落語「まめだ」の舞台を行く 三代目桂米朝の噺、「まめだ」(まめだ)
■原作;三田純市作の新作落語。三田純市(1923~94)、まめだを書いた当時は三田純一。大阪・道頓堀の芝居茶屋に生まれた作家。著書「昭和上方笑芸史」で芸術選奨文部大臣賞。桂米朝さんや永六輔さんらとともに「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった。
自筆原稿 朝日新聞、2014年11月15日
■三代目桂 米朝(かつら べいちょう);(大正14年(1925)11月6日 - 平成27年(2015)3月19日)89歳没。旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『都囃子』。俳号は「八十八」(やそはち)。
写真左:1992年7月大阪で「まめだ」を演じる桂米朝。朝日新聞より
語り口調は端正で上品。容姿も端麗で人気を博す。「芸は最終的には催眠術である」が持論。お客さんを落語の世界へ引っ張り込むことを催眠術に例えている。滅びた噺の復活や当時の時代背景、風俗、流行などの研究のために多種多様な古書や文書を収蔵した書庫を自宅に持つ。孫弟子の桂吉弥曰く「米朝文庫」だと言われる。特に演目の登場人物が取る仕草の研究に余念が無く、酒席でのほろ酔いと酩酊の演じ分け(酒肴の口の運び方、酒の注ぎ方など)から縫い物の糸切りの位置に至るまで、日常生活上のさり気ない動作に徹底的なリアリティを追求している。
持ちネタは多数あるが、代表的なところでは自ら掘り起こした「地獄八景亡者戯」や「百年目」、自作の「淀の鯉」(中川清時代)や「一文笛」がある。
身近な存在だった実父、正岡、米團治が55歳で亡くなったので、自身も55歳で死ぬと断言していた。自らに課した55歳というタイムリミットに間に合わせるために、後進の育成に加え、書籍や音声資料による落語の記録に精力的に取り組んだ。
■初代 市川右團次(いちかわ うだんじ);(天保14年7月16日(1843年8月11日) - 大正5年(1916)3月18日)は、幕末から大正初期にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。屋号ははじめ鶴屋、のち髙嶋屋。俳名に家升・采玉・米玉、雅号に夜霜庵。隠居名の市川 斎入(いちかわ さいにゅう)としても知られる。本名は市川 福太郎(いちかわ ふくたろう)。
■三津寺(みつでら);大阪市中央区心斎橋筋2-7にある真言宗御室派の準別格本山。地元では「みってらさん」、「ミナミの観音さん」の通称で親しまれている。摂津国八十八ヶ所第二番霊場、大坂三十三観音札所第三十番札所。
本尊は十一面観世音菩薩で秘仏であるが、本尊と同じ姿の石仏が山門を入ってすぐのところに祀られている。江戸時代から平成元年(1989年)まで、当寺院南側の三津寺筋に沿って「三津寺町」の町名があった。現在も御堂筋との交差点名にその名を残している。
■軟膏剤(なんこうざい);皮膚疾患の治療の一つである皮膚外用療法に使用される医薬品の半固形の製剤。構成は、有効成分とワセリンなどの基剤に分かれ、基剤の中に分散して有効成分が存在する形になっている。有効成分と基剤をそのまま混合するか、溶媒に溶かすか加熱融解させて混合して製する。チューブやプラスチックやガラスの瓶に詰められて流通している。噺では、蛤の殻に詰められ売られた。
■トンボ返り;歌舞伎用語では、軽業の技巧を取り入れた独特の宙返りをいう。立ち廻りで「その他大勢」の者達を立役が投げたり斬ったりする際にこれがよく出る。立役の驚異的な強さを強調するため、投げられる・斬られる者は、立役が触れたか触れないかというところで、目にも止まらぬ速さでいとも簡単に、しかも大きな音をたてながら大袈裟に、宙返りを打って舞台上に倒れる。「とんぼを切る」、「とんぼ返り」などと言う。
■芝居茶屋(しばい ぢゃや);桟敷や升席の確保、チケットの段取りや弁当の手配などをしたり、休憩や食事などにも利用できる茶屋。
江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかなった。
その経営者や使用人のなかからは、後代に大名跡となる歌舞伎役者も生まれた。実在の人物ではないが、落語「淀五郎」の淀さんは、やはり、茶屋の出身であった。
■香典(こうでん。香奠とも表記);仏式等の葬儀で、死者の霊前等に供える金品をいう。香料ともいう。「香」の字が用いられるのは、香・線香の代わりに供えるという意味であり、「奠」とは霊前に供える金品の意味である。通例、香典は、香典袋(不祝儀袋)に入れて通夜あるいは告別式の葬儀に遺族に対して手渡される。
■白井権八(しらいごんぱち);江戸初期の武士。実名、平井権八。鳥取藩士。同僚を斬って江戸に出、吉原の遊女小紫となじみになったが、金に困り辻斬りなどをして処刑された。落語「鈴ヶ森」に幡随院長兵衛とともに出てくる。
■太左衛門橋(たざえもんばし);道頓堀に架かる橋(右写真)。御堂筋から東へ順に道頓堀橋、戎(えびす)橋、太左衛門橋、相合(あいおい)橋、日本橋で堺筋。
■宗右衛門町(そえもんちょう);南地、通称「ミナミ」として知られている。江戸時代から道頓堀の劇場街とともに発展した。南地には細かく分けて、五つの花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)があり、それらを総称して「南地五花街」と呼んだ。明治以降は新町や堀江に代わって大阪最大の花街となり、最盛期には芸妓と娼妓を合わせて3000人以上在籍していた。いまはなき「南地大和屋」(2003年、閉店)で有名。上演演目は『芦辺踊』で、現在のOSK日本歌劇団が大阪松竹座で演じる「春のおどり」がその流れを汲んでいる。現在、住居表示に関する法律により古くからの町名が消滅し、残っているのは宗右衛門町のみです。
■芝居町(しばいまち);戎橋以東は道頓堀五座が立地した芝居町にあたる。道頓堀通の南側に芝居小屋、通りの北側に芝居茶屋が並ぶ構造だった。
上記写真:今は無き五座の内、浪花座を除く四座。
戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のことで、承応2年(1653)に芝居名代5株が公認されたことに始まる。「五つ櫓(やぐら)」とも言う。道頓堀を代表する劇場群で、近代に至るまで、歌舞伎や仁輪加(軽演劇)、人形浄瑠璃などが賑々しく興行された。昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された。
道頓堀の南側(写真上方)に建つ劇場群。まだ、右側に有るはずの御堂筋は道が開通していない。中央の戎橋、左(東)側に架かる橋は右三郎さんが渡った太左衛門橋。手前に渡ると宗右衛門町で、その先を写真の外で右に曲がると三津寺筋の脇道。
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