落語「三年目」の舞台を行く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「三年目」(さんねんめ)


 

 人間は悔しいことがあると気が残ると言います。
夫婦の縁はなかなか深いもので、「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世、間男はヨセ」と言います。

 ご夫婦でも、病人が居ると家が暗くなります。当時の医者は病気が良く分からないので、薬は見当で置いて行った。もらった病人も、医者が来たというその気で治った。
 そこの奥様は薬をもらっても飲まなかった。医者を6人変えて、そのお医者様は皆首をかしげて治る様子は無いと言った。今のお医者様も旦那を屏風の影に呼んで、長いことは無いから言い残すことが有ったら聞いてやりなさいと言った。それを奥様が聞いてしまった。

 話を聞くと気が残って死ねない訳があるという。それの心残りは、「貴方は若いし、店の主人だから廻りから、後添えをもらえと言うでしょう。次の奥様のことを考えると死ねない」、「私は一生独身で居るよ」、「貴方がどんなに言っても廻りから勧められたらもらいますよ」、「そんなに疑うのだったら、結婚式の晩に幽霊になって出ておいで。新妻は目を回すし、翌日には帰ってしまう。次の嫁さんをもらっても同じように出てくれば、朝になったら帰ってしまうだろう。その噂が出たら世話する人も無くなるよ」、「出てもよろしいですか」、「私もお前に会いたいんだから出ておいで」。安心したのか、奥様は亡くなった。
 案の定、百か日も過ぎると親戚から後妻の話が来て、最後は断り切れずもらうことにした。

 婚礼の晩、自分だって恐いような気になって、新妻を寝かせ一晩中起きていたが出なかった。「あんなに約束したのに。そうか、十万億土から来るのでそうは早く来れないだろう」、と言うことで翌日も待ったがお菊さんの幽霊は出なかった。それから昼間寝て夜起きていた。一月経ったが出て来ない。元々物分かりの良い旦那だから今までのことは忘れ、新しい嫁さんを大事にした。間もなく男の子が出来た。2年が経って、3年目の墓参り。

 その晩に限って寝付けなかった、女房は死んだように隣で眠りこけていた。お菊だって元気なら、子供をもうけて居るだろうな。死ぬ者貧乏とはこんな事か。何処かで八つの鐘が鳴り、行灯の灯が丁子が溜まったのか暗くなって、障子に髪の毛がサラサラと触れる音がした。見るとお菊の幽霊が立っていた。「お菊じゃないか」、「恨めしい」、「恨めしいだと。お前みたいな嘘つきは知らないよ。婚礼の晩に出てくると約束したじゃないか。分からない女になったね。今更言ったってダメだよ。あれだけ約束したんだから、1月も2月も夜寝ないで待っていたんだ。冗談じゃ無いよ」、「あたしだって、婚礼の晩、赤ちゃんが出来たことも知っています。出てきたかったのは山々ですが、出てこれなかったんです」、「どうしてなんだ」、「私を棺に収めるとき皆で丸坊主にしたでしょ。ごらんなさいな。婚礼の晩に尼さんの格好では出られませんよ。髪が伸びるまで待ってと思って、丁度三年目でこれだけ伸びたの。尼さんの格好で出たらお前さんに愛想を尽かされるのではないかと、髪の毛が伸びるまで待っていました」。

 



ことば

親子は一世、夫婦は二世、主従は三世、間男はヨセ;親と子の関係は現世だけのものであり、夫と妻の関係は前世と現世あるいは来世の二世にわたり、主人と従者の関係は前世・現世・来世にわたるものであるということ。封建社会における主従関係の強い結びつきをいいあらわしている。
 最後の「間男はヨセ」は志ん生の洒落。間男はよしなさいよ。

気が残る(きがのこる);志ん生はマクラで、虱(しらみ)を捕まえ、それをビンに入れて口を硬く締めた。1年後どうなったかと思い蓋を取ると、シラミが飛び出してその男の目に飛び込んだ。男の片目が失明した。虱にも気が残っていたのであろう。人間でも同じ。

