん。けどね、証文がまだ近江屋におまんねん」、「そぉらしぃ、わたしも聞ぃてて、『あぁそぉか』と思た。確かに書いたもんが物言ぅ。仕方がないけど、こっちにも段取りといぅものがあるやないかいな。せやろ? ひと晩だけこの年寄りに任して。いやいや、あんた明日の朝うちへ来とぉくれ。うちはな、この長屋出て、右へ曲がって三軒目じゃ。わしと婆と猫の三人家内やさかい、逃げも隠れもしやせん、わしゃ中へ立つのん好きな男やさかいな、もぉゴチャゴチャ言ぃなはんな。こんなことは年寄りに任しといたほぉがえぇんじゃ、明日の朝早いこと来とぉくれ、ひと晩ぐらいどぉっちゅうことないやろ。先生、えらいことになってますなぁ」、「お家主さん、すんまへん。やっぱり花は住吉へ?」、「あんた、身請けに何ぼ? 十両盗んだら首が飛ぶっちゅうねやで、そぉかいな。お花はん泣かんでもえぇ、この年寄りに任しとき、だいじょ~ぶ任しなはれ。ほな、今日はこれで帰らしてもらうさかい、さいなら」。

 「婆さん、今日はな、朝早よぉから住吉新地から加納屋っちゅう、腑抜けたやつがやって来るけどな、お茶なんか出さんでえぇ。そら来た来た」。
 「家主っさん、お早よぉございます」、「はいはい、どなたはんですかな?」、「どぉも、昨日(さくじつ)はえらい失礼いたしました」、「はいはい、誰?」、「住吉の加納屋」、「婆さん、加納屋さんちゅうて住吉新地でブイブイ言わしてなはるお茶屋の旦那が、わざわざうちへ来てくれはったんや。そんなお方がお越しになったんや、まさか手ぶらでは来はれへんわなぁ」、「何ぞと思たんでございますけどな、朝早いんで店が開いておりませんでしたんで、へぇ。それでございましたら、これで一杯呑んでいただきますよぉに」、「わたしに気ぃ遣こていただいて、あらッ、かなんなぁ、もらうもんはもらいますけどな。えらいすんませんなぁ、何やて婆さん? あんたの分はまだ出ませんねやがな」、「恐れ入ります・・・、お内儀にこれでお饅頭かなんか」、「婆さんもらうか? もらうわなぁ、もらいもらい。 猫の分はまだ出てしまへんねやがな」、「猫もいてますのん? それでしたらこれで鰹節でも買ぉて」、「鰹節、えらいすんませんなぁ、礼言ぃなはれ、(ニャ~)、ほなこっちもろときましょ。えらいすんませんでしたなぁ、で、今日は何の用事ですかいなぁ」。
 「あんた、取るもんだけ取って、よぉそんなこと言ぅてなはんなぁ、あのお花の一件」、「お花はん、はいはい、話付けました」、「ご苦労はんでございました。どんなあんばい」、「『もぉ金輪際、座敷勤めはかなん』いぅことで、『住吉へは帰りとない』っちゅうこっちゃ。嫌がる者の首へ縄付けて引っ張って行くわけにいかんじゃろ、えらい無駄足運ばしてすんませんでしたなぁ、帰っとぉくれ、ハハハ、さいなら」、「ちょっと。家主っさん、あんた何言ぅてなはんねん、あんたが、『任せ』言ぅさかい、あんたに任したんや。こら家主、お前は腰抜けやなぁホンマに。お前が、『ちゃんとするさかいに』言ぅたから」、「待った、大きな声出すなこらッ。大きな声出したら、わしがビックリするとでも思てんのか? 大きな声なら、わしでも出せるわッ! 嫌がってる者を連れて行くよぉな不人情なこと」、「不人情もクソもあるかい、このガキ」、「あッ、上がって来た上がって来た、猫の皿踏んだ、皿割れた、足切った、痛いか?」、「やかましわいホンマに、わしゃ出るとこ出て話するで」、「あぁ、出るとこ出て話しょ~やないかい」といぅことで、えらいことになってまいります。

 さぁ、これから頭から湯気立てました加納屋が、渋ります近江屋を説き伏せまして願書をしたためまして、西のご番所へと提出をいたします。さっそく、原告・被告に差し紙といぅものが着きまして、お呼び出しになる。お白州、白い砂利が敷ぃてあるところにゴマメムシロといぅ目の荒ぁ~いムシロが敷いてございまして、そこへ座らされますなぁ。
  正面の一段高いところ、その真ん中には小笠原伊勢守といぅ名奉行がお座りになる。まずは書面に目をお通しになりますといぅと、「相分かった。平野町、阿部玄益、面(おもて)を上げ。そのほぉは住吉の芸妓、花なる者を身請けいたしたそぉだが、その身請けの折に身請け証文をもろぉたか」、「はい、それをいただいとりまへんでしたんで、こんなことになりましたんで。ひとつよろしゅお願いいたします」。
 さすが名奉行、ちゃんと下調べがしてございます。 「近江屋に加納屋、花を連れ帰ってよいが。この半年の間、阿部玄益が花の療治をいたしておったそぉな。この半年の間の療治代・薬代(やくだい)は支払ろぉたであろぉの」、「薬代は支払ろぉとりませんけど、耳を揃えて払わしていただきます」、「ん、そのほぉなにか、療治代・薬代、支払うと申すか」、「えぇそらもぉ、お奉行さんに嘘言ぅわけございません。ちゃんと払わしていただきます」、「こりゃ、阿部玄益、面を上げ。この半年の間、そのほぉが花の療治をいたしておったそぉだが、花は大病と聞ぃておる。さぞ薬代は高くついたであろぉの? 真っ直ぐ申すがよいぞ」、「もぉ良ぉなってもろたらえぇと思てましたんで」、「加納屋は『払う』と申しておるではないか、真っ直ぐに申せ。花は大病と聞ぃておるぞ、よいか、心して聞け、医者といぅものは『さじ加減』が大事である。よいな、もぉ一度聞く、薬代・療治代はさぞ”高く”ついたであろぉの」、「先生『高かった』言ぃなはれ」、「高こつきました」、「さもあろぉ、一服幾らいたした」、「かめへん『二両や』言ぃなはれ」、「一服、二両いたしました」、「さもあろぉ、花は大病と聞ぃておる。日に何服飲ました」、「家主っさん、何服?」、「何べんも聞きなはんな『日に三服』言ぃなはれ」、「日に三服飲ましました」、「ならば、日に六両であるな。そこに療治代を一両足して、こりゃ石子伴作(いしこばんさく)、半年の間、花の療治代・薬代は幾らに相なる?」、「はい、一千二百八十両にござります」、「さよぉか、相分かった。ならば加納屋、よいか、花の薬代・療治代といたし、阿部玄益に一千二百八十両即金で支払うよぉ、よいな」、「し、しばらく、しばらくお待ちを。そんな、千二百八十両、払えるよぉな金高、ございませんので、どぉぞお許しのほどを」、「黙れッ! そのほぉ、即金で支払うと申したではないか。奉行に偽りを申すか? 即金で支払うよぉ、よいな。もし払えん折には、双方下がり示談といたせ。本日の裁きはこれまで、皆のもの立ちませぇ~」。ゾロゾロとお白州を下がります。

