落語「源平盛衰記」の舞台を行く
   

 

 春風亭小朝の噺、「源平盛衰記」(げんぺい せいすいき)より


 

 源平屋島の戦いも日没近くなりまして、平家の陣から一艘の小舟が漕ぎ出してきて、五十間(100m弱)ほどの距離で横向きになって止まった。乗っていた平家一の美女、「玉虫の前」と呼ばれた柳御前(やなぎのまえ)という女官が船縁に立てた竿の先に日の丸を描いた扇を指指し、「やよ、源氏の共腹、源氏の弓の力を見たしこの扇の的を射貫く者は無きや」と挑発した。
 この時点で平家の負けは七分通り決まっていた。平家の風流さが出ていて素晴らしいと言う人が居ますがそんな事は無く、平宗盛(むねもり)の計略があった。
 源氏の大将義経(よしつね)は身長が低く醜男であったと言いますが、ま、イイ男として話を進めます。義経の父親は源義朝(よしとも)で母親は常磐御前、父親は3歳の時平家方の侍に殺されているので、父親の愛情は受けていなかった。母親の常磐御前は義朝の死後直ぐに敵将平清盛に寝返った。
 常磐御前は絶世の美女と言われた。美人の基準として肌は白い方が良かった。常磐御前も着物を脱ぐと胸の辺りにアザがあるのでどうしたのかと良く見ると、朝の御味御汁のワカメがあばらの三枚目に引っかかっていた。髪はカラスの濡れ羽色、三国を自慢に見せる富士額。眉毛は山谷の三ヶ月眉毛、放物線を描いた眉が良いとされていますが、最近は思い思いのラインを書いています。鼻は高からず低からず、と言って高ければ剣が有っていけないと言うし、低いのは煙草の煙がもろに額に当たってヤニっぽくなるのはいけません。唇も薄いのは薄情そうでいけなく、厚いのは色気が無いと言い、良いのは厚っペラでなく薄っぺらでも無く、丁度イイッペラがイイ。首は細く絞まって、肩はなで方、胸は現代と違って小さめが良かった。腰はそよそよと柳腰。その全てに当てはまった。
 可哀相なのが義経で、幼少牛若丸と言われたとき、鞍馬山に預けられた。鞍馬山には天狗が居て、その名を、鞍馬天狗と言った。天狗に武術を習い、メキメキと腕を上げた。

 平宗盛からすると、義経はマザコンだと分かっていたので、ミス平家の玉虫の前が呼びかければ、それに食いつくのは分かっていた。義経が弓を引く必要は無く、その部下であった、佐々木四郎高経(たかつね)または梶原源太景末が弓の名手だから立ち会えば良かったが、宗盛はどちらかが出て近くの祈り岩から打つであろうと、忍びの者を岩陰に忍ばせていた。
 源氏の大事な時なので、弓の名手がことごとく断りを入れた。その時候補に挙がったのが、十郎為高であったが、弟の与一にそのチャンスを譲った。しかし、二十歳前の青年に出来るか不安であったが、受けた与一は生きて帰れないとの思いで、その命を受けた。馬上から義経にお目通り。与一に矢は鏑矢(かぶらや)で仕留めよとの指示。

 時は文治元年(1185)年2月18日、場所は現在の四国高松市屋島。夕暮れ間近の酉の刻、現在の午後6時。的の扇は波にもまれて上下左右に動いて定まらない。海に乗り出して近づくと岩があってその上に乗り上げた。距離40間(約70m)程、島影にいた忍びの者はあまりにも若造なもので見過ごすことになった。
 与一、鏑矢を取り出した。この鏑矢はドラマチックな音を出して飛ぶが、唯一の欠点、何処に飛ぶか分からないもので、天才にしか扱えない矢であった。扇の的は相変わらず定まらないので、腹の中で八幡大菩薩に祈った。目を開けてみると扇の動きが定まっていた。弓をキリキリと引き絞り矢を放つと扇の要を射貫いた。
 あまりにも見事だったもので、両軍からどよめきと歓声が上がった。敵方の将、宗盛もあまりにも見事だというので、短冊に歌を詠んで踊った。その為平家は没落をします。
 世のことわざに、踊る(おごる)平家は久しからず。

