落語「猫の皿」の舞台を行く 古今亭志ん生の噺、「猫の皿」(ねこのさら)
■マクラから、 ・マス落としでネズミを捕まえた。取った男は「大きい」と自慢しているが、端で見ている友人は「出ている尻尾で、小さい」と反論している。「大きい」、「小さい」、「大きい」、「小せぇ」、マスの中のネズミが「チュー(中)」。 ・どこの橋にも橋番というのがいて、その橋で間違いがあると橋番の責任です。「毎回この様な身投げが有ると言うことは橋番の責任である。どの様な見張りをしておるのだ」と上役から怒られた。その晩見ていると、橋の欄干に足を掛けている者が居た。後ろから捕まえて「テメェーだな。毎晩ここから飛び込むのは・・・」。
・考えオチというのが有ります。「アレは何だろう」と考えていたが解らない。家に帰って、布団の中に入っても解らない。夜中になって初めて解って「ワハハ」と笑う。
■はたし;果師、端師、他師などと書き習わされる。古美術品の市場で、同業者を取引の主対象に商売をすること。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。
いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立を差しているのが 典型的なスタイルでした。ささやかな欺(あざむ)きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋の親父に逆にしてやられた。
■この噺;かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやった。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振っていた。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから今ではこの題が一般的になった。
元々の原話は意外に古く、文化年間(1804-1817)刊行の滝亭鯉丈「大山道中膝栗毛」に、「猿と南蛮鎖」として出てくる。茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」と茶屋のばあさんに掛け合う。ばあさん「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」と鎖を綱に取り替えて、にっこり。
■高麗の梅鉢(こうらいの うめばち);朝鮮から伝来した陶磁器。桃山時代以降、茶人が抹茶茶碗として用いたものの総称。李朝のものがほとんどで、朝鮮では茶碗などと同じ雑器で喫茶用ではない。井戸・三島・熊川(コモガイ)・魚屋(トトヤ)などの種類がある。(三省堂の大辞林)
■絵高麗(えごうらい);
絵高麗茶碗(えごうらいちゃわん)とは、高麗茶碗の一種とされてきましたが、現在では中国の磁州窯系のものとされます。
絵高麗は、文禄・慶長の役(1592~98)以後、渡来した、やや粗い白化粧の陶胎の土に、鉄描の黒い絵のあるものを、茶人が絵高麗と呼び慣わしたものです。
絵高麗は、中国の磁州窯系の「白地黒花」という技法のもので、灰白色の器胎に白絵土という泥漿をかけ白下地を作り、その上に鉄絵具と筆をもって文様を描き、透明釉をかけて焼成する「白地鉄絵」と、白下地の上にさらに鉄泥漿(黒釉)を上掛けし、文様の輪郭線を錐状のもので彫刻したのち鉄泥の文様部分を残し、余白にあたる鉄泥を削ぎ落とし、元の白下地を浮き上がらせ、再び透明釉をかけて焼成する「掻落し手」とがあります。
絵高麗は、茶の湯では、特に梅鉢とよばれる花紋(七曜星紋)を散らした「梅鉢手」が珍重されました。たいへんに高価な代物です。
左:宋時代、茶碗を専門に焼いた中国・建窯の耀変天目。 世界に四碗しかないが、 その四碗は全て日本にある。 この作品は国宝に指定されています。
■好事家(こうずか);一風変わった物事に興味を抱く人。また風流を好む人。
■三度飛脚;寛文3年(1663)、江戸・大阪間に創業した町飛脚。月に三度、京大阪と江戸を往復したことからこう呼ばれた。この飛脚の被った笠が三度笠。飛脚でも笠を被らない者が多くいました。
■脚絆(きゃはん);旅や作業をするとき、足を保護し、動きやすくするために臑(すね)にまとう布。ひもで結ぶ大津脚絆、こはぜでとめる江戸脚絆などがある。脛巾(はばき)。右図、飛脚も使用しています
■手甲(てっこう);手の甲を覆うもの。武具は多く革製、旅行・労働用には多く紺の木綿が用いられた。てこう。右側の飛脚が黒い手甲を使っています。
■矢立(やたて);携帯用の筆入れ。
■山笑う;新緑や花などによって山全体が萌えるように明るい様子。冬季の山の淋しさに対していう。春の季語。
■川越(かわごえ);江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。現在の川越市域は、明治4年(1871)川越藩から川越県、その後入間県、同6年に熊谷県を経て、同9年には埼玉県に編入されました。同22年(1889)に成立した川越町は、同26年3月17日に発生した大火により、中心街のほとんどが焼失しました。その後、火事に強い建築として、現存するような蔵造りの商家が建てられました。
川越市内の現在の様子。上:大火の後、蔵造りの街に変身。下:観光の目玉、時の鐘。
2015年9月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |