落語「二階ぞめき」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「二階ぞめき」(にかいぞめき)より


 

 若旦那は吉原通いが大好きで、毎晩遊びに行っているため生真面目な親父はカンカン。困った番頭は若旦那に意見をしに行った。「月に40日も通ったらいけません」、「何で30日では無いのか?」、「日に2回行く事があるでしょ」。「では、月に1日ではどうだ」、「分かってくれればそれで良いんです」、「月に1日だけ行かないんだ」、「そんなに吉原は良い所なんですか」、「当たり前じゃないか。吉原を知らないんだったら教えてやろう。行き方は舟か駕籠で行くんだ・・・」、「行き方は良いんです。貴方の悪事に荷担しましょう。そこの女を身請けして、向島か今戸に囲いましょうか」、「女がどうのこうのじゃないんで、吉原のあの気分が好きなんだから、毎日行かずにはいられない」、「女ではなく吉原が良いんですね。では空いている二階に吉原を作りましょう」。

 大工の留さんを呼んだら、吉原には滅法詳しいからやらせてくれと二つ返事。それを聞いた仲間が「俺も、俺も」と手伝って、二階を吉原の通りそっくりに改装し、灯まで入れて、冷やかしができるようにした。
 「若旦那出来ましたよ。吉原ですよ」。若旦那喜んで、冷やかしの定番、古渡り唐桟を出させ、夜露は毒だから甕(かめ)のぞきの手ぬぐいを出させ、下駄を突っかけて二階に・・・。「誰も上げちゃ~いけないよ」、「居続けても良いですよ」、と送り出された。吉原を借り切りだ。紀伊国屋文左衛門と奈良茂だけで3人目が俺だと、豪語している。親孝行で大門くぐるのは気分が良い。右側に四郎兵衛の会所、「良く出来てるね~」、隣に引き手茶屋の山口巴が有る。江戸一には、玉屋、扇屋、松葉屋、が有る。江戸二には尾張屋、梅屋、大文字屋、丁子屋。仲之町を進むと京一に角海老楼が見える。
 一人芝居で張り見世の女郎をからかって、隣の女郎と喧嘩になったので、若い衆が止めに入った。喧嘩がエスカレートして「殺せ」、「殺さないでか」、「やったな」、「この野郎」、一人で胸ぐら掴んで取っ組み合いの喧嘩、ポカポカと来て、「ぎゃぁ~」。

 「バカ。たまに家に居れば、大きな声を出して。定吉、2階に行って注意してこい。世間体というものがある」。
 2階に上がると立派な吉原が有るので、ビックリ。「泥棒が居た。違った、若旦那だ。一人で喧嘩しているよ。チョット若旦那」、「誰だ、止めるのは。アッ定吉じゃないか」、「へぃ」、
「悪いとこで会ったな・・・。定、おめえここで会った事を、家に帰って親父に内緒にしておいてくれ」。 

 



ことば

原話;『二階の襖や障子に「万屋」「吉文字屋」と書いた茶屋の暖簾に似たものをつるし、遊びの追憶にふける』というつつましい物。 演者は多いが、特に実際に吉原通いをしていたという志ん生の口演は絶品だった。談志のように細かい描写(間違いが結構あったが概略では直してあります)はしないが吉原の景色が眼前に広がった。息子の志ん朝は、父の持ちネタの中で一番と語る。ちなみに、若旦那の使う「甕のぞき」という手ぬぐいは、「紺屋高尾」で久蔵が売り出した染物のことです。

ぞめき;『騒き』と書き、遊郭や夜店などをひやかしながら歩くこと。また、ひやかし客。
「ぞめき一時 (ひとしきり) 出盛る五丁目一円に人波打て」〈紅葉・伽羅枕〉

 吉原で禁止されていた夜間営業も、明暦3年(1657)吉原引っ越しと共に、新吉原をはじめ各地とも許可されて、夜間が主流となった。大勢の客の中には張見世(はりみせ)を見て回るだけの見物客もあり、これを〈ひやかし〉〈ぞめき〉〈素見(すけん)〉といった。そうした見物客にとっては、花魁(おいらん)道中も目を楽しませるものであった。
世界大百科事典より