 

この噺には続きがあって、

 とどのつまりは「壇の浦」。一時は力を盛り返しました平家ですが、義経の八艘飛びの前にはかないません。もう追い詰められました能登守教経(のりつね)は、源氏の侍を両の腕(かいな)へこぉ抱え込んで静かに海中へ沈み、ジ~ッとして平家ガニの元祖となります。怒り狂ったか、知盛(とももり)はイカリを体へ巻き付けて海中へドボ~ン。ついに平家一統は西海に没しました。
  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。げに奢る者久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・・。  



上記絵図は萩原賢次画「源平」。文春デラックス 日本の笑い 11月号より

 



ことば

源平盛衰記(げんぺいせいすいき);軍記物語の平家物語の異本のひとつ。全48巻。著者不明。読み本系統に分類される。
 二条院の応保年間(1161-1162年)から、安徳天皇の寿永年間(1182-1183年)までの20年余りの源氏、平家の盛衰興亡を百数十項目にわたって詳しく叙述する。 軍記物語の代表作の一つとされる。平家物語を元に増補改修されており、源氏側の加筆、本筋から外れた挿話が多い。その冗長さと加筆から生じる矛盾などを含んでおり、文学的価値は『平家物語』に及ばないとされるが、「語り物」として流布した『平家物語』に対し、「読ませる事」に力点を置かれた盛衰記は「読み物」としての様々な説話の豊富さから、後世の文芸へ与えた影響は大きく、さまざまな国民伝説の宝庫である。

 上記を下敷きにした落語や講談のネタとしても同名のものがある。筋のようなものは存在せず、実際には「漫談」、「地噺」(登場人物の会話でなく、筋書きを語っていく手法)と呼ばれるものに近い。古典の源平盛衰記との関連性はあまり深くはなく、落語全集の類でも話の題名が「源平」、「平家物語」等と記されているほどである。
 「祇園精舎の鐘の声~」のくだりをひとくさり述べたあと、「平家物語」の粗筋を断片的に話し、それに関係しているかしていないか微妙なギャグやジョーク、小噺(時事ネタなど、現代の話でも全くかまわない)を連発、一段落ついたところでまた「平家物語」に戻る、という構成がとられる。小噺で笑いを取るほうが重要で、極端に言えば「平家物語」は数々の小噺をつなぎ止める接着剤の役割にすぎない。

 演者によってこれ程、内容が違う話も珍しい。演じる時節、ニュース、話題、また演者の体調や持ち時間によって、内容が大きく変わります。今回取り上げた噺は、昭和59年(1984)7月東京落語会(イイノホール)での録音からです。噺の中の登場人物名はすべて小朝の噺から取っています。

  サゲは、扇を与一が射抜き、平家の能登守が喜んで踊り出す。 「能登の守教経(のりつね)が踊ったばっかりに、平家西海に没落をする。おどる平家は久しからず」。
 「『おごる』平家は久しからず」にかけたオチです。

平家物語(へいけものがたり );軍記物。作者は信濃前司行長はじめ諸説あるが未詳。平清盛を中心とする平氏一門の興亡に即して歴史の激動をとらえている。琵琶法師たちの語り(平曲)によって多くの人に享受され、和漢混交文の詞章も洗練されていった。諸本により書名・巻数・文体・内容も多様だが、14世紀半ばに校訂された覚一本(12巻)、それを基として江戸時代に出版された流布本(灌頂巻とも13巻)が、今日では広く読まれている。また、「源平盛衰記」(48巻)はもっとも膨張した異本といえる。謡曲・浄瑠璃をはじめ後世の文芸に大きな影響を与えた。治承物語。平語。

その有名な冒頭は、
  祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
  娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
  おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
  たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

