落語「猫の皿」の舞台を行く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「猫の皿」(ねこのさら)


 

 武士は腰の刀が良ければ、許された時代があったが、太平の世になると、刀や武具より骨董、絵画の方に目が移るようになります。茶器でも蒔絵の掛かった器でも皆が欲しがり、手放さなくなった。その為、江戸に良い物が無くなり、地方に探しに出掛けるようになった。

 それを探し歩く人を果師(はたし)と言った。目利きが出来て仲間から頼まれたり、掘り出し物を見つけ出したりしながら地方を回った。お宝を見つけては所有者を言葉巧みに騙して安値で買い叩き、それを江戸に持ってきて今度は大変な高値で好事家に売りつけるという、ずる賢い連中もいた。

 三度笠に手っ甲脚絆、腰に矢立を挟んで田舎の道を歩いていた。良いことばかりでは無い。河童の川流れ、ムカデも転ぶ事もある。今日もダメだと思い宿のある川越に向かう途中に、ヨシズ張りの茶屋があった。「ちょっと、休ませておくれ。茶は後で良いから」。長閑(のどか)とか、山笑うというのはこんな日なんだろうな。「地方の人も骨董のことは皆知っているんだろうな」(ため息をつきながらタバコを飲んでいる)。飲めるほど綺麗な小川にはメダカが泳ぎ、それを追いかける蛙がいる。俺みたいだな。目線を足元に落とすと、高麗の梅鉢という実に素晴らしい皿があった。江戸でも、10客の揃いは無いぐらいの逸品で、一枚でも300両は下らないという品です。何でこんな皿がここに有るのか分からなくなった。猫に飯を食わせるのに使っている。さては親父、この皿の値打ちが解らないんだな。だったら、安値でだまし取ってしまおうと思った。

 松を褒めて、野良猫同様の猫を抱き上げ褒めた。懐に入れて喜んで、この猫を「女房が『旅先で良い猫がいたらもらって来てくれ』と言うんだ」、「私も好きで十数匹飼っていますが、それぞれ可愛いんです」、「猫はタダでもらってはいけないと言うから、ここにカツ節代を置こう。小判三枚で売ってくれ」、「そんな~」、「良いんだ。気に入ったから買うのだ。宿に行ったら旨い物食わしてやろう」、「可愛がって下さいよ」、「子供もいないんだ。可愛がるよ。猫にこの皿で食わせているのかい。猫は食いつけない皿では食わないと言うから、この皿もらっていこう」、「その皿はいけません。こっちにお椀がありますから、こちらをお持ちなさい」、「猫が気に入った皿の方が・・・」、「いけません。お客さんはご存じありませんでしょうが、この皿は高麗の梅鉢という、なかなか手に入らない品なんです。こんな零落してしまったんですが、その皿だけは手放さないんです。黙っていても300両は下らない品なんです」、「そうかい。そんな事は知らなかった。イタッ。何引っ掻くんだよ。唸っている。アッ、小便した。イヤだよ猫は・・・。大嫌いだ。なんでそんな大事な皿で猫に飯を食わせているんだよ」、
「その猫にこの皿で、ご飯を食べさせておきますと、猫が三両で売れますんですよ」。

 



ことば

マクラから
・ネズミの娘が嫁に行ったが、帰ってきてしまった。母親が心配して聞くと「あの家はダメなんです。旦那さんが・・・」、「やかましいの」、「優しすぎて、猫なで声・・・」。

マス落としでネズミを捕まえた。取った男は「大きい」と自慢しているが、端で見ている友人は「出ている尻尾で、小さい」と反論している。「大きい」、「小さい」、「大きい」、「小せぇ」、マスの中のネズミが「チュー(中)」。

どこの橋にも橋番というのがいて、その橋で間違いがあると橋番の責任です。「毎回この様な身投げが有ると言うことは橋番の責任である。どの様な見張りをしておるのだ」と上役から怒られた。その晩見ていると、橋の欄干に足を掛けている者が居た。後ろから捕まえて「テメェーだな。毎晩ここから飛び込むのは・・・」。

考えオチというのが有ります。「アレは何だろう」と考えていたが解らない。家に帰って、布団の中に入っても解らない。夜中になって初めて解って「ワハハ」と笑う。

はたし;果師、端師、他師などと書き習わされる。古美術品の市場で、同業者を取引の主対象に商売をすること。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。 いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立を差しているのが 典型的なスタイルでした。ささやかな欺(あざむ)きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋の親父に逆にしてやられた。