地廻り(じまわり);都会の盛り場などをなわばりとしてぶらぶらすること。また、そうしたならず者。吉原周辺に住む職人や遊び人で、毎晩のように廓に来て、女郎屋の格子先で花魁、新造達を冷やかして歩いた連中。
下図:左「地廻り」 右「男伊達」 江戸吉原図聚 三谷一馬絵
 結果的には冷やかしと同類です。腕を袖口に隠しているのは、拳固を堅め(やぞう)、喧嘩しやすいように袖口に隠しています。手拭で頬かむりをすれば準備完了。喧嘩をしたくてしょうがない連中もいたのです。

   

冷かし(ひやかし);広辞苑では、張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見(すけん)。とあり、「冷かす」で、(「嬉遊笑覧」によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞)登楼せずに張見世の遊女を見歩く。と載っています。また、大言海にも同じような説が載っています。
  志ん生は、「冷やかし」の語源を噺の中で説明しています。「近くに紙すき場があり、紙屋の職人が紙を水に浸して、紙の冷やける間一回り廻ろう、ってんで冷やかしという名前がついたんですな」と。落語の噺なんてまゆつばでしょうと思っていたら、広辞苑にも大言海にもこんなにも堂々と載っているのでは信じるほかありません。私は、「ウインドーショッピング」だと理解しております。
  『素見が七分買うが三分なり』 江戸川柳
 天明2年 吉原の廓内を歩いている連中の七割が素見、いわゆる冷やかしであった。しかし、その七割が賑やかさを演出したのかも知れません。決して紙屋の職人だけが冷やかしで有ったのではありません。また、吉原だけではなく、他の岡場所等でも、状況は同じでした。 しかし、花魁から見れば、
  『つらいこと素見にばかり惚れられる』 柳多留
  指名して貰って初めてお客様、お客でない相手に惚れられても・・・ねぇ。
  『おかしさは素見の女房りん気なり』 柳多留
  吉原に行ったと言うだけで、女房はなんで焼き餅を焼くのでしょう。
落語「蛙の女郎買い」より引用

吉原で遊ぶと;吉原細見を見て、貴方は金持ちだから最上級の太夫を買ったとしましょう。細見では1両となっていますから、それで済むと思ったら大間違い。
 このクラスでは、直接見世に行っても相手にされませんので、揚屋(あげや)に太夫を呼ばなくてはいけません。呼ばれた太夫は禿(かむろ)、新造、若い衆、おばさんなど8、9人を引き連れてやって来て(これを花魁道中という)、揚屋の2階で酒盛りをします。太夫に付いてきた連中に祝儀を切り、呼んでもいない芸者や幇間がやって来ますし、その芸人にも花代と祝儀が掛かります。揚屋の亭主、女房、娘から女中まで挨拶に来ます。時には男衆にも、それぞれに祝儀を出します。料理として、『台の物』が来ますが、これが1分(1/4両)と言う高さ。これ以外に酒代と揚屋の料金が乗ります。ここまでで、10両や20両が飛んだと言います。顔見せですから、手も握れずに太夫は帰ってしまいます。
 初回は『初会』と言い、二会目これを『裏を返す』と言います。その時も前回同様に揚屋の二階で飲んで祝儀を切って、初会の揚代の1.5倍の費用が掛かります。ここでも、手も握らせません。
 3会目を『裏を返す』と言って、揚代の料金は2.5倍になります。3度目の正直で初めて帯を解いてくれますが、気が向かなければ、それでお終い。床に入るのにも『床花』と言う祝儀が、揚代と同じ料金が掛かります。書いていても料金ずくでイヤになりますが、ここまでで約100両の金が最低飛びます。現在の金額にして800~1000万円以上でしょう。後がまた大変です。やれ五節句だの、歳暮だ、紋日だの、1週間に1回ぐらいの周期で高額招待日が廻ってきます。それを粋だとして通う者が居るから吉原も成り立つのでしょう。これを通称、大尽遊びと言います。
 落語の大店の若旦那が、その良い客の例で、勘当への道をまっしぐら。
 こんな複雑でお金の掛かる制度にお客も嫌がり、簡略になってきます。しかし、揚屋制度は無くなりますが、替わって引き手茶屋を通して、花魁を抱えた妓楼という見世に上がります。花魁道中は無くなりますが、初会・裏を返す・馴染みの制度は残ります。大衆の好む制度では無いため、それも簡略されて、張り見世が出来て「お見立て」して上がりました。三会制度は無くなり、初会から遊べました。それでも吉原というローカルルールが幅を利かせ、安直な遊びが出来ずにいました。

