落語「まめだ」の舞台を行く
   

 

 三代目桂米朝の噺、「まめだ」(まめだ)


 

 東京から大阪に移ってきた市川右団次という仕掛け物・宙乗り・早替り、いわゆる「けれん」で有名な役者の弟子で、市川右三郎という大部屋の役者がおりました。この右三郎さん、三津寺(みってら)の向かいに住んでおりまして「びっくり膏」という家伝の膏薬を商う母親と二人きりの生活。
 役者の修業でもトンボを切るのは大変で、走って前に飛んだり後ろに飛んだり、慣れてくると立ったまま飛んだり、下駄を履いたまま物を持っての宙返り。下役は大変ですがトンボ返りの猛練習の甲斐あって、いい役がつくようになっていた。

 その日も雑用に追われて、外に出たら真っ暗。秋のこってございます。帰ろぉと思うと時雨がパラパラパラパラ降り出した。道頓堀から三津寺はんの前やさかいに近いんですけど、役者ですから着物濡らしてもつまらんというわけで、心安い芝居茶屋で傘を借りまして、それを差して太左衛門橋を渡ります。
 宗右衛門町(そえもんちょう)は賑やかですが、その先を左に曲がると真っ暗。傘が急に重くなったので、傘をつぼめてみるが、何もない、また重くなって、「こら『まめだ』のせいやな。しょうもないテンゴ(=いたずら)しやがって。よ~し、ひとつ懲らしめたれ」と傘を差したまま、間合いを計ってトンボを切ってみせると、何かが地面にたたきつけられて「ぎゃ」と悲鳴が聞こえ、黒い犬のようなものが逃げて行った。「あッ、キジも鳴かずば撃たれまい、益ねぇ殺生を・・・」白井権八みたいなことを言ぃながら我が家へ帰ってきた。

 明くる日、帰って来と、自宅の店で母親から「どうもけったいや。色の黒い陰気な男の子が膏薬を買いに来るのやが、それが買いに来てから、あとで勘定が合わんねん。1銭足らいで(=足りなくて)、代わりに銀杏の葉が1枚入ってんねん」、「アホ言いな。落ち葉の時期や。三津寺(みってら)さんの前、銀杏の葉だらけや」と夕飯の催促。翌日も1銭足りなくて銀杏の葉が1枚。
 そのうち、「ただいま」も何も言わんと「銀杏の葉ぁか?」、「そぉや」これが挨拶になるぐらいで、何日かこれが続きました。それが、今日は色の黒い子供も来なければ、銭も合って銀杏の葉っぱもなかった。
「不思議やナ~」。

 翌朝、ザワザワと表がうるさい。「お~い来てみぃ、三津寺の境内でまめだが死んでるでぇ~」、「え? まめだが死んでるか?」、「見てみぃな、体にいっぱい貝殻ひっ付けた、けったいなまめだや・・・」。
 「お母ぁん、ちょっとわし様子見て来るわ」。その貝殻は「本家びっくり膏」の容器に使用しているものであった。右三郎、ひょっと気が付いた。その貝殻は、あのトンボを切った雨の夜に「まめだ」が強く体を痛めたために、男の子の姿に化け、銀杏の葉を金に変えて膏薬を買いに来ていたことが分かった。
 「あいつ、体が痛いもんやさかい、銀杏の葉ぁを銭に変えて、うちぃ毎日膏薬買いに来てたんでやす。お前なぁ、言わんかい、教(お)せたんねんやがな。こんなもん、この薬を紙か布(きれ)へ延ばして痛いところへあてがわなんだらいかんのに、貝そのままベタベタ貼って、こんなフサフサと毛ぇの生えた体へ押し付けたかて、何効くかいな。ちょっと言ぅたら教せたるのに・・・、毎日毎日来て、三津寺はんで死んだ・・・。ご住職さん、わて何とか気持ちだけ包ましてもらいますよってにな、安もんのお経で結構でやす、このまめだに上げたっとくなはれ・・・。で、境内の隅かどっか、これちょっと掘ってこいつ埋(うず)めたっとくなはれ」。見ている人達もまめだに線香を上げ、簡単な葬儀になった。
 みんな帰ってしまいましたあと、住職と親子のもの三人がまめだの死骸を見てると、夜が明け離れまして、秋風がサ~ッと吹いて来る。境内一面に散り敷ぃております銀杏の落ち葉がハラハラ、ハラハラハラハラとまめだの死骸へ集まって来た。
「お母ぁん見てみ~、狸の仲間から、ぎょ~さん香典が届いたがな」。

 

 



ことば

原作;三田純市作の新作落語。三田純市(1923~94)、まめだを書いた当時は三田純一。大阪・道頓堀の芝居茶屋に生まれた作家。著書「昭和上方笑芸史」で芸術選奨文部大臣賞。桂米朝さんや永六輔さんらとともに「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった。
「まめだ」とは関西における妖怪・豆狸(まめだぬき)の呼び名で、子ダヌキの意味でもある。 秋を舞台にした落語が少ないことに気づいた三田が、道頓堀界隈の芝居小屋に伝わっていた伝承をもとに、昭和41年(1966)に三代目桂米朝のために書き下ろした。民話の香りのする人情噺。 平成26年(2014)9月18日、米朝の自宅の洋服箱から、三田による直筆原稿が発見された。

