落語「稲荷俥」の舞台を行く 三代目桂米朝の噺、「稲荷俥」(いなりぐるま)より
■三代目桂米朝(かつらべいちょう);落語「まめだ」をご覧下さい。
米朝さんの上方落語を取り上げているので、その資料作りが大変で、大阪の地理感、距離感、方向感、歴史感が東京育ちの私には見当が付きません。大阪駅と難波駅の違いがやっと分かるだけの私ですから、まずは近畿・京大阪の地図を買いました。でも難しいですね。それでも手探りの状態です。それさえ別にすればいい噺がイッパイです。この「稲荷俥」、「まめだ」、「愛宕山」、「一文笛」、「蛸芝居」、「壺算」、いろいろ有りますが、それぞれ絶品。
■オチは「穴があったら入りたい」という言葉から、狐が「穴に入る」ということを連想したもの。東京では上方の噺を桂小文治が移植し、林家彦六(正蔵)らが演じた。「狐車」「偽稲荷」とも。上方では桂米朝が演じているが、天王寺区にある産湯稲荷で演じるので「産湯狐」という題も見える。
小佐田定雄と桂米朝が復活させたネタです。
■高津神社(こうづじんじゃ);高津宮。大阪市中央区高津1丁目1番29号。仁徳天皇を王神と仰ぐ神社。平安期の初期清和天皇の
866(貞観8)年勅命によって難波津の都の遺跡を探索して社地を定め、社殿を築いて祀ったのを創始とする。
■俥屋(くるまや);くるまは「車」と書くのが正解ですが、明治から人力車が大いに栄えたので、人力車を「俥」と言う字で表現するようになりました。人力車は明治3年(1870)に東京で初めて政府の許可のもとに営業を始めた。大阪では明治20年(1887)ごろには約1万台、明治30年(1897)ごろには2万台を超えたといわれるが、明治36年(1903)に大阪市電が創業、以後の急速な都市交通の発達、そして大正14年(1925)に登場した円タクによりその役割を終えた。
■蹴込み(けこみ);人力車の乗客が足をのせる部分。
■二重回し;ケープ付の男子用袖無し外套。幕末から明治初年にかけて輸入され、和装用コートとして流行。二重廻し。鳶合羽(とんびガッパ)。とんび。
■産湯稲荷(うぶゆいなり);天王寺区小橋町3丁目。神功皇后の近臣・雷大臣の子大小橋命(おぼおばせのみこと)を祀る。高津神社から直線で東に約1.2kmで、タクシーで言えばワンメーターです。
■産湯楼(うぶゆろう);産湯稲荷の所に有った。明治22年(1889)12月19日板垣退助、旧友懇親会を大阪桃山産湯楼で開いたとある大見世。桃山というのはこの辺りの丘陵には明治の頃まで広大な桃林があったことに由来するという。大正8年(1919)に埋め立てられた味原池(産湯稲荷の北隣、味原本町として名を残す)とともに景勝地として知られていた。
■ドツボ;肥溜め。肥料にするために糞尿を醗酵させためておく所。こやしだめ。
■高津橋(たかつばし);高津入掘川(こうづいりぼりがわ)にかかっていた橋、高津入堀川は享保19年(1734)道頓堀、下大和橋の西から南へ開削され昭和43年代に埋め立てられた。堀川は南進ののち東進し現在の高速下で再び南進していた。高津橋は文楽劇場東側の南北の通りと交わるように架かる(中央区高津3-6あたり)。
■卯建(うだつ);
江戸時代の民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの袖壁。長屋建ての戸ごとの境に設けたものもあり、装飾と防火を兼ねる。
■土佐の石宮(とさのいしみや);土佐稲荷神社、大阪市西区北堀江4丁目9。土佐高知藩蔵屋敷の鎮守社として明和7年(1770)、山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請したと伝える。また天正年間(1573~92)の創建で、享保2年(1717)、土佐高知藩主山内豊隆が家臣に命じて社殿を造営し一般の参拝を許したとも。
■狐を馬に乗せたよう;ぐらぐらとして落着きのないさま。言うことの信じがたいさま。
■眷属・眷族(けんぞく);血のつながる一族、従者。家来、仏や菩薩に従うもので、薬師仏の十二神将、不動明王の八大童子の類。
■正一位(しょういちい);律令制で、諸王および諸臣の位階の最上級。また、神社の神階の最高位。稲荷神社の異称。
■伏見さん;今は伏見稲荷大社と称。全国稲荷神社の総本社。京都市伏見区稲荷山の西麓にある元官幣大社。倉稲魂神・佐田彦神・大宮女命(オオミヤノメノミコト)を祀る。和銅4年(711)秦公伊呂具(ハタノキミイロク)が鎮守神として創始。近世以来、各種産業の守護神として一般の信仰を集めた。単に「稲荷神社」と言えば伏見さんのこと。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める。
2015年12月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |