落語「いが栗」の舞台を行く
   

 

 桂歌丸の噺、「いが栗」(いがぐり)より


 

 昔、農家では、ネズミの出そうな天井の隙間ですとか鴨居の上などに、栗のいがを置いたそうです。ネズミが出るのを防ぐ意味です。ネズミといえども、いが栗の上はさすがに歩けません・・・。昔の旅人は、藍染の手甲(てっこう)脚絆を付けていました。ヘビなどが、藍の臭いを嫌って近づかなかったそうです。

 江戸の商人が山中で道に迷って難渋していました。前方に朽ちかけた辻堂が出てきたので、そこでワラジのヒモを結わき直そうと思って近づくと、先客がいた。歳の頃は三十五.六、目の鋭い、鼻が高く口が大きく顔中ヒゲだらけの男です。着ている物と言えば、色も抜けてしまった衣を身にまとい、頭はいが栗頭で、手はヒザの上で組み、半眼に見開いて、何か呪文を唱えています。道を問うたのですが相手にしてくれず、睨み付けられたその形相は恐ろしく、逃げるようにその場から走り去った。

 あばら家が見えて来た。門口には老婆がたたずんでいたので、宿の有る町を訪ねると、山を三つ越えなければ出られないという。「ここで泊めてもらいたい」と懇願したが断られてしまった。なお聞くと「娘が病気で寝ている。その恐いことを見聞きして、他でしゃべられると困るのでお断りする」と取り合ってくれない。「熊も狼も出る山の中でウロウロする怖さから比べたら、ここに泊めて貰う方がどれだけ良いか・・・。その上、その恐いものを見ても、絶対口外は致しませんからお願いします」と必死に頼んだ。「見れば江戸の人で正直そうなので、口外しないという約束で泊めてあげましょう」。
 囲炉裏の側で身体を温めて、病気だと聞いていた娘を見ると、実に美しい娘でした。ただ、顔の色は、病気のためか青白く見えます。「自分たちも下の村に住んでいたが、娘が原因不明の病に冒され、万一村人に移ると一大事になるからと、ここに小屋を建てて、二人で移り住んでいた。1年ぐらい前から娘が『坊様恐い』と言いだした」、「ご心中お察しいたします」。粗末なひえの雑炊を一杯食べ、ムシロの下がった隣の部屋に入ると昼の疲れもあり、旅の合羽をかぶり寝入ってしまった。

 夜も更けて八つの鐘が聞こえてくるような頃、今まで静かに寝ていた娘が「う~ん、う~ん」と苦しがっている。旅人もこの声で目を覚まし娘の方を見ると、娘の枕元に昼間見た、いが栗坊主が坐って片手を娘の額にかざし、呪文を唱えている。
  夜が明けると坊主は消え、娘は静かに寝ている。旅人は老婆に「娘の病気を治してあげられる、かも知れない」と言ってあばら家を飛び出した。昨日の辻堂まで来ると昨日と同じようにいが栗坊主が呪文を唱えている。 「おぉ、坊さん。ひでえお人だなぁ・・・、(鳴物入りの芝居がかった口調で)坊さんは人を助けるのが当たり前なのに、人を呪うとは何事だ。ひでぇ仕打ちじゃねぇーか。娘さんは今朝死んじまったぜ」、「娘は・・・、死にましたか」と初めて口を開いた。「死んだ!殺したのはお前じゃないか」、「娘は死にましたか」と言い終わらないうちに、この坊さんの身体が、グズグズとくずれて骸骨になってしまった。

 急いで旅人は老婆の家へ引き返すと、娘は今までどうしていたかと聞くし、むっくりと起き上がりお腹が減ったと言い出したという。一部始終を老婆に話をすると「ここに住むことはないので、村に降りよう。この話を村の衆にも聞かせたい」。と三人で村に降りた。
 この事を話すと村中大喜び、いが栗坊主は娘だけではなく、村全体に祟って凶作にしていたのだ。「昨日から作物も元気になって、大きな実を付けるようになった。庄屋さんに頼んで、辻堂を直し、その坊様を祀ることにしよう」。旅人は村人総出で大歓待を受けます。
 娘もすっかりよくなり、村人同道で老婆は旅人に娘を女房にしてくれないかと頼みこんだ。独り者だし、江戸にいるよりこんなのどかな田舎で器量よしの娘と所帯を持って暮らしたほうがいいと思った旅人は承知した。
 吉日を選んで村中で婚礼の儀式。
 式も終わった頃、天井裏でネズミがガタガタガタと騒ぎ出した。その途端天井板に挟んであったネズミ除けのいが栗が花嫁さんの額に落ちた。「痛い!」と悲鳴。
「しつこい坊さんだなあ、まだ、いが栗が祟っていやがら」。 