 自筆原稿 朝日新聞、2014年11月15日

三代目桂 米朝(かつら べいちょう);(大正14年(1925)11月6日 - 平成27年(2015)3月19日)89歳没。旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『都囃子』。俳号は「八十八」(やそはち)。
 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。平成8年(1996)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、平成21年(2009)には演芸界初の文化勲章受章者となった。昭和54年(1979)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。所属は米朝事務所。尼崎市に住んだ。

写真左:1992年7月大阪で「まめだ」を演じる桂米朝。朝日新聞より

 語り口調は端正で上品。容姿も端麗で人気を博す。「芸は最終的には催眠術である」が持論。お客さんを落語の世界へ引っ張り込むことを催眠術に例えている。滅びた噺の復活や当時の時代背景、風俗、流行などの研究のために多種多様な古書や文書を収蔵した書庫を自宅に持つ。孫弟子の桂吉弥曰く「米朝文庫」だと言われる。特に演目の登場人物が取る仕草の研究に余念が無く、酒席でのほろ酔いと酩酊の演じ分け(酒肴の口の運び方、酒の注ぎ方など)から縫い物の糸切りの位置に至るまで、日常生活上のさり気ない動作に徹底的なリアリティを追求している。 持ちネタは多数あるが、代表的なところでは自ら掘り起こした「地獄八景亡者戯」や「百年目」、自作の「淀の鯉」(中川清時代)や「一文笛」がある。 身近な存在だった実父、正岡、米團治が55歳で亡くなったので、自身も55歳で死ぬと断言していた。自らに課した55歳というタイムリミットに間に合わせるために、後進の育成に加え、書籍や音声資料による落語の記録に精力的に取り組んだ。
 多くの弟子を育て、長男の五代目桂米團治もその一人。特に初期の弟子には月亭可朝、二代目桂枝雀、二代目桂ざこばなど自身の芸風とはかけ離れた異能派が並んでおり、かつては芸に厳しく怒鳴ったり、鉄拳なども出ることがあったが、近年は大きな包容力で一門を育て上げた。
厳しい指導で知られていたが、一方では、破門者を一人も出さなかったとされ、人情味のある一面も見せていた。枝雀は「自分やったら兄弟弟子の内半分位は破門にしていただろう。」と述べたことがあるという。 

初代 市川右團次(いちかわ うだんじ);(天保14年7月16日(1843年8月11日) - 大正5年(1916)3月18日)は、幕末から大正初期にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。屋号ははじめ鶴屋、のち髙嶋屋。俳名に家升・采玉・米玉、雅号に夜霜庵。隠居名の市川 斎入(いちかわ さいにゅう)としても知られる。本名は市川 福太郎(いちかわ ふくたろう)。
 市川福太郎は四代目市川小團次の実子だが、小團次には養子の初代市川左團次がおり、これがすでに役者として大成していた。そこで小團次は福太郎をあえて役者にしようとはせず、まだ赤子の頃に大坂道頓堀の芝居茶屋・鶴屋に丁稚奉公に出すが、実際は体よく養子に出したようなものだった。しかし福太郎は成長しても商いごとには一向に興味を示さず、芝居の真似事ばかりしていたので愛想を尽かされ、事実上の離縁となって実家に戻る。そこで晴れて役者に転身、嘉永5年(1852)2月若太夫の芝居『伊賀越道中双六』に本名の市川福太郎で初舞台を踏んだ。
晩年、大正4年(1915)1月、浪花座で引退興行。この時72歳の高齢をものともせずに得意の宙乗りを披露して万雷の喝采を贈られた。

三津寺(みつでら);大阪市中央区心斎橋筋2-7にある真言宗御室派の準別格本山。地元では「みってらさん」、「ミナミの観音さん」の通称で親しまれている。摂津国八十八ヶ所第二番霊場、大坂三十三観音札所第三十番札所。 本尊は十一面観世音菩薩で秘仏であるが、本尊と同じ姿の石仏が山門を入ってすぐのところに祀られている。江戸時代から平成元年(1989年)まで、当寺院南側の三津寺筋に沿って「三津寺町」の町名があった。現在も御堂筋との交差点名にその名を残している。

軟膏剤(なんこうざい);皮膚疾患の治療の一つである皮膚外用療法に使用される医薬品の半固形の製剤。構成は、有効成分とワセリンなどの基剤に分かれ、基剤の中に分散して有効成分が存在する形になっている。有効成分と基剤をそのまま混合するか、溶媒に溶かすか加熱融解させて混合して製する。チューブやプラスチックやガラスの瓶に詰められて流通している。噺では、蛤の殻に詰められ売られた。

