落語「たちきり」の舞台を歩く
   

 

 八代目三笑亭可楽の噺、「たちきり」(たちきり。たち切り。たち切れ。立ち切れ線香)によると。
 

 花柳界の芸者衆も時間で花代をもらっています。お座敷に出ますと2時間単位で料金の計算をします。昔はお線香を立てて料金計算をしました。燃え尽きると芸者は帰らなくてはなりません。

 奥座敷で親戚一同が集まってなにやら相談の真っ最中。小僧に聞くと、「金食い虫の若旦那の処遇をどうするか、皆さんの意見を聞きたい」とご主人。甲府の伯父さんは「田舎に連れて行って炭焼きにする。炭焼きは重労働で、直ぐに病気になって死んでしまう。その方が世話が無くて良い」。そしたら埼玉の叔母さんは「家に連れて行って、牛の世話をさせる。気の強い牛だから若旦那の横っ腹を角で突いて殺す。手間が掛からず良い」。横浜の伯父さんは「釣りで海に出て船をひっくり返すと、私は泳げるので助かるが、あいつは泳げないので死ぬだろう。手間が掛からず良い」。番頭さんは「お金の有り難みを知らないので、乞食になって金の有り難みを感じさせるのが良い」。皆もそれは良い意見だと賛成した。小僧も「若旦那は今日から乞食です」。
 部屋の中に怒鳴り込んだ。「番頭は使用人の一人だ。なんて言うことだ。乞食に出来るものならしてごらん」。「御大家の若旦那が、なんていう言い方ですか。乞食はイヤだと言ったらどうしようと考えていましたが、自分からなりたいというなら、いたします。ここに汚い着物と縄の帯、欠けた茶碗に箸が有りますから、着替えて下さい」。「親父の言い付けでも、私はヤダよ」、「そうでしょうね。それだったら100日間蔵住まいをして下さい」。若旦那は蔵に押し込められることに。
 どうしてこうなったかというと、柳橋の料亭で仲間の集まりがあった。大勢の芸者の中で、器量が良くてしとやかな『お久』という娘芸者がいた。想い思われしている内に、深い間になってしまった。結果、莫大な金を若旦那が使い込んでしまった。

 若旦那が蔵に入った初日、小粋な男が店に手紙を持ってきた。裏を返すと柳橋と入っていた。封も切らずの帳場の引き出しに・・・。暮れ方、もう一通の手紙が届いたが、これも引き出しに、ポイ。日に日に手紙は増えて・・・。80日目にはピタリとこなくなった。

 100日目、「若旦那。どうぞ出てくださいまし」、「蔵住まいも慣れると良いものだよ」、「ついてはお久という女からの最後の手紙がここにあります」、「番頭さん。それを忘れるために蔵住いしてたのだ。いいのかい?」、「どうぞ。ご覧下さい。じつのある女性とお見受けしました。100日間途切れずに来たら、私から大旦那にお願いして所帯を・・・と思っていました。湯も沸いていますので着替えて大旦那にご挨拶を」。その手紙を番頭に読んで聞かせてもらった。
 『再三お手紙差し上げそうらえども、お越しこれなく。この手紙にて起こし下されなければ、もはや若旦那様にはこの世にてお目に掛かれなく存じ候。取り急ぎあらあらかしく』
 若旦那。これを聞くやいなや。「番頭・・・、私は蔵に入る前に願をかけていた。お礼に浅草の観音様に行かせてはもらえないか」、「そういうことなら、ぜひ行ってらっしゃいませ」。
お風呂に入りまして、着物を着替え、お父様に挨拶をして、ぶらりと出掛けました。