 



ことば

■この噺は、埋もれていた速記本から歌丸自身が再構成したものです。地方色豊かな民話風な落語です。江戸からの旅人の人物像も語られず、いが栗坊主と娘の因縁話もありません。坊主そのものの素性も語られません。歌丸は笑いの少ない噺に所々でくすぐりを入れ、膨らませて演じています。歌舞伎にも熱心で、この落語に芝居の口調を取り入れています。
  また、この噺のようなあまりなじみのない噺も掘り起こして演じてくれる貴重な噺家の一人でもあります。

雨月物語の「青頭巾」に近いものがあります。原文は長いので、ウイキペディアから引用します。
 改庵禅師は改庵妙慶といって、下野国大中寺を創建したことで知られる実在する僧侶である。この改庵禅師が美濃国で夏安居をした後、東北のほうへ旅に出る。下野国富田へさしかかったのは夕方のことだった。宿を求めて里に入り大きな家を訪ねると、禅師を見た下人たちは、「山の鬼が来た」と騒ぎ立て、あちこちの物陰に隠れる。現れた主人は改庵が鬼ではないことを確かめると迎え入れ、下人たちの無礼をわびる。騒ぎのわけを聞くと、近くの山の上に一つの寺があって、そこの阿闍梨は篤学の高僧で近在の尊敬を集めていたが、灌頂の戒師を務めた越の国から一緒に連れ帰った稚児に迷い、これを寵愛するようになった。稚児が今年の四月に病で死ぬと、阿闍梨は遺体に何日も寄り添ったまま、ついに気が狂い、やがてその死肉を食らい、骨をなめ、食い尽くしてしまった。こうして阿闍梨は鬼と化し、里の墓をあばき、屍を食うようになったので、里人は恐れているという。禅師はこれを聞いて、古来伝わる様々な業障の話を聞かせた。そして、「ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし」「心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る」と言い、この鬼を教化して正道に戻す決心をした。
 その夜、禅師は件の山寺に向かうと、そこはすっかり荒れ果てていた。一夜の宿をたのむと、現れた主の僧は、好きになされよと不愛想にいい、寝室に入っていった。真夜中、坐禅を組んでいると、食人鬼となった僧が部屋から現れ、禅師を探すが、目の前に禅師がいても見えずに通り過ぎ、あちこち走り回って踊り狂い、疲れはてて倒れてしまった。夜が明け、僧が正気に戻ると、禅師が変らぬ位置に坐っているのを見つけ、呆然としている。禅師は、飢えているなら自分の肉を差し出してもよいと言い、昨夜はここでずっと坐禅を組んでいたと告げると、僧は餓鬼道に堕ちた自分の浅ましさを恥じ、禅師に救いを求めた。禅師は僧を庭の石の上に座らせ、被っていた青頭巾を僧の頭にのせた。そして、証道歌の二句を公案として授けた。「江月照松風吹 永夜清宵何所為」。この句の真意が解ければ、本来の仏心に出会うことになると教えて山を下り、東北へ旅立っていった。これにより里人は鬼の災厄を逃れたが、僧の生死がわからなかったため山に登ることを禁じていた。
 一年後の十月、禅師は旅の帰りに富田へ立ち寄り、以前泊まった家の主人に様子を聞くと、あのあと鬼が山を下ったことは一度もないといい、喜んでいる。山に登ってさらに荒れ果てた寺の様子を見てみると、庭の石の上にうずくまる影があり、傍によると、低い声であの公案の文句をつぶやいているのだった。師は杖をもって「作麼生(そもさん)、何の所為ぞ」と頭を叩くと、たちまち僧の体は氷が解けるように消え、あとには骨と、頭の上の青頭巾だけが残った。こうして、僧の妄執は消え去ったのであった。改庵禅師はその後、住職となって寺を再建し、真言密宗だった寺を曹洞宗に改め、栄えたという。