源義経(みなもとのよしつね); 平治元年(1159)-文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31。 清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死する。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った。
  27歳のとき平家追討では、
四国へ渡ってからの義経は、まさに、電光石火、鬼神のごとき働きをします。まず、上陸した徳島県勝浦の平家の守備隊100騎あまりを攻撃し、撤退させます。そのうえ、説き伏せて、味方に加えてしまいました。夜を徹して、大坂という山を越え、屋島へなだれ込みます。平家では、いきなりやってきた義経の80騎に肝を潰し、1000騎ばかりはいたのですが、屋島の内裏を捨てて、船に逃げてしまいます。義経は、内裏や御所を焼き払いました。陸の源氏と、船の平家がにらみあっていました。平家方から小舟がいっそう、陸に近づいてきて、若い女房が、金地に日の丸を描いた扇をかざし、手招きします。源氏では那須与一が弓の名手として、選び出されましたが、外しては味方の恥になると、いったんは辞退します。しかし、義経にはそんなことは通用せず、俺の命令が聞けないなら今すぐ鎌倉へ帰れ、と一喝。与一は、それ以上断っては悪いことになるとあきらめ、当たる外れるはさておき、命令なので、弓を引きました。那須与一は、見事、扇を射とめました。源氏、平氏ともに、最高の盛り上がりを見せ、平家では、男が、扇を立てておいた場所で舞いを始めました。その男も射よ、と言われた与一は、男を射った。
 上図;「源義経」、晩年の肖像画、とは言っても30歳前後です。(中尊寺蔵)

  平家から、勇将・平教経と、侍大将格の悪七兵衛景清が陸にあがってきました。源氏とさんざんに戦い、強さを見せつけます。源氏も海に馬を入れ混戦となり、義経が弓を落とし、危険を冒してその弓を拾いあげるという「源義経の弓流し」が起こります。老臣たちは、義経を、弓など捨てなさい、命が大切です、と諌めましたが、義経は、義経の弓が強ければわざとでも流すが、こんなに弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将軍の弓ぞと笑われたら源氏の名折れだと、真意を明かしました。平家は、長門の国(山口県)の壇の浦に流れ着き、四国から山陽に渡った義経も、源範頼の軍勢と合流して、壇の浦に陣を敷きました。四国や、九州、和歌山などから、船団が集まってきましたが、ほとんどは源氏の白旗をかかげ、源氏3000艘、平氏1000艘で戦いがはじまります。平氏には中国風の大船がありましたが、寝返りにより、大船で引きつけた敵を、強兵を置いた小舟で包囲するという作戦がつつぬけになりました。壇の浦の戦いの際に、義経と梶原景時で、また、悶着がありました。
  壇の浦の戦いは、平家の惨敗に終わり、安徳天皇、安徳天皇の祖母で清盛妻の二位の尼は、三種の神器の勾玉と草なぎの剣とともに、入水した。勾玉は源氏が拾い上げ、鏡も海に捨てられる前に源氏が確保した。平教経や、平知盛らが、さんざんに戦ったすえに体に碇(いかり)や鎧を巻いて海に身を投げましたが、平家の棟梁の平宗盛と、その子・清宗は源氏に生け捕りにされた。清盛娘で、安徳天皇母の建礼門院・平徳子も海に身を投げましたが、源氏に拾い上げられました。宗盛親子は鎌倉へ送られ、再び京へ向かい、近江の国で首を切られました。義経は宗盛父子を護衛して関東へ下りましたが、一足先に、梶原景時が「義経こそ最後の敵」と頼朝に「讒言」(ざんげん=人を落とし入れるために付く陰口)していたため、義経は鎌倉へ入れず、すぐに、折り返し、宗盛を京へ送るよう命じられた。
 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び東北の藤原秀衡を頼った。秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で妻子共に自刃し果てた。

右肖像画;伝源頼朝像(模本)。冷泉為恭(ためちか)模写。東京国立博物館蔵。

那須与一(なすのよいち);鎌倉初期の源氏の武将。名は宗高。与一は通称。与市・余市とも。下野国那須の人。弓の名手。屋島の合戦で平家が舟に掲げた扇の的を一矢で射た話が平家物語にあり、後世、謡曲・浄瑠璃などに脚色された。生没年未詳。

