落語「無精床」の舞台を行く
   

 

 十代目桂文治の噺、「無精床」(ぶしょうどこ)より


 

 女性の床屋さんは良いのですが、男はいけませんね。息など掛かると不潔で耐えられません。蒸しタオルで顔を湿してくれますが、「親方熱いじゃないか」、「熱くて持っていられなかったもんで・・・」。
 待つのがやだからと空いている知らない床屋に飛び込んでみたら、ずぼらで不潔な床屋があるもんです。

 「こんちはァ~」、「何だい」、「何だいとはおかしいなぁ、今日はお天気で・・・」、「俺のせいじゃないよ」、「やってもらいたいのですが」、「何処に、何をやるの。俺んとこは運送屋じゃ無いよ」、「頭を刈ってもらいたいだよ」、「景気が悪いのかな、頭を買ってくれなんて」、「イイ男にして貰いたいんだ」、「イイ男にはならないが、金は出すのか? じゃ~、客じゃないか。黙って来れば良いんだ」、「一つお願いするよ」、「頭は一つだ」。
 「親方大きなハサミだね」、「ハサミが壊れたんで、植木バサミだ。やるのは俺だ。任せておきな」、「やる前に、白いキレは掛けないのか」、「寒いのか」、「毛が入る」、「後で床は掃くし、着るものは叩くからイイ」、「やはり親方だね。上手い」。「これで終わった。ヒゲは小僧がやるから。お~ぃ、ドブ掃除なんかやってないでこっちに来い。手なんか洗わなくてイイ。今日は丁度イイ客が来たからやってみろ。震えていないで髭を剃りな」、「親方、アンタがやってくれよ」、「俺は煙草を吸うんだ。小僧はいつも犬のケツをやるんだが、今日は噛みつかれない」。
 「小僧さん初めてかい。幾つになる」、「九つ。届かないから足駄はいている」、「そんな高い下駄履いて震えられたら大変だ。転ばないでおくれ」、「そんな事言ったって、転ぶかも知れない。転んでも怪我しないョ。でも、お客さんを切っちゃうかも知れない」、「その前に、湯で顔を湿してくれないの」、「お湯飲むの。親方は『湿すことはしなくてイイ』と言うんだ。どうしてもなら、ヨダレ垂らしてもイイよ」、「上手いな。柔らかいね」、「まだやってません」。
 「イテテ、痛いな。親方ぁ~」、「多少は痛いよ。女の子が顔をなぜているんじゃ無いんだから。金(かね)が触れているんだ。多少は痛いが、それを我慢するのが男だ。秀吉や家康も我慢した。二宮金次郎だって同じだ」、「イテテ、痛いよ」、「みっともないよ、嫁に来た晩じゃ有るまいし」、「痛いよ。親方」、「カミソリ見せろ。それは下駄の歯を削ったやつだ。使うのはこれだ」。
 「親方、片っぽの眉毛無くなったよ」、「鼻が隣に無いんでおかしいなと思ったんだ。それでは、こちらも」、「あらら、両方やっちったよ。玉三郎みたいになっちゃった」、「自惚れが強い客だね。役者にこんな間抜けな顔は無いよ」、「眉毛剃られて、間抜けまで言われりゃ~せわない・・・」、「済まねェ~、弘法も筆の誤り。バカヤロウお前がヘマするからだ。お客さんの前で何だが・・・またキョロキョロしている」、「表を綺麗な女が通る。その向で犬がつるんでいる」。

 「お前は俺の言うことが分からないのか」、「イタタ、小言言っているのは小僧さんで、頭を叩かれたのは私の頭だ」、「あすこまで手が届かねぇ」、「こんな所で間に合わせちゃイヤだよ。あ~、切ったよ。血が出てきた」、「いつもはカミソリの背中で叩くのが、刃で叩いちゃった。深くやっちゃったな。死ぬようなことは無い」、「冗談言っちゃぁいけね。死んじゃったらどうするんだ」、
「な~に、心配するな。隣は葬儀屋だ」。

