落語「旅の里扶持」の舞台を行く
   

 

 長谷川伸原作

 林家彦六の噺、「旅の里扶持」(たびのさとぶち)


 

 落語家には貧乏という物がついて回ります。二代目正蔵の弟子で正喬(しょうきょう)は二代目の師匠をしくじって江戸を飛び出し、前橋に来ていたが暮れも押し迫ったのに単衣の着物を2枚着ているだけであった。芸人のビラを見つけ、聞くと江戸家駒吉という新内流しと、亭主の蝶々家とんぼという落語や手品までやる芸人夫婦であった。訪ねると旅に出るというので、文無しの正喬、同行させてもらった。

 亭主が生まれたての赤ん坊を背負い、駒吉は命より大事な三味線を抱え、本庄に向かいながら聞けば駒吉は本名をお駒といい江戸・横山町の小間物問屋の娘、とんぼはその店の出入りの職人の息子で、いい仲になって、駆け落ちしたが、好き合っていても食べる物、寝る所が無いと、そんな甘いことも言っていられません。
 前橋に来たときには亭主が患いついて寝込んでしまい、すってんてんになってしまった。やむを得ず、お駒が新内で喉を聞かせて生活をしのいでいたが、あるとき芸の分かる大店のご隠居が小さな持ち家に住まわせてくれた。お陰で、そこからお座敷や演芸に出られるようになった。しかし、そのご隠居が亡くなってしまった。
 居づらくなったが、お駒に子供が宿ったことが分かり、大店に手伝いに行ったその時に1両2分の金が無くなった。店側では亭主が犯人だと目星を付けたが、亭主はどんなに言い訳をしても聞き入れてくれなかった。その為、家を空けてくれと申し渡され、家を出て旅に出るときが正喬と会った時だった。
 お駒さんが出産するために大事な三味線を質に入れたが、ここを出るにあたり、家財をかき集め三味線を請け出して旅に出ることになった。

 本庄に着き安宿に入ったが、夜中に「正喬さん、正喬さん」と呼ばれて目を覚ますと、亭主が逃げてしまったという。話を聞くと、夜中に起き出して、立ち上がった瞬間にお金を落とし、かき集めて私を突き飛ばして逃げていってしまったという。
 正喬は後を追って亭主を捕まえたが、「女房に見られてはいけない物を見られてしまったので・・・」と暴力を振るってもその場から逃げていった。
 問い詰められて、本当のことを言うと、「あきらめました・・・」、お駒は絶望して、死のうと考えますが、正喬は「子供のために、生きねばならない」と言って止めます。
 そして、お駒は新内を、正喬は落し話を語って歩きました。お駒の新内は赤子のことを考えると必死で普段より冴え、その良さによく客がつきました。細々と食べていけるようになったが、5日もするとお駒さん、ドッと病の床についてしまった。産後の日だちも考えずに、旅をして亭主に逃げられ毎晩門付けまでしたのですから当たり前です。お駒さんは今晩も仕事に出るというのを止めて、正喬一人で小咄を語って歩いた。3里離れた在の大光寺の住職が彼の落語を聞いていて、1分(ぶ)の出演料で村人に落語を聞かせたいとの仕事の依頼。

 お駒さんには1分の金を持って帰ってくるからと言い聞かせたが、「正喬さん、貴方はそのお金を持って逃げてしまうのですか」、「とんでもない。男は嘘を吐かない。必ず戻ってきます」、「ごめんなさい。この子の事が心配なもので・・・」。
 大光寺に着くと食事をご馳走になって、その晩は「野ざらし」にもう一席演じた。大変好評だったので、もう一晩1分で依頼され、「こんにゃく問答」ともう一席、みんなに喜ばれて、2分の金を持って旅籠に急いで帰ってきた。
 お駒さんは一足違いで、亡くなっていた。息を引き取る前、「正喬さん、正喬さん」と言っていたといいます。駆け落ちしてきた男に捨てられ、それを拾って親切にしてくれた正喬に対する思いは強かったのでしょう。野辺の送りを済ませたが、子供はどうしようもなかった。結局、里親を探し、里扶持を、毎月、送る約束をして預けました。

