落語「転宅」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「転宅」(てんたく)より


 

 旦那が帰り際に5万円を置いて行った。「残りは明日若い者に持たせるので、戸締まりをしっかりして寝るように」と言付けをして帰って行った。
 お妾さん角まで送って戻ってきたら、毛むくじゃらの男が旦那が座っていた所で残り物の料理を食べながら飲んでいた。ビックリしたお妾さん「誰だい、お前は」、「黙って入ってきたら泥棒と決まっている。旦那が置いて行った5万円を黙って出せ。出さないとピストルで土手っ腹にお見舞い申すぞ」と威しに掛かった。「ピストルは持っていないじゃないか」、「あいにく、今日は忘れてきた」、「何だよ。お前さん様子がイイんで、旦那に頼まれてきた芸人なんだろう。私がここで『キャー』と言えば、カッポレなぞを踊って・・・、カッポレ泥棒」、「正真正銘の泥棒だ」、「だったら嬉しいね。元は私も泥棒だったんだよ」、「仲間だろうが、見込んだ相手だ。この家の全てのものが俺のものだ」、「音羽屋!」、「褒めたって駄目だ」。
 「お前さん何処の身内」、「鼠小僧の流れを汲む、ウサギ小僧のぴょこ助と言うんだ。そう言うお前は何処の身内だ」、「新米だね~。私を知らないなんて。マムシのお玉の妹分で毛虫のお玉。嬉しいね、お仲間に会えたなんて、仲間内の愚痴を聞いてよ。家の旦那はお荷物なんだよ。お金で縛られているのは辛いんだよ。別れたいが、身より頼りも無いし、こんなお多福じゃ誰も相手にしてくれないだろ。イヤなタイプは山ほどあるが、好きなタイプは・・・、お前さんのように、図々しい男が好きなんだ。私が好きなくらいだから女房か女が居るんだろ」、「そんな女は居ない」、「だったら私を連れて逃げて。3日でもイイから夫婦になっておくれょ」、だんだん女のペースになってきた。


 「3日などと言っていないで一生涯夫婦で居ようじゃないか」、「うれし~ぃ。では私のお酌で・・・」、「そんなに注ぐなよ。夫婦なんだからもっとゆっくり飲もうよ」、「明日昼頃迎かえに来てくれない。出掛ける用意をしておくから。そして日本中を回ろう。途中、泥棒稼業で稼いで、戻ったら水商売なんかしようね」、「では、夫婦だから泊まっていくよ」、「ダメだよ。旦那はヤキモチ焼で、柔道3段の若いのが2階に居るんだ。裏は警察の合宿所。だから、間違いなく明日の12時に向かえに来てよ」。
 「5万円出せ」、まだ旦那が置いて行った金に未練がある。夫婦なんだからと、泥棒の持ち金も「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」と、稼いだなけなしの金をお玉に巻き上げられる始末。「約束だよ。明日の昼頃だよ」。
 肩を叩かれ、酔いと嬉しさで、フラフラと出て行った。何処で時間を潰したか、翌日の昼頃。

 来てみれば、雨戸が閉まって留守の様子。「あの角の煙草屋で聞いてみよう。スイマセン。あのお玉の家が閉まってますがどうしたんでしょう」、「『お玉』と言うところを見るとご親戚の御方、それとも出入りの方ですか。あの家は今朝方転宅しました。引っ越ししました。まあ、お座りなさい。夕べ泥棒が入ったのです。間抜け泥棒で、新米泥棒なので、婆さんと笑い転げていたんですよ。あのお姉さん、ハナはビックリして恐かったが、泥棒が震えているのを見て色仕掛けで酒を飲ませ夫婦約束をしたが、泥棒は図々しく『泊まっていく』と言うので、2階には柔道の出来る用心棒がいて裏は警察の合宿所だと言ったら震え上がったという。ガンを付けて入らなかったんだね。隣は家と同じで平屋で、裏は原っぱなんですよ。何も取られたわけでは無いんですよ。逆に泥棒の金入れをふんだくったんですよ。姉さん腕がイイよね。警察に届けて腕っこきの刑事2人が中で張り込んでんだよ。本物の捕り物は見たことが無いので、アンタも見て行きなさい」、「その女は何者だったんですか」、「アンタ知らないの?昔は娘義太夫のお師匠さんだったんです」、「道理で、上手く語りやがった」。

