落語「転宅」の舞台を行く 三代目三遊亭金馬の噺、「転宅」(てんたく)より
■お妾さん(おめかけさん);本妻に対しての愛人をいいます。 桂庵というシステムがあって、色々な奉公先を世話していた。 出稼ぎや、奉公、武家への求職は当然であったが、その他にも大名行列の行列要員、妾等の求人もあった。 囲い者は妾のことで、囲い者にも上・中・下があった。
■船板塀(ふないたべい);船板塀に見越しの松
「黒板塀に・・・・」ともいいます。当時の典型的な妾宅の象徴として、三世瀬川如皐作の代表的な歌舞伎世話狂言「源氏店」(おとみ与三郎)にも使われました。
船板塀は、古くなった廃船の船底板をはめた塀で、ふつう忍び返しという、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。
見越しの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。
上写真:船板塀。
■見越しの松(みこしのまつ);塀ぎわに植えて外を見おろすような形になっている松の木。 「船板塀に見越しの松」。
手入れが行き届いた見越しの松。
■ドウスル連;女義太夫
「娘義太夫」の追っかけ。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどが伝わってきます。この噺の妾のように旅回りの女芸人となると、泥水も散々のみ、売春まがいのこともするような、かなり追い詰められた境遇だったのでしょう。そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。
上図;寄席の娘義太夫(明治35年~東京風俗志下巻)
■カッポレ泥棒;「カッポレカッポレ甘茶でカッポレ」という囃子言葉からの名。江戸末期、住吉踊から出た大道芸のひとつ。
右:「かっぽれ」 伝統江戸芸かっぽれ寿々慶会 深川江戸資料館にて
■音羽屋(おとわや);歌舞伎役者の屋号。
初代尾上菊五郎(おのえきくごろう)の父・半平は、京の都萬太夫座(みやこ まんだゆう
ざ)付き芝居茶屋の出方を営んでいたが、生まれたのが東山の清水寺にほど近い地だったことから、その境内の「音羽の滝」にちなんで、自らを音羽屋半平(おとわや
はんぺい)と名乗っていたことがその名の由来。 音羽屋には以下の役者さん達がいます。尾上菊五郞、尾上菊之助、尾上丑之助、尾上梅幸、尾上松綠、
尾上辰之助、坂東彦三郞、尾上松助、尾上松也、尾上多見藏。
■マムシのお玉の妹分で毛虫のお玉;落語的なジョーク名前ですが、演者によっては高橋おでんの妹分だと名乗ることもあります。
■鼠小僧(ねずみこぞう);(寛政9年(1797) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。
本業は鳶職であったといわれ、芝居では義賊の伝承で知られる。
両国・回向院の鼠小僧の墓。墓の前に削ってもイイ墓が置いてあります。子供に削らせて何の願いをするのでしょうか。
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