落語「桑名船」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「桑名船」(くわなぶね。鮫講釈)より


 

 旅は歩くことに限る。東海道は尾張の熱田から伊勢の桑名までの海上を船で行くが、これを七里の渡しと言った。船には全国の旅人が乗っているから、方言丸出しでお国自慢をしている。わーわ~、言っている間に船が動かなくなってしまった。

 船頭が言うには、1年に一度ぐらい鮫が沢山出て悪さをする。お客の一人が犠牲になって生け贄となるが、それが出来ないと船の底をかじって全員助からない。その一人を探すのは、何か一つ海に流して流れれば助かるが、沈んだ人が見込まれた人だから、飛び込まなければこの船は動かない。
 冗談だろうとか、そんな事は・・・、とか言ってる内に、鮫の三角背びれが海面を覆うようになった。最初の一人が海面に物を投げると流れた。続けて投げると皆流れ、安堵のどよめきが上がった。
 最後の男が懐紙を二つ折りにして投げると、クルクルッと渦が出来て、海中に飲み込まれていった。

 「ダメだよ。懐紙なんか投げたって、俺なんか質札を投げたから流れた」、「スイマセンね。皆のために飛び込んで下さい。遺言や言付けが有ったら責任を持って伝えます」、「分かりました。生きていても役に立つような男でもありませんし、天涯孤独ですから遺言もいりません。私は講釈師で大坂に修行に行くところでした。天が『お前はいらない』と言うのですから死にますが、最後に一つだけ頼みを聞いて下さい。最後の講釈を一席聞いて下さい」、「いいよ。でも講釈は長いから、たっぷり語ってちゃ駄目だよ」、「みんな演じたいが、覚えた噺の要所を摘まんでやりますので、聞いて下さい」。

 「それでは、この世の名残として一席読み上げてお別れとします。但馬国は豊岡、京極の家老で石塚源吾兵衛は隠居して名を廬山とした。大石の母子を預かり、江戸では仇討ち本懐をつげんと、寺坂吉右衛門を奥にして石塚は母子に討ち入りの状況を聞かせた。あれに聞こゆるは山鹿流陣太鼓。『やぁやぁ~、遠からん者は音にも聞け、近くによって目にも見よ』(張り扇をパタパタと打つ)。五目講釈が延々と続き、張り扇がパタパタパタと激しく打ちたたかれた。富樫の安宅ノ関での弁慶から、源平盛衰記の屋島の扇を打ち抜く与一の武功、落語、垂乳根から『自らことの姓名は、父は元、京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字(あざな)を五光。母は千代女(ちよじょ)と申せしが・・・』、安兵衛駆けつけるのが高田の馬場だ。桜田門で近藤勇に暗殺され、その仇を討たんと助さん格さん通りかかった鈴ヶ森。(張り扇をパタパタと盛んに打つ)」。
 張り扇をパタパタと打っていたら、鮫が1匹、2匹と散っていなくなってしまった。船は帆をはらんでいるので、自然に動き出した。「チョット。船が動き出したんで、飛び込まなくても良いよ。スゴイもんだね、一心が通じたんだ。これからも頑張りな」、「私は死なくて良いんですね」、「一生贔屓にするよ」、命が助かったので、私がご馳走します、私も・・・私もと、着いた桑名で蛤でドンチャン騒ぎ。

 人間はこれで収まったが、収まらないのは鮫達です。皆集まれ!「何で生け贄を飲まないで帰ってきた」、「恐いよ」、「何で恐いんだ」、「講釈師ぐらいで、何で恐いんだ」、
「講釈師? あんまりバタバタ叩くので、蒲鉾屋かと思った」。

 



ことば

原話は、文化年間に出版された笑話本『写本落噺桂の花』の一編「乗り合い船」および、1769年(明和6年)に出版された笑話本『写本珍作鸚鵡石』の一編「弘法大師御利生」。