 以上説明したとおり、吉原中心の制度にお客が嫌気をさして、直接、見世に上がれる安直な所が繁盛するようになり、太夫も格子も消えて、その下の花魁がトップの座に座るようになり、その下の散茶女郎に人気が出てきます。散茶とは振らなくて良く出るお茶で、振られる事もないので人気が出ました。

 こうしてみてくると、冷やかしがいかに楽しくて安いか分かります。

身請け(みうけ);吉原遊廓の回りはお歯黒ドブという堀で囲まれ、遊女達は外に出る事は出来ませんでした。出られるのは、病気療養で見世の寮(別荘)に行くか、二十六、七に年期が明けたとき、または、身請けと言って年期中になじみ客に請け出され、自由の身になる時。最悪は投げ込み寺・浄閑寺に葬られる時以外は有りません。いえいえ、もう一つ、吉原が大火になり、地域外で営業するときは当然吉原内ではありません。遊女達はその地を見物して歩いたと言います。

向島か今戸(むこうじま いまど);番頭さんが若旦那のために女を囲う地としてあげた所です。向島は吉原から見て隅田川の対岸。桜堤があって行楽の名所。向島は落語「野ざらし」、「百年目」、「花見酒」、「花見小僧」等に詳しい。今戸は吉原の北で隅田川に接した風光明媚な所で、有名人の別荘が多かった。今戸焼きの地で、落語「今戸の狐」に詳しい。

古渡り唐桟(こわたりとうざん);古渡りとは室町時代またはそれ以前に外国から伝来した織物などの称。貴重なものとされた。唐桟は細番の諸撚綿糸で平織にした雅趣ある縞織物。紺地に浅葱・赤などの色合を細い竪縞に配し、通人が羽織・着物などに愛用。和製の桟留縞に対してオランダ人によって舶来されたものの称であったが、現在は桟留縞の総称。
 唐桟は若旦那がわざわざ箪笥から引き出した着物です。また、下駄は冷やかしの定番で、手ぬぐいを肩に掛けたり、頬被りすれば冷やかしが一丁出来上がり。
右写真;古渡り唐桟の縞柄生地の一つ。

紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん);紀文と略称される。紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀へ住み、江戸幕府の側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り、吉原で接待し、接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業した。
 また、幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、文左衛門の造った十文銭はとても質が悪く、五代将軍綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用が停止されてしまった為、大きな損失を被い商売への意欲を失ってしまった、と言われている。 晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。享保19年(1734)に死去したとされる。享年66。 一代で没落したとも、二代目が没落させたとも言いますが、その実態は分かっていません。

 正面が紀文の碑で、墓は左側の小さい物(江東区三好一丁目6、成等院)。落語「たばこの火」より

奈良茂(ならも);奈良屋茂左衛門勝豊という。四代目勝豊(寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日(1714年7月24日))は、二代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火や日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。紀文が2回、奈良茂が1回大門を閉めて吉原を借り切ったという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得た。

大門(おおもん);遊廓の表門は「おおもん」と読みます。間違っても「だいもん」とは読みません。大門と言ったら芝増上寺の「だいもん」です。
 大門は江戸時代黒塗り板葺きの冠木門でした。吉原の出入りはここ一ヶ所だけです。
右図;吉原の初期の大門。大門まで朝送ってきた遊女。後朝(きぬぎぬ)の別れと言います。

四郎兵衛会所(しろべいかいしょ);大門を入って直ぐの右側にあって、吉原の一切の事務を司っていますが、内容は花魁等の脱走を見張るのが第一義の会所です。
 この前(大門の左側)に、門番所が有って、町奉行所の隠密廻りの与力と同心が見張っていました。そのため、面番所と呼ばれ、大門の内外が見張れるように格子作りになっていました。

山口巴(やまぐちともえ);四郎兵衛会所の隣が有名な引き手茶屋・山口巴が有りました。ここから江戸町一丁目の角まで七軒の茶屋があって、七軒茶屋と呼ばれ、特に有名でした。

江戸一(えどいち);吉原の江戸町一丁目をこう呼びました。大門をくぐって最初の角を右に曲がった街です。
右図;江戸切り絵図より吉原。右側の白い部分は虫食いの痕です。あしからず。