 「先生、よかったですなぁ。一千二百八十両って聞ぃた時の加納屋の顔見ましたか、ホンマにもぉ絵にも筆にも書けませんでしたな。明日、またうちへ泡食てやって来ますわ、盛り上がってきましたなぁ」、家主、大喜びでございます。「婆さん、婆さん。え? なんやて? いやいや、違う、今日も朝早よぉからまたあの加納屋がやって来る、小遣になる、ありがたいこちゃないか。ほ~ら来た来た。顔色変えて来たなぁ」。
 「お早よぉございます」、「はいはい、どなたでしたかいなぁ」、「え~、昨日はえらい・・・」、「はいはい、あぁ、加納屋さんでございましたなぁ。婆さん、加納屋さんが来てくれはった、あんた覚えてるか?住吉新地で御茶屋の旦那、ブイブイ言わしてなはんねん。そんな方がお越しになったんや、まさか手ぶらでは来たはらへんわなぁ」、「あのぉ~、この紙包み、これで一杯呑んでいただきますよぉに。で、この紙包みでお饅頭を買ぉていただきまして、これで鰹節」、「あんた、うちに慣れてきましたなぁ、世の中の付き合いいぅのはこぉいぅ風にしたいもんですなぁ。はいはい、ちょ~だいいたしましょ。で、今日はまた、何のご用」、「あの~、きのうのお裁き」、「はいはい、お花さんのな、一千二百八十両ちゃんと覚えとります。歳取るとな、もの覚えがよぉなってきましてな、金の高をちゃんと覚えとります。支払ろぉてもらえますねやろな」、「そんな払えるよぉな金高やございませんので、ひとつ何とか中へ立って、示談」、「中へ立ちましょ。払ろぉてもらわん代わりにな、あんた、身請け証文返しなはれや、それで示談にしまひょ」、「これで? 示談に? していただけます? ありがとぉございます。まさかわたくし、こんなにス~ッと話が進むとは思いませんでした」、「世の中といぅものはな、こぉして丸ぅ納まるのが一番やさかいな。そのかわり証文、すぐに届けとくなはれや」、「わたくし、これで失礼をさしていただきます」、「ちょ、ちょっと待った」。
 「え?」、「うちは、どないしとくなはる」、「いや、家主さんとこて、何でございます?」、「あんたこないだ、猫の皿踏み割ってしもたやろ、あの皿代は?」、「あぁ、あの汚い」、「あらなかなかえぇ皿やったんやで、あの皿代」、「支払わせていただきます。あれは何ぼでございましたやろなぁ」、「あれは婆さんが買ぉて来ましたで、婆さん、あの皿何ぼやったかいなぁ? え、指二本立てて、あぁそぉか、二十両」、「二十両? よぉそんなこと言ぃなはんなぁ、あんな汚い皿が二十両のわけございません」、「ちょっと待ちなはれや、あんた、皿代が分かるのか? 薬代の分からん人が皿代が分かるとは思わんぞ、うちはな、猫にでもそんなえぇ皿で餌やってますのじゃ。人にな、病人押し付けといて金だけ懐へしまおてな料簡の者とは違いますわい。あの皿はなぁ、お大名でも欲しがったといぅぐらいえぇお皿なんやで、払ろてくれへんのか? あぁ、払わんのか? かまへん、奉行所へ」、「分かりました。すぐにお届けいたします」、「そんな震えんでもえぇがな、すぐ持って来てや二十両、それから身請け証文と、頼んましたで。持って来(こ)なんだらお奉行所へ走るさかいな、すぐ持っといで。はいはい、早よ帰んなはれ。婆さん見てみ、溝へはまってるやないかいな。ぶっせぇ~くなやっちゃなぁ」。
 「爺さん、わたしゃなぁ、向こぉで腹抱えてたホンマの話。あんたしかし、話うまいなぁ、あの皿、夜店で二文で買ぉて来たんやで。あれを二十両で買ぉたやなんて、みな懐にしなはる?」、「そんなことするかいな、この町内でも困ってなさる方がぎょ~さんおられますのじゃ、その人らに少しずつ別けてあげたら喜びはるわいな。それに、この長屋一同(いっとぉ)にうどんの一膳ずつでもふるもぉてやったら、どれだけ皆が喜ぶか」、「それは喜びはりますわ。しかし何ですなぁ爺さん、こぉしてみんなが喜べるといぅのも、これもみ~んなお奉行さんの”さじ加減”のお陰ですなぁ」、「お陰でみんなが救われた」。

 



ことば

四代目 桂文我(かつら ぶんが);(1960年8月15日 - )は三重県松阪市出身の落語家。本名は大東幸浩(おおひがし ゆきひろ)。右写真。
  1997年(平成9年)  「国立演芸場花形演芸会」金賞
   1999年(平成11年) 「国立演芸場花形演芸会」金賞
   2003年(平成15年) 「芸術選奨新人賞」
  2009年(平成21年) 「第64回文化庁芸術祭」優秀賞

さじ加減(さじかげん);さじに物を盛る加減。特に、薬を調合するときの分量の加減。 毒薬に近いクスリでも微量加えることで、良薬になることもあれば、量を間違えれば治るどころか副作用で苦しむこともあります。力が無い医者は、葛根湯を飲ませるのが一番でしょう。
 もともとは、匙ですくう薬の多少を「匙加減」と言いました。 患者を生かすも殺すも、この待医の「匙加減」一つで決まったことから派生して物事を扱う場合の状況に応じた手加減、手心の加え方を表す意味としても広く使われています。

  

