落語「胴乱幸助」の舞台を行く
   

 

 桂小南の噺、「胴乱幸助」(どうらんこうすけ)より


 

 喜六と清八は酒を飲みたいが金が無い。そこに通りかかったのが、割り木屋の主人・幸助で、腰に大きな胴乱を下げているので、俗に「胴乱幸助」と呼ばれていた。幸助は丹波から大坂に出てきて以来、仕事一筋に打ち込んで財を成し、今では隠居しているが、苦労人のため、芝居、浄瑠璃、義太夫、落語など娯楽を一切知らない。唯一の趣味として、街で人の喧嘩を見つけては仲裁に入り、腰に下げた財布代わりの胴乱から金を取り出し、食事や酒をふるまう、という行いを繰り返している。まるで幡随院長兵衛のような気持ちになるのが幸助の病気だ。と噂していた。
 道ばたで喧嘩をしていると、「俺を知っているか?」、「知っています。割り木屋の親父さんです」、「俺にこの喧嘩任すか」、「任せます」、と言うと、近くの料理屋で酒を飲ませてくれる。子供でも、犬の喧嘩でも仲裁して回った。
 我々も喧嘩の真似をして、仲裁して貰って、タダ酒にありつこうと計画を練った。

 「喜六、胴乱の幸助が来たから、早く突き当たれ」、「いいか行くぞ」、「痛い。本気で向こうずね蹴るやつがあるか。血が出てきたじゃないか。どうして突き当たった」、「酒が飲みたいから」、「何処のやつだ」、「お前の隣だ」。清八はあまりにもバカバカしいので、喜六の頭をポカポカと約束の3回を越えて殴りつけた。喜六も約束と違って7回も殴られたと反撃に出た。首を絞めて、本気の喧嘩になってしまった。それを見て喜んだのは割り木屋の親父さん。

 早速止めに入った、「待った待った。噛みつくな。引っ掻くな。いい加減にしろ。俺の顔を知っているか?」、「知っています。割り木屋の親父さんです」、「この喧嘩、俺に任せないか」、「男と男の命を賭けた大喧嘩、任せることは出来ませんが、割り木屋の親父さんだったら、任せます」。幸助、気分良く料理屋の二階に連れて行った。
 「仲裁を始めるが、喧嘩の元は何だ」、元々、喧嘩の元など無かったので二人共おたおたしている。言えたのは「早く飲ませてください」。仲裁の盃が来て手打ちが済んで、幸助は「どんな大喧嘩があるかも知れない。ここに居るわけにはいかない」。二人はもっと飲めると思っていたのでビックリ。「手を叩けば下から酒肴は来るし、勘定は俺の所に回ってくるから安心しろ」、「それだったら、どうぞ行って下さい」。気分良く、二人を置いて出てきた。

 角を曲がると稽古屋さん、中では稽古の真っ最中。弟子が替わって、『お半長』のおさらい、帯屋の段をさらっています。外には大勢の見物人が中を覗き込んでいるところに、幸助がやって来て聞くと「姑が嫁いびりの最中」だと言い、誰も止めに入る者はいないし、笑って聞いているだけです。「俺が止めてくる」と稽古屋に飛び込んだが、飛び込まれた方がビックリした。
 この話は『お半長』で浄瑠璃の中の話だと説明しても、浄瑠璃が分からない幸助は、舞台となった京都の場所を紙に書き出させ、京都に向かった。そこでまた一騒動・・・。 

 



ことば

この話には続きがあります。小南は噺全体の導入部を演じただけで、その後が主題になっています。

 幸助は「今『あんまりじゃわいな』と言うてたのは誰じゃ?」と叫びながら稽古屋に上がり込む。驚いた義太夫の師匠は、「ここの家(うち)がもめてンのと違いまンねん。京都の柳馬場押小路虎石町の西側に『帯屋』いう家がおまンねん。主人の長右衛門は養子だんねんけどな、繁斎(はんさい)ちゅう舅(しゅうと)がおって、その後添え(のちぞえ=後妻)に奉公人やった おとせいう姑のオバンがおりまンねん。おとせには儀兵衛いう連れ子がおりまンねん。おとせは長右衛門さんと親子でない。長右衛門さんに落ち度があれば店から放り出して、儀兵衛を店の主にしたい。
 悪いことに長右衛門さん、遠州からの仕事の帰り、同じ町内の信濃屋の娘・お半がお伊勢参りの帰り道中で、石部宿の宿屋・出羽屋で居合わせた。長右衛門さんとお半、ひょんなことからその晩にええ仲になって、それをおとせが知って、難癖つけて放り出しにかかる。ところが長右衛門さんにはお絹さんという嫁はんがおって、日本一の貞女だ。これが事を丸く収めようと、一生懸命心を砕いてます」。と『お半長』のあらすじを説明するが、幸助はフィクションの出来事であることを理解できず「そうか。わしはこれから京へ行て、帯屋のもめごとを収めようと思う」と宣言して、淀川の夜船で京へ向かう。

