落語「二人旅」の舞台を行く
   

 

 柳家小三治の噺、「二人旅」(ににんたび)より


 

 旅は急いではいけませんね。歩くのを良しとして歩くと、健康にも良いが金と時間が掛かります。昔は京大坂まで歩いたのですが、それは交通機関が無いからで健康のためでは有りません。三人旅は一人乞食と言いますが、二人で話に夢中になると、一人は仲間はずれになってしまいます。

 「腹減ってきて歩くのやんなっちゃった」、「だったら、遊びながら行こう。ナゾ掛けはどうだ。何々と掛けて何と解く、と言うやつだ。まずやるよ。絹糸がこんがらがっちゃった。と掛けて・・・、上げましょう」、「木綿糸がこんがらがっちゃった。と解く」、「その心は」、「麻糸がこんがらがっちゃった」、「それでは解けていない」、「こんがらがっちゃったんだから、解けない」。
 「俺がやるよ。お前の着物と掛けて、正宗の名刀と解く・・・、解らなければ、『上げましょ』と言いな」、「上げましょう」、「その心は、触っただけで切れそう」、「なんだ、褒めているんじゃなくて、バカにしているんじゃないか。では、お返しを、お前の着物と掛けて村正の刀と解く、その心は・・・、触らないうちに切れる」。
 「ダメだよ。もう一つ。お主と二人連れで何と解く、馬が二匹と解く、その心は、ドウドウ(同道)だから」、「うまいなぁ。では、お主と二人連れで何と解く」、「真似ばっかりして」、「くたびれたと解く」、「その心は・・・」、「腹減った」、「それってナゾにも何にもなっていないょ」、「くたびれたので考えたら腹が減っていたんだな」。

 「オイオイ見ろよ。あすこに茶店があるぞ。何か食べ物があるよ」、「座らせて貰うよ」、「ハイハイ、いらっしゃいませ~」、「婆さん、お茶なんて要らないよ。江戸っ子なんだ、酒出してくれ」、「蔵元があって、イイ酒があるよ。ほかほかして『村さめ』と言い、村を出る頃に酔いが覚めるんだ」、「他には・・・」、「『庭さめ』というのがあるよ」、「それはどんな酒だ」、「ほかほかと酔っていても、庭に出ると酔いが覚める」、「他は?」、「時期さめ」、「ダメだ。一番イイ酒『村さめ』を持ってきて」、「徳利に入れなくても、湯飲みで良いよ。茶渋が付いた汚い茶碗だな。婆さんがいつも使うやつだろ。客に出すなよ」、「大丈夫だ。客が使ったら、よ~く洗って使うだ」。
 「うー、これはひでぇ~酒だ」、「お前、旅でそんな事言っちゃいけないよ。貸してごらん。・・・うッ(ペッ)これはひどいや」、「口直しに何か摘まむものは無いか」、「鼻でも摘まんでいろや」。
 「地卵あるだろう」、「地卵?何の卵?」、「鶏の卵だよ」、「それをどうする」、「青大将と違って割って飲むんだ」、「チョット待ってろ。裏の木にミミズクが巣作ったから取ってくる」、「いらないよ」。
 「そこに煮ているタニシがあるだろ。それ持って来い」、「タニシじゃない。焼豆腐を煮直ししていたら角が取れて丸くなった」、「古いんだろう」、「古くはない。八幡様の祭礼の煮染めがこうなっただよ」、「去年の祭礼か」、「一昨年のだよ」。

 



ことば

■もっと時間を掛けて噺をやる時は、ナゾ掛けの後に都々逸を入れた。

 「たまたま会うのに東が白む 日の出に日延べがしてみたい」
 「やつれしゃんした三ヶ月さんは それもそのはず病み上がり」
 連れの男が、「天井裏から月を見ていたら 桟橋から落ちて焼け死んだ」、デタラメだよ
 「姉が女で妹が女 中の私は男でござる」誰が聞いても解るだろ。もっと色っぽいものを
 「明けの鐘ゴンと鳴る 三ヶ月形の櫛が落ちてる四畳半」
 「この舌でウソを付くかと思えば憎い 噛んでやりたい時もある」
 「コタツの逢い引き浜辺の遊び 足で貝掘ることもある」
 「雪のダルマを口説いてみたら 何にも言わずに直ぐ解けた」相棒のはだらしがない。続けて、
 「道に迷って困った時は・・・というの知ってるか」、「知らね~な」、「知らねばどっかで聞くがいい」、続けて、
 「道に迷って困った時は・・・というの知ってるか」、「今聞いて知ってるよ」、「知っていれば、その道行くが良い」

