落語「西行」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円歌の噺、「西行」(さいぎょう)


 

 関西の摂津・河内・和泉から千人の美女を選び出して、その中から100人選び、その中から10人選び、その中から1人の美女を選んだ。天皇に子供がいなかったので、側室として選んだ。その人が染殿(そめどの)の内侍(ないし)で、たまには外に出て花見がしたいと言い出した。駕籠から見る桜も綺麗だが、その内、菜の花畑になって蝶が3羽舞っていた。

 いつの時代にも品性の悪いのがいて、この時も萩大納言が筆を執って、
 「蝶なれば二つか四つも舞うべきに 三羽舞うとはこれは半なり」 と詠んだのに対し、染殿は意味が分からず、顔を赤らめうつむいていた。そこに義清(のりきよ)が、
  「一羽にて千鳥といへる名もあれば 三羽舞うとも蝶は蝶なり」 と助け船を出した。

 佐藤兵衛尉義清が呼ばれて、飲みかけの杯を直にもらった。美女だと聞いていたので、見上げてみたら震えが止まらないくらい美しかった。その日から恋煩いになって、寝込んでしまった。思っていても帝の御内侍、身分が違いすぎる。しかし、この話が都中に広がり、何時しか染殿の耳にも入った。染殿は言い寄られる事はあったが、こんなナイーブな男は見た事が無いと手紙を書いた。

 義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。 喜んで開けてみると、
 「ひとつこの世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世(みよ)過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」 とあった。 万が一落としたりして他人に見られたら困るので、隠し文になっていた。将来西行となる人ですから、この謎が分かった。『この世にては逢わずというから、今夜は逢わないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三ツ時。西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂で待っていろということだろう』、と気がついた。

 待ちわびていたので早くに行きすぎ、来か疲れ(こずかづかれ)でうたた寝をしてしまった。そこへ内侍が現れ、
 「実あらばいかでまどろまん誠無ければうたた寝をする」。
私の事なんかスキでも無いから寝ちゃったんでしょ。と言われ帰ろうとした内侍に、十二単の裾を掴んで義清が返歌をした。
 「宵は待ち夜中に恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返した。
宵のうちはあなたが来るかと待ちました。夜中になったら貴方は来ないと恨みました。明け方になったら、夢の中だけでも貴方に会いたいと思って、まどろんでいました。と答えた。染殿の怒りも消えて、

 二人の影がひとつになった。

 鶏鳴暁を告げる頃、袖にすがって「染殿またの逢瀬は・・・」、「義清様、阿漕であろう」と、言葉を残して立ち去った。義清どう考えてもこの”あこぎ”が分からなかった。義太夫の素養があれば、
「伊勢の海阿漕(あこぎ)が浦にひく網も度重なれば人もこそ知れ」、と有るのが分かったのですが、それが分からないため髪を下ろして、僧侶から歌の道に入ってしまった。

 



ことば

西行(さいぎょう);元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
右図;西行法師_菊地容斎画
 父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
 彼は歌会などを通して仲を深めた鳥羽院の妃・待賢門院(たいけんもんいん=崇徳天皇の母。藤原 璋子)と一夜の契りを交わしたが、「逢い続ければ人の噂にのぼります」とピシャリと袖にされた。その時の「あこぎ」の意味が分からなかった。
 花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。
最晩年、以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。
 『ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ』 (山家集)
 『ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比』 (続古今和歌集)
 花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のこと。

摂津(せっつ);五畿の一。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国。

河内(かわち);五畿の一。今の大阪府の東部。河州。

和泉(いづみ);五畿の一。今の大阪府の南部。泉州。

萩大納言;萩大納言は歴史の中には存在せず、悪役を仰せつかったので、仮名としたのでしょう。
・大納言(だいなごん);太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。

北面の武士(ほくめんのぶし);義清の官位で、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。
 北面は上北面と下北面に分かれている。「上」(シャウ)は殿上の二間が詰所となって、四位・五位の諸大夫層が中心となる。その多くは文官で、最終的に公卿まで昇進する者もいた。これに対して、「下」(カ、またはケ)は殿上ではなく御所の北の築地に沿う五間屋であり、六位の侍身分の者が中心となる。近習や護持僧もいるが大部分は武士であり、一般的に北面武士といえば、下北面(北面下臈とも)を指す。

阿漕(あこぎ);『伊勢の海阿漕(あこぎ)が浦に ひく網も度重なれば人もこそ知れ』
という古今六帖の古歌から。阿漕ケ浦は、今の三重県津市南部の海岸。伊勢神宮の禁漁区域で、一度だけなら分からないでしょうが、度重なれば噂に上りバレてしまうでしょう。

染殿の内侍(そめどののないし);内侍=伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれた。記紀伝承では崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。また、斎宮に関する一切の事務をつかさどった役所の女官。町屋風に言うとお染さんというが改まって染殿と言った。
 この噺では康和3年(1101年) - 久安元年8月22日(1145年9月10日)。右図:染殿の内侍。年上の女性には心引かれるものがあります。

■「蝶なれば二つか四つも舞うべきに 三羽舞うとはこれは半なり」 ;丁半博打で丁とは偶数、半とは奇数を現す。で、蝶が3羽舞っているのだから丁(蝶)ではなく、半だろうと言いがかりを付けた。
義清が助太刀をした 「一羽にて千鳥といへる名もあれば 三羽舞うとも蝶は蝶なり」 。
「一枚でも煎餅と言うがごとし」と同じ言い回し。

あなかしこ;恐れ多いとの意で、手紙の文末に用いる挨拶の定型語。恐惶謹言。

丑三ツ時(うしみつどき);丑の時を4刻に分ちその第3に当る時。およそ今の午前2時から2時半。「草木も眠る丑三つ時」等と使う。草木も眠る頃なのに二人は起きていたんですね。

十二単(じゅうにひとえ);女房装束の俗称。単(ヒトエ)の上に袿(ウチキ)を重ね、その上に唐衣(カラギヌ)と裳(モ)をつける服装。
右図;十二単 東京国立博物館蔵



                                                                    2015年6月記

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