落語「粗忽の釘」の舞台を行く
   
 

 十代目柳家小三治の噺、「粗忽の釘」(そこつのくぎ)


 

 大工の一家が今日は引っ越しです。頭の中では引っ越しの組み立てをしているが、何も動かない亭主におかんむりのおかみさんです。亭主は大風呂敷を要求して、箪笥を乗せたが、大物は大八車を借りる事になっているから、無理する事は無いと言われた。「俺は考えに考えて、これが一番だと思ったから担いで行くんだ。箪笥だけではなんだから、火鉢を乗せて、針箱、瓢箪を乗せて・・・」、担いだがどうしても持ち上がらない。「瓢箪下ろすかな・・・、針箱はお前ぇが持って行け。火鉢も下ろせ」、で、やっと担ぎだした。「先に行っているからな。モタモタしてたらダメだよ」と言い残して出て行った。

 出掛けたが、引っ越し先にも、今の場所にも現れないので、かみさんが皆の手を借りて掃除から片付けまで済ませてしまった。
 そこに、汗だくになって、よろよろと亭主が戻ってきた。亭主が言うには、「向を出ると、犬が二匹喧嘩していた。この町内の犬が負けそうなので、応援したら元気になって相手を投げ飛ばした。その犬がこっちに飛んで来たので、後ろにひっくり返ってしまった。亀の子をひっくり返したようで足をバタバタさせていたら、通りがかりの人が起こしてくれたが、前につんのめってフラフラと立ち上がった。そこに、蕎麦屋の出前の自転車がやって来て、避けきれなくて、後ろのタマゴ屋に突っ込んだ。肩に担いだ蕎麦は吹っ飛んで、自転車は横倒し、タマゴは割れてグチャグチャ。卵とじになって、奥から親父が出てきて、『弁償しろ!』、『ワザとじゃ無いんだから・・・』と言う事になって、野次馬もろとも交番に行った。交番では判断が付きかねたが、『半々で』と言う事になった。でも、自分はどこに居るのか解らなく無って、お前ぇから聞いた『豆腐屋の路地を入って』と言われていたが、豆腐屋はあるが路地が無い。フラフラ歩いていると見覚えのある所に出た。それが元の家なんだ。そこに腰を下ろしていると大家がやって来て『あんな近い所が分からないなんて・・・』と、ここまで連れてきてもらった。箪笥が肩に食い込んで重たいや」、
 「箪笥を下ろしてからしゃべれば良いのに」、「教えろ。そー言う事は」、下ろしたが、風呂敷のコブを握っていた指が固まってなかなか開かない。
 「煙草入れを取ってくれ」、「煙草は良いんだけれども、皆片づいて箒を掛ける所が無いの、釘を一本打ってくれない。何しているの。釘とカナズチはここに有ります」、「俺は大工だ。口出しするな」。と、道具箱から八寸の瓦っ釘を出して壁に打ち込んでしまった。驚いたかみさんは、「長屋の壁はこんなに薄いんだよ。隣に出た釘で品物を傷付けているかも知れないから、謝っておいで」、「だから、煙草で一服させれば、こんな事にはならないんだ。煙草を持って、じゃ~行って来ら~」、「貴方は落ち着けば一人前だから、落ち着かなければいけないよ~」。

 「こんにちは。壁から釘が出てませんか?」、「藪から棒な人だ」、「壁から釘なんです」、どうしても話が噛み合わない。当たり前で、路地を挟んだ向かいの家で有った。
 「落ち着けば一人前と言われたから、これからは落ち着いて話をしよう」、隣に上がり込んで煙草を吹かし、女房との馴れ初めを話し、気分良く帰ろうとした。止められたので、「そうそう、用事があって来たんだ。箒を掛けるために瓦っ釘を壁に打ち込んでしまったので、こちらに先が出ていて傷を付けているといけないので謝りに来ました」、「ここでは場所が分かりませんので、帰ってからその場所を教えてください」。
 「大将、ここですよ。おとっつぁん、ここですよ」、と釘の頭を指さしています。「それでは分からないので、軽く頭を叩いてください。分かりました。分かりました。そんなに強く叩かないでください。壁がくずれます」、とは言ったが、釘先が見えない。夫婦で探すと仏壇の中が動いていたので開けると、阿弥陀さんのおでこから釘が出ていた。
 「チョットこっちに来て下さい。仏壇を見て下さい」、「立派な仏壇ですね。お宅の宗旨は・・・」、「宗旨は何でも良いのです。阿弥陀さんのおでこを見て下さい」、「ははぁ~ん。あすこに打てば、ここに抜けるんだ」、「感心していたらダメです。エライ事です」、
「エライ事です。明日(あした)っから、ここに箒を掛に来なくてはならない」。

 


 この噺は上方では「宿替え」の題で演じられています。特に桂枝雀の噺は絶品で、彼を聞いてしまったら、他の噺家では何と静かな噺だろうと思ってしまいます。東京では五代目柳家小さんが上手いと論評が出ていますが、その弟子で小三治が抜群です。小さんのクスグリを受け入れ、自分なりの解釈を取り入れ噺の中にちりばめています。今回はその小三治の音源から書き下ろしています。


