落語「ろくろっ首」の舞台を行く
   

 十代目柳家小三治の噺、「ろくろっ首」(ろくろっくび)より


 

 松公(まつこう)は伯父さんの所に来て、相談があるという。「兄貴が嫁さんを挟んで、子供を可愛がっている所を見るとアタイは・・・」、「アタイなんて言うのは、子供の言葉だ」、「あたしが・・・、二十六だからね、兄貴に負けない気になって、・・・」、「ハッキリ言え」、「お嫁さんもらいたい。お嫁さんがもらいたい」、「分かった分かった。そんな大きな声で言うな。婆さん、そこでゲラゲラ笑うな。兄貴は手に職があって女房子供を養える。お前はどうやって食わせていくんだ」、「箸と茶碗で」、「それではダメだ」、「嫁さんを働かせて、お袋を働かせて・・・」、「婆さん、裏でこいつに小遣いやったりするから、駄目なやつになるんだ。なに?『お屋敷に連れて行ったらいかがですか』、それもそうだな。あいつなら感じないから大丈夫かも知れない」。
 松公を養子に出したらと、相談が始まった。お屋敷のお嬢さんは美人で、婆やさんと乳母に女中がいて、両親は亡くなっていないが、大きな屋敷で、財産も使い切れないぐらい有る。ブラブラしていてもイイ。行かないか。「行こう行こう。直ぐにも行こう」、「行こうと言っても、このお嬢さんには訳があって、悪い病があるんだ。夜床に入ると・・・」、「寝小便するんだろう。イイよ、あたしもするから」、「お嬢さんの部屋はお屋敷の一番奥に有る。寝床には屏風が立て回してあって、未だ電気は無く行灯が有り、ボーッと明かりを放っている。夜も更けて毎晩午前2時ごろになると、首が、シューッと伸びるのだ。これまで何度も結婚したものの、そのたびに婿に逃げられてしまい、困っているというのだ」、「それは・・・・、それは・・・ろくろ首ではないか」と尻込みをしたが、夜中の丑三つ時しか首が伸びないと知ると、「アタイは地震や火事になっても夜中起きたことが無い。昼間延びなかったら大丈夫だ」。
 先方の婆やさんは言葉が丁寧だから、ぞんざいな言葉ではしくじるから、「左様左様」と大仰に返事をすれば良い。「ごもっとも、ごもっとも」、と「なかなか」の三つを言えば良い。しかし、トンチンカンな答えをしてしまうので、褌に紐を結んで、その紐を一度引くと「左様左様」、二度引くと「ごもっとも、ごもっとも」、三度引くと「なかなか」とサインが決まった。

 松公を娘の屋敷に連れて行く。婆やさんが玄関でチラリと見たら、立派な方だと言っていた。奥座敷で待っていると婆やさんがやって来た。「ようこそお出で下さいました。本日は良いお天気様です」、ヒモを引っ張られ「左様左様」。「このお話がまとまりましたら、お亡くなりましたご両親様も草葉の陰でお喜びのことでしょう」、二度引かれて「ごもっとも、ごもっとも。次はなかなか」、「こら何て言うことを」、しどろもどろになって伯父さんは言葉をつないでその場を切り抜けた。「普通だったらお嬢さんが桜湯を持ってくるのだが、今回は庭先を通るのでご覧になって下さい」との事。それが終わったら食事になるという。庭にお嬢さんが出てきたが、あまりにも綺麗なので松公もビックリ。兄貴の嫁さんより綺麗だ。でも、「首が伸びるのは夜だけでなく、特別に昼間も見せるかな」。内緒のヒモを猫がジャレ付いて、松公「左様左様、ごもっとも、ごもっとも、なかなか」、「何言ってんだ」、「伯父さんが引っ張るから・・・」、「猫だよ」。

 それでも、縁があったと見えて、イイ日を選んで縁組みとなります。その日は松公旨い物をたらふく食べて、お床入り。夜中になりますと、愚か者でも枕が替わると眠れないものとみえて、目が覚めないのが夜中に目が覚めて、鐘が二つ鳴った「ごもっともごもっとも」。隣の嫁さんを見ると、寝相が悪い。枕を外して・・・首が伸びた。

