落語「滝口入道」の舞台を行く
   

 

 春風亭柳昇の噺、「滝口入道」(たきぐちにゅうどう)より


 

 800年ぐらい前のお話。平家の力は絶大で「平氏にあらずんば人にあらず」と言われたほどで、武士達も武勇で名を上げるどころか、遊芸に血道を上げるようになった。
 例外があって斎藤滝口時頼と言う武士が居た。歳24才、身の丈6尺(180cm)小さい時から武芸にいそしみ遊芸には関心が無かった。ホラも吹かなければ女嫌いであった。平清盛から春の桜の宴の招待状が届いた。時頼に言わせれば酔っ払いを見に行くのはイヤだと言うが、平家の総大将の清盛である。父親の勧めもあって出掛けることにした。

 どの時代にも酒癖の悪い酔っ払いが居て、ここでも時頼に歌を唄えと無理難題。横から女性が「私が歌いましょう」と助け船。天は二物を与えずと言うが、この女性は二物も三物も良すぎた物を持っていた。最近では秋本タカコ、この女性は私の女房。自分のために歌ってくれたので、ポ~~っとなっていた。翌日も、またその翌日も。名前を調べると「横笛」と判った。24才で初めて恋をした。(右:花札から桜の宴)
 恋文を書いて、部下に持たせたが、返事を貰わず帰ってきた。横笛が来るかも知れないと、風呂に入ろうとするとまだ水だという。水に入ったら風邪を引くと止められたが、「金魚を見なさい」。
 待っても来なかった。その翌日も、その翌日も来なかった。部下に聞くとお付きの冷泉さんに渡したという。横笛に惚れているのは時頼だけでは無く、大勢の若者が同じ気持ちであった。冷泉にお土産や現金攻勢を掛けるものも居た。その様な状態で、手紙だけしか持って行かなければ、横笛に渡さず押し入れにポイッと放り込まれるのが常だった。それではと、時頼君、朝に3通、昼に3通、夜に3通と恋文攻勢を掛けた。

 そのせいで、秋の声を聞く頃には体力も落ち、武芸も出来ず、ゲッソリと痩せてしまった。父親も心配して、その訳を聞くと、花見の宴の時の横笛と一緒になりたいというと、「我が斎藤家は町人の娘とは許すことが出来ない」と、強く反対をされてしまった。
 時頼は一通の書き置きを残して、嵯峨野の奥に有る往生院に入って尼さんになってしまった(数回、尼さんと言っていたが、お坊さんと言い直して場内は安堵の声がした)。昔は失恋をすると、坊さんになってしまった。街中がその話題で持ちきりになっていて、当然、横笛の耳にも入った。
 冷泉に話しても、手紙の一件は知らないと言うが、部屋を調べると、時頼の手紙が出るは出るは、その文を読むのに2日と24時間掛かった。平たく言えば3日間掛かった。最後の文面を見ると恋しさが溢れるような文面であったので、すぐさま屋敷を出てタクシーを捕まえ嵯峨野の往生院に・・・。しかし、時頼は世捨て人になって、仏門に入っているので、会えないと追い帰されてしまった。家に帰り着くと、髪を落として尼さんになってしまった。これで、坊主が二人出来てしまった。
 出来るはずです。コイコイ(恋々)には坊主が付きものですから・・・。

 



ことば

滝口入道;1893年、高山樗牛23歳のときに東京帝国大学文科大学哲学科に入学。その年の11月、「読売新聞」が1等賞100円、2等賞に金時計1個を賞品とした歴史小説を募集した。このときの審査員は尾崎紅葉、依田学海、高田半峯、坪内逍遥らだった。また、入選作品は読売新聞本誌で連載することが決められていた。
 樗牛は、『平家物語』にある斎藤時頼(滝口入道)と横笛の悲恋を題材に小説を書き、応募規則にならい匿名で応募した。 1894年4月に結果発表された。応募作品は小説16編、脚本6編だったが、1等賞に該当する作品がなく、樗牛が匿名で応募した『滝口入道』が2等賞に当選し、33回にわたって連載されることになった。

あらすじ
 時は平家全盛の時代。時の権力者平清盛は、わが世の春を謳歌していた。ある日清盛は、西八条殿で花見の宴を催した。ここに平重盛(清盛の息子)の部下で滝口武者の斎藤時頼もこれに参加していた。このとき宴の余興として、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛が舞を披露した。それを見た時頼は横笛の美しさ、舞の見事さに一目惚れしてしまった。 その夜から横笛のことが忘れられない時頼は、恋しい自分の気持ちを横笛に伝えるべく、文を送ることにした。数多の男たちから求愛される横笛であったが、無骨ながら愛情溢れる時頼の文に心奪われ、愛を受け入れることに。しかし、時頼の父はこの身分違いの恋愛を許さなかった。傷ついた時頼は、横笛には伝えずに出家することを決意した。嵯峨の往生院に入り滝口入道と名乗り、横笛への未練を断ち切るために仏道修行に入った。 これを知った横笛は、時頼を探しにあちこちの寺を尋ね歩く。ある日の夕暮れ、嵯峨の地で、時頼の念誦の声を耳にする。時頼に会いたい一心の横笛だが、時頼は「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰した。滝口入道は、横笛にこれからも尋ねてこられては修行の妨げとなると、女人禁制の高野山静浄院へ居を移す。それを知った横笛は、悲しみのあまり病に伏せ亡くなった。横笛の死を聞いた滝口入道は、ますます仏道修行に励み、その後高野聖となった。

