落語「修学旅行」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭金馬の噺、「修学旅行」(しゅうがくりょこう)より


 

 夫婦とはイイもので、そこに子供が入るともっと良いものです。ある人が、鴻池善右衛門にお宅の宝を見せてくれと頼んだら、お孫さんを出した、と言うほどです。妊娠中に素敵な人の写真を眺めていると似た子が生まれるというので、八千草薫の写真を切り抜いて見ていたら、女の子が生まれ似ているように思った。一年は速いもので、子供に髪の毛が生えてこなかった。大掃除の時、八千草薫の写真を剥がしたら、裏側は金語楼の顔だった。

 親方の家に行ったが、借金の頼みを聞いてくれなかった。やけ酒飲んで帰ってきたが、おかみさんは承知しない。風呂で、息子の健一が学校で修学旅行に行くことになっていたと、隣の奥さんに聞かされた。それには無料ではなく費用が2000円掛かると言うが、借金だらけの我が家は一文無し。修学旅行費の話を息子は両親には一切言わなかった。
 「私に言ってもアンタに言っても、どうせ出来ないだろと思って、言わないのじゃないかィ。いじらしいじゃないか。皆が旅行に行くのに、あの子だけ指をくわえて見ているなんて、そんな事させられませんょ」、「じゃ~どうすれば良いんだ。メソメソするんじゃない。借りるのも大崎さんはダメだ、1000円の借りがある。五十嵐さんは500円残ってる」、「だったら、五十嵐さんに500円返して、改めて1000円借りる。その金もって、大崎さんの所に行って1000円返して2000円借りれば良いでしょ。200円の借りがある長谷川さんのご隠居に返して500円借りるんだ」、「良い考えだが、最初の200円はどうするんだ」、「そのぐらいアンタが考えてよ」。と言うことで亭主は外に飛び出して行った。

 酔っ払った仲間の竹が向こうからやって来た。飲み友達として一緒に飲もうと強く誘われたが、今日はダメだと断った。「おい、竹を見くびるなよ。今日は『見ろ』、手の切れるような1000円札が2枚有るんだ。これで飲みに行こう。これは仕事の手付けだから安心して・・・。飲ませるから行こう」、「竹、頼む。明日からお前を『兄貴、兄貴』と呼ぶから、その中から200円だけ飲みに行ったと思って貸してくれないか。家の息子が旅行に行くんだ」、「200円では旅行には行けないよ」、「その200円で借りがある長谷川さんのご隠居に返して500円借りるんだ、その金で五十嵐さんの所行って・・・・、本当は2000円いるんだ」、「ややっこしいんだな」、「息子が修学旅行に行くんだが、我が家に金が無いことは息子もよく知っているから、我々に言わないんだ。カカアはメソメソ泣くし、俺も親だ、恥ずかしいがそんな訳だ。頼む、兄貴、貸してくれ」、「俺も3人の子の親だ。そんな細かい事言わず2000円持って行け。気の変わらないうちに持って行け」、「すまないな、兄貴」。

 「お三津2000円だ。竹に修学旅行の話をしたら、涙ぐんで貸してくれた」、「まだそんな心優しい人が居るんだね」、「健一を起こして話をしよう」、「駄目だよ起こしたら。寝ているんだから」。
 その時、戸を叩く音がした。竹がやって来たのだ。貸してくれたことに丁重にお礼を夫婦揃って言った。「そんなに褒めないでくれ。すまないがそこから200円だけ返して欲しい。家に帰ったらうちの子も健ちゃんと同じクラスなんだ。カカアが修学旅行の費用だから返して貰えと言うんだが、そんな事は言えない。お前が言った様に200円を500円にしてその500円を1000円にして・・・」、「お前も借金があるのか」、「そんなの無い。だから5000円位にはなる」。
 じっと聞いていたが言葉付きがガラッと変わって、「悪かったな。持って行け」、「おお、大きく出たな、『悪かったら持って行け』だと、俺も悪かったと思って頼んでんだ」、「デカい声出すな。子供は寝ているんだ」。
 「お父っつあん、大人同士で喧嘩することないじゃないか」、「子供は黙っていろ!健坊、今年はお父っつあんバカをして修学旅行に行かせられないんだ。来年はアメリカでもアフリカでも行かせるから、今年の修学旅行は勘弁してくれ」、「修学旅行で喧嘩していたのか。お金はイイいんだ。もう先生に渡してあるよ」、「親にウソ言うとひどいぞ」、「ゴメンよ。お父っつあんが酒飲むだろ、その空き瓶を3年前から酒屋さんに買って貰ってたんだ。郵便局に預けて、ちりも積もれば山となる、と言うだろ3600円になったんだよ。そこから初めて2000円出したんだよ。お父っつあん、ゴメンね」、「塩原太助みたいな奴だ。竹、聞いたか。さっきはお前の金なのに生意気言って申し訳なかった。姉さんにもよろしく言ってくれ」、「健ちゃん偉いな、家の三郎と大違いだぞ。偉くなっておくれ。これでオッカアも大喜びだ。すまね~な」、「姉さんによろしくね」。