ことば

長屋(ながや);江戸時代において、商家などは表通りに独立した店を構えていたが、それ以外の町人、職人などはほとんどがその奥の長屋に借家住まいであった。また、大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせた。特に江戸時代、表通りの表店に囲まれた中にあった裏店(うらだな=裏長屋)に見られる長屋は落語や川柳の格好の題材になった。 
 密集した中で生活していたが、人情こまやかな生活を送っていた。 江戸時代の長屋はほとんど平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所であり、部屋はせいぜい1部屋か2部屋程度であった。路地に共同トイレがあり、塵芥入れに小さなお稲荷さんが祀られていた。風呂は無い(火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止されていた。入浴は銭湯でする)。隅田川以西では、水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取水口である。そのため水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間や洗濯、水汲みに近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が生まれた。
 江戸時代に「大家」と言えば、所有者(家主、地主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のことであった(差配、家守という。管理人)。町役を兼ねていたので、住民の相談相手になったり、何かと世話を焼いたりした場合が多く、落語ではよく「大家といえば親も同然、店子(たなご)と言えば子も同然」などという台詞が聞かれる。狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、長屋には様々な生活物品を貸し出す損料屋(レンタル業)が発達し、不要品や季節物は質屋に預けた。1月分の家賃は九尺二間で400~600文(6400~1万円弱)、大工手間賃の8%程(文政年間)で現在よりズーッと安かった。
 最少は九尺二間の棟割長屋で、間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の住戸を水平に連ねた長屋を九尺二間の長屋と言う。 九尺二間の長屋とは6畳の部屋とほぼ同規模の大きさであり、そのうち約1畳半を土間として、4畳半を部屋として使用されているのが一般的であった。
  棟割長屋は本来、建物の棟方向に壁を造って前後に区分した建物を指した。このタイプでは開口部が入口の一方向しか取れないため、通風・採光に難があり、住環境は劣悪になる。通常は左右に隣戸が有り、奥は濡れ縁が有り干し物が出来た。
  江戸時代の江戸の長屋は火事になることを前提にしており、柱の太さは2寸(約6cm)角と建築費が安価で、かつ、破壊消防が容易なつくりであった。また、すぐに再建できるようにと、安普請で屋根は板葺きに下見板(建物の外壁に、長い板材を横に用いて、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること)という造りが多かった。  ウイキペディアより加筆訂正。

 「大工さんが住む長屋の一部屋」江戸東京博物館・長屋の一部。 畳の部分と壁際の板の間合わせて6畳相当の空間と、左側に台所と出入り口があります。正面の壁にドンブリ(ドラえもんポケットが付いた前掛け作業着)と股引(ももひき=ズボン状の作業着)が吊り下がっています。その壁に、瓦っ釘を打ち込んでしまったのです。柱より薄い壁ですから、隣に出た釘先はどうなるのでしょう。

 壁が薄かったので、隣の隣人を呼ぶのにわざわざ隣まで出掛ける事は無く、仕切り壁をトントンと叩けば「何の用?」と直ぐに返事が返ってくる。
 こんな状況だから、隣の喧嘩も夜の睦言も筒抜け。しかし、気にする住民はいなかった。翌朝の井戸端会議で、「昨夜はお盛んだったわね~」とからかわれておしまいです。プライバシーも無い代わりに、お互いに助け合って暮らすのが裏長屋。醤油、味噌、の調味料の貸し借りから子供の面倒見まで、人情味溢れる裏長屋であった。

転宅(てんたく);引っ越し。落語「転宅」にもその話が出てきますが、それが主題では無いので、その場面はありません。結婚の話に夏冬の物を持参したという話しが有りますが、それは”うちわと火鉢”であったと言う噺ぐらいです。「小言幸兵衛」や「お化け長屋」は引っ越しの状況は語られていません。「引っ越しの夢」はその状況が似ているだけという噺です。この噺が一番引っ越しのドタバタを描いています。

 江戸時代の借家は、家具一式はもちろん、畳や建具を付けずに貸すのが一般的だった。畳、家具、障子・襖などの建具は自分で揃えなければならなかった。それでも引越しが大変になることはなかった。道具屋や損料屋があって、引越す前に近所の道具屋に道具を売り、引越した先の道具屋から必要な道具を買えば、荷物は少なくて済む。また、損料屋に必要なものを必要な期間だけ借りるというスタイルが定着していたので、自分の持ち物は少なく、収納場所もあまり必要ではなかった。自分の物でも、季節によって使わない物は質屋に預ければ収納スペースも最低限で済みます。