高山樗牛(たかやま ちょぎゅう);(1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。享年32歳(満31)
 若くして亡くなった点を差し引いても、北村透谷、石川啄木らと比べて思想の浅さが指摘されている。自身が病弱であったため、ニーチェの説く超人や日蓮といった強者に憧れた。その一方、民衆を弱者と決めつけ、社会主義に対しても弱者の思想として否定的であった。

斎藤 時頼(さいとう ときより、生没年不詳);『平家物語』によれば、内大臣・平重盛に仕えたが、恋人・横笛への思いを断ち切るために出家し、「滝口入道」と呼ばれる。宮中警護に当たる滝口武者であったため、出家後の名前の由来となる。また、六波羅武士(平清盛の護衛武士)でもあった。
 その後、修業を積み、高野山真言宗別格本山の大円院の第八代住職にまでなったという。 斎藤時頼の出家は史実で、『福井県史』によれば、母は平時忠の妻帥典侍(藤原領子)の乳母で智福山法輪寺、京都市西京区)において出家し、安徳天皇即位に伴い、官職任命権を持つ帥典侍に滝口武者に取り立てられたという。

大円院(大圓院、だいえんいん)は、高野山真言宗の寺院で、高野山内にある別格本山のひとつ。
 十二世紀頃、第八代住職を務めた阿浄とは、高山樗牛の小説『滝口入道』で有名な滝口入道と同一人物。出家前の名前は斎藤時頼。平重盛に仕える平家の武将だった。恋人「横笛」との悲恋が今も伝えられている。
 後に滝口入道が大円院の縁にいた時、一羽の鶯が梅の木にとまり綺麗な声で一声鳴くとその木の下にある井戸にポトリと落ちた。この鶯こそが、横笛であり、死後横笛は鶯になり高野山の滝口入道に会いに飛んで行ったといわれる寺伝がある。
右図:花札のウグイス

滝口寺(たきぐちでら)は、京都市右京区にある浄土宗の寺院。山号は小倉山。本尊は阿弥陀如来。
 元々は法然の弟子・良鎮が創建した往生院の子院三宝寺跡を引き継いで今日に至る。明治時代の廃仏毀釈により一時廃寺となるが、昭和の初期に再興された。斎藤時頼が横笛との恋愛を反対され、失意の後に出家し仏門修行に励んだ嵯峨の往生院は、現在は滝口寺と呼ばれ、この悲恋を今に伝えている。また、新田義貞の首塚もある。

 「滝口寺」  http://achikochitazusaete.web.fc2.com/heikemonogatari/takiguchinyudo/yokobue.html より

横笛(よこぶえ);時の権力者平清盛が西八条殿で催した花見の宴で、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた町人から上がった雑士女。横笛の舞を見て時頼は一目惚れ、その夜から横笛のことが忘れられず恋しさが募るだけ魅力的な乙女。一緒になれない悲しさから尼になった(入水したとも)が19歳の冬、庵の片隅で亡くなった。
右図;宴で舞う横笛。大円院蔵

平清盛(たいらのきよもり);伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』)と言われる時代を築いた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
 左肖像画;伝源頼朝像(模本)。冷泉為恭(ためちか)模写。東京国立博物館蔵。落語「源平盛衰記」より孫引き

高野聖(こうやひじり);中世に高野山を本拠とした遊行者。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行った僧侶。ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものだった。
 遊行を行う僧は奈良時代に登場したが、高野山では平安時代に発生。始祖としては小田原聖(おだわら ひじり)の教懐、明遍、重源らが知られる。高野聖は複数の集団となって高野山内に居住したが、その中でも蓮華谷聖(れんげだに ひじり)、萱堂聖(かやんどう ひじり)、千手院聖(せんじゅいん ひじり)の三集団が最も規模の大きいものとして知られる。

入道(にゅうどう);仏道に入って修行すること。また、その人。 在家のままで剃髪・染衣して出家の相をなす者。

 入道から派生した言葉もいろいろあって、
 にゅうどういるか【入道海豚】=ゴンドウクジラの異称。九州五島でいう。
 にゅうどうぐも【入道雲】=(高く盛り上がり雲頂が丸く大入道のように見えることから) 積乱雲の通称。右写真。
 にゅうどうしんのう【入道親王】=親王宣下を受けて後に仏門に入った皇族。
 にゅうどうぜんか【入道禅下】=仏道に入った人の敬称。
 にゅうどうの‐みや【入道の宮】=入道した親王・内親王・女院の称。
 にゅうどうむし【入道虫】=蛹(サナギ)の異称。地虫(ジムシ)の異称。
この項、広辞苑より

コイコイ(こいこい);2人で遊ぶ花札の競技の一つ。手札の花と場札の花を合わせてそれを自分の札とし、獲得した札で出来役を成立させて得られる得点を競う、「めくり」系のゲームであるが、札の点数を計算しないこと、「こい」による競技継続の選択があることなどに特徴がある。 他の花札ゲームにくらべて歴史はそれほど古くない(一般に知られるようになったのは、昭和にはいってから)が、現在は花札のもっとも代表的な遊び方になっている。
 花札には、8月の坊主(下図)があります。その坊主に引っかけたオチになっています。



                                                            2015年11月記

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