 『平家物語絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」

 嘉応元年(1169年)? - 1189年?の人だったようですが、生没年ともいくつか説があります。平家物語や源平盛衰記に名前が出てくるのみのため、実在の人物かどうかも厳密には不明。与一とは余一、あまるいち、つまりは今で言う十一男と言う意味の通称で、当時は他にも与一が居ました。本来は那須宗隆(宗高とも。むねたか)、那須氏当主になった後は、父と同じ那須資隆(すけたか)と言う名前。那須氏の居城、神田城(今の栃木県那珂川町三輪)出身と言う説が一般的です。那須と言う名前から那須地方を想像しますが、いわゆる「那須」と呼ばれる場所より、少し南東寄りの場所です。
 お墓で比較的有名なのは、出生地に近い栃木県大田原市の玄性寺、京都東山の即成院、神戸市須磨区の北向八幡神社(那須神社)、岡山県井原市野上町などがあります。京都の即成院で亡くなり墓が作られ、後に分骨して栃木の玄性寺に墓が作られたと言う説が有力です。神戸市の北向八幡神社(那須神社)は、こちらで亡くなったと言う別の説から来ているようで、岡山県井原市(永祥寺)の物は、扇の的を射落とした功績で、この辺りの土地を荘園として拝領したからのようです。
 源平の戦い(源平合戦)には有名な戦いは多いですが、特に後期の、直接平家滅亡に繋がる戦いとして、「一ノ谷の戦い」、「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」があります。那須与一は「屋島の戦い」の時に、「揺れる舟の上の扇の的を射よ」との平家の挑発に源氏の代表として、この難しい的を射ることに成功しました。矢が的を射たことで、源氏の武運が勝ると見られ、平家が没落していきます。さらに、「壇ノ浦の戦い」で平家が決定的な滅亡を迎えます。その「大事な転換点」になったのが、平家物語の「那須与一の扇の矢」です。生没年から考えると、屋島の戦い(1185年)の際には15~6歳前後、亡くなったのは20歳前後と、実は早く活躍して早逝したようです。  

鏑矢(かぶらや);鏑をつけている。鏑は、蕪である。蕪に似せた形のものを、中を空にして数個の孔をうがち、矢につける。射れば、笛のような音をたてる。開戦の矢合せなどのような儀礼的な射撃に使われる。余計な物をつけている鏑矢は、当然ながら征矢(そや=戦闘に用いる矢)に比べれば的中率は格段におちる矢である。
右写真;「鏑矢」先端部分。東京国立博物館蔵
 
(おどし);鎧(よろい)の札(さね)を革や糸でつづり合わせたもの。
 右写真;鎧の両腕を保護する縅(タレ)。「樫鳥糸肩赤縅胴丸」
陸奥の三春藩主秋田家に伝来した三つ物完備の逸品。東京国立博物館蔵。

金覆輪(きんぷくりん);刀や鞍などの縁飾りの覆輪に金または金色の金属を用いたもの。黄覆輪。

重籐(しげとう);木の芯材に竹を挟み込んだ伏竹弓(ふせたけゆみ)は木と竹の分離防止のために籐を巻いたが、弓全体に等間隔で巻いてあるのが重籐弓。そのほか、二箇所ずつ点々と巻いた二所籐(にしょとう)。弓把から上部を二所籐下部を重籐にした本重籐(もとしげとう)がある。

(えびら);衛府の随身(ずいじん)などが矢を入れて右腰につける武具。  

 

写真左、高級な「箙」、下の口から矢を取り出す。右「重籐」、木の心材に竹を両面に張った弓。東京国立博物館蔵。

ヘイケガニ;海産のカニ。甲の幅約2cm。全身暗紫褐色。甲の凹凸が怒った人の顔のように見え、平家の怨霊が乗り移ったとの伝説を生んだ。
 ヘイケガニの甲の模様は人間の怒りの表情に似る。さらに瀬戸内海や九州沿岸に多いことから、壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れて海に散った平氏の無念をなぞらえ、「平氏の亡霊が乗り移った」という伝説が生まれた。このためヘイケガニは食用でないにもかかわらず有名なカニとなっている。また、大和本草では長門・豊前での「キヨツネガニ」という呼び名が紹介されている。これは1183年に豊前・柳が浦で入水した平清経を指す。高知県ではクモガニと呼ばれるが、これは脚が長いことに由来する。