 「生薬を調合する医者」 三谷一馬画

瓦屋町(かわらやまち);大阪市中央区の町名。現行行政地名は瓦屋町一丁目から瓦屋町三丁目。
 文字通り、江戸時代に瓦生産が行われていたことが町名の由来で、船場の瓦町との混同を避けるため「南」を冠した町名になった。 南瓦屋町の北東には瓦土取場が隣接しており、こちらは1630年(寛永7年)に寺島藤右衛門が拝借したことから瓦屋藤右衛門請地と呼ばれた(現在の谷町6 - 7丁目の一部および上本町西1 - 3丁目の一部)。松屋町駅 Osaka Metro 長堀鶴見緑地線、 谷町九丁目駅 Osaka Metro 谷町線が有ります。

住吉大社(すみよしたいしゃ);住吉神社(すみよしじんじゃ)。大阪市住吉区住吉二丁目9-89。全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと)の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。下図、境内図。

反橋(そりばし);住吉神社境内の橋(通称太鼓橋)。正面神池に架けられた神橋は「反橋」と称し、住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれております。長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで、最大傾斜は約48度になります。この橋を渡るだけで「おはらい」になるとの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡り本殿にお参りします。現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君(太閤秀吉の妻)が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられております。 かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。下図。

 住吉大社境内図、反り橋は、落語「茶目八」から孫引き。

住吉新地(すみよししんち);大阪市住之江区浜口東に存在した遊廓で、上記住吉大社の正面口前にあった遊廓。その歴史は1922年(大正11年)に遡り、1958年(昭和33年)の売春禁止法施行まで続いた。大正時代後期には盛況を見せ、800名の芸妓を抱えた。
 1934年(昭和9年)に同地付近に国道16号(現在の国道26号)が開通することや都市計画のため移転を命じられる。浜口東から西に数100m離れた現在の住之江区御崎に移転したが同年に襲来した室戸台風の影響で移転することがままならなかった店が多かった。かつての茶屋は遊廓としての機能は失ったが旅館や料理屋として営業を続けた。次第に客足は遠のき、そのほとんどは営業をやめて民家となった。
 住吉大社と住吉新地の関係は大きい。1929年(昭和4年)に住吉新地の同盟組合は100年以上、途絶えていた夏越祓(なごしのはらい)神事を復活させた。傘下の芸妓たちを動員し、神事の後は周辺を練り歩き行事に花を添えた。住吉大社は遊廓がスポンサーとなった行事が多く、各地の遊廓からも芸妓が派遣され大きな役を務めた。

御茶屋(おちゃや);今日では京都などにおいて花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。東京のかつての待合に相当する業態である。
 お茶屋は芸妓を呼ぶ店であり、風俗営業に該当し、営業できるのは祇園、先斗町など一定の区域に限られる。料亭(料理屋)との違いは厨房がなく、店で調理した料理を提供しないこと(仕出し屋などから取り寄せる)である。東京などにある戦前までの「待合」のもう一つの側面については京都では「席貸」という旅館風の店が請け負っていた(「貸席」はいわゆるお茶屋を指し、別物である)。
 歴史的には、花街の茶屋は人気の遊女の予約管理など、遊興の案内所や関係業者の手配所としての機能があり、客は茶屋の座敷で遊興し、茶屋に料金を払った。料理代や酒代をはじめ、芸者や娼妓の抱え主など各方面への支払いは、茶屋から間接的に行われた。往々にしてあったことであるが、客が遊興費を踏み倒した場合でも、茶屋は翌日に関係先に支払いをしなくてはならず、客からの回収は自己責任であった。また茶屋が指名された遊女を呼ぶ場合は抱え主に対し「差し紙」という客の身元保証書を差し出す規則があり、客が遊女と心中したり、手配犯だったことが後で判明するなど不祥事の起きた場合は、その客を取り次いだ茶屋が全責任を負わされた。客の素性や支払を保証する責任上、茶屋は原則一見さんお断りで、なじみ客の紹介がなければ客になれなかったが、京都ではこのルールが今でも残っている。京都では料亭に芸妓を招く場合でも、いったんお茶屋を通すことになっている(料理代は料亭に支払い、花代は後日お茶屋に支払うことになる)。

焙じ茶(ほうじちゃ);焙じ茶の「焙」の字は、「焙煎」の「焙」。 煎茶や番茶を強火で焙煎し、芳ばしい香りとこっくりとした味わいを出したお茶を、焙じ茶と呼ぶのです。 高温で焙煎するため、香りと味わいが煎茶に比べて優しく感じられるのも特徴です。
 上質な葉を選りすぐった高価なものもあるが、格は玉露や煎茶より下位、一般に番茶や玄米茶などと同位に位置づけられ、日本茶として高級な部類のものではないとされる。しかし、ほうじ茶飲用の習慣が深く根付いている京都では、上質なほうじ茶が料亭の改まった席で供されることも珍しいことではなくなっている。 また、昔から病院に入院時の食事の際や病気の時の水分補給にほうじ茶が出ることが多いが、煎茶と同等のカフェインを含むので注意が必要である。
 右写真、昭和の時代までお茶屋(緑茶)さんの店頭で香ばしい香りを振りまいていた焙じ機。

三国一の富士額(さんごきいちの ふじびたい);美人の形容は色々ありますが、一つの言葉遊びとして、
  髪は烏の濡れ羽色  三国一の富士額
  眉は山谷の三日月眉毛 黒目は漆をたらしたごとく  鼻筋とおっておちょぼ口
  雪に鉋の 白い肌 (雪にカンナをかけたような真っ白い肌)  顔は長からず丸からず
  背は高からず低からず 小野小町か てるてひめ(輝手姫)  普賢菩薩の再来か
 
 立てば芍薬  座れば牡丹  歩く姿は百合の花。

 三国一;日本・唐土(中国)・天竺(インド)の三国(当時はそれが世界だと思われていた)で、その中で最も優れていること。また、世界で最も優れていることの意にも用いる。世界一。

 富士額;女性の額の髪の生え際が、富士山の頂の形に似ているもの。 美しい生え際とされた。上図。

髪は烏の濡羽色(かみはからすの ぬればいろ);濡羽色(ぬればいろ)とは、烏の羽のような艶のある黒色のことです。別名「濡烏(ぬれがらす)」、「烏羽色(からすばいろ)」とも。万葉集の時代より「髪は、烏の濡れ羽色」といわれるように、黒く艷やかな女性の髪の毛を形容する言葉として用いられました。
 烏からすといえば真っ黒というイメージですが、よく見るとその羽は青や紫、緑などの光沢を帯びて見えます。これは羽毛の表面にわずかに構造色を持つためです。 まっすぐで健康的な女性の髪もまた同様に、水や髪油などを含むことで、わずかな干渉色を浮かべた「烏の濡羽色」のような美しい黒となるのです。

観世音菩薩(かんぜおんぼさつ);大乗仏教において特に崇拝されている菩薩の名。 世間の人々の救いを求める声を聞くとただちに救済する求道者の意。 救う相手の姿に応じて千変万化の相となるという。 阿弥陀仏の脇侍ともなる。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。
 お花さんを形容してその様に言っています。

勘当(かんどう);類義語の久離は、親族一同との関係の断絶を言い渡す場合に用いられる。なお、江戸時代の勘当は、本来、奉行所に届け出て公式に親子関係を断つものだが、公にせず懲戒的な意味を持つ内証勘当も行われた。
 江戸時代においては、親類、五人組、町役人(村役人)が証人となり作成した勘当届書を名主から奉行所(代官所)へ提出し(勘当伺い・旧離・久離)、奉行所の許可が出た後に人別帳から外し(帳外)、勘当帳に記す(帳付け)という手続きをとられ、人別帳から外された者は無宿と呼ばれた。これによって勘当された子からは家督・財産の相続権を剥奪され、また罪を犯した場合でも勘当した親・親族などは連坐から外される事になっていた。復縁する場合は帳付けを無効にする(帳消し)ことが、現在の「帳消し」の語源となった。ただし、復縁する場合も同様の手続きを必要とした事から、勘当の宣言のみで実際には奉行所への届け出を出さず、人別帳上は親子のままという事もあったという。人別帳に「旧離」と書かれた札(付箋)を付ける事から、「札付きのワル」ということばが生まれた。
 落語「六尺棒」より孫引き