この噺;かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやった。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振っていた。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから今ではこの題が一般的になった。

  元々の原話は意外に古く、文化年間(1804-1817)刊行の滝亭鯉丈「大山道中膝栗毛」に、「猿と南蛮鎖」として出てくる。茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」と茶屋のばあさんに掛け合う。ばあさん「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

高麗の梅鉢(こうらいの うめばち);朝鮮から伝来した陶磁器。桃山時代以降、茶人が抹茶茶碗として用いたものの総称。李朝のものがほとんどで、朝鮮では茶碗などと同じ雑器で喫茶用ではない。井戸・三島・熊川(コモガイ)・魚屋(トトヤ)などの種類がある。(三省堂の大辞林)

絵高麗(えごうらい); 絵高麗茶碗(えごうらいちゃわん)とは、高麗茶碗の一種とされてきましたが、現在では中国の磁州窯系のものとされます。 絵高麗は、文禄・慶長の役(1592~98)以後、渡来した、やや粗い白化粧の陶胎の土に、鉄描の黒い絵のあるものを、茶人が絵高麗と呼び慣わしたものです。 絵高麗は、中国の磁州窯系の「白地黒花」という技法のもので、灰白色の器胎に白絵土という泥漿をかけ白下地を作り、その上に鉄絵具と筆をもって文様を描き、透明釉をかけて焼成する「白地鉄絵」と、白下地の上にさらに鉄泥漿(黒釉)を上掛けし、文様の輪郭線を錐状のもので彫刻したのち鉄泥の文様部分を残し、余白にあたる鉄泥を削ぎ落とし、元の白下地を浮き上がらせ、再び透明釉をかけて焼成する「掻落し手」とがあります。 絵高麗は、茶の湯では、特に梅鉢とよばれる花紋(七曜星紋)を散らした「梅鉢手」が珍重されました。たいへんに高価な代物です。

 

 左:宋時代、茶碗を専門に焼いた中国・建窯の耀変天目。 世界に四碗しかないが、 その四碗は全て日本にある。 この作品は国宝に指定されています。
 右:絵高麗梅鉢茶碗 (えごうらいうめばちちゃわん)、上段の鼠色と下段の白の帯がほどよい均衡を保っています。黒泥が口縁よりやや下がって刷いたため、口縁にくっきりと白の線が残り、白覆輪天目のような風情を呈します。いかにも涼しげな茶碗で、風炉の季節にふさわしいものとして珍重されています。小西家伝来。

好事家(こうずか);一風変わった物事に興味を抱く人。また風流を好む人。

■三度飛脚;寛文3年(1663)、江戸・大阪間に創業した町飛脚。月に三度、京大阪と江戸を往復したことからこう呼ばれた。この飛脚の被った笠が三度笠。飛脚でも笠を被らない者が多くいました。
右図:「飛脚」熈代照覧より

■脚絆(きゃはん);旅や作業をするとき、足を保護し、動きやすくするために臑(すね)にまとう布。ひもで結ぶ大津脚絆、こはぜでとめる江戸脚絆などがある。脛巾(はばき)。右図、飛脚も使用しています

■手甲(てっこう);手の甲を覆うもの。武具は多く革製、旅行・労働用には多く紺の木綿が用いられた。てこう。右側の飛脚が黒い手甲を使っています。

■矢立(やたて);携帯用の筆入れ。

山笑う;新緑や花などによって山全体が萌えるように明るい様子。冬季の山の淋しさに対していう。春の季語。
冬は「山眠る」 冬季の山が、枯れていて全く精彩を失い、深い眠りに入るように見えるのをいう。
秋は「山粧う」 晩秋、山が紅葉によって彩られることをいう。
夏は、夏山蒼翠として滴(した)たるが如し。山は青々として、美しさやみずみずしさがあふれるほどである。

川越(かわごえ);江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。現在の川越市域は、明治4年(1871)川越藩から川越県、その後入間県、同6年に熊谷県を経て、同9年には埼玉県に編入されました。同22年(1889)に成立した川越町は、同26年3月17日に発生した大火により、中心街のほとんどが焼失しました。その後、火事に強い建築として、現存するような蔵造りの商家が建てられました。

 川越市内の現在の様子。上:大火の後、蔵造りの街に変身。下:観光の目玉、時の鐘。



                                                            2015年9月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system