落語「肝潰し」の舞台を行く 三遊亭円生の噺、「肝潰し」(きもつぶし)より
■恋煩い(こいわずらい);恋煩いは他の落語の中にも出てきます。「崇徳院」、浮世絵を見ただけでその美女に恋煩いした「紺屋高尾」、「搗屋無間」などがあります。
■肝(きも);肝(かん、きも)は、
■亥の年月が揃った;生年月日時の「干支」が揃った女(時に男も)の肝や生き血が呪いや難病を癒し、秩序を取り戻す役割を果たすという俗信が有り、広く信じられていたようです。十二支の何でも良いのですが、例えば亥(いのしし)の年だとしますと、最近ですと平成19年(2007)、平成7年(1955)この年の生まれは二十歳です。昭和58年(1983)、昭和46年(1971)、・・・と12年おきにやって来ます。日にちの方は12日ごとですが、干支で言うと60日ごとに一回転します。また時刻は亥ですから、夜22時です。
■芝居見物(しばいけんぶつ);江戸時代の一般の人々の娯楽は、現在のように多種多様ではありませんでしたから、芝居見物(歌舞伎見物)は想像以上に大きな楽しみであったようです。
『東都繁栄の図 猿若町三芝居図』歌川広重画 嘉永7年(1854)3月。中央の角切銀杏の座紋の櫓(やぐら)が立つのは「中村座」。芝居小屋の隣には芝居茶屋が軒を並べ、まさに江戸三座が賑っている様子が描かれている。国立国会図書館蔵。
芝居小屋の枡席は一般に「土間」(どま)と呼ばれ、料金は最も安く設定されていた。これは初期の芝居小屋には屋根を掛けることが許されておらず、雨が降り始めると土間は水浸しになって芝居見物どころではなくなってしまったからである。したがってこの頃の土間にはまだ仕切りがなかった。瓦葺の屋根を備えた芝居小屋が初めて建てられたのは享保9年 (1724) のことで、雨天下の上演が可能になった結果、この頃から土間は板敷きとなる。すると座席を恒常的に仕切ることができるようになり、明和のはじめ頃(1760年代後半)から次第に枡席が現れるようになった。当時の芝居小屋の枡席は一般に「七人詰」で、料金は一桝あたり25匁だった。これを家族や友人などと買い上げて芝居を見物した。土間の両脇には一段高く中二階造りにした畳敷きの「桟敷」(さじき)があり、さらにその上に場内をコの字に囲むようにして三階造りにした畳敷きの「上桟敷」(かみさじき)があった。料金は現在とは逆に、上へいくほど高くなった。こうして場内が総板張りになったことで、客席の構成にも柔軟性がでてきた。享和2年(1802) 中村座が改築された際に、桟敷の前方に土間よりも一段高い板敷きの土間が設けられたのを嚆矢とし、以後の芝居小屋では土間にもさまざまな段差をつけるようになった。こうして格差がついた後方の土間のことを「高土間」(たかどま)といい、舞台近くの「平土間」(ひらどま)と区別した。
■褌(ふんどし);日本をはじめとする地域での伝統的な下着である。
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