 

上記、転宅のイラスト:「落語ギャラリー60」より橋本金夢氏画



ことば

お妾さん(おめかけさん);本妻に対しての愛人をいいます。
 関西では「お手掛さん」、関東では「お目掛さん」、どちらも同じ事ですが、手を掛けるのと目を掛けるのでは、ちょっとニアンスが違います。どちらがイイのでしょうか。
 また、「二号さん」、関西では「こなからさん」という呼称があった。こなからさんとは、半と書いて「なから」と読みます。その半分「こなから」で、一升の半分の半分、つまり二合半、二号はんです。

 桂庵というシステムがあって、色々な奉公先を世話していた。
桂庵;(けいあん=口入屋=私設職業紹介所) 当時の求人には、武家の下級武士や下働き、商家、職人の下働きと男女の差も無く、多くの求人があった。また季節労働者として農閑期を利用して信濃方面からの出稼ぎを”椋鳥(ムクドリ)”と称した。通常の就職先はコネや紹介があって初めて成り立ったが、それらの無い者は口入屋で寝泊まりして求人先を待った。そのため口入屋のことを人宿(ひとやど)と呼んだ。口入屋では奉公人の身元保証人になって斡旋し、その代償として最初の給金の1割程度、主人と奉公人の両方から受け取った。期間も1年、半年、月、日雇いなど、いろいろあった。しかし、泥棒の求人は無かった。
 女性求職者で武家への求職が特に人気があった。町方の娘は武家に入って給金をもらうのは当然として、それより行儀見習いを習得し、良縁を期待して親たちが特に勧めた。このため武家側が強気になって、三味線、小唄、踊りなどの歌舞音曲が出来る娘を優先した。そのため親たちはこぞって7~8歳になると娘を手習いに出した。その結果江戸の街には遊芸を教える師匠が沢山出来た。良縁願望→武家奉公希望者増大→歌舞音曲師匠の増大→江戸の邦楽の発展に大いに寄与した。

 出稼ぎや、奉公、武家への求職は当然であったが、その他にも大名行列の行列要員、妾等の求人もあった。

 囲い者は妾のことで、囲い者にも上・中・下があった。
 まず、中級の囲い者の住居は、表通りからはいった新道の仕舞屋である。
 玄関は格子戸で、竹の簾を半分巻き上げている。格子戸の内側には数種の盆栽が置かれていた。
 部屋の壁には掛け軸が一幅掛けられ、その横に二丁の三味線がつるされていて、ひとつは袋にはいっているが、もうひとつはむき出しだった。
 長火鉢では鉄瓶が白い湯気をあげている。
 寝間には枕元近くに鏡台を置き、化粧道具や髪飾りが並んでいた。
 住んでいるのは囲い者のほかに、婆やと下女、それに雌猫で、女ばかりの暮らしである。そこに、時々、旦那がやってくる。

 上級の囲い者の住まいともなると、敷地は黒板塀で囲われていて、門はいつも閉ざされている。
 庭には竹が数本植えられ、苔むした石が配されていた。松の木の下には石灯籠が置かれ、茶室もある。
 女中や下女など奉公人の数も多い。
 しばしば道具屋が出入りし、時には馴染みの幇間が話をしに来る。
 年老いた旦那は妾宅に来ても、囲い者に河東節を歌わせたり、春本をながめたりしているだけで、房事はほとんどない。いわば、若い女を飼い殺しにしているようなものである。
 こうした妾宅では、旦那の一カ月の出費は二十五両にもなった。
 
 下級の囲い者では、別宅に住まわせることなどできないため、旦那が女の家に通ってくる。
 二階建ての家で、囲い者は二階に住み、両親は階下に住んでいた。
 旦那は二階で、囲い者との房事を楽しむわけである。

 さらにランクが下がった囲い者に、安囲いがあった。
 男が五人くらいで、共同でひとりの女を囲うのである。五人の割り勘だから、安くついた。
 五人の男はスケジュールを立て、鉢合わせしないように女のもとに通う。
 (寺門静軒著『江戸繁昌記』より)

