落語「看板のピン」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「看板のピン」(かんばんのぴん)


 

 若い者は寄ると触るとサイコロ賭博を始めます。
 そこに昔の親分がやって来た。負けた奴ばかりが残ったので、筒(どう)をやってくれと頼まれた。やりたくないが、歳をとったので目が良く見えないと言いながら壷を振った。サイコロが飛び出してピンが出ていた。「さ~、はれ。勝負はこの壷の中だぞ」。皆、飛び出したピンに張った。中には褌に挟み込んだ金まで出して張った。「もう一度言うぞ。勝負は壷の中だ」、「へい、分かっています」、「いいか、ピンに皆張って偏ったが、残りの目が出たら俺の勝ちだ。で、看板のピンはこちらに閉まって」、「ええ!」、「勝負は壷の中と言っただろう。俺の睨むところ、中はグだ」。若者があっけにとられている中、壷を開くと言ったとおりの”グ”であった。親の総取りになるが、若い者の金だから、もうするなと言って返してあげて、小遣いも置いて行った。
 皆は感心し、止める者もあったが、この手があるのかと他で挑戦する奴も居た。

 「お~い、博打やってるな」、「馬鹿野郎、親孝行やってるんじゃ無い。大きな声を出すな」。仲間に加わり、親を取らせてもらった。先程の親分が言ったとおりの台詞で「俺は歳をとったから」、「お前は23才じゃないか」、「目が良く見えないし、手元も狂う。20年ぶりだ」。看板のピンは上手く壷の外に出した。皆は当然ピンに張った。場が偏った。
 「勝負は壷の中だ。で、看板のピンは閉まって。勝負は壷の中と言っただろう。俺の睨むところ、中はグだ。アッ、、、中もピンだ」。

 



 物まねで成功するのは難しい

1. サルが、高い木の上に座って、漁師たちが川に網を投じるのをじいっと観察していた。しばらくすると、漁師たちは、食事のために、土手に漁網を残して帰って行った。
 ものまね屋のサルは、木のてっぺんから下りて行き、漁師たちの真似をしようと、漁網をとって、川の中へ投じた。しかし網が体に絡みつき、サルは溺れてしまった。 サルは、死に際に独りごとを言った。
「こんな目に遭うのも当たり前だ。網など扱ったこともない者が、魚を捕らえようとするなんて、一体どういう了見だったのだろう」。
イソップ集より

2. 川のそばで木を切り倒していた木こりが、ひょんなことから、斧を川の深い淀みに落としてしまった。木こりは生活の糧とする斧を失ってしまい、土手に座り込んで、この不運を嘆き悲しんだ。すると、マーキュリー神が現れて、なぜ泣いているのかと尋ねた。木こりがマーキュリー神に自分の不運を語ると、マーキュリー神は、流れの中へ消えて行き、金の斧を持ってきて、彼がなくしたのはこの斧かと尋ねた。木こりが自分のではないと答えると、マーキュリー神は、再び水の中へ消え、そして手に銀の斧を持って戻ってきた。そして、これが木こりの斧かと尋ねた。木こりはそれも違うと答えると、マーキュリー神は、三度川の淀みに沈んで、木こりがなくした斧を持ってきた。木こりは、これこそ自分の斧だと言って、斧が返ってきた喜びを神に伝えた。すると、マーキュリー神は、木こりが正直なことを喜んで、彼自身の斧に加えて、金の斧も銀の斧も木こりに与えた。
 木こりは家に帰ると、起こったことを仲間に話して聞かせた。すると、その中の一人が、自分も同じような良い目を見ようと考えた。男は川へ走って行くと、同じ川の淀みにわざと斧を投げ込んだ。そして、土手に座ってしくしく泣いた。すると、彼が思った通りにマーキュリー神が現れて、男が嘆いている理由を知ると、流れの中に消えて行き、金の斧を持ってきて、彼がなくしたのはこの斧かと尋ねた。欲に駆られた木こりは、金の斧をしっかりと抱えると、これこそ間違いなく自分がなくした斧だと言った。
 マーキュリー神は、男の不正直に腹を立て、金の斧を取り上げただけでなく、彼が投げ込んだ斧も持ってきてやらなかった。
イソップ集より