医者(いしゃ);江戸時代の医者は一般的には徒弟制度で、世襲制であったが、誰でもなれた。 しかし、医師免許も教習もなければ資格もなかった。なる資格は”自分が医者だ”という、自覚だけであった。医者になると、姓を名乗り、小刀を腰に差す事が許された。
 日本に医師免許規則が出来たのは、明治16年(1883)になってからで、治療法も東洋医学から西洋医学へと変わっていきました。
 江戸時代の医者は市中で開業している町医者のほか、各藩のお抱え医者、幕府の御典医まで居て、種類、身分、業態は様々であった。医者は大きく分けて、徒歩(かち)医者と駕籠(かご)医者とがあった。つまり、歩いてくる医者と駕籠に乗ってくる医者であった。例えば文化文政(1804~1829)の頃、徒歩医者が薬1服(1日分)30文とすると、駕籠医者は駕籠賃を含めて薬1服80~100文と高価であった。この頃、職人の手間が400文であった。高くても往診に来てくれと言う、名医であったら、別に食事代も付けたりした。
 医者は当然ご用聞きが出来ず、患者が来るまで待たなくてはいけない。幇間のように金持ちの旦那にべったり付いていた医者もあります。落語の中にはこのクラスの医者がゴマンといます。店(おたな)で病人が出ると、「あの医者はいけません、本当の医者に診せないと殺されてしまう」、と言う物騒な医者も居ます。また、”ヤブ医者”ならまだしも、ヤブにもならない”タケノコ医者”ではもっと困ったものです。落語「夏の医者」にも出てくる医者は、忙しくないので、患者が居ない時は畑仕事をしています。薬は葛根湯しか出さない”葛根湯医者”や、何でも手遅れにしてしまう”手遅れ医者”は落語界では大手を振って歩いています。

 料金に公定相場はないので、自分で勝手に付けられましたが、名医ならば患者が門前市をなしますが、ヤブであれば、玄関に蜘蛛の巣が張ってしまうでしょう。で、自然と相場のような値段が付いてきます。またヤブは自然淘汰されていきます。ですから、無能な者が医者だと言っても長続きはしませんでした。
 落語「死神」から孫引き

百か日(ひゃっかにち);四十九日法要のあとは、死後100日目の「百か日法要」を行います。 遺族の悲しみをリセットするための法事になります。 百か日とは、亡くなられた方がご先祖様として祭られる初めての法要。

十万億土(じゅうまんおくど);この世から、阿弥陀仏がいるという極楽浄土に至るまでの間に、無数にあるという仏土。転じて、極楽浄土のこと。非常に離れている意味にも用いられる。

死ぬ者貧乏(しぬものびんぼう);生きていればいつかはいいこともあろうが、死んでしまった者は最も損であるということ。

八つの鐘(やつのかね);幽霊が出てくる深夜2時頃に鳴らされる時の鐘。
右図;浅草寺の弁天山にある鐘撞き堂。浅草弁天の手前に有ります。(現在地に同じ)江戸名所図会より

幽霊(ゆうれい);恨めしいと言って、足は無く、髪はおどろに乱し、額に三角布を付け、両手をだらりと下げて丑三つ時に現れるのが定番。落語の世界では色々の幽霊が居て、昼間に出てきた幽霊、「何でこんな時間に出てくるのだ」、「だって、夜は恐いんだもの」。また、「私は死んだら幽霊になって出るから・・・」、「お前は幽霊にはなれない。化け物だ」。美人は幽霊になれるが、不美人は化け物になってしまう。この噺のお菊さんは、亭主に愛想づかしをされないために髪が伸びるまで待っていた。可愛いではないか。
 江戸の夜は恐かった。夜の街を照らすのは月明かりと星明かりの他、所々で掛行灯と提灯がぼんやり照らしているだけ。電灯やガス灯が出来るのは明治に入ってからです。それまでは屋外に有る便所にも恐くて行けなかったし、立木が雨戸に触れる音だけでも恐かった。

丁子が溜まる(ちょうじがたまる); ちょうじ‐がしら【丁子頭】灯心のもえさしの頭にできた塊。形が丁子の果実に似ているからいう。広辞苑
 ロウソクの芯が燃えていると、先端が丸まってきて、燃えにくくなる。これを丁子が溜まると言います。幽霊が出てきて、炎が暗くなること。寄席の終わりに出る真打は、この丁子を切って明るくするところから芯を打つ=真打と言う言葉が出たとも言います。右図;丁子



                                                           2014年12月記

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