 平氏の亡霊が乗り移ったとされる伝承を描いた、歌川国芳による浮世絵。ヘイケガニが左に描かれている。最右で薙刀を持った人物は平知盛である。ウイキペディアより

平清盛(たいらのきよもり);伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』)と言われる時代を築いた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

源平盛衰記の原文から「扇の的」の部分を書き出しておきます。

 両方引退き、又強健処に、沖より荘たる船一艘、渚(なぎさ)に向て漕寄。二月廿日(注:平家物語では二月十八日の酉の剋ばかり)の事なるに、柳の五重(ごぢゆう)に紅の袴著て、袖笠かづける女房あり。皆紅の扇に日出たるを枕に挟て、船の舳頭に立て、是を射よとて源氏の方をぞ招たる。此女房と云は、建礼門院(けんれいもんゐん)の后立の御時、千人(せんにん)の中より撰出せる雑司に、玉虫前共云又は舞前共申。今年十九にぞ成ける。雲の鬢霞の眉、花のかほばせ雪の膚、絵に書とも筆も及がたし。折節(をりふし)夕日に耀て、いとゞ色こそ増りけれ。懸りければ、西国(さいこく)までも被(二)召具(一)たりけるを、被(レ)出て此扇を立たり。此扇と云は、故高倉院(たかくらのゐん)厳島へ御幸の時、三十本切立てて明神に進奉あり。皆紅に日出したる扇也。平家都を落給し時厳島へ参社あり、神主佐伯景広此扇を取出して、是は一人の御施入、明神の御秘蔵也、且は故院の御情(おんなさけ)、帝業の御守たるべし、されば此扇を持せ給たらば、敵の矢も還て其身にあたり候べし、と祝言して進せたりけるを、此を源氏射弛したらば当家軍に勝べし、射負せたらば源氏が得(レ)利なるべしとて、軍の占形にぞ被(レ)立たる。角して女房は入にけり。源氏は遥(はるか)に是を見て、当座の景気の面白さに、目を驚し心を迷す者もあり、此扇誰射よと仰られんと肝膾を作り堅唾を飲る者もあり。
 判官畠山を召。重忠は木蘭地直垂に、ふし縄目(ふしなはめ)の鎧著て、大中黒の矢負、所籐の弓の真中取、くろの馬の太逞に金覆輪の鞍置、判官の弓手の脇に進出て畏つて候。義経は女にめづる者と平家に云なるが、角構へたらば、定て進み出て興に入ん処を、よき射手を用意して、真中さし当て射落さんと、たばかり事と心得(こころえ)たり、あの扇被(レ)射なんやと宣へば、畠山畏つて、君の仰、家の面目と存ずる上は子細を申に及ず、但是はゆゆしき晴態也、重忠打物取ては鬼神と云共更に辞退申まじ、地体脚気の者なる上に、此間馬にふられて、気分をさし手あはらに覚え侍り、射損じては私の恥はさる事にて、源氏一族の御瑕瑾と存ず、他人に仰よと申。畠山角辞しける間諸人色を失へり。判官は偖誰か在べきと尋ね給へば、畠山、当時御方には、下野国住人(ぢゆうにん)那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ加様の小者は賢しく仕り候へ、彼等を召るべし、人は免し候はず共、強弓(つよゆみ)遠矢打者などの時は、可(レ)蒙(レ)仰と深申切たり。さらば十郎とて召れたり。褐の直垂に、洗革の鎧に片白の甲、二十四指たる白羽の矢に、笛籐の弓の塗籠たる真中取て、渚(なぎさ)を下にさしくつろげてぞ参たる。判官あの扇仕れと仰す。御諚の上は子細を申に及ね共、一谷(いちのたに)の巌石を落し時、馬弱して弓手の臂(ひぢ)を沙につかせて侍しが、灸治も未(レ)愈、小振して定の矢仕ぬ共不(レ)存、弟にて候与一冠者は、小兵にて侍れ共、懸鳥的などはづるゝは希也、定の矢仕ぬべしと存、可(レ)被(二)仰下(一)と弟に譲て引へたり。さらば与一とて召れたり。
 其(その)日(ひ)の装束は、紺村紺の直垂に緋威(ひをどし)の鎧、鷹角反甲居頸に著なし、二十四指たる中黒の箭負、滋籐の弓に赤銅造の太刀を帯、宿赫白馬の太逞に、州崎に千鳥の飛散たる貝鞍置て乗たりけるが、進出て、判官の前に、弓取直して畏れり。あの扇仕れ、晴り所作ぞ不覚すなと宣ふ。与一仰承、子細申さんとする処に、伊勢三郎義盛、後藤兵衛尉実基等、与一を判官の前に引居て、面々(めんめん)の故障に日既(すで)に暮なんとす。兄の十郎指申上は子細や有べき、疾々急給へ/\、海上暗く成なばゆゝしき御方の大事也、早々と云ければ、与一誠にと思ひ、甲をば脱童に持せ、揉烏帽子(えぼし)引立て、薄紅梅の鉢巻して、手綱掻繰、扇の方へぞ打向ける。生年十七歳、色白小鬚生、弓の取様馬の乗貌、優なる男にぞ見えたりける。波打際に打寄て、弓手の沖を見渡せば、主上を奉(レ)始、国母建礼門院(けんれいもんゐん)、北政所(きたのまんどころ)、方々の女房達(にようばうたち)、御船其数漕並、屋形(やかた)屋形(やかた)の前後には、御簾も几帳もさゝめけり。