 その足でお久のいる置屋に向かう若旦那。
 「かあさん。お久はいるかい」、「あら。若旦那。随分のお見限りじゃありませんか。あの日はお久はずっと待っていたのですよ」、「お久はいるかい」、「・・・奥にいらっしゃいな」。白木の位牌を持ち出す女将にいぶかしそうな若旦那。
 「あの娘(こ)はこの様になって・・・」、「『俗名久野屋久』、死んだ?。どうして」、「貴方が殺したんじゃないですか。あの日は歌舞伎に行くと約束してたでしょ。早起きして化粧をしているから、『早すぎるんじゃないの』というと、『いつ来るか判らないから、化粧だけでも・・・』。でも1時を過ぎて序幕も始まってしまった。二人の邪魔をするようにみえるので、手紙を出すのは止めなかった。若旦那はいなかったが番頭さんに渡したと言います。夕方になってもお見えでは無いので、手紙を持たせましたが、同じ返事。毎日何本もの手紙を書いていました。それからは『若旦那に、すてられた、捨てられた』と言っていました。終いにはお湯にも入らず、髪も結わず、床に付くようになってしまいました。『私若旦那に捨てられて生きていたくないの。ワガママ言ってスイマセン』。何と慰めて良いか解らなくなったんです。亡くなる日でした、貴方が誂えてくれた比翼の紋が入った三味線が届いたのです。『弾いてみたい』と言いますが、やつれて起き上がることも出来ないんですよ。支えて起こし、私が調子を合わせて上げましたが、ひとバチ当てて『痛いから横にして・・・』と言うのが最後でした」。
 「スイマセン。知らなかった。そうと知っていたら、蔵を抜け出しても・・・」、「何です。その蔵というのは」、「番頭に騙され、蔵に100日間入れられていたんです」、「それでは何本手紙を出しても届く訳がありませんよね。今日は三七日(みなのか)になりますので、お友達が線香上げに来てくれたんですよ。仏の供養ですから、ここで一杯飲んでいって下さいな」、「はい、頂きます」。
 三味線は仏壇の前に立てかけて、お酒の用意と、新しく線香を立てた。大きな器に酒を注いで、むせながら飲み始めると、三味線が鳴り出した。(♪静かにつま弾きの音が聞こえてくる)、「貴方の好きな黒髪を引いていますわ」、「お久、そんなに想ってくれていたんだね。これからは女房と名の付く者は持たないから、許しておくれ」、「お久、若旦那の言葉を聞いたでしょ。それを土産に綺麗な所にお詣りしてね」。突然三味線の音が切れた。
 「かあさん、三味線が切れたね。どうしたの・・・」、
 「若旦那、もう駄目です。仏様のお線香がちょうど立ち切れました」。
 

 



ことば

線香(せんこう);時間の経過を知るのに線香の燃え尽きるまでを1本と言いました。お客とすれば、長く三味線を弾いてもらいたいので、懐と相談して5本だ10本だと芸者を拘束します。線香一本がそんなに高い値段だと知った、田舎から出てきたばかりの女中が、線香を3把持って逃げた、と言う話しが有ります。(マクラより)
 落語「お直し」にもこの線香が登場します。
 江戸時代では時計の代わりとしても使用され、禅寺では線香が1本燃え尽きるまでの時間(40分)を「一炷(いっちゅう)」と呼び、僧侶が坐禅を行う時間の単位としたほか、時間で遊ばせる遊郭では1回の遊びの時間をやはり線香の燃え尽きる時間を基準として計ったが、中には線香を途中で折って時間を短縮させる遊女もいた。
 しかし、線香の燃え尽きる時間は線香の種類によって様々で、一概に何分と言うことは言えません。特に墓参用の緑色の線香は10分も持たずに燃え尽きてしまいます。色街では早く燃え尽きる線香を使用したのでしょうか(笑)。

花代(はなだい);芸娼妓などの揚代。揚代=芸娼妓を揚屋に呼んで遊ぶ代金。玉代。揚銭。

お久(おひさ);柳橋の娘芸者、若旦那が入れあげてしまった相手です。演者によっては『小糸』(小絲)であったり『美代吉』であったりします。置屋も柳橋では無く、深川(辰巳)や新橋、築地であったりします。この噺は元々初代松富久亭松竹の作といわれる上方噺を、東京へは六代目桂文治あるいは三代目柳家小さんが移したといわれます。
 東京に移したものですから、芸者の名前も芸者屋(置屋=芸者を抱えている家。芸者プロダクション)の場所もまちまちです。

おかあさん;置屋の女将さんを呼ぶ時は「おかあさん」と呼びます。芸者や花魁、花街の人達からも、同じように呼ばれます。遊廓の見世の男衆妓夫(ぎゅう)はどんなに歳をとっても「若い衆(わかいし)」と言いますし、見世の女連中をまとめる遣り手は「おばさん」と言います。また、花魁や芸者の先輩は「おねえさん」と言います。
 我々が食事や飲み屋に行った時、そこで働く女性を「おねえさん」と呼びます。私より若くても「おねえさん」ですし、歳取っているからと言って、決して「おばさん」とか「ねえちゃん」とは言いません。もし言っても、イヤな顔をされるだけで絶対振り向いてくれません。

・芸者(げいしゃ);まずは芸者と花魁(おいらん)の違いを。花魁は艶を売る商売ですから、服装も髪型も化粧も派手やかで男を引きつけます。芸者は原則、艶のお相手はしません。芸を売るのが商売ですから、花魁から比べると一段引き下がって外見は地味造りです。その芸も唄、楽器、踊り、酔客に楽しく遊ばせるのも芸の内です。色気を売るのも女である芸者の武器ですが、幇間と言われる男芸者は色気で勝負は出来ませんので、芸を磨くだけしか有りませんので、”ヨイショ”だけでは勤まりません。
 吉原では色を売る専門の花魁がいましたので、芸者は芸だけに特化して専念できました。その為、江戸では吉原芸者を芸の上では一番と言われていました。
  吉原や岡場所(四宿)では花魁や女郎(飯盛女)が居ますので、芸だけ売る芸者のレベルが高いのが分かります。しかしそれがゴッチャになっている所では、芸者が色目を使う様になるのも致し方が無い事でしょう。夫婦であったり、夫婦と同じ固定の相方が居ることもあります。そんなお姉さんに声を掛けても鼻も引っかけてもらえません。それを振り向けさせるのは若さでもイケ面でもなく”お金”だけです。
落語「不幸者」より