 腹を空かせた相棒が人に道を尋ねると、それが案山子(かかし)だったり、歩いていると茶店が見えた。 行灯(あんどん)に書いてある字を読むと、 「一つ・せ・ん・め・し・あ・り・や・な・き・や。食べ物はなさそうだよ」、 「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」。にごりの無い字をバラバラに読んでいた。茶店で村さめを頼んだが、飲んでみると、えらく水っぽい。「おい、婆さん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」、 「何を言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」。

上方落語「東の旅」の一部
 上方の「東の旅」は三人旅ですが、これは二人旅です。
これは上方落語の「煮売屋」で、東京の「二人旅」です。 喜六と清八の二人連れが「お伊勢参り」に行くと言う東の旅シリーズの一つです。旅の道中で腹が減り、煮売屋を見つけて寄るのですが、この煮売屋の婆さんが二人を煙に撒くと言う筋です。
 この概略には出てきませんが、ツマミが無いので、口上書を見ると、どじょう汁とクジラ汁があります。どじょう汁を頼むと裏で捕って来るから待っていろと言いますが、日に3匹しか捕れない。それではクジラ汁というと、仕入れてくるから2~3日待っていろと、これもすげなく言われてしまいます。じゃぁ~、向こうの畑の青い葉っぱをむしってきて、茹でてここに出せと言いますが、アレは食べられない、タバコの葉だから。

;「日本で、もっとも往来の激しい街道は、東海道ですが、日毎に信じられぬほどの人々で埋め尽くされていた。ある季節にはヨーロッパの大都市より賑わっている。その理由は、自ら好んですると、必要に迫られてするとを問わず、異国民と異なり、日本人は数多く旅を試みるからである」。オランダ人医師、ケンペルが元禄(1688-1704)初期に記した「江戸参府紀行」に書きとめている。
  この手記より40年近く前、慶安3年(1650)全国から伊勢参りの群衆が、旅という形で街道を往来していた。60年ごとに伊勢参りの大群衆が伊勢を目指して旅をした。
  江戸中期以降、参勤交代という公的な旅の他、一般庶民が社寺参拝という名目で旅に出た。江戸っ子からすると、大山詣り、富士詣り、成田詣り、箱根の湯治、江ノ島見物、金沢八景めぐり、伊勢詣り、上方見物などの目的で旅に出た。
 落語「三人旅」より

 歩く速度というと、普通一日10里(約40km)を歩きました。1日8時間ぐらいで、食事も休憩も入れてですから、テレテレ歩いていたら到底歩けません。前屈みでツッツツッツと歩きました。江戸-京都間を2週間弱(12~13日)で歩き通しました。

正宗と村正(まさむね・むらまさ);どちらも名刀工です。
  正宗
(生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工。五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道とも称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人。「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。正宗の人物およびその作った刀についてはさまざまな逸話や伝説が残され、講談などでも取り上げられている。「正宗」の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えた。
 正宗の作風の特色として研究者が挙げている要素としては、硬軟の鋼を組み合わせて鍛錬し、独自の地鉄をつくっていること、沸(にえ)の美を追求していること、および地刃にさまざまな「働き」があって変化に富んでいることなどがある。「沸」とは、刀身を焼き入れすることによって生じる鋼の微粒子のことであり、「働き」とは、刀身の地鉄や刃文に見えるさまざまな模様や変化のことを言う。