袴温巻の坐までも、楊梅桃李とかざられたり。塩風にさそふ虚焼は、東袖にぞ通ふらし。妻手の沖を見渡せば、平家の軍将屋島大臣を始奉、子息右衛門督(うゑもんのかみ)清宗、平中納言教盛、新中納言知盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛、左中将清経、新少将有盛、能登守教経、侍従忠房、侍には、越中次郎兵衛盛嗣、悪七兵衛景清、江比田五郎、民部大輔(みんぶのたいふ)等、皆甲冑を帯して、数百艘の兵船を漕並て是を見。水手梶取に至まで、今日を晴とぞ振舞たる。後の陸を顧れば、源氏の大将軍、大夫判官(たいふはうぐわん)を始て、畠山庄司次郎重忠、土肥次郎実平、平山武者所季重、佐原介能澄、子息平六能村、同(おなじく)十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、大田和四郎能範、佐々木四郎高綱、平左近太郎為重、伊勢三郎義盛、横山太郎時兼、城太郎家永等、源氏大勢にて轡を並て是を見る。
 定の当を知ざれば、源氏の兵各手をぞ握りける。されば沖も渚(なぎさ)も推なべて、何所も晴と思けり。そこしも遠浅也、鞍爪鎧の菱縫の板の浸るまで打入たれ共、沛艾の馬なれば、海の中にてはやりけり。手綱をゆりすゑ/\鎮れ共、寄る小波に物怖して、足もとゞめず狂けり。扇の方を急見れば、折節(をりふし)西風吹来て、船は艫舳も動つゝ、扇枕にもたまらねば、くるり/\と廻けり。何所を射べし共覚ず。与一運の極と悲くて、眼をふさぎ心を静て、帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、日本国中(につぽんごくぢゆう)大小神祇、別しては下野国日光宇都宮、氏御神那須大明神(だいみやうじん)、弓矢の冥加有べくは、扇を座席に定めて給へ、源氏の運も極、家の果報も尽べくは、矢を放ぬ前に、深く海中に沈め給へと祈念して、目を開て見たりければ、扇は座にぞ静れる。さすがに物の射にくきは、夏山の滋緑の木間より、僅(わづか)に見ゆる小鳥を、不(レ)殺射こそ大事なれ、挟みて立たる扇也、神力既(すで)に指副たり、手の下なりと思つゝ、十二束二つ伏の鏑矢を抜出し、爪やりつゝ、滋籐の弓握太なるに打食、能引暫固たり。源氏の方より今少打入給へ/\と云。
 七段計を阻たり。扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目の程をと志て兵と放。浦響くまでに鳴渡、蚊目より上一寸置て、ふつと射切たりければ、蚊目は船に留て、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける。折節(をりふし)夕日に耀て、波に漂ふ有様(ありさま)は、竜田山の秋の暮、河瀬の紅葉に似たりけり。鳴箭は抜て潮にあり、澪浮州と覚えたり。平家は舷を扣て、女房も男房も、あ射たり/\と感じけり。源氏は鞍の前輪箙を扣て、あ射たり/\と誉ければ、舟にも陸にも、どよみにてぞ在ける。紅の扇の水に漂ふ面白さに、玉虫は、
  時ならぬ花や紅葉をみつる哉芳野初瀬の麓ならねど 
平家侍に、伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)が弟に、十郎兵衛尉家員と云者あり。余りの面白さにや、不(二)感堪(一)して、黒糸威(くろいとをどし)の冑に甲をば著ず、引立烏帽子(ひきたてえぼし)に長刀を以、扇の散たる所にて水車を廻し、一時舞てぞ立たりける。
 源氏是を見て種々(しゆじゆ)の評定あり。是をば射べきか射まじきかと。射よと云人もあり。ないそと云者もあり。是程(これほど)に感ずる者をば、如何無(レ)情可(レ)射、扇をだにも射る程の弓の上手なれば、増て人をば可(レ)弛とはよも思はじなれば、な射そと云人も多し。扇をば射たれ共武者をばえいず、されば狐矢にこそあれといはんも本意なければ、只射よと云者も多し。思々の心なれば、口々にとゞめきけるを、情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射べきにぞ定めにける。与一は扇射すまして、気色して陸へ上けるを、射べきに定めければ、又手綱引返て海に打入、今度は征矢を抜出し、九段計を隔つゝ、能引固て兵と放。十郎兵衛家員が頸の骨をいさせて、真逆に海中へぞ入にける。船の中には音もせず、射よと云ける者は、あ射たり/\と云、ないそと云ける人は、情なしと云けれ共、一時が内に二度の高名ゆゝしかりければ、判官大に感じて、白*馬(さめむま)に、〈 尾花毛馬也 〉黒鞍置て与一に賜。弓矢取身の面目を、屋島の浦に極たり。近き代の人、
  扇をば海のみくづとなすの殿弓の上手は与一とぞきく 

