落語「蛸芝居」の舞台を行く
   

 

 五代目桂文枝の噺、「蛸芝居」(たこしばい)


 

 昔は、医者が四方八方に居る訳ではなかったため、何とか病を自分で治そうと「まじない」や「民間療法」が発達していた。例えば、蛸に食当たりした場合は、『黒豆を三粒食べたら治る』といいます。

 砂糖問屋の御主人はもちろん、番頭、丁稚、女中、お乳母さんにいたるまで、家内中が揃ってみんなが芝居好きと言う妙な家がありました。
 朝、皆を起こすのにも、御主人自ら『三番叟』を踊って皆を起こす、「おぉ~そいぞや、遅いぞや、夜が開けておりや、夜が開けたりや。女中、丁稚、乳母、起きよぉ~ッ」 (♪賑やかなはめ物が入る)。丁稚の定吉・亀吉のコンビが布団の中から「うぉ~い、三番始まりィ~」。 御主人にドツかれてしまった。
 「朝から怒られて、さっぱりワヤやで…」 表を掃除するように言いつけられ、外に出たが、「掃除しながら出来る芝居はないか」、「あるよ。幕開きに水まきと掃除の丁稚がいるよ」。「さらば、掃除にィ・・・、いや掛かろぉ~かい~ッ」(♪賑やかにはめ物が入る)、始めたが、また御主人に見つかって怒られた。 「さっぱりワヤやで・・・」。

 定吉は仏壇の掃除を言いつけられ、仏間へ入っていく。 「え~、これは誰の位牌かいなぁ?あッご隠居はんや。なぁ、えぇ人やったなぁ。よく芝居のお供して、帰りにぜんざいをご馳走になったっけ。頬ずりしてあげまひょか」。次の位牌を見ると「これがお家はんの位牌、憎たらしい婆やったでぇ。死んでも頭痛うなるよぉに、位牌ひっくり返しとこ・・・」。「位牌掃除しながら出来る芝居はないか。あった!」、で芝居がかって、「回向院殿貴山大居士様・・・。このたび、(♪しっとりとはめ物が入る)天保山舟遊びの折、何者とも知れぬ悪者の手に掛かり、あえないご最後。まだこの定吉は前髪の分際。その前髪を幸いに、当家へ入(い)り込みしが、合点のゆかぬはこの家(や)の禿げちゃん。今に禿げの素(そ)っ首討ち落とし、主らのご無念、まッ、晴らさせましょ~」、「なにが『禿げちゃん』だ」。定吉の頭をガツン。またまたしくじって、今度は赤ん坊のお守りを言いつかった。

 泣き止まない坊(ぼん)、かつては「太閤はんも嫌がった」というこの仕事、また芝居をやりたくなってきた。(♪しっとりとはめ物が入る)忠義な奴(やっこ)が赤子を抱いて都落ちの芝居をしていると、亀吉が棒切れを持って定吉の背後にまわって、「いやぁ~ッ!」、「でんでん太鼓ぉに、笙の笛ぇ~!」、「いやぁ~ッ!」 捕り物の芝居になってしまい、勢いで赤ん坊を放り出してまた。御主人に怒られ、「さっぱりワヤやで・・・」、今度は、二人そろってお店番。芝居はキツく止められた。

 魚屋の魚喜は芝居好きなので、『掛け声』と下駄で『ツケ打ち』して芝居をやらせようというわけ。
 魚屋その気になって(♪華やかなはめ物が入る) 奥から出てきた御主人に「旦那さま。今日は何ぞ、ご用はごわりまへんか?」、「もうええかげんにせぇよ。で、今日は何があんねん?」、「えー。ゴザ(五座)をハネのけまして、『市川海老十郎』、『中村助』、『尾上蔵』」 歌舞伎の『拾い口上』のつもり。
   呆れながらも注文したのは、鯛と蛸。蛸は酢蛸にするからすり鉢を伏せた中に、鯛は裏の井戸で三枚に。そこでも魚屋「仮名手本忠臣蔵、六段目の勘平の切腹の場」を見得を切って演じていた。
 御主人が来て、魚屋に犬が荷の中からハマチをくわえて逃げたと告げた。まだ近いだろうからと「後を追ぉて、あ、そぉ、そぉ~じゃぁ~ッ」と横っ飛びになって表へ。 定吉には酢蛸に使う酢を買ってくるように言い付けた。

 一部始終をズ~ッと、台所の方で聞いていた蛸が、足を二本、すり鉢の下へグッと掛け、(ツケ打ちが入り)ボチボチ持ち上げ始めた。足を二本前へ回しましてグッと結び、丸絎(まるぐけ)の帯のつもり。蓮華を腰へ指して刀に見立て、布巾でキリキリ~ッと頬被りをし、目計り頭巾というやつ。(文枝も手ぬぐいで頬被り、口をとがらせ蛸の表情。場内から笑いと拍手)。(ツケ打ちと♪はめ物が入る。蛸は這い回る様子)。出刃包丁を取り上げると、台所の壁の柔(やら)かいとっからボチボチ切り破りだした。
  「何や?台所の方がガタガタとうるさいなぁ、どないしたんや?」 様子を見ると、何と蛸が芝居の泥棒の真似をして、台所から逃げようとしている所。「逃げられてたまるか!」。そのまま追いかけたらいいのに、御主人棒を持ってきて、蛸の後ろにソロソロと・・・。それに気づいた蛸は、上を向いて墨を噴水みたいにビュー。一気にあたりが暗転して、『だんまり』になった。
 手探りで蛸を探していた。「いやぁ~ッ!」、「やぁ~」 蛸が腕を伸ばし、御主人と一戦。その場に倒れてしまったのはご主人であった。 蛸は「口ほどまでに無い奴だ。明石の浦へ。おぉ、そぉじゃ~ッ・・・」(♪はめ物とツケ打ちが入り賑やかになる)と逃げてしまった。
 
  「旦さん、酢ぅ買ぉて来ましたで。旦さん、酢ぅ買ぉて・・・、あれ?どこ行ったんだろう」 定吉は目を回している御主人を発見。抱き起こすと、芝居口調で「さ、定吉か?遅かったぁ~。もう少し早かったら、こんな事にはならなんだ。無念残念口惜しや~」、「あんた、まだ演ってなはんのんか」、「定吉、黒豆を三粒、持って来てくれ」、「どないしなはったや?」、「蛸に当てられたんや」。

 


 この噺、蛸芝居(たこしばい)は、上方落語の演目の一つで、江戸落語と違って”はめ物”と言って下座さんの三味線や謡い、太鼓、鉦などが入って賑やかです。この演者には、六代目笑福亭松鶴や五代目桂文枝などがいる。 この作品は初代桂文治の作といわれて、後世に改作などを繰り返し現在の形になったとされる。
 この話のテープ(音源)は三代目桂小文枝時代のものです。また、六代目桂文枝はタレントとしてもならした、社団法人上方落語協会会長・桂 三枝です。


ことば

五代目桂 文枝(かつら ぶんし、1930年4月12日 - 2005年3月12日 享年74。);上方の落語家。本名は長谷川 多持(はせがわ たもつ)。
 大阪市北区天神橋に生まれ、後に大阪市大正区に移る。終戦後大阪市交通局に就職するが、同僚でセミプロ落語家であった三代目桂米之助の口ききで、趣味の踊りを習うため、昭和22(1947)年に日本舞踊坂東流の名取でもあった四代目桂文枝に入門。その後しばらくは市職員としての籍を置きながら、師匠が出演する寄席に通って弟子修行を積み、桂あやめを名乗り大阪文化会館で初舞台を踏む。ネタは「小倉船」。
 入門当初上方落語の分裂に巻き込まれ、一時期は歌舞伎の囃子方(鳴物師)に転向、結核を病んで療養生活を送った後、落語家としての復帰を機に三代目桂小文枝に改名し、平成4(1992)年には五代目桂文枝を襲名する。
 六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春団治と並び、昭和の「上方落語の四天王」と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。吉本興業に所属。毎日放送の専属となり、テレビ・ラジオ番組でも活躍。吉本では漫才中心のプログラムの中にありどちらかといえば冷遇されていたが、有望な弟子を育てて吉本の看板に育てた。吉本の幹部である富井義則は「文枝さんにはお世話になりました。三枝、きん枝、文珍、小枝とお弟子さんになんぼ稼がしてもらったわかりません。いや大恩人ですよ」と評価している。
 落語に「はめもの」と呼ばれる上方落語特有のお囃子による音曲を取り入れた演目や、女性を主人公とした演目を得意とし、華やかで陽気な語り口が多い。出囃子は「廓丹前」。小文枝時代は「軒簾」を用いていた(後に桂三枝が継承し、六代文枝襲名まで使用)。 穏やかで優しかった反面、芸に対しては厳しく、弟子に対しても鉄拳をふるうこともあった。桂きん枝は「俺ほど師匠に殴られた弟子はいない」と回想している。稽古に関しては、例えば上方落語の間と和歌山弁独特のイントネーションとの間で苦しんでいた桂文福や、男性社会の中で構築された古典落語の壁にぶつかっていた女流の三代目桂あやめに新作落語を勧めるなど、弟子の特徴を活かした指導を行っていた。

番頭(ばんとう);商店などの使用人の頭(かしら)。手代(てだい)以下を統率し、主人に代わり店の一切のことを取りしきる者。

丁稚(でっち);幼年の奉公人。商家などに年季奉公する若者。江戸では小僧。コドモ。明治時代まで、商家の丁稚は大抵十歳前後で雇われ、松吉・定吉・茂吉など本人の名の一字下に吉をつけて呼ばれ、店の掃除から使い走り、台所の用事まで一切をやらされた。住み込みで仕着せ、賄いを受けて僅かの給料で勤めつつ、その間に商法・手習いを習って、十七、八歳で手代の列に加えられるとともに、はじめて羽織を着ることを許される。

手代(てだい);商家の使用人で丁稚と番頭の中間の身分の者。丁稚の間は「~吉」とすべて吉をつけて呼ばれたものが、十七、八歳で手代に昇格すると「~七」となり、さらに二十二、三歳で番頭になると「~助」と変ってゆくのが普通であった。

 三井越後屋は現在の三越。その出世階段を上がるには細かい階級があった。江戸東京博物館蔵

女衆(おなごし);下女・女中。雇われた順あるいは年齢順に、松竹梅からとってお松どん、お竹どん、お梅どんと呼んだ。長じるとお松っつぁん、お竹はん、お梅はんとなる。決して呼び捨てにはしなかった。

乳母(おんば・うば);「おうば」の転訛したもの。母親に代わって子供に乳を飲ませ、面倒をみる女性。

三番叟(さんばそう);能・狂言とならんで能楽を構成する特殊な芸能の一つ。能楽の演目から転じて、歌舞伎舞踊や日本舞踊にも取入れられているほか、各地の郷土芸能・神事としても保存されており、極めて大きな広がりを持つ芸能である。なお、現代の能楽師たちはこの芸能を、その文化を共有する人たちにだけ通じる言葉、いわゆる符牒として「翁」「神歌」(素謡のとき)と呼んでいる。

附け打ち(ツケうち);歌舞伎舞台上手袖で平板の上に樫の角棒(ツケ木)を打って舞台を締める。
 ツケ打ちの基本は、「バッタリ」。「いち、に」と打つ。これが「いちに、いちに」となると「バタバタ」。例えば走っている場面につける音でも、男なのか女なのか、侍なのか町人なのかによって、このバタバタを打ち分ける。
写真;舞台の上手で付けを打つ様子。歌舞伎座より。

ご隠居(いんきょ);家長が家督を譲って隠退すること。また、その人、その住居。戸主が自己の自由意志によってその家督相続人に家督を承継させて戸主権を放棄することで、昭和22年(1947)廃止された。

お家はん(おいえはん);その家の主人は「旦那様」(「だんさん」と発音する)、その妻が「ごりょうんさん」(御料人様)。「大旦那様」(「おおだんさん」)は「旦那様」の父、「お家さん」(「おいえはん」)はその妻となります。丁稚達から見たらお婆さんです。

天保山舟遊び(てんぽうざん-ふなあそび);大阪市港区の天保山公園にある人工的に土を積み上げて造られた、標高4.53mの築山。国土地理院発行の地形図に山名と共に掲載されており、山頂には二等三角点がある。大阪市ホームページ内では日本一低い山と記載があり、天保山山岳会でも日本一低い山としている。平成26年(2014)4月9日、国土地理院による調査により標高3mの山、日和山 (仙台市) の認定により、2番目に低い山となった。渡船もあって舟遊びも出来る。
 右写真;「天保山」 北斎画。

前髪の分際(まえがみのぶんざい);江戸時代元服の習慣は庶民にも浸透していき、商家の丁稚が15歳を迎えると半元服と称し、額の角を入れて前髪を分けて結び、履物や服装も変え(肩上げを下ろす)ます。それから17~19歳になると本元服であり、前髪すべてを剃り落とし月代(さかやき)を立てます。
 まだ子供の分際だから・・・。と髪形から説明しています。

太閤はんでもボンの守は嫌がった;太閤秀吉は「天下人となるまでに一番苦労したことは、幼少のころ、弟や妹の子守をしたことだ」と語っている。また、子守りが嫌で家を飛び出たとも言われる。

五座(ござ);戎橋(えびすばし)南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のことで、1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認されたことに始まる。「五つ櫓」とも言う。道頓堀を代表する劇場群で、近代に至るまで、歌舞伎や仁輪加(軽演劇)、人形浄瑠璃などが賑々しく興行された。
 昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された。 平成に入りバブル崩壊を受け、松竹は残った中座(松竹新喜劇の本拠地)、浪花座(松竹芸能の本拠地)を相次いで閉鎖し、映画館の入った商業ビルとして復活していた角座も含めてことごとく敷地を売却。ここに、道頓堀五座は事実上一旦消滅した。現在商業演劇や歌舞伎の定期公演などは大阪松竹座で行われているが、道頓堀五座とは別個の劇場。

仮名手本忠臣蔵、六段目(かなてほんちゅうしんぐら・6だんめ);早野寛平切腹の段。
 勘平の軍資金のために、こっそり身売りすることになったお軽を連れに、祇園からの使いが来ていた。そこへ狩りに出かけていた勘平が帰ってくる。 お軽と姑と話をするうちに、昨夜猪と間違えて撃ち殺し、金を奪った男がお軽の父・与市兵衛であったのではないかと思い至る。奪った財布や運び込まれた舅の遺体を前に、姑や折悪くやってきた由良之助の部下に責められ、言い訳できない勘平はついに切腹してしまう。 死に際に昨夜の出来事を説明していると、全てが誤解であったことが判明する。勘平が撃ち殺したのは、塩冶の浪人で山賊に落ちぶれている斧定九郎(おの さだくろう)で、与市兵衛の死骸の傷は鉄砲傷ではなく、定九郎によって負わされた刀傷だった。 偶然ではあるが舅の敵を討っていた勘平は、仇討ちの連判に加わることを許されて死ぬ。

丸絎(まるぐけ)の帯(おび);丸くくけて中に綿などを入れた男帯。材料はふつう白または鼠木綿。多く僧侶が用いる。舞台の石川五右衛門使用の帯がこれです。

蓮華(れんげ);連木(れんぎ)。スリコギ。訛ってレンゲ。中華用のスープを飲むためのスプーンとは違います。

目計り(めばかり)頭巾(ずきん);強盗(がんどう)頭巾:目だけ出して顔と頭をすっかり包み隠す頭巾。苧(からむし)頭巾。

暗闘(だんまり);歌舞伎で、登場人物がせりふ無しで闇中にさぐりあう動作を様式化した演出方法、またその場面。普通、時代狂言に含まれたものをいい、世話狂言のものを「世話だんまり」という。暗闘。暗争。

黒豆を三粒(くろまめをさんつぶ);蛸の食あたりには、これを飲めば治ると言われた俗信。



                                                            2015年9月記

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