 「伯父さ~ん、伯父さん」と松公がドンドンと戸を叩く。「伯父さん、延びた。首が伸びた」、「皆様寝ているのだ。大きな声で怒鳴るのでは無い。今開ける」、「伯父さん、延びた」と泣き始めた。「承知で行ったのだろ」、「初日から延びるとは思わなかった。あんな女に『あなたァ~』なんて言われたくない。お屋敷に帰りたくない」、「夫婦の契り結んだんだろ」、「どこ結ぶんだい」。「それより、早くお屋敷に帰れ」、「お袋のとこに帰る」、「何言っているんだ。どの面下げてお袋のとこに帰るんだ。お袋だって大喜びだぞ。明日にも良い便りがあるだろうと、首を長~くして待っているぞ」、
「あ~ぁ、お袋のとこにも帰れない」。

 



ことば

ろくろ首(ろくろくび、轆轤(ろくろ)首、飛頭蛮=中国の妖怪(ひとうばん)頭が胴体から離れて浮遊する妖怪);ろくろっ首。妖怪の一種。
 外見上は普通の人間とほとんど変わらないが、首が胴体から離れて浮遊する抜け首タイプと、首だけが異常に伸びるタイプに分かれる。

 首が抜けるろくろ首(抜け首);こちらの首が抜けるものの方が、ろくろ首の原型とされている。このタイプのろくろ首は、夜間に人間などを襲い、血を吸うなどの悪さをするとされる。首が抜ける系統のろくろ首は、首に凡字が一文字書かれていて、寝ている(首だけが飛び回っている)ときに、本体を移動すると元に戻らなくなることが弱点との説もある。古典における典型的なろくろ首の話は、夜中に首が抜け出た場面を他の誰かに目撃されるものである。『曾呂利物語』では「女の妄念迷ひ歩く事」と題し、ある男が、鶏や女の首に姿を変えている抜け首に出遭い、刀を抜いて追いかけたところ、その抜け首は家へ逃げ込み、家の中からは「恐い夢を見た。刀を持った男に追われて、家まで逃げ切って目が覚めた」と声がしたという。
 小泉八雲の作品『ろくろ首』にも、この抜け首が登場する。もとは都人(みやこびと)で今は深山で木こりをしている一族、と見せかけて旅人を食い殺す、という設定で描かれている。
 平将門の首は晒し者にされた後も腐らず毎晩恨み言を語り、自分の体を探し求め宙を飛んだという伝承がある。その首が轟音と共に江戸城の鬼門(現在の千代田区大手町一丁目)に落ちて、そこを将門塚といいます。
 落語「道具屋」に出てくるお雛様は首が抜けますよ。

 

上図:左、『画図百鬼夜行』より「飛頭蛮」。右、『百怪図巻』より「ぬけくび」。鳥山石燕画

 首が伸びるろくろ首;「寝ている間に人間の首が伸びる」と言う話は、江戸時代以降『武野俗談』『閑田耕筆』『夜窓鬼談』などの文献にたびたび登場する。 これはもともと、ろくろ首(抜け首)の胴と頭は霊的な糸のようなもので繋がっているという伝承があり、鳥山石燕(江戸時代後期の画家、浮世絵師。妖怪画を多く描いた)などがその糸を描いたのが、細長く伸びた首に見間違えられたからだとも言われる。下図;ろくろ首、北斎漫画より