 『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十二より
 http://www.j-texts.com/seisui/gs42.html 

「平家物語」では手短に次のように語っています。

 おきには平家船を一面にならべて見物す。陸には源氏くつばみをならべて是を見る。いづれもいづれも晴ならずといふ事ぞなき。与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須のゆぜん大明神、願くはあの扇の真ん中射させてたばせ給へ。是を射そんずる物ならば、弓きりおり自害して、人に二たび面を向ふべからず。いま一度本国へ向へんと思し召さば、この矢外させ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹弱り、扇も射よげにぞなたりける。与一鏑をとてつがひ、よぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなり(長鳴)して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりをいて、ひふつとぞ射きたる。鏑は海へ入ければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさとぞ散りたりける。夕日の輝いたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、しら波のうへにただよひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感
じたり、陸には源氏ゑびら(箙)をたたいてどよめきけり。
 弓流あまりの面白さに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちよりとし五十ばかりなる男の、黒革おどしの鎧きて、白柄の長刀もたるが、扇たてたりける処にたて舞しめたり。伊勢三郎義盛、与一がうしろへ歩ませよて、「御定ぞ、つかまつれ」といひければ、今度は中差とてうちくはせ、よぴいてしや頸の骨をひやうふつと射て、船底へ逆様に射倒す。平家の方には音もせず、源氏の方には又箙をたたいてどよめきけり。「あ、射たり」といふ人もあり、又「なさけなし」といふものもあり。

 『平家物語』 巻第十一より
 http://www.j-texts.com/heike/ryukoku/hry011.html 



                                                            2015年11月記

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