落語「滑稽清水」の舞台を行く
   

 

 初代 森乃福郎の噺、「滑稽清水」(こっけいきよみず)より


 

 按摩の杢の市は、友人の徳さんからお前の女房のおとわが馬之助と間男していると告げられる。「徳さん、嬲(なぶ)らんといて。うちの、おとわがそんなこと・・・、それに馬とは無二の親友でっせ」と初め半信半疑であった杢の市だったが、徳さんが去った後、いろいろ考えているうちに、「そういえば、うちのやつ風呂行く言うとったがえらい遅いなあ。・・・ほたら、ほんまに徳さんの言うように、・・・」と疑心暗鬼になってくる。
 最近のおとわの言動も気になる。やはり間男してるのか。疑惑は深まるばかりである。「くやしいなあ・・・、俺の目が見えたら」と思っているところに、おとわが帰ってくる。「えらい遅なってすんまへん。ちょっと横町の婆さんに捕まって話しこんでたもんやさかい」。だが、杢の市はそんな言い訳も信じられなくなった。「ええから羽織貸せ」、「ちょっとどこ行くん」、「ええから早よ出せ」。

 杢の市はその足で清水寺の千手観音に参詣し、目が開きますようにと願掛けを始めた。あわてたのはおとわと間男の馬之助である。「こら、あかん。あいつの目が開いたらえらいことや」、「あんた、どないするん」、「わしらもお参りに行こ」と、これまた二人清水寺に連れだって、「どうか、杢の市の目が開きませんように」と願掛けをすることに。
 そうこうするうちに満願の日、一心不乱に拝む杢の市。「何とぞ観音様、わたしの目が開きますように・・・・あっ!見える!目開いたがな!ああ・・・観音様、有難うございます」。うれしさにむせびながら、ふと周りを見ると後ろの方で、おとわと馬之助が肩を並べて拝む姿が目に入る。 「ああ、他所の夫婦は仲がええなあ」。

 



ことば

初代 森乃福郎(もりの ふくろう);(1935年9月3日 - 1998年12月27日) 本名:仲川(なかがわ) 吉治(よしはる)。
   京都・先斗町の御茶屋の息子に生まれる。子供のころから演芸が好きで京都府立鴨沂高等学校在学中の1955年に新関西新聞主宰の演芸コンクールで「強情灸」を演じた、その時の審査員の奥野しげるの紹介で高校卒業後、1956年4月に三代目笑福亭福松(前名は二代目文の家かしく、三友派で活躍した二代目桂文之助の実子)に入門、笑福亭福郎を名乗り、同年12月に戎橋松竹で初舞台。1961年後半、藤山寛美の命名で森乃福郎に改名し、終生この名で通した。師の実父の名跡であり、福郎自身も憧憬を抱いていた三代目桂文之助を1987年に襲名する計画が、所属する松竹芸能で立ち上がっていたが、同時に二代目笑福亭松翁を襲名する予定であった六代目笑福亭松鶴が前年に亡くなったため、立ち消えになっている。1989年ころに体調を崩し片肺を摘出してからは第一線から退き、タレントの活動をセーブし落語の活動を中心とした落語会、浪花座などに出演。その後入退院を繰り返し、肺炎併発による呼吸不全のため死去。63歳没、早い死去であった。
  三代目桂米朝と並んで落語家タレントの草分け的存在であった。漫談をメインとするようになったのは、1961年に花月亭九里丸が引退して関西から漫談家がいなくなることを憂慮した松竹新演芸の勝忠男が説得した結果である。

按摩(あんま);身体をもんで筋肉を調整し、血液の循環をよくする療法。もみりょうじ。マッサージ。また、それを業とする人。(あんまが盲人の業だったことから) 俗に、盲人。

 座頭(ざとう)は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた。今日のような社会保障制度が整備されていなかった江戸時代、幕府は障害者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に身体障害者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとした。
 彼らは「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。 江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家や、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという。
 杢の市(もくのいち)、按摩を職業とするものは、名前の下に「市」と付ける事で職業を明示した。
 落語にも描かれ、「三味線栗毛」、「松田加賀」等があります。

間男(まおとこ);夫がいる女が、夫以外の男と密通すること。(→不倫)。 また、上記の密通の相手となっている男のこと。情夫(→恋人)。江戸時代には現行犯であれば殺されても仕方がないとされていた。江戸時代の間男の示談料とされ、見つかると金五両(銀三百匁)になったが、しかし、値上がりして首が飛ぶ十両より安く七両二分となった。

   