 

ことば

サイコロ賭博(さいころとばく);サイコロで行う博打に、一個でやる「ちょぼいち」、二個でやる「丁半」、三個でやる「チンチロリン」(狐)があります。この噺では「ちょぼいち」が行われていた。

 この親分は、昔鳴らしたすご腕の博徒だったのでしょう。一個のサイコロでやっているゲームなのに、もう一つ看板のサイコロをはみ出さしたように置くなんてスゴイ。その上、中の目まで当てるのですから。素人を騙すのなんか朝飯前。偶然で成り立つゲームなのに分からないうちに仕込んでしまう、その腕に掛かったら、根こそぎ取られてしまうのは時間の問題。ま、素人が真似しようなんて思ったって、俗に十年早い。 

・ちょぼいち(樗蒲一);ちょぼとはサイコロの別称でサイコロ1個を使って勝負するところからこの名がついたと言われます。第38話落語「しじみ売り」に細述、この噺以外にもこの噺の「看板のピン」、「狸賽」があります。
 客は何人でもよく、筒親(どうおや)が用意した一から六までの数字が書いてある紙または板の数の上に、思い思いに金銭を賭け、筒親はさいころ1個を壺(つぼ)に入れて振り出し、出た目と同じ数字の上の賭け金にはその4倍を支払い、そのほかの賭け金は筒親がとる。 

・丁半博打;2個の賽子を振って出た目の合計が”丁”(偶数)か”半”(奇数)かを当てるもの。第39話落語「猫定」に細述。

 ”思うツボ”はサイコロ賭博で丁か半かの壺の中のサイコロの目を思い通りに的中させること。
また、”はったり”も「さあ、張った、張った」という呼びかけの言葉からできたといわれる。
 張った金をすぐ勘定できる者を盆が明るいと言い、逆にそれができない者を”盆暗野郎”と言った。今言われる”ボンクラ野郎”はこの賭場の盆からきている。

チンチロリン;参加者のうち1人が親に、残りが子になる。子は場に「コマ(駒)」(お金)を「張る」。親からサイコロを振っていき、親とそれぞれの子との勝敗が決まると勝ち負けに応じた配当が親と子の間でやりとりされる。  道具立てもさして必要としないうえ、胴元が固定しているのではなく親の権利が順番に回って来る「回り筒」のため、日本の伝統的サイコロ賭博である丁半のように賭場の開帳に暴力団が関与することもなく仲間内で遊ばれることが通常だと考えられる。

・”ピンからキリ”も博打から来ていて、最上等のものから最下等のものまで。最初から最後までの意。
ピン=1、(pintaポルトガル語の点の意) 。カルタ・賽の目などの1の数。最上のもの。サイコロの色は赤。
キリ=10。クルス(cruzポルトガル)の訛。十字架の意から転じて、十の意。または、それが最後で(キリのないこと)。(花札の桐=12月)から最後の札。

サイコロ(賽);双六・博奕などに用いる具。角・象牙・木・焼き物などの小形の立方体で、その6面に、1・2・3・4・5・6の点を記したもの。さいころ。「骰」「賽」とも書く。

 これだけ沢山あれば、好きな目を選べる?  ピン(1)の裏は6、2の裏は5、3の裏は4と決まっていて、上下を足すと7になる。6が出ると裏ピンとも言う。

 以上落語「狸賽」より、一部加筆。

;博打の賽の目の数で、五。  

(どう);親。博奕などで、賽を入れて振る役。賭博などのために席を貸してその出来高の歩合を取る人。筒元。筒取。広辞苑



                                                           2014年12月記

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