 「健一、こっちに来い。そんな事先生が教えるのか? そんな金が有ったらお父っつあんに言わなくちゃ」、「言ったら、晦日に危ないからな。・・・お父っつあん、あんまり酒飲んでおっ母さんに心配掛けるんじゃ無いよ」、「どっちが親だか分からない。お三津、子供ってものはイイもんだな」、「お前さん、さっきから涙が止まらないんだよ。身体中の水気が出るんじゃないかしら・・・」、「明日っからは気持ちを入れ替えて・・・、一生懸命・・・、酒を飲むよ」、「バカだね。今の話が分からないのかィ」、「一生懸命飲めば、健坊の貯金が増える」。

 



ことば

修学旅行(しゅうがくりょこう);主に日本において小・中・高等学校の教育や学校行事の一環として、教職員の引率により児童・生徒が団体行動で宿泊を伴う見学・研修のための旅行。特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で遠足や社会見学とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で野外活動と区別される。

 日本における修学旅行は、明治15年(1882)に栃木県第一中学校の生徒たちが教員に引率され、東京・上野で開かれた「第二回勧業博覧会」を見学したことが日本での「学生・生徒の集団旅行」のはじまりといわれており、明治19年(1886)には東京高等師範学校が「長途遠足」の名で11日間のものを実施したという記録がある。
 戦後は古美術観光が積極的に取り入れられている。1950年代半ばの社寺観光ブームや、交通利便や団体宿泊の受け入れ環境などを考えると、旅行先は必然的に京都・奈良中心にならざるを得なかったためと考えられる。また、1970~1980年頃までは、現在のように交通機関が多様化していなかったためにもっぱら鉄道が修学旅行に使われたので、修学旅行者専用列車の設定も見られた。その後、私立高校においては1970年代後半以降、国・公立高校においても1990年代後半以降は、航空機利用が主流となり、私立高校では海外を行き先に選ぶ学校も1980年代後半以降多くなった。

 修学旅行返上として、体育会系のクラブに所属している生徒が、クラブ全体で練習や試合を優先させるために修学旅行を欠席せざるを得ない場合がある。特に高校野球などの全国大会ないしはそれにつながる大会を控えている場合によくある。また、私立などの国外を修学旅行先としている学校では、費用が高いために経済上の都合から修学旅行を欠席せざるを得ない生徒も存在します。 いつの時代も修学旅行不参加の子供はいたのです。
 『来年の修学旅行にはアメリカでもアフリカでも行かせるから、ことしの修学旅行は勘弁してくれ』、との父親の台詞は毎年有ると思っているところが微笑ましい。

空瓶回収現在でもリターナブルビールびんや1升びんは、販売時に5円の容器保証金をいただき、びん返却時に保証金をお返しする制度を採用しています。コカコーラびんは10円返金。
 具体的に言いますと、無色透明は除く日本酒・焼酎の一升瓶や、ビール瓶(国産の大手メーカーの物) の大瓶・中瓶・小瓶どれでも空瓶を持参すれば、どれでも一本につき5円を返金致しております。ビールの箱(P箱)も対象で、持参すれば210円になります。ちなみに、樽生の空樽は容量関係なく1000円にもなります。

 江戸時代、江戸の街はリサイクルが発達していて、例えば蝋燭のたれたのを買いに来たり、かまどの灰も売れたりしました。有名どころでは、糞尿が肥料として活用できるので農家が買いに来ました。酒を入れる樽も例外ではなく買い求める商売がありました。小売り酒屋はタルで仕入れるので、1升瓶はありませんので、陶器の大徳利で酒を買いに行きました。この徳利は毎回酒を買いに行くときに使いましたので、酒屋で買い取って貰うことは出来ませんし、しません。明治に入ってガラスが出来るようになっても、最初に買った1升瓶を持って酒屋に戦後まで買いに行ったものです。消耗品として扱うようになったのはごく最近のことで、志ん生も縁の下に置いていたそうで、戦後その空瓶を売って酒が飲めたと言っています。

鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん);江戸時代の代表的豪商のひとりである大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前。 家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が大坂で一家を立てたのを初代とする。はじめ酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。

八千草薫(やちぐさかおる);(1931年1月6日 - )幼少時父を亡くし、以後母一人子一人で育つ。思春期がちょうど戦時中であり、自宅も空襲で焼け、「色のある・夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界にあこがれた。プール女学院在学中に宝塚音楽学校に合格。1947年に宝塚歌劇団入団。入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役としたが、1952年『源氏物語』の初演で可憐で無垢な若紫を内・外面とも見事に表現し絶大な評判と人気を博した。以降は美貌・清純派の娘役として宝塚の一時代を風靡。同年から劇団内に新設された映画専科に所属した。その他、1951年の『虞美人』、1952年の『ジャワの踊り子』に出演している。 宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなし、当時の『お嫁さんにしたい有名人』の統計でたびたび首位に輝いた。 1957年5月31日付で歌劇団を退団。退団後も、舞台をはじめ、映画・テレビ・ナレーションなど幅広く活躍している。ドラマでは“浮世離れしたお嬢さん出の奥様”役が多い。

金語楼(きんごろう);初代柳家 金語楼(やなぎや きんごろう 1901年2月28日 - 1972年10月22日、満71歳没)は、喜劇俳優、落語家、落語作家・脚本家(筆名・有崎勉)、発明家、陶芸家。本名・山下敬太郎(やました けいたろう)。落語家時代の出囃子は『琉球節』。禿頭を売り物にし、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として知られた。戦前は主に吉本興業(東京吉本)に所属し、戦後は自ら「金星プロ」を立ち上げた。
 1907年二代目三遊亭金馬一座で天才少年落語家としてデビュー。三遊亭金登喜(きんとき)を名乗る。 1913年頃 三遊亭小金馬を襲名し二つ目昇進。 1920年6月 三代目柳家小さん門下に移り、初代柳家金三で真打昇進。 1921年 軍隊に入隊。戦地で突然体中に紫色の斑点が出て衛戍病院で診察を受けると紫斑病と診察される。薬を貰い5日ほどで斑点が消え完治するが、その薬の副作用で体中がヒリヒリし髪の毛が途端に抜け落ちた。 1922年 除隊。新作の「噺家の兵隊」で売り出す。兄弟子初代柳家三語楼門下に移籍。 1924年6月 初代柳家金語楼となる。 1930年 6代目春風亭柳橋等と日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成。 1942年 警視庁に落語家の鑑札返上。(噺家廃業) 落語家を廃業したのは戦時下のことであり、二足のわらじを当局が許さなかったため、やむを得ず行ったもの。従って、戦後も落語と縁が切れたわけではなく、有崎勉(「勤め先あり」のモジリ。また「勉強すれば先が有る」の略とも)のペンネームで新作落語を毎月発表。五代目古今亭今輔、五代目春風亭柳昇等がこれを演じた。また、自身も無所属ながら機会があるたびに高座に上がっていた。主な作品は、古典の改作物「きゃいのう」・新作では「酒は乱れ飛ぶ」「笑いの先生」「アドバルーン」人情噺風の「ラーメン屋」など、五百あまりの作品がある。
 発明家としても著名。学童が体育の授業時に被る「赤白帽」や、爪楊枝の頭に折り取り用の切り込みを設け箸置きのようにして使うアイデアを実用新案登録し、莫大な副収入を得た。

塩原太助(しおばらたすけ);(寛保3年2月3日(1743年2月26日) - 文化13年閏8月14日(1816年10月5日))は、三遊亭円朝の「塩原多助一代記」で有名な江戸時代の豪商。幼名は彦七。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた。こうしたサクセスストーリーが、多くの人々の心をつかんだ。戦前には立志伝型人物として教科書にも登場した。
 1743年 上野国利根郡新治村(現在の群馬県みなかみ町)に生まれる。
1761年 江戸に出る。 1785年 炭屋山口屋で奉公。勤勉な働きぶりで蓄財に励む。後に独立し、大商人に成長。 木炭の粉に海藻を混ぜ固めた炭団を発明し大成功する。富豪になってからも謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。 落語「塩原太助一代記」に詳しい。

晦日に危ない(みそかにあぶない);息子健ちゃんが親父に言う台詞。酒飲みで金が無いので、支払いの期限月末(晦日)になったら使われてしまうから。

貯金(ちょきん);普通預金で、郵便局では、「貯金」と言い、銀行では「預金」と言います。同じ物なのにね~。



                                                            2015年12月記

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