平野町(ひらのまち);大阪市中央区の町名。旧東区に属していたが、現行行政地名は平野町一丁目から平野町四丁目。中央区は北区などとともに、大阪市および大阪都市圏の都市中枢を成す区。
 1872年(明治5年)まで、現在の三丁目と四丁目のうち心斎橋筋 - 御堂筋間は善左衛門町、御堂筋以西は亀井町、西横堀川沿いは七郎右衛門町二丁目という町名だった。 1962年(昭和37年)に埋め立てられた西横堀川には京町橋が架橋されていた。

ブラブラ病(やまい);気鬱なやまい。とりたてて良くもならず悪くもならず長びいてはっきりしない病気。江戸時代、多く労咳(肺病)もしくは気鬱症、恋わずらいなどをいう。ぶらぶらわずらい。ぶらやまい。ぶらりやまい。ぶらりやみ。ぶらぶら。ぶら。

子飼いの芸妓(こがいの げいぎ);①動物を子のときから飼い育てること。
 ②子供のときから引取って養育すること。また、そのように養われた人。特に商家・職人の雇い人・徒弟などにいう。
 ③一般に、初歩の段階から、教育・指導すること。また、そのように育てられた人。
「広辞苑」

 その様に育てられた芸妓、芸者。

身請け(みうけ);遊女などの身の代金や前借金などを代わって払い、その勤めから身を引かせること。
 江戸時代の遊女の身請は、ふつうまず客からだれだれを身請すると楼主に相談し、楼主は親元に異存のないことをたしかめたうえ、客に抱女の身代金と本人の借金とを支払わせ、身代金を償わせる。遊女の負債のほかに償う身代金は江戸時代の梅茶女郎でも40両から50両、松の位(くらい)の太夫となれば千両もとられる。天明ころの江戸新吉原の松葉半左衛門は26年間に二代目から五代目までの瀬川4人を身請され、5000両余りの金銭を得て富豪になったとつたえられる。かつては500両から600両くらいで借金済から身請祝の雑費をあわせても千両が限度であったのが、天明3年秋に請け出された四代目瀬川の身代金だけで1500両であったといい、ために不当な身代金の弊害が憂えられ、寛政から身請料金500両以内と制限された。
 身請証文には遊女の手切れ金にまで言及されていた。 遊女には、女衒(ぜげん)付き、女衒なしの区別があり、女衒なしの身請は容易であったが、女衒付きはあとが面倒であるとされ、身請相談とともに金銭で女衒の手を離れさせる手順をふんだ。太夫の身請は、とうぜん客は大尽であるから、楼内はもちろん、芸妓、幇間にまで赤飯、料理、祝儀の包金をあたえ、朋輩の妓女には昼夜、総仕舞(総揚げ)の玉を付け、身請の遊女は朋輩女郎、鴇婆、妓夫、若者におくられ、客の待つ引手茶屋に行き、ここで宴を張ったのち、大門口に用意された迎えの駕籠に乗り、おめでとう、ごきげんよう、の別れのことばをうけて廓を出た。 赤飯と鰹節をおくられた引手茶屋の一同もここまで来て送る派手なものであった。
 のちには貸借元簿の金額をさだめとして、その妓女が借金を支払い、祝儀の名目で若干金銭を抱主に贈るのが普通であった。

身請け証文(みうけ しょうもん);身請け後に離縁する場合の生活保証を明記した身請け証文が伝えられている。保証人請け戻し(親元身請け・身抜け)の場合は身請け金や祝儀が少なくてすむため、客が身請けするのにこの形式をとることもあった。明治以後は、貸借元簿が根拠とされたが、この計算にも不明瞭(めいりょう)な点が多かったといわれる。
 天明13年(1793)に身請けされた薄雲太夫の身請け証文は以下のように書かれてあります。

 薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。
元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。
 四郎左右衛門殿」。

 現在も、スポーツ関係ではトレードと呼ばれて高額で選手移籍などが行われています。同じように現在は価値の上がった花魁を最初の時の金額では譲れないのはやむを得ないでしょう。