自転車(じてんしゃ);日本に西洋式自転車が初めて持ち込まれたのは慶応年間で、ほとんど記録がなく詳細は不明である。この形式は1980年代頃までは1870年(明治3年)に持ち込まれたとの説が定説とされてきた。初期の日本国産自転車の製造には、車大工や鉄砲鍛冶の技術が活かされた。 1870年、東京・南八丁堀5丁目の竹内寅次郎という彫刻職人が「自転車」と名付けた三輪の車について、4月29日付の願書で東京府に製造・販売の許可を求めた。東京府の担当官による実地運転を経て、5月に許可が下り、7月には日本初の自転車取締規則が制定された。
 現在の自転車の原形である安全型自転車が出来上がったのは1885年(明治18年)で、この時期に日本への輸入も始まっている。国産化も早く進み、宮田製銃所(現宮田工業)が国産第1号を製作したのは1890年(明治23年)である。初期の自転車は高価な遊び道具であった。当時一般的であったダイヤモンドフレームの自転車はスカートなどで乗るのに適さなかったため、自転車は男性の乗り物とされていた。しかし大正期からは富裕層の婦人による自転車倶楽部も結成されるなどし、女性の社会進出の象徴となった。
 初め日本の自転車市場はアメリカからの輸入車が大部分を占めていたが、明治末期になるとイギリス車が急増した。この後第一次世界大戦により輸入が途絶えたことをきっかけに、国産化が急激に進んだ。米1俵(60kg)程度の小形荷物の運搬用途や日本人の体格を考慮したことで一つの様式が確立し、日本独特の実用車が現れた。まだ自転車の価格が大学初任給を上回り、家財・耐久消費財といった位置ではあるものの、庶民の手にも入るようになり、1960年代半ば頃まで、実用車は日本の自転車の主流であり続けた。

 自転車を使う職業の代表は郵便配達だが、英国では1880年に自転車による郵便配達が始められ、現在でも約3万7000人の配達員が自転車を利用している。自転車便など、都市部における輸送手段として利用されることもある。新聞配達や出前などといった職業上の利用もある。 

 この様に日本の自転車の歴史は明治初めから輸入が始まったが、新聞配達や出前に実用上使われるようになるのは、明治から大正にかけてであった。この落語の時代背景はこの時代であったが、昭和に入ってからかも知れません。
 右写真;戦後にもこの様な情景は良く見たものです。

タマゴ屋;鶏卵(けいらん)は、ニワトリの卵である。生で、または加熱した料理とされる。単に「卵」と呼ぶことが多い。殻を割った中身は黄身と白身に分かれている。本来は、生物学的な意味で「卵」、食材として「玉子」というように区別されるが、2014年現在では、生のものを「卵」、調理されたものを「玉子」という使い分けがされるようになってきているという。
 日本国内で食用消費される鶏卵は、主に白色レグホーン種の産むものであり、殻は白色。過去数十年にわたり、価格が比較的安定していたことから、「物価の優等生」と称されることもある。例えば、1954年から1988年までのMサイズの鶏卵1キログラム当たりの価格を調べたデータによれば、1955年の年平均価格は205円、1965年は191円、1975年(前年のオイルショックにより諸物価が高騰)は304円、1985年は高値-安値で370円から205円までとされており、他の生活必需品と比較して概ね安定的な価格の推移を示している。大正以前では現代の価格に直すと1個4~500円はしたでしょう。貴重品で土産や病気見舞いに持って行ったものです。右はそのパッケージの様子。

瓦っ釘(かわらっくぎ);瓦を止めるのに使った八寸の瓦っ釘は、長さ8寸で約24cm。大人の掌を広げると約20cmですから、それに4cm足した長い釘です。主人公の「俺はプロだ」という割りに、奥様が用意した釘を使わず、こんな長い釘を持ち出すなんて。

阿弥陀さん(あみださん);阿弥陀仏。大乗仏教の如来の一つで、略して「弥陀仏」ともいう。 梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。

 造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を配する。宗旨で言うと、密教式の阿弥陀如来のうち、紅玻璃色阿弥陀如来と呼ばれるものは髷を高く結い上げて宝冠を戴き体色が赤いのが特徴で、主に真言宗で伝承される。 また宝冠阿弥陀如来というものもあり、こちらは天台宗の常行三昧の本尊として祀られる。  
右図;鎌倉時代の来迎形阿弥陀如来立像の典型的な姿です。像内後頭部の墨書銘から施主真観法師が諸々の願いをこめ,正嘉3年の2月から3月にかけて,当時21歳の工匠永仙が京都東山一切経谷の木を御衣木(彫刻の用材)として造ったことなど造像経緯がくわしくわかります。 東京国立博物館蔵 重要文化財

 阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場し、今に残る言葉があります。
十八番(おはこ)=浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、もっとも得意なことを指す。(市川家の家の芸歌舞伎十八番の台本を箱入りで保存したことからともいう。)
あみだくじ=あみだくじの形は元々線を中心から周りに放射状に引いたものであり、それが阿弥陀如来像の光背に似ていたことから。
あみだ被り=帽子やヘルメットを後頭部にひっかけるように浅く被ること。上記と同じく見た目が光背に似ていることから。
他力本願=努力しないことや無責任であることを表現するのに使われるが、本来の意味を誤解・誤用した語です。



                                                            2015年10月記

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