  朝早くに伏見の船着き場に着いた幸助は、通行人に「柳馬場押小路虎石町の西側に帯屋長右衛門ちゅう家ィあるか?」と尋ねる。通行人は「なぶりなはんな(=からかわないでください)。『お半長』いうたら子供でも知ってまっせ」と答えた。幸助は「大人のわしが知らなんだとは、なんたる不覚・・・」と嘆く。 虎石町には、偶然にも「帯屋」が1軒あった。
 幸助が、応対した店の番頭に「主の長右衛門を出してもらいたい」と聞くと、番頭は「手前どもの主人は太兵衛と申します」と答える。「おかみさんのお絹さんは?」、「手前どものは、お花さんと申します。何のご用どすか」、「主家の恥か知らんけど、とぼけたらあかんで。大阪まで、子供にまで知れ渡ってるがな。信濃屋のお半とかいう自分の娘ほどの年の娘に手ェ出すとは・・・、世間体ちゅうもん、考えたらどないやねん」、「それ、もしかしたら、ハハハ・・・『お半長』と違いますか?」、「何がおかしいねん」、「笑わずにおれますかいな。お半長は、とうの昔に桂川で心中しましたわいな」、「えっ、死んでもーたか! しもた(=しまった)・・・ゆうべ(=昨晩)のうちに来たらよかった」。
 ウイキペディアより加筆訂正

胴乱(どうらん);現在では植物採集時に使う道具としてその名が残っています。薬や印などを入れて腰に下げる長方形の袋またはカバン。江戸時代初期に鉄砲の弾丸入れとして用いられたのが始り。最初は革、のちには羅紗などの布で作られたが、明治初期には再び革製が流行して、手さげ胴乱、肩掛け胴乱も作られた。ポシェット。

 
 上左;海軍22年式村田銃用 胴乱(弾薬盒)。右;蓋を開けた内部。

割木屋(わりきや);割木は燃料にする薪(まき)のこと。昔は燃料の炭と薪は欠かせないもので、貧乏長屋は自分の戸板まで燃料として燃やしてしまい、戸無し長屋になってしまった。
右写真:割り木
 
幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ);元和8年(1622年) - 明暦3年7月18日(1657年8月27日))は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。落語「鈴ヶ森」に詳しい。

喜六と清八(きろく と せいはち);上方落語に頻繁に登場する架空の人物。江戸落語には登場しない、上方落語独自の登場人物。
 ほとんどの噺の場合、大阪(大坂)に住んでいる。一般的な展開では2人一緒に登場し、喜六がうっかり者もしくは「ボケ」、清八がしっかり者もしくは「ツッコミ」の役割を受け持つ。 喜六の通称は「喜ぃさん」もしくは「喜ぃ公」。与太郎や甚兵衛に見られる「茫洋としたところ」と、八五郎の「おっちょこちょいなところ」を備えている。喜六が単独で登場する噺もあるが、特異な名前である必要がなく、ボケが出来る若者が求められている際に登場する。清八の通称は「清やん」。しっかりとした性格で、喜六の兄貴分として振舞っている。喜六を引っ張っていく形で噺を展開させる存在。

お半長右衛門(おはんちょうえもん);事実を元とした演劇。『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ)作品の真似をして心中をする者が続出するようになったため享保8年(1724)に、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。菅専助作の浄瑠璃、またこれに基づく歌舞伎劇。1776年初演。38歳の帯屋長右衛門と14歳の信濃屋の娘お半の情話を描いたもので、長右衛門がお半との恋ゆえに継母や義弟からいじめられるのを、貞節な女房お絹がかばう〈帯屋の場〉が有名。
 原題「桂川連理柵」安永五年十月十五日初日。京都柳馬場押小路の帯屋長右衛門、隣家信濃屋の娘お半の伊勢参り下向と石部の宿で偶然ゆきあい、同宿します。その夜、お半はお供に連れてきている丁稚の長吉にいいよられ、長右衛門の部屋へ逃げ込み匿った長右衛門と契ってしまいます。それを見ていた長吉は、腹いせに長右衛門が預かっている正宗の刀をすりかえます。その後、帯屋の隠居繁斎の後妻おとせ、その連れ子の義兵衛により、長右衛門はおとしいれられそうになるのですが、長右衛門の妻お絹の機転によりことなきを得ます。しかし長右衛門は、お半の妊娠・正宗の刀紛失で死を覚悟していました。 右上、人形浄瑠璃「道行朧の桂川」。人形:吉田 和生 ほか。
 そんなとき、お半は書き置きを残し桂川へ死に行ってしまいます。長右衛門は、15~6年前芸妓の岸野と桂川で心中しようとして相手だけ死なせてしまっていることから、岸野がお半の生まれ変わりで、自分を死へ招きよせる因果を感じて、お半の後を追い、桂川で心中を遂げてしまいました。
右:「桂川で心中」豊国画