 『甲子夜話』に以下の話がある。ある女中がろくろ首と疑われ、女中の主が彼女の寝ている様子を確かめたところ、胸のあたりから次第に水蒸気のようなものが立ち昇り、それが濃くなるとともに頭部が消え、見る間に首が伸び上がった姿となった。驚いた主の気配に気づいたか、女中が寝返りを打つと、首は元通りになっていた。この女中は普段は顔が青白い以外は、普通の人間と何ら変わりなかったが、主は女中に暇を取らせた。彼女はどこもすぐに暇を出されるので、奉公先に縁がないとのことだった。
 江戸後期の大衆作家・十返舎一九による読本『列国怪談聞書帖』では、ろくろ首は人間の業因によるものとされている。遠州で回信という僧が、およつという女と駆け落ちしたが、およつが病に倒れた上に旅の資金が尽きたために彼女を殺した。後に回信は還俗し、泊まった宿の娘と惹かれ合って枕をともにしたところ、娘の首が伸びて顔がおよつと化し、怨みつらみを述べた。回信は過去を悔い、娘の父にすべてを打ち明けた。すると父が言うには、かつて自分もある女を殺して金を奪い、その金を元手に宿を始めたが、後に産まれた娘は因果により生来のろくろ首となったとのことだった。回信は再び仏門に入っておよつの墓を建て、「ろくろ首の塚」として後に伝えられたという。
 文化時代には、遊女が客と添い寝し、客の寝静まった頃合に、首をするすると伸ばして行燈の油を嘗めるといった怪談が流行し、ろくろ首はこうした女が化けたもの、または奇病として語られた。またこの頃には、ろくろ首は見世物小屋の出し物としても人気を博していた。『諸方見聞録』によれば、1810年(文化7年)に江戸の上野の見世物小屋に、実際に首の長い男性がろくろ首として評判を呼んでいたことが記されている。 明治時代に入ってもろくろ首の話がある。明治初期に大阪府茨木市柴屋町の商家の夫婦が、娘の首が夜な夜な伸びる場面を目撃し、神仏にすがったが効果はなく、やがて町内の人々にも知られることとなり、いたたまれなくなってその地を転出し、消息を絶ったという。
 ウイキペディアより

 『耳嚢』によると、
 宝暦(1751-1764)の頃、遠州毛賀(静岡県細江町)の豪農に一人の娘が居た。16歳の頃婿を迎えようとしたが、なり手の男がいなかった。「あの娘はろくろ首だ」、という噂が立っていた。その事実は無いと娘は泣くばかりであった。また、その事を見た者も居なかった。あるとき、伯父さんが江戸に出たときに、婿の話をしたが、誰も首を縦に振らなかった。泊まっていた旅籠に貸本屋の若者が訪ねてきて、人柄も良いのでこの話をすると、男連中が尻込みするには何か訳が有るのでは無いかと尋ねると、正直に「ろくろ首の評判が立っている」と話した。一晩考えさせてくれと席を外し、日頃世話になっている古着屋の番頭に相談した。ろくろ首なんかこの世にいない。夫婦生活が出来る、ちゃんとした女なら夫婦は上手く行くし子供も出来る。と背中を押してもらった。利の薄い貸本屋で生涯を送るなら、と承諾して、遠州に戻った。
 娘の両親も喜び婚礼の式をあげ、二人は夫婦になった。生活を始めたがろくろ首の事実は無く、夫婦仲は睦まじかった。子供も出来て10年が経っていた。それまでは、逃亡の危険があったから遠方に出掛ける事は決して許さなかったが、江戸に行く事を許した。10年ぶりに古着屋の番頭に会い、かって自分の背中を押してくれた事に礼を述べた。 
 *注:耳嚢(みみぶくろ。耳袋)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本・南町奉行の根岸鎮衛が、天明から文化にかけて30余年間に書きついだ随筆。同僚や古老から聞き取った珍談、奇談などが記録され、全10巻10000編に及ぶ。耳袋と表記もされる。

 落語の世界にも出てきます。「三十石」の最後で、くらわんか船と喧嘩し、ろくろ首の同船者が腹を空かせて、首を伸ばし対岸のうどん屋まで食べに行っていた。「うらやましいな~。昔からどんな旨いものを食っても、舌三寸喉三寸と言って、六寸しか楽しめないものを、お前は幸せ者だ」、「ははは、二つええことはおまへんわ。薬飲んだときは長~いこと苦ごうおまんねん」。