 「短刀 相州正宗」無名 重要美術品 東京国立博物館蔵。 正宗の作風を良く現した名刀。

 村正は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名。または、その作になる日本刀の名。同銘で数代あるとみられる。別称は「千子村正」(せんじむらまさ、せんごむらまさ)。 村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。しかしながら活動拠点は伊勢であり、定かではない。美濃だけではなく、隣国の大和伝と美濃伝、相州伝を組み合わせた、実用本位の数打ちの「脇物」刀工集団と見られている。その行動範囲は伊勢から東海道に及ぶ。
 徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切った。聞くとこの槍も村正で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。とも言われる。
 妖刀の話が広まり、落語「名月八幡祭り」にも深川で起こった事件を描いて評判になりました。新助が提げていた刀が、妖刀村正であったと言うことになっています。
 村正作の一振と正宗作の一振を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れた。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったという。刀匠の年代が全く違うものの、この二振の違いを表す有名なエピソードである。
 村正を妖刀として恐れたという話は後世の創作で、実際には家康は村正を好み、尾張徳川家に遺品として残されて、尾張徳川家の家宝を多く収蔵する徳川美術館にも収蔵されている。

 「村正」 徳川美術館蔵

茶店(ちゃみせ);通行人などに茶菓を供して休息させる店。茶屋。掛け茶屋。
 茶を供して客を休息させる店。日本では中世後半に旅行者や参詣人を対象として街道筋や寺社門前などに発生したと思われ、《東寺文書(とうじもんじよ)》には応永15年(1408)11月に京都の東寺南大門前に一服一銭の茶を売る者のあったことを示す記録がある。初めは床几(しようぎ)の上に茶道具を置き、求めに応じて茶を点(た)てていたが、やがて菓子や酒食を供し、給仕女を置くような店ができて遊興的色彩を加え、多様な形態の茶屋を分化するようになった。

蔵元と酒(くらもととさけ);蔵元が近くにあるからと言って美酒が飲めるとは限らない。現在でも、よくこんな酒を造り続けているなと思わせるような酒もあれば、え!何で都会で売らないのと思うほどの美酒もあります。蕎麦屋さんはいっぱい有りますが、インスタントの方が美味いなんて店が有るのと同じです。
 戦前まで、酒屋さんが仕入れた樽酒はそのままでは売りませんでした。どうしたかと言うと、小売り酒屋さんが独自の味覚感覚でブレンドしたり、加水すなわち、水を足して味を調えることは当たり前でした。それが行き過ぎると、水の中に酒を垂らした、なんて事になります。蔵元さんでもブレンドは当たり前のようにしていました。タル買いと言われて、地方の中小の蔵元から酒を買って、自社の蔵酒を足して、その蔵のブランド名で出荷していました。灘の有名所は、このブレンド酒を出していましたし、混ぜ物をしていない酒は生一本として出していました。でも、生一本だから美味いとは限りません。

都々逸(どどいつ);元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。 七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。
 「雨の降るほど噂はあれど ただの一度も濡れはせぬ」
 「この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい」
 「浮名立ちゃ それも困るが 世間の人に 知らせないのも 惜しい仲」
 「惚れさせ上手なあなたのくせに あきらめさせるの下手な方」
 「ぬいだまんまで いる白足袋の そこが寂しい 宵になる」
 「内裏びな 少し離して また近づけて 女がひとり ひなまつり」
 「諦(あきらめ)ましたよ どう諦めた 諦めきれぬと 諦めた 」
 「遅い帰りをかれこれ言わぬ 女房の笑顔の気味悪さ」
 「重い体を身にひきうけて 抜くに抜かれぬ腕枕」
 「これほど惚れたる素振りをするに あんな悟りの悪い人」
 「出来たようだと心で察し 尻に手をやる 燗徳利」

 現代都々逸
 「来ないメールとわかっちゃいるが今日もケータイ手放せぬ」 (@agemaki1729)
 「「送る」ボタンを押すだけなのに、未練がましく迷い指」 (@yu_ichikawa)
 「遠い眼をして誰思い出す わたしゃあなたの眼の前よ」(@masakaguchi)
 「MACなお方に問いかけられて 解かざなるまいLZH」(pyunchon.jr)



                                                            2015年12月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system