 事実は、中京区柳馬場押小路の帯屋の主人。長右衛門は、38歳の中年男で彼は、隣の呉服商の信濃屋の亡くなったご主人に、5歳まで育てられた。帯屋の跡取り息子として、帯屋に養子に貰われた。現在ここには、老舗の茨木蒲鉾店がある。
 お半は、中京区柳馬場押小路の呉服商、信濃屋の娘で年齢は14歳です。信濃屋の娘、お半が、大阪に奉公に行くので、長右衛門は、信濃屋の主人から保護者を頼まれます。で桂川の渡船場で出発を待っていたところ、悪者(泥棒)に所持金を奪われ殺されます。悪者は二人の(裾の長い着物の)竪褄(たてずま)を結びつけて、あたかも、二人が心中したかのように 偽装し、川に流したその時、長右衛門は38歳、お半は14歳だった。 このような衝撃的な心中事件(偽装心中事件)は、その歳の差が離れていたことから、噂が噂をよんで話が拡大した。

■矢野誠一氏はかつて五代目三遊亭圓生が演じたものの速記本を「違和感のあるのは否めない」と評しており、理由として同演目が「義太夫が暮らしの中にはいりこんでいた風土なしには、成立しないはなし。純粋の上方落語」であり、義太夫節が一般的でなかった東京への移植は「土台無理なはなし」だったため、としている。

義太夫(ぎだいゆう);義太夫節、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。現在国の重要無形文化財。
 17世紀後半に大坂で竹本義太夫が語り始めた浄瑠璃(ドラマのストーリーやせりふを三味線の伴奏で語る音楽)。2003年に世界文化遺産に登録された「人形浄瑠璃文楽」の音楽です。声を担当する「太夫」(たゆう)と、三味線弾きが対になってドラマを語りあげます。あらゆる三味線の中でも最も棹が太く(太棹)、重い胴、厚みのある撥に特色があり、ダイナミックな迫力のある響きが聴く人の心を打ちます。歌舞伎化された演目のなかで演じられる場合は「竹本」といい、演奏だけを行うことを「素浄瑠璃」(すじょうるり)といいます。
 落語「転宅」に娘義太夫の説明と絵があります。また、「寝床」で義太夫に夢中になった旦那が語りたがる噺が有ります。

 昭和13年兵庫・朝日座にて、竹本朝香太夫(左)と三味線・豊澤重松(右)。義太夫協会会報第69号(1999.7.15)より

浄瑠璃(じょうるり);三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る劇場音楽、音曲である。 詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含むものであるために、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶのが一般的である。 浄瑠璃の流派は、現在、義太夫節・常磐津節・清元節など全部で8流派である。 なお義太夫節では同一の丸本が、丸本歌舞伎狂言に用いられる場合と、人形浄瑠璃における場合とでは、微妙に間合いが異なることとなる。 地方によっては、「浄瑠璃」という語が、浄瑠璃8流派の代表たる義太夫節のことのみを指す場合があるが、「若干の浄瑠璃は義太夫節ではない」という命題が論理学上正しい。

淀川の夜船(よどがわのよふね);落語「三十石」で紹介した、船旅の大坂から京都に上る船旅です。
 八軒家(はっけんや)、(現・大阪市中央区天満橋京町1−1)天満橋南詰の西側。天満橋から天神橋までの大川の左岸は、大阪と京伏見を結ぶ水運の発着所であった。周辺に八軒の旅宿があったことから八軒家と言われるようになったという。ここから出た船は京都・伏見まで運行していた。
 噺家によっては淀川の夜船ではなく、陸蒸気だと言っています。これなら昨夜の内に来れたのですがね。でも、芝居ですから、当然それでも間に合わなかった。
鉄道が敷(ひ)けた頃;明治7年(1874)、大阪~神戸間が開通、明治10年(1877)、大阪~京都間が開通。
陸蒸気(おかじょうき);蒸気機関車。
五平太(ごへだ);石炭。


                                                            2015年10月記

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