 当時、妾(囲い者)は女の職業で、妾奉公と呼んだ。 口入屋が斡旋し、きちんと契約書も取り交わす。
 料金は二カ月契約で、高い場合は五両、安い場合で二両くらいだった。
 もちろん、口入屋が手数料を取るので、女の手元にはいる金額は五両や二両ではない。
(永井義男の「江戸の醜聞愚行」・第267話 囲い者の上中下より)
 落語「悋気の独楽」より転記

船板塀(ふないたべい);船板塀に見越しの松 「黒板塀に・・・・」ともいいます。当時の典型的な妾宅の象徴として、三世瀬川如皐作の代表的な歌舞伎世話狂言「源氏店」(おとみ与三郎)にも使われました。 船板塀は、古くなった廃船の船底板をはめた塀で、ふつう忍び返しという、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。 見越しの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

 上写真:船板塀。

見越しの松(みこしのまつ);塀ぎわに植えて外を見おろすような形になっている松の木。 「船板塀に見越しの松」。

 手入れが行き届いた見越しの松。

ドウスル連;女義太夫 「娘義太夫」の追っかけ。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどが伝わってきます。この噺の妾のように旅回りの女芸人となると、泥水も散々のみ、売春まがいのこともするような、かなり追い詰められた境遇だったのでしょう。そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。

 上図;寄席の娘義太夫(明治35年~東京風俗志下巻)

カッポレ泥棒「カッポレカッポレ甘茶でカッポレ」という囃子言葉からの名。江戸末期、住吉踊から出た大道芸のひとつ。
 現在、寄席の舞台で芸人が揃って踊ることが有り、志ん朝も亡くなる前、仲間と踊った。芸人が舞台で踊ったので、泥棒では無いと芸人が種明かしとしてカッポレを踊った。その為、泥棒を芸人だろうとみて、カッポレ泥棒と言わせた。

 右:「かっぽれ」 伝統江戸芸かっぽれ寿々慶会 深川江戸資料館にて

音羽屋(おとわや);歌舞伎役者の屋号。 初代尾上菊五郎(おのえきくごろう)の父・半平は、京の都萬太夫座(みやこ まんだゆう ざ)付き芝居茶屋の出方を営んでいたが、生まれたのが東山の清水寺にほど近い地だったことから、その境内の「音羽の滝」にちなんで、自らを音羽屋半平(おとわや はんぺい)と名乗っていたことがその名の由来。 音羽屋には以下の役者さん達がいます。尾上菊五郞、尾上菊之助、尾上丑之助、尾上梅幸、尾上松綠、 尾上辰之助、坂東彦三郞、尾上松助、尾上松也、尾上多見藏。

マムシのお玉の妹分で毛虫のお玉;落語的なジョーク名前ですが、演者によっては高橋おでんの妹分だと名乗ることもあります。
 高橋 お伝(たかはし おでん、本名:でん、嘉永3年(1850年) - 明治12年(1879年)1月31日)は、強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれた。
 亭主と死に別れ、明治9年(1876年)8月、ヤクザの市太郎との同棲生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、愛人になるなら金を貸すと言われる。 8月26日、吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で同衾、しかし、翌日になって吉蔵が突然翻意し、金は貸せないと言い出したため、怒ったお伝は剃刀で喉を切って殺害。財布の中の金を奪って逃走する。
  9月9日、強盗殺人容疑で逮捕。 明治12年(1879年)1月31日、東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄で死刑執行。八代目山田浅右衛門の弟吉亮により、斬首刑に処された。お伝は日本で最後に打ち首となった女囚とされることが多いが、定かでない部分もある。遺体は小塚原回向院に埋葬された。墓は片岡直次郎・鼠小僧次郎吉・腕の喜三郎の墓に隣接して置かれている。また、谷中墓地にも墓がある。

鼠小僧(ねずみこぞう);(寛政9年(1797) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。 本業は鳶職であったといわれ、芝居では義賊の伝承で知られる。
 墓は、両国の回向院にある。参拝客は賭け事に勝つと言われる幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰り、お守りにしている。また南千住の小塚原で処刑されて、千住回向院にも墓がある。
 貧困者に盗んだ金を恵んだという噂があったが、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。

 両国・回向院の鼠小僧の墓。墓の前に削ってもイイ墓が置いてあります。子供に削らせて何の願いをするのでしょうか。



                                                            2015年10月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system