 

柳橋(やなぎばし);上写真、神田川最下流に架かる柳橋。船徳の徳さんがここから手前の隅田川に漕ぎ出した船宿が密集している地。奥に浅草橋が見えて右側の街が柳橋、現・台東区柳橋(町)。花柳界として名を馳せた地で、落語「船徳」や「不幸者」、「汲みたて」、「権助魚」、「花見小僧」等々で出てくる落語界の名所です。

柳橋芸者;柳橋と呼ばれた地は江戸時代、柳橋を中心にその北側と南側を指していました。南は両国広小路南側までです。船宿は合計33軒あり、そのほとんどは芸者と客の仲を取り持つ芸者宿で有った。その揚代や酒肴の料金から1割5分前後の手数料を取っていた。芸者の玉代は昼夜2分。見習い(半玉。お酌)は芸者の半額。この玉代に祝儀(花)1分が付く。彼女たちの多くは柳橋の南、同朋町に住んでいた。彼女たちは辰巳芸者と同じように羽織芸者と呼ばれ、売れっ子芸者は年間100両は稼いだ。しかし、出銭も多く30両以上の稼ぎがないとやっていけなかった。
  衣装は5月5日から単衣になり、川開きの5月28日から透綾(すきや)縮みを着る。川開き(花火)の日は良い芸者ほど座敷には出なかった。吉原芸者より遠慮してワンランク下げた化粧や着付けをしていた。江戸から明治に変わり、薩摩、土佐、長州など地方の侍が江戸に出てきたが、吉原では田舎者とバカにしてサービスが悪かった。柳橋、新橋、赤坂などは新政府の役人に対してもサービスが良かったので、吉原は日ごとにさびれ、柳橋は日増しに繁昌していった。安政6年には130~40人の芸者がおり、それでも休む日もないくらいに繁昌していた。
  柳橋芸者は薄化粧で意気がさっぱりしていて媚びない。それは江戸っ子気質で、どちらかというと深川芸者の気風に近かった。しかし、料金は高かった。
落語「不幸者」より

浅草の観音様(あさくさの かんのんさま);上写真、観音様の入口雷門で、年中人混みで溢れています。台東区浅草・金竜山浅草寺のこと。江戸では一・二を争う人気で、観音様を祀る浅草寺です。願掛けに多くの参拝者が訪れます。願を掛ければ、成就したあかつきには願ほどき(お礼参り)に行かなければいけません。

白木の位牌(しらきのいはい);葬儀に用いる白木の位牌は、四十九日までの仮の位牌です。四十九日(七七日)法要までに漆塗りの本位牌に作り替えます。白木の位牌は、四十九日法要の時に菩提寺に納め、新しく作った本位牌に住職から魂入れをしていただきます。

比翼の紋(ひよくもん);江戸の中期に 庶民の間で流行した家紋で、相思相愛の男女がお互いの家紋を組み合わせてつけた紋のこと。二つ紋。
 右図:「江戸土産 浮名のたまづさ 」 豊国画

三七日(みなのか);人が死んで21日目の称。三X七=二十一をいい、亡くなって三週間後です。

地唄黒髪(くろかみ);三味線のしっとりした謡です。「♪黒髪の 結ぼれたる 思いには 解けて寝た夜の 枕とて 独り寝る夜の仇枕 袖は片敷く妻じゃと云うて愚痴な女子の心も知らず しんと更けたる鐘の声 昨夜の夢の今朝覚めて 床し懐かしやるせなや積もると知らで 積もる白雪」。
 地唄の中で、最も愛されている曲の一つです。恋しい人に捨てられた女の淋しさを謡います。雪の降る夜、一人で過ごしながら、女は、黒髪をくしけずります。そして、昔のことを思い出し、去っていった人のおもかげを求めても得られぬわびしさに、そっと涙します。外には雪が、しんしんと降り積もります。終わりの「積もるとしらで積もる白雪」に、清浄な雪の朝を眺める女心に諦観(あきらめ)の哀しさをみます。
 お久さんの、一途な愛がこの曲に現れています。

 「もしもこのままこがれて死ねば こわくないよに化けて出る」 都々逸より



                                                            2015年9月記

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