この演目が江戸落語の「二人旅」の一部で、江戸を出発した主人公は東海道を上っていきます。宮(熱田)から海上七里の渡し船に乗り、伊勢の桑名に着きます。その船中での出来事を描いて「桑名船」といいます。
 談志は音源(持ち時間)によって、前半は二人旅のナゾ掛けと都々逸を入れ、茶店の婆さんとの話を入れて、七里の渡しに入っていきます。今回の概略は後半の船中の事件です。
 上方版は大坂の気の合う二人が、四国は讃岐の国・金毘羅山へ参詣いたしまして、帰り道は播州・室(津)の港に上がりまして、
歩いて播州路を東へ東へ、明石、舞子、須磨をも過ぎまして出てまいりましたのが兵庫は鍛冶屋町の浜で、これから大坂の浜まで船旅です。その船中を描いたのが「兵庫船」。

鍛冶屋町の浜;神戸市兵庫区鍛冶屋町。JR神戸駅から南へ約1km。
雑喉場(ざこば);大阪市西区江之子島1-8に「雑喉場魚市場跡」の碑が建っている。元和年間(1615~24)上魚屋町(現在中央区)の生魚商人らが、漁船の出入の便を考えて出張所を設けた所。

桑名船」は元来上方の噺で、噺を江戸に導入した時に、大幅に手を入れ東海道中記としたのでしょう。よ~く似ているのは当たり前ですが、舞台が違っています。初代 一龍斎貞山(1799~1855)が実際に桑名の沖で鮫に囲まれて船が立ち往生した時に、船中で一席講談をやったら鮫が逃げたと云う史実を元根多にしているらしい。と言うホントか嘘か解らない話が伝わっています。

 歌川広重画 『隷書 東海道五十三次・桑名 七里の渡舟』

熱田・宮の渡し場から海上七里(約28km)を船に乗り、桑名の渡し場に着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時、東海道の42番目の宿場町として桑名は大賑わいを見せていました。ここにある大鳥居(下図)は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国・一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。

  

 七里の渡跡;慶長6年(1601)正月、江戸と京都を結ぶ東海道が制定され、桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、海路7里の渡船と定められた。のち佐屋宿(現愛知県海部郡佐屋町)へ川路3里の渡船も行われた。宮までの所要時間は3~4時間と思われるが、潮の干満によりコースは違っており、時間も一定ではなかった。
  ここは伊勢国の東入口にあたるため、天明年間(1781~1789)に、伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられている。
  明治になって、東海道制度は廃止となったが、揖斐(いび)川上流の大垣との間に客船や荷物船の発着場となっていた。

 名古屋の宮宿から桑名宿までの七里の渡し。現在は埋め立てが進んで、陸の上を行くことに。

  昭和34年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事のため、渡船場と道路の間に防波堤が築かれて、旧観は著しく変化し、港としての機能は全く失われた。昭和63年から平成元年(1989)にかけて、付近の整備修景工事が行われた。なお現存する常夜燈は江戸や桑名の人達の寄進によって建立され、元は鍛冶町の東海道筋にあったが、交通の邪魔になるので、ここへ移築された。元は天保4年(1833)建立のものであったが、昭和37年に台風で倒壊したので、台石は元のままであるが、上部は多度大社から移したもので、安政3年(1856)銘。

 現在の桑名市。上部伊勢湾に注ぐ二本の河、右側の揖斐川河口の右岸に船着き場がありました。埋め立てが進んだので、当時の海路は陸上になってしまいました。

東海道(とうかいどう);江戸時代の東海道は江戸と京都大坂を結ぶ幹線道路として、慶長6年(1601)正月に制定され、その間に宿場を設けた。宿場の数はその後も増加して、品川宿から大津宿まで俗に「東海道五十三次」の宿駅となった。しかし更に大坂までの4宿を加えて、57宿が東海道ともいわれる。東海道と共に中山道・日光道・奥州道・甲州道を加えた五街道は江戸幕府の管理下におかれた。
  宿場には問屋場(といやば=人足と馬の手配をする事務所)と本陣(大名などが休泊する施設)と高札場(人足銭や禁令を書いた大きな立て札)の三つが必ず設けられていた。また本陣に準じる脇本陣や、一般の人達が利用する旅籠屋や茶店も多くあった。旅籠屋数の最も多いのは宮(熱田)で、幕末頃には248軒あり、次いで多いのは桑名宿の120軒であった。

  

 東海道五十三次より「宮」(熱田)広重画。 熱田神宮の門前町で、熱田神宮に伝わる馬のかけくらべ。

 

 別版  歌川広重画『東海道五十三次・宮』  ここに止まっている船が桑名船
 
  焼き蛤の伝統的調理方法は江戸時代、桑名周辺では、焼き蛤は松かさを燃やして加熱することで調理されていた。葛飾北斎の浮世絵『桑名 四日市へ三里八丁』などにその様子が描写されている。この調理法では、松脂を含んでいるために火力が強い松かさで覆い、蝶番(ちょうつがい)を切ってから加熱するため、殻が開くことなく短時間で調理できる。このため、一般的な調理方法よりも柔らかく蒸しあがる。
この項は桑名市ホームページより

  

 葛飾北斎『桑名 四日市へ三里八丁』 蛤を松かさで焼いています。 右:これから焼く蛤

講釈(こうしゃく);江戸時代、客を集めて軍記物を読み聞かせたもの。明治以後の講談のもと。
 講談、
寄席演芸の一種。軍談,仇討(あだうち)、御家騒動、世話物などを巧みな話術で語るもの。明治以前は講釈といい、語り手を講釈師、語る場所を釈場(しゃくば)といった。もともと講釈とは典籍を評釈して講義することを意味する言葉で、講釈・講談の語は中世の仏教関係の文献に登場する。

一竜斎貞山(いちりゅうさいていざん);講釈師。初代(1799―1855)本名中村貞之助。初代金上斎(きんじょうさい)典山の門人。独眼で伊達政宗(だてまさむね)を崇拝し、その法号貞山院にちなんで芸名としたという。『義士伝』、『伊達騒動』を得意とし、大貞山とよばれた。
 以下現在の八代目に至る。八代目(1947― )本名小村井貞夫。七代目の実子、六代目神田伯竜の養子。昭和54年(1979)襲名。貞山派のお家芸を継承するとともに「赤穂義士銘々伝」を得意とした。平成元年(1989)、文化庁芸術祭賞受賞。講談協会理事。

(さめ);軟骨魚綱板鰓亜綱に属する魚類のうち、鰓裂(さいれつ=えらあな)が体の側面に開くものの総称。鰓裂が下面に開くエイとは区別される。世界中に約500種が存在する。世界中の海洋に広く分布し、一部の種は汽水域、淡水域にも進出する。また、深海性のサメも知られている。体の大きさは種によって異なり、最大のジンベエザメ(体長およそ14m)から最小のツラナガコビトザメ(体長22cm)までさまざまであるが、平均的には1 - 3mのものが多い。サメを意味する言葉として、他にワニ(鰐)やフカ(鱶)が使われることもある。

 サメは食材としても用いられ、身肉はすりつぶして蒲鉾やはんぺんなどの魚肉練り製品に加工されることが多い。サメの肉は低カロリー、低脂質、高タンパク質、骨はすべて軟骨質であるため子どもから老人までに適した食材であり、これまで食用の習慣のなかった地域でも見直される動きもある。サメは体液の浸透圧調節に尿素を用いており、その身体組織には尿素が蓄積されている。そのため、鮮度が落ちるとアンモニアを生じてしまい、一般の魚のような料理には向かない。ただし、アンモニアがあるために腐敗が遅く、冷蔵技術が進む前の山間部では海の幸として珍重されていた場合もある。幼魚は蓄積された尿素の量が少ないため美味である。 

蒲鉾(かまぼこ);かつては鮫の肉を二本の包丁を持った蒲鉾屋がまな板の上でバタバタ包丁を叩いて鮫肉をミンチにして蒲鉾を作っていた。現在では鮫肉はアンモニア臭がある為にあまり使われません。

 原料はイサキ、イトヨリダイ、エソ、オオギス、サメ類、スケトウダラ(スケソウダラ)、イシモチ(グチ)、ニベ、ハモ、ムツなどである。 板付き蒲鉾では白身魚の白身の部分のみを使用し、赤身や血合い肉は用いない。捌いた魚の身を水で晒し、身の血液や脂肪を取り除く。この身を石臼などですり潰し、砂糖、塩、みりん、卵白を加えて練り合わせる。 板付き蒲鉾は、練り合わせた身を「手付包丁(附庖丁、つけぼうちょう)」というへら状の特殊な包丁を用い、「かまぼこ板」に半円状に盛りつけてゆく。機械で盛りつけたり、型抜きで成形されることもある。成形後、蒸すまたは焼くことによって熱を通す。加熱方法の違いにより、呼び分けられる。
  蒸しかまぼこ=すり身を蒸して加熱したもの。 焼抜かまぼこ=蒸さずに板の下からあぶり焼きにして加熱したもの。「焼通しかまぼこ」という名称で呼ばれる地域もある。 板に盛りつけず、そのまま成形し、蒸し・焼きの他に茹で・揚げ等で加熱されるものがある。茹でたものがはんぺんやつみれに、揚げたものが揚げかまぼこ(九州では、つけあげと呼び、沖縄ではチキアギ、東日本では薩摩揚げ、西日本では天ぷらとも呼ばれる)などとなる。また、細い竹にすり身を付けて焼いたものが、竹を抜くとチクワになる。  

赤穂事件(あこうじけん);江戸時代中期の元禄期に発生した事件で、吉良上野介を討ち損じて切腹に処せられた浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を討ったものである。 この事件は一般には忠臣蔵と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称はこの事件をもとにした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびこの事件を元にした様々な作品群の総称であり、史実としての事件を述べる場合は区別のため「赤穂事件」と呼ぶ。 なお赤穂事件を扱ったドラマ等では、この事件は主君・浅野内匠頭の代わりにその家臣が吉良を討った「仇討ち」事件とみなされる事が多いが、この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為、これを「仇討ち」とみなすべきかどうかは自明ではなく、本事件が起こると、この事件の意義をめぐって論争が巻き起こっている。

寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん);四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である。 おそらくもともとは百姓で、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した。 討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった。 姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である。後年、曹溪寺(港区南麻布2丁目9-22)で世話になり、墓もここに有ります。落語「黄金餅」に曹溪寺の写真があります。

安宅の関(あたかのせき);源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという、歌舞伎の「勧進帳」でも有名。

源平盛衰記(げんぺいせいすいき);落語「源平盛衰記」に詳しい。

垂乳根(たらちね);落語「たらちね」に詳しい。「自らことの姓名は、父は元、京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字(あざな)を五光。母は千代女(ちよじょ)と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂を夢見て妾(わらわ)を孕めるが故、垂乳根の胎内を出でしときは鶴女(つるじょ)。鶴女と申せしが、それは幼名、成長の後これを改め、清女(きよじょ)と申し侍(はべ)るなり」。

桜田門(さくらだもん);現在の警視庁前に当たる、江戸城南側にある御門。桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。
右写真:桜田門
 

近藤勇(こんどういさみ);江戸時代末期の武士。新選組局長を務め後に幕臣に取り立てられた。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。
 
調布で生まれ、天然理心流の宗家となり京都寺田屋で奮戦した。千葉県流山で捕縛され、板橋で処刑された。右写真:板橋の近藤勇の墓所、首は京に送られたので、胴を埋葬した。

助さん格さん(すけさん かくさん);佐々木助三郎(助さん)は水戸光圀に仕える家臣。モデルは実在の水戸藩士・安積澹泊(通称、覚兵衛)といわれている。格さんは渥美 格之進(あつみ かくのしん)、TVドラマ『水戸黄門』に登場する架空の人物。性格は「助平助さん、堅物格さん」。現在では格さんは女性に弱いというイメージが強いが、初期では女性に対して強く接したりもしている。第1部で本人の口から生い立ちが語られている。旅に同行した当初から奔放な光圀に理解があった。第14部以降は母に幾度も縁談を勧められる。 ドラマの乱闘シーンでは、助さんが剣で戦うのに対し格さんは主に柔術で戦う。彼が体得する関口流は、柔術、剣術、居合術も伝承するため、助さんには及ばないものの、実際には剣の腕も一流である。また、最後の決め台詞とともに印籠を取り出す役は主に格之進が担う。また、水戸老公一行の道中の路銀(旅行費)を管理しているのも格之進である。
 徳川光圀の上屋敷は文京区後楽園で、落語「雁風呂」の中にあります。また、「孝行糖」の中でも紹介しています。

鈴ヶ森(すずがもり);落語「鈴ヶ森」の舞台。鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)は、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場。江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった。 元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。



                                                            2015年12月記

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