 噺の中の証文は、その廓(見世)でいつまで、幾らで働くか、前借金はいくらかという、身柄を拘束する証文。

書いたもんが物言う;堅い口約束より、文章で残された証文の方が証拠能力として力が強い。

ブイブイ;偉そうに威張っているさま。「この辺でブイブイ言わしてるのん知らんのか」などと使うが、自称の場合は大したことはない。
 大阪ことば事典

家主(いえぬっ)さん;家主(やぬし)。近世、地主や貸家の持ち主の代わりに、貸家の世話や取り締まりをする者。やぬし。大家。差配(さはい)。
  主人不在の家屋敷を預かり、その管理・維持に携わる管理人のこと。家主(やぬし、いえぬし)、屋代(やしろ)、留守居(るすい)、大家(おおや)などとも呼ばれた。日本の近世社会は、家屋敷の所持者である家持を本来の正規の構成員として成立していたが、なんらかの事由で家屋敷の主人が長期にわたって不在となる場合、不在中の主人に委嘱され、家屋敷の管理・維持にあたるのが、家守の基本的性格である。

  長屋は「地主」の所有物で、「大家」は地主から長屋の管理や賃料の徴収を委託され、地主から給料をもらっていた。「家主」や「家守(やもり)」とも呼ばれていたが、家守が一番仕事の内容に近いだろう。
  江戸時代の大家には別の顔もあった。地主に変わって「町役人」として町政にも携わっていた。新しい入居者があれば、大家は当人の名前や職業、年齢、家族構成などを町名主に届け、名主が人別帳(にんべつちょう)という戸籍簿に記載して奉行所に届ける仕組みになっていた。また、長屋の店子から罪人が出ると、連座といって連帯責任を取らされるので、入居者や保証人の身元調査は厳重に行われた。大家はたいがい、裏長屋の入り口の一角に住んでいたりした。近くに住んで、常に睨みをきかせているわけだから「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉が生まれた。

  大家の職制
   * 大家が五人組を構成しその中から月交代で月行事(がちぎょうじ)を選び町政に当たった。
   * 町触れ伝達。
   * 人別帳調査。
   * 火消人足の差配。
   * 火の番と夜回り。
   * 店子の身元調査と身元保証人の確定。
   * 諸願いや家屋敷売買の書類への連印。
   * 上下水道や井戸の修理、道路の修繕。
   * 長屋の住人の世話を焼いたり、喧嘩・口論の仲裁。冠婚葬祭の対応。
  * 店子が訴訟などで町奉行所へ出頭する際の付き添い。
  * 家賃を集金したり長屋全体の管理業務。

  大家の余録として、長屋から出る人糞(糞尿)やゴミです。 長屋の便所に貯まる糞尿は江戸近郊から百姓たちがわざわざ肥料として買いに来るのです。 ゴミもそうです。売上金は暮れの店子に配る餅代にその一部を当てました。
  落語「鬼あざみ」から孫引き。

金輪際(こんりんざい);仏教用語に由来する。 「金輪」は三輪と呼ばれるもののひとつで、大地の世界を意味し、その下に水輪、風輪と続き、さらに虚空があるとされる。 金輪際は、金輪と水輪の接する部分で、金輪の最も奥底にある場所を意味した。 その意味から、金輪際は「底の底まで」「とことんまで」という意味で用いられるようになった。

西のご番所(にしのごばんしょ);大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)は、江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の1つ。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取り、東西の奉行所はそれぞれ「東の御番所」「西の御番所」と呼ばれていた。初名は大坂郡代(おさかぐんだい)。老中支配下で大坂城下(大坂三郷)及び摂津・河内の支配を目的としていた。

 元和5年(1619年)8月22日に久貝正俊(東町奉行)・嶋田直時(西町奉行)がそれぞれ役高3千石をもって任じられたのが始まりとされている。水野守信(信古)を初代東町奉行とする説もあったが、今日では否定されている。
 定員は東西それぞれ1名ずつであるが、元禄9年(1696年) - 同15年(1702年)の6年間のみ、一時廃止となった堺町奉行を兼務する3人目の奉行が設置されていた。千 - 3千石程度の旗本から選任されることになっていたが、300石からの抜擢例も存在する。奉行には役高1500石及び役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例であった。 また、時代が下るにつれて糸割符仲間や蔵屋敷などの監督など、大坂経済関連の業務や幕府領となった兵庫津・西宮の民政、摂津・河内・和泉・播磨における幕府領における年貢徴収及び公事取扱(享保7年(1722年)以後)など、その職務権限は拡大されることとなった。
 東西の両奉行所は当初大坂城北西の虎口である京橋口の西方(現・中央区大手前一丁目5番)に隣接して設置されたが、享保9年(1724年)の大火の際に両奉行所とも焼失する事態に陥った。この教訓から、同地での再建は東町奉行所のみとし、西町奉行所は本町橋東詰の米蔵跡(現・中央区本町橋2番)へ場所を移しての再建となった。 明治以降、東町奉行所跡は大阪陸軍病院→大手前病院・大阪合同庁舎第一号館など、西町奉行所跡は大阪府庁舎(初代)→大阪府立貿易館→マイドームおおさか・大阪商工会議所などに使用されている。