 動物の世界では、多くの首長族がいます。例えば、キリン。ま、首は長いが、年がら年中首を長くしたままで生活しています。亀は首を引っ込めて敵から逃れますが、甲羅の中でS字に曲げていて伸ばすと甲羅から出て獲物を捕獲します。カタツムリですら殻から首を出して動き回ります。化石から出る首長竜は首の脊椎が多いので当然長さがあります。下写真:国立科学博物館蔵。

養子(ようし);養子縁組(ようしえんぐみ)は、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。 この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)または養子(ようし)、女子の場合には養女(ようじょ)、また養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。

 江戸幕府は当初は様々な養子規制を設けたものの、慶安の変(三代将軍徳川家光の治世下、慶安4年(1651)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱)をきっかけに末期養子の禁を緩め、享保18年(1738)には当主か妻の縁戚であれば浪人・陪臣でも養子が可能とされた。養子の規制は時代が下るにつれて緩くなり、江戸時代後期には商人などの資産家の次男以下が持参金を持って武家に養子に行って武士身分を得るという持参金養子が盛んになり、士農工商の建前を崩壊に導いていった。一方、商人・農民などの庶民間における養子縁組は、証文のやり取りだけで縁組も離縁も比較的簡単に可能であり、「家名の存続」よりも「家業の経営」を重視した養子縁組が行われるケースが多かった。 明治以後になると「家」を社会秩序の中心に置く家制度が全ての階層に広げられた結果、養子縁組も家制度の維持という観点で行われることが多くなった。それが大きく変わるのは戦後の日本国憲法制定に伴う民法改正以後のこと。

 持参金養子は農民や商人が金(かね)で武家の地位を得た。当然、養子に入るためには金銭が介在したので、金銭を払って養子に入るのを「御家人株を買う」と言った。その後、譜代の御家人や下級の旗本株まで取引されるようになった。
 幕末に海軍奉行を務めた勝海舟の父方の曾祖父は越後の農民だったが、生まれつき目が不自由で、江戸に出てきて按摩の技術を身に付けて検校にまで登り詰めた。貯めた金で男谷(おだに)家の株を買った。その時の金額は三万両だったとも言われている。現在の金額に直して、約30億円であった。

草葉の陰(くさばのかげ);墓の下。あの世。草の陰。

桜湯(さくらゆ);見合いや婚礼などの一生を決める祝いの席では、その場だけ取り繕ってごまかす意味の「茶を濁す」ことを忌み嫌うことから、祝いの席ではお茶を用いず、代わりの飲み物として桜湯を用いることが多い。 サクラの花の抽出物には、肌のシワやたるみの原因になるコラーゲンの糖化を抑制する抗糖化作用や、線維芽細胞のコラーゲン格子形成増加作用が備わっている。老化を抑制する抗糖化食品として注目されている。
 神奈川県秦野市千村では江戸時代末期から生産を始め、全国生産の約8割を生産している。五分咲き程度の八重桜の晩生種・関山を用い、毎年4月中旬頃から加工している。

鐘が二つ鳴った;言葉のあやで、実際はこの様な時の鐘は鳴らない。
 丑三つ時(刻)、現在の深夜2時頃で、2時だから鐘が2回鳴ったと表現されたのでしょう。でも、お嬢さんの部屋だけ電気が無いと言っていますので、金持ちのお屋敷ですから、柱時計のようなものがあったのかも知れません。それが2時の時報を打ったのかも知れません。

 江戸時代の鐘の打ち方は、まず捨鐘(すてがね)を三つ(大坂では一つ)打って、それから刻の数だけ打った。 例えば、八つだと、捨鐘三回と刻の数八回、合わせて11回撞かれる。
  各所の時の鐘の時刻がずれることも珍しくなく、聞く場所によっても時間差が生じた。夜間は町々の番太郎が、拍子木を打ちながら「九つでござ~い」と知らせ回った。
  落語「芝浜」では、鐘一つ聞き違えたため、2時間早く起こしてしまった。
 右写真:川越の有名な時の鐘。



                                                            2015年10月記

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