 そして、他の旅芸人と一緒になって江戸に入りまして、江戸では、正蔵師匠に詫びを入れ、許されて一門に復帰し、後に出世して三代目林家正蔵になりました。

 正蔵になって高崎からお座敷が掛かり、弟子を連れてブラブラと熊谷まで来てみると、その先の本庄で別れた赤子のことを思いだした。あれから1年と1月は仕送りはしたが、「どうしたかな~」との思いが募り、駕籠を雇って本庄宿へ。その時の宿を探したがもう無かった。里親の所に行くと、10年前に越しました。気落ちしていると声を掛けられ、「あの子は仲町の荒物屋さんの五郎兵衛さんの所にいますよ。歳は十八になります」と教えてくれた。
 店に行くと、娘の方から声が掛かった。「おじさんは江戸の噺家さんではありませんか」、「お前さんは、あの時の赤ん坊さんかい。・・・なんて名前」、「正(しょう)と言います」、「正喬の正を取ってお正さんか。誰が付けたかありがてぇ。良く分かったね」、「江戸から来る芸人さんにいつも聞いて、顔まで知っていました。おじさん、おじさん、・・・とうとうお目に掛かれましたね」、「泣いちゃいけねぇ。という私が水っぱなと涙が混ざって歳取るとダメだねぇ」、「おじさん・・・」、「土間になんぞ手を突いて・・・」、「おじさん、その節は私だけでは無く、おっ母さんまで大変お世話になりまして、アリガトウございました」、「あいよ。礼はそのぐらいにして、涙を拭いて顔を見せておくれ。亡くなったお駒さんに生き写しだね。亡くなったおっ母さんに逢いたくなったら鏡を見てごらん。おっ母さんそっくりだよ。笑ったね、その顔までそっくりだ」。そこに帰ってきた養父母に引き合わせて再会を喜んだ。その晩は手厚く持てなされ、翌朝別れを惜しんで荒物屋を後にした。

 宿を抜けて町外れまで来るとクッキリと晴れ渡り、山々が素晴らしく見えた。宿の方に振り向き、「あ~ぁ、あの当時はお駒さんの新内でここを流したもんだ。俺は蘭蝶切りしか知らないが、・・・♪四ツ谷で初めておうた時、好いたらしいと思うたが、♪因果ぁな~ 縁の~~ 糸~車ぁ~~ 」。

  


 
 この噺は、劇作家長谷川伸の創作「人情噺」で、彦六の大師匠、三代目林屋正蔵(
初代から四代目までは林屋正藏)を主人公とした噺です。この噺の主人公(林屋正喬、後の三代目林屋正蔵)は、実在の人物ですが、話そのものはフィクションです。
 三代目は通旅籠町平右衛門の倅、俗称新治郎。(? - 明治5年(1872)から明治6年(1873)頃) 1832年から1833年頃に三代目司馬龍生の門に入り龍我といった。龍生没後に兄弟子が龍生を継いだ。自身は初代林屋正蔵の娘のみいの養子となって1850年から1851年頃に三代目林屋正蔵を継いだ。林屋一門とまったく関係ない人物が正蔵を継いだため林屋一門から妬まれた。正蔵のお家芸怪談噺もよく演じ人気を得る。その後妻と離縁し、師・龍生の妻の女髪結いのきくと再婚した。1857年1月には初代春風亭柳枝の尽力で両国垢離場の初席で二代目左楽を襲名した。襲名してからは滑稽噺をよく演じた。 俗に「歯抜けの左楽」「歯っ欠けの左楽」 妻は富士松加賀尾。実の娘は四代目林屋正蔵門下の小せん。門下に二代目都屋歌六、左蝶(後の春風亭柳賀)、春風亭柳(高山新兵衛)、初代柳亭左龍、三代目三升家勝次郎、三代目左楽、初代帰天斎正一らがいた。
  八代目正蔵(彦六)は、三代目正蔵が主人公なので、長谷川伸さんに頼んで、この噺を貰ったと言って、晩年、好んで高座にかけていました。


ことば

里扶持(さとぶち);里子に出した子供の養育料のこと。

新内(しんない);新内節。鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。浄瑠璃の豊後節から派生したが、舞台から離れ、花街などの流しとして発展していったのが特徴。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受け、隆盛を極めた。
 曲目には、義太夫節から借りた段物、遊里の情景や心中を描いた端物、滑稽を中心とするチャリ物があるが、新内として特に有名なのは端物である。「蘭蝶」や「明烏夢泡雪」はその代表曲といっていい。
右写真;新内流し。謡いながら町を流している。深川江戸資料館にて

蘭蝶(らんちょう);新内のひとつ。本名題「若木仇名草(ワカギノアダナグサ)」。初世鶴賀若狭掾作詞・作曲。声色身振師の蘭蝶が遊女此糸と契り、身売りした女房お宮が此糸に縁切りを頼むに及んで心中を覚悟する筋。新内を代表する大曲。多くお宮の口説(クドキ)「縁でこそあれ末かけて」を中心に演奏される。

単衣(ひとえ);夏場などに着る着物で一枚仕立てのもの。冬の着物は裏が付いたものや綿入れがあり、単衣を2枚重ねて着るなどは金の無い奴の証拠。

江戸・横山町(よこやまちょう);江戸時代には日本橋に次いで商業地として栄えた地。隣には馬喰町や南に行けば、大伝馬町、小伝馬町で日本橋の繁華街に出ます。また、北に行けば浅草橋を渡り、浅草まで行けます。

 現在の横山町。衣料品関係の店が集中しています。

前橋(まえばし);正喬がお駒さん夫婦と最初に出会ったところ。関東平野の北西端、赤城山南麓に位置する。市内には利根川が流れる。伏流水による水質の良さで知られ、中心部で供給される水道水は、その地下水である。又、全国の都道府県庁所在地では海から最も遠い。鉄道交通では中心駅の前橋駅が幹線から外れているため、隣の高崎市にある高崎駅が前橋市への中継点の役割を果たしている。
「行政や文化の中心は前橋、交通や商業の中心は高崎」といわれることがある。これは前橋に群馬県庁が置かれており、日本銀行の支店、国の出先機関や大手金融機関、県民会館に代表される県の施設や医療施設などが集中するなど、古くから行政の中心地として機能してきたのに対し、高崎は古代から東山道・鎌倉街道が開け、江戸時代には中山道・三国街道・日光例幣使街道などの主要幹線が交差する一大交通拠点であり、現代においても新幹線や高速道路などの県内交通の拠点としての地位を占めていることによる。

高崎(たかさき);正蔵になってお座敷が掛かって出掛けた地。中山道の宿駅で、江戸から出ると板橋を第1宿として、8宿目が熊谷、深谷、10宿目が本庄、3つ先が高崎です。この先碓氷峠を越えると軽井沢、諏訪を超えて草津で東海道と合流して京に入ります。中山道69次中4番目に規模が大きい宿場町として、また物資の集散地・商業のまちとして大いににぎわった。
 古くから交通の要衝で、中山道(国道17号・国道18号)と三国街道(群馬県道25号高崎渋川線)の分岐点、関越自動車道と北関東自動車道の分岐点、上越新幹線と北陸新幹線の分岐点ともなるなど、全国有数の交通拠点都市である。新幹線の停車する高崎駅は群馬県の県庁所在地前橋市の玄関口ともなっており、群馬県の交通の中心地である。
上図;『木曾海道六拾九次の内 高崎』 広重画
下図;高崎駅構内に、世界遺産登録が済んだ富岡製糸場の案内が通路に出ています。

本庄(ほんじょう);赤子を預けて、後年再会した地。埼玉県の北西部に位置する市。中山道の宿場・本庄宿が置かれた。本庄宿は中山道の中で最大の宿場町として栄えた。本庄宿(ほんじょうしゅく)は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて10番目の宿場。 武蔵国児玉郡の北部国境付近に位置し、武蔵国最後の宿場。現在の埼玉県本庄市に当たる。江戸より22里(約88km)の距離に位置し、中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。それは、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた。
 上図;木曾海道『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』天保6-8年(1835-1837)、渓斎英泉 画
 宿より5.5km離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55m)、幅2間(約3.6m)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6m)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は三代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである。

熊谷(くまがや);十八年前、本庄で赤子と別れたことを思いだしたて本庄に。埼玉県北部にある人口約20万人の市。江戸時代には中山道の宿場・熊谷宿が置かれ、宿場町として栄えた。現在でも市内には国道17号をはじめとする4本の国道(および各線の計6つのバイパス)、9本の主要地方道、上越新幹線をはじめとする3本(JR上越新幹線・JR高崎線・秩父鉄道秩父本線)の鉄道路線が通過しており、交通の要衝としての役割を果たしている。
熊谷宿(くまがいしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて8番目の宿場。
右図;『木曾道中 熊谷宿 八丁堤ノ景』 渓斎英泉 画

1両2分(1りょう2ぶ);金の貨幣単位。金は4進法で、1両=4分、1分=4朱。1両2分は1両+0.5両、現在の貨幣価値にして十数万円です。10円、20円の金に困っている亭主ですから、つい、手が出てしまったのでしょう。目先の金に目がくらんで、大事な女房と交換してしまったのです。
大光寺でのギャラ・一晩1分は2万円ほど、食事も出来ない程の彼らにすれば天からの恵みです。

落語「野ざらし」;隅田川で娘さんの骨を釣ろうと出掛けてみたが釣れたのは・・・。「野ざらし」を参照。

落語「こんにゃく問答」;禅宗のお坊さんに問答を挑まれたが、その結果・・・、「こんにゃく問答」参照。



                                                            2015年6月記

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