トンボ返り;歌舞伎用語では、軽業の技巧を取り入れた独特の宙返りをいう。立ち廻りで「その他大勢」の者達を立役が投げたり斬ったりする際にこれがよく出る。立役の驚異的な強さを強調するため、投げられる・斬られる者は、立役が触れたか触れないかというところで、目にも止まらぬ速さでいとも簡単に、しかも大きな音をたてながら大袈裟に、宙返りを打って舞台上に倒れる。「とんぼを切る」、「とんぼ返り」などと言う。

芝居茶屋(しばい ぢゃや);桟敷や升席の確保、チケットの段取りや弁当の手配などをしたり、休憩や食事などにも利用できる茶屋。 江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかなった。 その経営者や使用人のなかからは、後代に大名跡となる歌舞伎役者も生まれた。実在の人物ではないが、落語「淀五郎」の淀さんは、やはり、茶屋の出身であった。
 芝居茶屋の食事は芝居見物の楽しみの一つで、この日ばかりは庶民から諸侯に至るまで、できる限りの大盤振る舞いをして各茶屋自慢の味を堪能した。

香典(こうでん。香奠とも表記);仏式等の葬儀で、死者の霊前等に供える金品をいう。香料ともいう。「香」の字が用いられるのは、香・線香の代わりに供えるという意味であり、「奠」とは霊前に供える金品の意味である。通例、香典は、香典袋(不祝儀袋)に入れて通夜あるいは告別式の葬儀に遺族に対して手渡される。

白井権八(しらいごんぱち);江戸初期の武士。実名、平井権八。鳥取藩士。同僚を斬って江戸に出、吉原の遊女小紫となじみになったが、金に困り辻斬りなどをして処刑された。落語「鈴ヶ森」に幡随院長兵衛とともに出てくる。

太左衛門橋(たざえもんばし);道頓堀に架かる橋(右写真)。御堂筋から東へ順に道頓堀橋、戎(えびす)橋、太左衛門橋、相合(あいおい)橋、日本橋で堺筋。
 橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。
 太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。昭和になっても狭い木橋のままであったが、大阪大空襲の際に焼失し、地元の人々によって復旧された。

宗右衛門町(そえもんちょう);南地、通称「ミナミ」として知られている。江戸時代から道頓堀の劇場街とともに発展した。南地には細かく分けて、五つの花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)があり、それらを総称して「南地五花街」と呼んだ。明治以降は新町や堀江に代わって大阪最大の花街となり、最盛期には芸妓と娼妓を合わせて3000人以上在籍していた。いまはなき「南地大和屋」(2003年、閉店)で有名。上演演目は『芦辺踊』で、現在のOSK日本歌劇団が大阪松竹座で演じる「春のおどり」がその流れを汲んでいる。現在、住居表示に関する法律により古くからの町名が消滅し、残っているのは宗右衛門町のみです

芝居町(しばいまち);戎橋以東は道頓堀五座が立地した芝居町にあたる。道頓堀通の南側に芝居小屋、通りの北側に芝居茶屋が並ぶ構造だった。

  

  

 上記写真:今は無き五座の内、浪花座を除く四座。

 戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のことで、承応2年(1653)に芝居名代5株が公認されたことに始まる。「五つ櫓(やぐら)」とも言う。道頓堀を代表する劇場群で、近代に至るまで、歌舞伎や仁輪加(軽演劇)、人形浄瑠璃などが賑々しく興行された。昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された。
 平成に入りバブル崩壊を受け、松竹は残った中座(松竹新喜劇の本拠地)、浪花座(松竹芸能の本拠地)を相次いで閉鎖し、映画館の入った商業ビルとして復活していた角座も含めてことごとく敷地を売却。ここに、道頓堀五座は事実上一旦消滅した。なお、中座解体途中に爆発事故を起こして建物は崩壊し、中座の南側にある法善寺横丁が大打撃を受けた。現在商業演劇や歌舞伎の定期公演などは大阪松竹座で行われているが、道頓堀五座とは別個の劇場である。 平成25年(2013)7月28日、松竹芸能が角座跡地の所有者であるケンズネットワークスから賃借する形で、お笑い劇場「DAIHATSU MOVE 松竹芸能 道頓堀角座」を開場。五つ櫓の一つである角座が復活した。

 

 道頓堀の南側(写真上方)に建つ劇場群。まだ、右側に有るはずの御堂筋は道が開通していない。中央の戎橋、左(東)側に架かる橋は右三郎さんが渡った太左衛門橋。手前に渡ると宗右衛門町で、その先を写真の外で右に曲がると三津寺筋の脇道。
 戎橋の南詰め右側の白い建物が「松竹座」、その左四角い建物の隣が「浪花座」(竹本座)、その1ブロック先に「中座」、太左衛門橋の左が「角座」、その先写真の外側に「朝日座」、「豊竹座」、「弁天座」が有ります。



                                                            2015年12月記

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