玉屋(たまや);江戸一にあった妓楼です。扇屋(おうぎや)、松葉屋(まつばや=のちに引き手茶屋)。以下見世の名は時代がハッキリしませんので、確認は取れません。志ん生が遊んだ時期だとすると、大正から昭和にかけてですから、その時代の見世として探してみます。玉屋、扇屋は見つけられませんが、天保2年(1831)の細見には大見世として載っています。

江戸二(えどに);江戸町二丁目。江戸一から仲之町の通りを渡った街。大門から入って左に曲がった街。

尾張屋(おわりや);江戸二に談志はあったという見世です。丁子屋(ちょうじや)、梅屋(うめや)、大文字屋(だいもんじや=大文字楼)。ところで、尾張屋は江戸の後期に江戸町一丁目に有りました。また丁子屋、梅屋は見当たりませんが、江戸後期の大見世です。大文字楼も大正頃まで大見世で江戸一に有りました。

仲之町(なかのちょう);「吉原の背骨のような仲之町」 古川柳。
 大門をくぐって真っ直ぐに吉原の奥で行き止まる水道尻までの街。街と言っても中央を縦断するメイン通り。大門から角海老までは両側に並ぶ見世は引き手茶屋です。妓楼はその左右奥。

京一(きょういち);京町一丁目。仲之町から大きな3本の横道が有る吉原です。最初は江戸一、二で、中央は右側が揚屋町、左が角町。その先、3本目を右に入ると京一です。反対の左に曲がれば京二です。

角海老楼(かどえびろう);仲之町と京一の角に有った大見世で、明治17年に開業、吉原を代表する妓楼でした。落語「木乃伊(ミイラ)取り」で案内しています。

張り見世(はりみせ);六つ(午後6時頃)になると縁起棚の鈴が鳴ります。それに合わせて新造が見世清掻(すががき)と言う三味線を弾き、遊女達が所定の席に着きます。
 遊女屋の入口わきの、道路に面して特設された部屋に、遊女が盛装して並ぶこと。もとは店先に立って客を引いたものが、座って誘客するために考案された方法であろう。したがって客を誘うための行為であるが、遊客が遊女を選定するのに便利なように、座る位置や衣装で遊女の等級や揚げ代がわかるようになっていた。各遊女屋では上級花魁を除く全員が夕方から席について客を待ち、客がなければ夜12時まで並んでいた。売れない遊女を「お茶を引く」と言いました。
 吉原では、張見世を見て歩く素見(すけん=ひやかし)客が多かった。明治中期から東京ほか地方の遊廓でも廃止され、かわりに店頭に肖像写真を掲げた。
 ここで気に入った遊女を指名しますが、それを「お見立て」と言います。

 上図;毛氈に座った花魁は昼夜2分の座敷持ちで、その後ろと籬(まがき)を背にした(右下も)新造達です。入口の籬下の床几に腰掛けるのは若い衆です。
 「惣籬」江戸吉原図聚 三谷一馬絵 出典・勝川春亭画 風流伽三味線より

若い衆(わかいし);どんなに歳をとっていても若い衆です。「わかいしゅう」ではなく、江戸ナマリで「わかいし」と呼びます。妓夫太郎。見世の呼び込みから、お客の対応等、男手が必要なところを面倒見ます。朝、遊興費が無かったりすると職場や自宅まで付いていきます。それを牛(妓夫)が『馬』になったと言います。

居続け(いつづけ);遊女にもてた客はつい帰りにくくなります。翌朝雨や雪を理由に居続けをきめこむことになります。大変遊興費が掛かる事になります。落語木乃伊取り」にその辺の事が分かります。この居続けが一番いけない遊びと言います。なぜならお金は使うし、その間仕事が出来ないので、収入が途切れます。だから一番下手な遊びだと言います。
 吉原が出来たときに許可が下りる条件として、要約すると、傾城以外では商売禁止。長逗留禁止。服装も華美にならない事。家屋も華美にならない事。不審者が居たら奉行所へ届ける事。この五つですが、ここで長逗留禁止になっていますが、有名無実になってしまいました。
 似た言葉に「居残り」が有ります。落語「居残り佐平次」でも分かるように、遊びすぎて支払金額が足りないときに、一人だけ仲間を置いて、お金の工面に走ります。その人質に残してきた仲間を居残りと言います。



                                                            2015年9月記

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