落語「鉄拐」の舞台を行く
   

 

 三代目桂三木助の噺、「鉄拐」(てっかい)


 

 大酒家は何処にも居たが、唐土(もろこし)に李白という人が居て、後世に「詩仙」と称された人です。また、陶淵明も唐土を代表する酒飲みの代表です。

 その当時のお話で、北京に都会屋甚兵衛という大店(おおだな)が有りました。年に一度の創業記念日に、大勢人を集めて宴を張り余興を見せていたが、ネタ切れになってきた。手代(後半で番頭と言い換えている)の利兵衛が地方に掛け取りに出掛けるので、その時芸人を探して欲しいとご主人に頼まれた。仕事も済んで帰り道、道に迷ってしまった。
 鉄拐仙人に出合って頼むと、腹を撫で息を吐くと、もう一人の鉄拐仙人が現れた。息を吸うとその仙人は腹の中に収まった。これが一身分体の術である、と言われて、これだと思ったので北京に来て見せて欲しいと懇願したが、断られた。「私が助かるのですが・・・」、「分かった。お前のために行ってやろう。一回だけだぞ」と念を押されて了解してもらった。綺麗な部屋はイヤだから、汚い部屋でとの所望、これだけ汚くナメクジが出るので志ん生さんも驚いたという部屋があります。

 「目をつむって、わしの背中に乗れ、途中で目を開けてはいけない」、と言うことで、目を開けたら北京に着いた。

 汚い方の部屋に通し、口休めにシイの実とカボチャの実を運ばせた。余興の当日、大成功。珍来軒でもやって欲しいとの依頼、「やっていただけると助かるんですが・・・」、「これだからイヤだったんだ。だが、助かるのならやってやろう」とこれまた了承。次々に依頼が来てこなしていた。席亭が集まって頼みに来た。断り切れずに了承しているが、出演者の選択にまで口を挟むようになっていた。放送局も来て人気はうなぎ登り。しかし、スケなら出るがトリはイヤだと言い始めた。興行主達も黙ってみているわけにもいかず、第二の鉄拐を探しに行った。

 張果老と言う仙人を発見。瓢箪から馬を出した。「鉄拐さんも都会でやっていますから、貴方もどうぞ・・・」と言うことで、張果老も北京に。馬を出す芸というのは派手ですから、鉄拐さん霞んできました。
 鉄拐仙人、あの馬を盗んでこようと、酔いつぶれていた張果老宅で瓢箪の中の馬を自分の腹に吸い込んでしまった。張果老は当然瓢箪の栓を抜いても馬が出て来ない。注目は鉄拐に向いてきた。
 鉄拐が馬に乗った姿で腹から出すと宣伝したが、どうしても馬は出て来ない。困った鉄拐はお客さんを飲み込んで、腹の中で馬に乗った鉄拐を見せることになった。
 お客さん全員腹の中に吸い込んで見せたが、これが評判を呼んで、連日大入り満員。お客さんが入る所が無く、あばらの三枚目なら空いている、残った人は四枚目ですと言う繁盛。
 腹の中で酔っぱらいが二人喧嘩を始めた。「木戸銭帰すから吐き出してください」と言うので、二人を吐き出したら、これが李白と陶淵明。

 



ことば

李鉄拐(り てっかい);中国の代表的な仙人である。八仙の一人。鉄拐李とも呼ばれる。 名は玄、岳、洪水など諸説ある。 鉄拐とは、彼の幼名であるとする説や、足が不自由で鉄の杖をついていたためという説がある。ボロボロの服を着て足の不自由な物乞いの姿をしていることが多い。二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体は既に焼かれていた。彼は近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った。 兵法三十六計の一つ、借屍還魂は、この逸話をもとにした計略である。
 また、西王母に師事して東華教主となり、漢鍾離を得道させたという説もある。 ほかにも岳寿という小役人が李屠という者の体を借りて李鉄拐になったという話もある。

張 果(ちょう か);(生没年不詳);中国の代表的な仙人である八仙の一人。敬称を込めて、「張果老」と呼ばれる。唐代玄宗朝に宮廷に招かれ、様々な方術を見せた。天宝年間に尸解(しかい=道家の術で、魂だけが神仙となって化し去ること。後に残った肉体は生時と変らないという)したといわれる。正史にも名を連ね、多くの伝承を残している。
 恒州の条山にこもり、近隣を歩き回り、数百歳と自称していた。 則天武后に招かれ、山を降りた時に死に、死体が腐敗していたにもかかわらず、後日、その姿は発見された。 張果は白い驢馬(ろば)に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。 開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤は死体に向かって玄宗の意を伝え、張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舍人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになった。 張果は、玄宗に老いていることを問われ、髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が娘の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな方術を行った。食事は酒と丸薬だけしかとらず、方術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。

八仙;道教の仙人のなかでも代表的な存在であり、中華社会のいかなる階層の人にも受け入れられ、信仰は厚い。日本における七福神のようなもので、掛け軸や陶磁器に描かれるめでたい絵の題材になるなど様々な芸術のモチーフとなっている。

左図;八仙絵図、船尾から右回りで何仙姑(かせんこ、唯一の女性)、韓湘子(かんしょうし)、藍采和(らんさいか)、李鉄拐(りてっかい、または鉄拐李)、呂洞賓(りょどうひん)、鐘離権(しょうりけん、または漢鍾離(かんしょうり))、曹国舅(そうこっきゅう)、船外に、張果老(ちょうかろう)の八仙人がいる。
ウイキペディアより

 

李 白(り はく);(701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))中国の盛唐の時代の詩人。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。酒をこよなく愛したと伝わる。
 『新唐書』などにある有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。
 下記、陶淵明とは生きた時代が違いますから、腹の中で喧嘩することはありません。この辺が落語の良さでしょう。

陶 淵明(とう えんめい);(365年(興寧3年)- 427年(元嘉3年)11月)は、中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。
 無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話がある。この「無弦の琴」については、『菜根譚』にも記述が見られ、意味を要約すると、存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできないと記しており、無弦の琴とは、中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている。
右図;『晩笑堂竹荘畫傳』より。絃のない琴を抱えるのは、昭明太子蕭統の 「陶淵明伝」に記された故事による。
以上、ウイキペディアより

席亭(せきてい);落語等を演じる会場主。寄席の運営者や経営者の事。(浅草演芸ホールでは「社長」。)もともと席亭とは寄席自体を指し、主人を席亭主(または席主)と呼んだ。
 噺の中に出てくる、香港若竹(先代円楽の経営で江東区東陽町にあった)、広東の立花(千代田区神田須田町に)、喜よし(新宿区四谷に)。皆、過去に有った寄席のパロディーです。

唐土(もろこし);現中国が有った地。

汚くナメクジが出るので志ん生さんも驚いた;貧乏していた当時、志ん生が業平に住んでいた長屋。落語「業平文治」に詳しい。ナメクジ長屋についてはここに

スケなら出るがトリはイヤスケ=助演。トリ=主任。責任者。楽屋において、給金を分配する人。舞台では出番の最後を飾る。客動員数はトリの力によるので責任重大。

あばらの三枚目;左上から三本目のあばら骨、その真下が心臓の位置で、急所になります。



                                                            2015年8月記

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