いが栗(いがぐり);イガに包まれたままの栗のこと。
右写真。
 いがぐり頭:坊主頭のこと。主に少年の頭髪に言う。髪を短く、丸刈りにした頭。また、その人。

無言の行(むごんのぎょう);落語「こんにゃく問答」にも出てくる、禅家荒行の一つで無言の業。無言で問答を戦わせ真理を解く。このような念力で、娘に苦しみを与えていたのが、旅人に娘は死んだと嘘をつかれ、思わず声を出し途端に念力が消えたか、いが栗坊主の願が達成されたと思ったか、白骨に戻り娘も回復したのでしょう。

辻堂(つじどう);道の交差する辻にあった御堂。
 浅草の駒形堂より、
 『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が江戸浦(現隅田川)にて漁撈中、1躰の仏像を感得した。郷司土師中知(はじのなかとも)はこれを拝して、聖観世音菩薩さまのご尊像と知り、自ら出家、屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。
   駒形堂は、観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂で、本尊は馬頭観世音菩薩。別名「こまんどう」とも呼ばれる。
   はじめは川に面して東向きに建てられたが、たびたび焼失の憂き目にあった。寛保2年(1742)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになった。現在のお堂は平成15年(2003)11月に建立された。
右写真上。

右写真下、業平山・南蔵院(葛飾区東水元2-28-25)しばられ地蔵堂。
 夏の暑い日、さる呉服屋の手代が、大八車に反物を積んで南蔵院の前にさしかかった。暑さのため一服をしていると、ウトウトと寝てしまい、気が付くと車ごと無くなっていたので、奉行所に届け出た。大岡越前の調べで「寺の門前に居ながら、泥棒を黙って見逃すとは同罪なり」と、地蔵をグルグル巻きにして市中引き回しの上、奉行所に引き立てた。それを見た野次馬連中が奉行所に押し掛けて成り行きを見守った。門を閉めて「お白州に乱入するとは不届き至極、科料として反物一反を申し付ける」。その反物の山から盗品が出て、大盗賊団が一網打尽になった。越前守は地蔵の霊験に感謝し、お堂を建立し縄ほどきの供養を行った。
  以来「しばられ地蔵」として、願い事をする時は縄で地蔵を縛るようになった。大晦日に縄ほどきをして、裸のお地蔵さんを拝見する事が出来ます。

庄屋(しょうや);庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)とも呼ばれ、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長。身分は百姓。庄屋は主に西日本での呼称で、東日本では名主、東北・北陸地方では肝煎と呼んだ。庄屋は荘(庄)園の屋敷、名主は中世の名主(みょうしゅ)に由来する言葉である。 城下町などの町にも町名主(まちなぬし)がおり、町奉行、また町年寄(まちどしより)のもとで町政を担当した。身分は町人。
 村請制村落の下で年貢諸役や行政的な業務を村請する下請けなどを中心に、村民の法令遵守・上意下達・人別支配・土地の管理などの支配に関わる諸業務を下請けした。社会の支配機構の末端機関に奉仕する立場上、年貢の減免など、村民の請願を奉上する御役目もあった。このような村民側に位置する機能を「惣代機能」と呼ぶ。このように支配階級の末端としての面と被支配階級の代表者としての面を共に持つのが庄屋であり、かかる蝙蝠的性格が近世を通じて庄屋・名主の立場を曖昧なものとし、その社会的機能を不明朗なものとした。

八つの鐘(やつのかね);現在の深夜2時頃。幽霊や悪霊が出ると言われる薄気味悪い時刻。

ひえの雑炊(ひえのぞうすい);稗(ひえ)をメインにした雑炊。歌丸はカナリヤになったようだと言っています。
 写真は楽天レシピからのものですが、これは白米丼2杯にひえカップ1/2だと言う高級品(?)です。今は贅沢ですからこれをダイエットとして食べられる。
 食べ物の麦飯は上等品だから無く、噺の中に出てくるひえ飯はひえの中に少しは陸稲が入っているという。野菜類の葉っぱや、食べられる雑草などを細かく刻んで入れるのが普通です。雑炊(増水)は増量のために作るので、それは粗末というか不味くて食べられないでしょう、という死なないための最低限な食べ物です。また、調味料も、味噌は江戸中期、醤油は江戸後期になって流布されていきます。江戸時代は通常、塩で味付けされていました。益々不味さと質素さが分かりますよね。



                                                            2015年11月記

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