 旅から帰った亭主に驚き、裏から逃げ出す間男。右:同じく逃げ出す間男。文藝春秋デラックス11月号より
 落語「紙入れ」から孫引き

間男の小ばなし;長屋の男が、 隣のかみさんとの間男を見つかり、 亭主に脅され示談金の相場は七両二分(7.5両)だから、持って来いと脅された。当然そんな大金持ち合わせが無いので、こわごわ家に帰って女房に相談すると、「隣の亭主はそんな事を言ったのかい。それでは、お釣りの七両二分もらって来な」。あらら、どちらさんもすご腕ですね。 

 間男の落語いっぱい有ります。「紙入れ」、「戸棚の男」、「骨違い」、「つづら間男」、「茶漬け間男」、「艶笑噺・円生」、「香典返し」。

『江戸艶笑小咄と川柳』(西尾涼翁著・太平書屋)から引用すると。  
 「外へ出るふりで亭主は縁の下」 まるで亭主が間男のように隠れています。
  「間男と亭主抜き身と抜き身なり」 間男は男性器を露出した状態で、亭主は刀を抜いています。
 「五両で己が首を買う大たわけ」
  「間男のからだ一尺が一両」 首を斬られるくらいなら、お金で解決するケースもありました。一両8万円位という説があるので、40万円位でしょうか。素人相手でかなり高くつきました。
 「間男をするに等しき鰒(ふぐ)の味」 と、危険と隣り合わせの快感を味わえたからでしょう。
 「間男の不首尾こぼしこぼし逃げ」と、体液をまき散らして逃げて行く姿には百年の恋も醒めてしまいそうです。
  「為になる間男だからしたと言う」 と、開き直って弁解するやり手の女房もいました。 

半信半疑(はんしん はんぎ);半分信じて半分疑っている状態。真偽が定かでなく、判断に迷っているさま。信じたい気持ちと疑わしく思う気持ちが心中で微妙に揺れ動いている状態。

疑心暗鬼(ぎしん あんき);疑いの心があると、なんでもないことでも怖いと思ったり、疑わしく感じることのたとえ。疑いの深さからあらぬ妄想にとらわれるたとえ。疑いの心をもっていると、いもしない暗闇くらやみの亡霊が目に浮かんでくる意から。▽「疑心」は疑う心。「暗鬼」は暗闇の中の亡霊の意。「疑心暗鬼を生ず」の略。「暗」は「闇」とも書く。

清水寺(きよみずでら);京都市東山区清水一丁目294、音羽山清水寺。開創は778年。現代から遡ること約1250年前です。大きな慈悲を象徴する観音さまの霊場として、古くから庶民に開かれ幅広い層から親しまれてきました。古い史書や文学のなかには、多くの人々が清水寺参詣を楽しむ様子が描かれています。 京都の東、音羽山の中腹に広がる13万平方メートルの境内には、国宝と重要文化財を含む30以上の堂塔伽藍が建ち並びます。創建以来、10度を超える大火災にあいそのたびに堂塔を焼失しましたが、何度も再建されました。現在の伽藍はそのほとんどが1633年に再建されたものです。1994年にはユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつとして登録されました。

 

 千日詣りは、一日の参詣が千日分に相当するとされる観音さまの功徳日。この風習は観音信仰の広まりとともに誕生し、当山では大切な行事として古くから多くの善男善女をお迎えしてまいりました。 観音さまは、人々のあらゆる願いや悩みに耳を傾け、その苦厄を取り除こうとされる大慈大悲の仏さまです。 

千手観音(せんじゅかんのん);清水寺の御本尊は、「十一面千手観世音菩薩」。この観音さまは、十一の表情と四十二の手で大きな慈悲をあらわし、人々を苦難から救うといわれています。無病息災や立身出世、良縁といった現世利益を願う人々に篤く信仰されたこともあって、古くから親しみを込めて「清水の観音さん」と呼ばれてきました。
 右写真、清水寺の前立ち千手観音。

満願(まんがん);結願(けちがん)。日数を定めて神仏に祈願、または修行し、その日数が満ちることをいう。また「満願の日」というように、最終日を表す。 神仏に祈った願いが叶うと満願成就(まんがんじょうじゅ)という。祈願や修行の期間は、開白(かいびゃく)・中願(ちゅうがん、中日とも)・結願(けちがん)の三つに分けられ、結願の最終日を満願という。 四国八十八箇所などの霊場で、すべての札所を廻ることを満願もしくは結願といい、すべてを廻りきると満願成就、結願成就という。



                                                            2022年8月記

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