  

 願書をご番所へと提出;町奉行所に届けられた民事訴訟を審理する日を「御用日」、特に金公事(金銭貸借に関する訴訟)を扱う日を「御金日」と呼んだ。御用日は、毎月2日、5日、7日、13日、18日、21日、25日、27日と月に8回あった。摂津・河内・和泉・播州の四ヵ国の訴訟だけでなく、大坂が全国各地からの物資が流入する拠点であるという性格から西日本の各地からも訴訟が持ち込まれた。
 現在の裁判受理と違って処理件数は人口から見ると江戸時代の方が多かった。裁判に掛かる印紙代が無く、無料で裁判所を使うことが出来、武士より町人が多く使った。裁判は金銭トラブルが多く、奉行所近くにはその様な人を泊める公事宿が多くあり、そこの主人などからアドバイスをもらったり、番頭が書類の作成をした。結審するまで五人組を含めて長逗留するので費用も掛かった。

差し紙(さしがみ);江戸時代、被疑者、訴訟関係者などを日時を指定して奉行所に呼び出すために発する召喚状。江戸へ在方の者を呼び出すときは、これを江戸宿へ渡し、江戸宿から飛脚で伝達した。召喚に応じない者は処罰された。

お白州(おしらす);江戸時代の奉行所など訴訟機関における法廷が置かれた場所。
 文化7年(1810年)作成の江戸南町奉行所の平面図によれば、最上段には町奉行をはじめとする役人が座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられており、対して最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座った。もっとも、武士(浪人を除く)や神官・僧侶・御用達町人などの特定の身分の人々は「砂利敷」には座らず、2段に分かれた座敷の縁側に座った。武士・神官・僧侶は上縁(2段のうちの上側の縁側)に座ることから上者、それ以外は下縁(2段のうちの下側の縁側)に座ったために下者と呼ばれた。一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座したが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていた。

   

 お白洲には突棒・刺股・拷問用の石などが置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられている。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いており、時代劇などに見られる屋外に白砂利敷の風景ではなかった。
 お白洲とは、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。もっとも古い時代には土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからと言われている。

小笠原伊勢守(おがさわら いせのかみ);東奉行所、西奉行所の名鑑の中には存在しない。西奉行所45代目.小笠原長功(慶応3年(1867年)1月29日 - 明治元年(1868年)2月23日)は別人です。どこからこの名前を拾ってきたのでしょうか。

石子伴作(いしこ ばんさく);大岡政談、「池田大助捕物帖」に出てくる、大岡忠相の懐刀、八の字眉に眇目、おまけに獅子鼻の与力のこと。
 この噺は講談大岡政談を落語に直したもので、人名などは講談独特のアバウトな名前を用いています。

示談(じだん);江戸時代は意外にも訴訟社会というぐらい、非常に訴訟が多いのです。特に多いのは、お金に関する訴訟です。これは、要するに、金を借りて返せないということです。不良債権問題は、今でも大問題ですが、これは、江戸時代も頻繁にあるわけです。そこでは土地を処分したり、家屋を処分したりとかいろいろ出てきて、江戸時代は、民事訴訟的な、あるいは、私法的なものが非常に発展します。しかし、基本的に民事訴訟というのは、相対(あいたい)で済ますことがお上の考え方です。金公事は、相対で済ますということです。あまりにも訴訟が多いので、相対済まし令というのが、八代将軍吉宗の時に出されます。“相対で”というのは、当事者同士で話し合い(示談)で決定しなさいということです。

二文で買ぉて来た猫の皿;この皿は雑器どころか使い古しの猫の皿だったのでしょう。貨幣の単位で最小は1文で、それ以下はありません。色を付けてもう一文で夜店で二文で売っていたのです。
 まさか落語の「道具屋」で買ったんではないでしょうね。また、落語「猫の皿」にも高価な皿で猫に餌を食べさせている噺が出て来ます。



                                                            2022年8月記

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