落語「二階ぞめき」の舞台を行く 立川談志の噺、「二階ぞめき」(にかいぞめき)より
■原話;『二階の襖や障子に「万屋」「吉文字屋」と書いた茶屋の暖簾に似たものをつるし、遊びの追憶にふける』というつつましい物。
演者は多いが、特に実際に吉原通いをしていたという志ん生の口演は絶品だった。談志のように細かい描写(間違いが結構あったが概略では直してあります)はしないが吉原の景色が眼前に広がった。息子の志ん朝は、父の持ちネタの中で一番と語る。ちなみに、若旦那の使う「甕のぞき」という手ぬぐいは、「紺屋高尾」で久蔵が売り出した染物のことです。
■ぞめき;『騒き』と書き、遊郭や夜店などをひやかしながら歩くこと。また、ひやかし客。
吉原で禁止されていた夜間営業も、明暦3年(1657)吉原引っ越しと共に、新吉原をはじめ各地とも許可されて、夜間が主流となった。大勢の客の中には張見世(はりみせ)を見て回るだけの見物客もあり、これを〈ひやかし〉〈ぞめき〉〈素見(すけん)〉といった。そうした見物客にとっては、花魁(おいらん)道中も目を楽しませるものであった。
・地廻り(じまわり);都会の盛り場などをなわばりとしてぶらぶらすること。また、そうしたならず者。吉原周辺に住む職人や遊び人で、毎晩のように廓に来て、女郎屋の格子先で花魁、新造達を冷やかして歩いた連中。
■冷かし(ひやかし);広辞苑では、張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見(すけん)。とあり、「冷かす」で、(「嬉遊笑覧」によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞)登楼せずに張見世の遊女を見歩く。と載っています。また、大言海にも同じような説が載っています。
■吉原で遊ぶと;吉原細見を見て、貴方は金持ちだから最上級の太夫を買ったとしましょう。細見では1両となっていますから、それで済むと思ったら大間違い。
以上説明したとおり、吉原中心の制度にお客が嫌気をさして、直接、見世に上がれる安直な所が繁盛するようになり、太夫も格子も消えて、その下の花魁がトップの座に座るようになり、その下の散茶女郎に人気が出てきます。散茶とは振らなくて良く出るお茶で、振られる事もないので人気が出ました。
こうしてみてくると、冷やかしがいかに楽しくて安いか分かります。
■身請け(みうけ);吉原遊廓の回りはお歯黒ドブという堀で囲まれ、遊女達は外に出る事は出来ませんでした。出られるのは、病気療養で見世の寮(別荘)に行くか、二十六、七に年期が明けたとき、または、身請けと言って年期中になじみ客に請け出され、自由の身になる時。最悪は投げ込み寺・浄閑寺に葬られる時以外は有りません。いえいえ、もう一つ、吉原が大火になり、地域外で営業するときは当然吉原内ではありません。遊女達はその地を見物して歩いたと言います。
■向島か今戸(むこうじま いまど);番頭さんが若旦那のために女を囲う地としてあげた所です。向島は吉原から見て隅田川の対岸。桜堤があって行楽の名所。向島は落語「野ざらし」、「百年目」、「花見酒」、「花見小僧」等に詳しい。今戸は吉原の北で隅田川に接した風光明媚な所で、有名人の別荘が多かった。今戸焼きの地で、落語「今戸の狐」に詳しい。
■古渡り唐桟(こわたりとうざん);古渡りとは室町時代またはそれ以前に外国から伝来した織物などの称。貴重なものとされた。唐桟は細番の諸撚綿糸で平織にした雅趣ある縞織物。紺地に浅葱・赤などの色合を細い竪縞に配し、通人が羽織・着物などに愛用。和製の桟留縞に対してオランダ人によって舶来されたものの称であったが、現在は桟留縞の総称。
■紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん);紀文と略称される。紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀へ住み、江戸幕府の側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り、吉原で接待し、接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業した。
正面が紀文の碑で、墓は左側の小さい物(江東区三好一丁目6、成等院)。落語「たばこの火」より
■奈良茂(ならも);奈良屋茂左衛門勝豊という。四代目勝豊(寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日(1714年7月24日))は、二代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火や日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。紀文が2回、奈良茂が1回大門を閉めて吉原を借り切ったという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得た。
■大門(おおもん);遊廓の表門は「おおもん」と読みます。間違っても「だいもん」とは読みません。大門と言ったら芝増上寺の「だいもん」です。
■四郎兵衛会所(しろべいかいしょ);大門を入って直ぐの右側にあって、吉原の一切の事務を司っていますが、内容は花魁等の脱走を見張るのが第一義の会所です。
■山口巴(やまぐちともえ);四郎兵衛会所の隣が有名な引き手茶屋・山口巴が有りました。ここから江戸町一丁目の角まで七軒の茶屋があって、七軒茶屋と呼ばれ、特に有名でした。
■江戸一(えどいち);吉原の江戸町一丁目をこう呼びました。大門をくぐって最初の角を右に曲がった街です。
■玉屋(たまや);江戸一にあった妓楼です。扇屋(おうぎや)、松葉屋(まつばや=のちに引き手茶屋)。以下見世の名は時代がハッキリしませんので、確認は取れません。志ん生が遊んだ時期だとすると、大正から昭和にかけてですから、その時代の見世として探してみます。玉屋、扇屋は見つけられませんが、天保2年(1831)の細見には大見世として載っています。
■江戸二(えどに);江戸町二丁目。江戸一から仲之町の通りを渡った街。大門から入って左に曲がった街。
■尾張屋(おわりや);江戸二に談志はあったという見世です。丁子屋(ちょうじや)、梅屋(うめや)、大文字屋(だいもんじや=大文字楼)。ところで、尾張屋は江戸の後期に江戸町一丁目に有りました。また丁子屋、梅屋は見当たりませんが、江戸後期の大見世です。大文字楼も大正頃まで大見世で江戸一に有りました。
■仲之町(なかのちょう);「吉原の背骨のような仲之町」 古川柳。
■京一(きょういち);京町一丁目。仲之町から大きな3本の横道が有る吉原です。最初は江戸一、二で、中央は右側が揚屋町、左が角町。その先、3本目を右に入ると京一です。反対の左に曲がれば京二です。
■角海老楼(かどえびろう);仲之町と京一の角に有った大見世で、明治17年に開業、吉原を代表する妓楼でした。落語「木乃伊(ミイラ)取り」で案内しています。
■張り見世(はりみせ);六つ(午後6時頃)になると縁起棚の鈴が鳴ります。それに合わせて新造が見世清掻(すががき)と言う三味線を弾き、遊女達が所定の席に着きます。
上図;毛氈に座った花魁は昼夜2分の座敷持ちで、その後ろと籬(まがき)を背にした(右下も)新造達です。入口の籬下の床几に腰掛けるのは若い衆です。
■若い衆(わかいし);どんなに歳をとっていても若い衆です。「わかいしゅう」ではなく、江戸ナマリで「わかいし」と呼びます。妓夫太郎。見世の呼び込みから、お客の対応等、男手が必要なところを面倒見ます。朝、遊興費が無かったりすると職場や自宅まで付いていきます。それを牛(妓夫)が『馬』になったと言います。
■居続け(いつづけ);遊女にもてた客はつい帰りにくくなります。翌朝雨や雪を理由に居続けをきめこむことになります。大変遊興費が掛かる事になります。落語「木乃伊取り」にその辺の事が分かります。この居続けが一番いけない遊びと言います。なぜならお金は使うし、その間仕事が出来ないので、収入が途切れます。だから一番下手な遊びだと言います。
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