 



ことば

笑いが多い噺で、落語家さんによっては違う話を入れています。

 頭を濡らしてもらおうと頼むと、水桶にボウフラがわいている、「おい親方、ボウフラなんか湧いてるのかよ」、「これぁ飼ってんだよ。水桶をこう叩くだろ。そら、沈んだ。かわいいだろ。その間に頭濡らしとけ」、「ボウフラが上がってきちゃった」、「もう一度叩きな。沈んでいる間に濡らしなよ」。 頭を剃る段になると、小僧に剃らせようとする。「おい大丈夫かい」、「何言ってやがんでえ。うちの小僧にも稽古させねえといけねえ」、「俺は稽古台か」。しぶしぶ剃刀を当てさせると、案の定痛くてたまらない。聞くと下駄を削った剃刀で剃っているという。剃刀も親方に代わってもらうが、親方は客の頭がデコボコで剃りにくいとこぼす始末。

 オチにもいろいろあって、
 犬が店に入ってきた。「この犬は前に間違って客の耳を削ぎ落したら、拾って食っちまったんで、またきやがった」、客は声を無くしている、「今日は駄目だ!あっち行ってろ。どうしても行かねえか・・・、しょうがねえなぁ~~、済まねえが、お前さんの耳をあげてもいいかい」、「冗談言っちゃいけねえ」。

 「あ、イテッ。あ~ッ、血が出ちまったじゃあねえか。親方、どうしてくれるんだ」、「なあに、縫うほどのものじゃねえ」。

こばなし・無精
 あるところにとても無精な親子がいた。ある日、親子は神棚の火を消し忘れて寝たために家が火事になってしまうが、この親子は火を消すのがめんどくさいからと言っていつまでも消火をしようとしない。そうこうしているうちに、火は家中に広がり、果てには布団にまで引火して二人の足も焼け始めるが、それでも二人はめんどくさいと言い、遂には焼け死んでしまった。死後、二人は閻魔大王様に「自身の無精から死んだだけにとどまらず、延焼で近所の者にまで多大な迷惑をかけた」と言って、その罪から次に生まれ変わる時は獣に生まれ変わらせるが、お情けとして二人の好きな獣にしてやる、と言う。すると、親子は「真っ黒で、鼻に白い点々がある猫に生まれ変わらせて下さい」と言う。閻魔様が理由を聞くと、「夜、寝ていると白い点々を米粒だと勘違いしてねずみが寄ってくるから、食事がめんどくさくならなくて済む」と答える。最後の最後まで、無精な親子なのであった。

 無精な人が旅していたが、だんだん腹が減って来た。むすびが有るんだけど出して食うのも面倒だった。そこに人が来た。「口を開けて来る奴が来ら、ヤツはよっぽど腹が減ってんだな。ヤツにこのむすび降ろさせ出させ、ヤツにもやりゃイイんだから、で俺も食やイイんだ。口を開いてる者は腹が減ってるんだ。もしもし・・・」、「何だ」、「あなたぁ、済いませんが私の背負ってるむすびを出してくれませんか。お前さんにも上げますから私も出して貰って食べるんで、面倒臭くって出すのが嫌なんだ」、「あ~、そーですか。私も面倒臭えから嫌だ」、「だってお前さん何だろ~、お腹減ってんだろ。口あいて歩いているじゃないか」、「腹減ってんじゃ無い」、「どおしたの」、「うん、懐手してね、今笠の紐が解けそうに成ってんだけど、其れ結ぶのが面倒臭ぇから口を開けて顎で突っ張ってるんだ」。

髪結い;「かみゆい」と仮名を振りますが、江戸っ子は「かみい」と発音していました。髪結い床は「かみいどこ」です。江戸時代から明治にかけての理髪業に従事する人を総称する言葉で、今の理容師のこと。 男性の髪を手がける男の髪結いで「髪結い床」という自分の店を持つものは床屋とも呼ばれたが、女性の髪を手がける女髪結いは遊郭や顧客の家を訪問して回った。

 男性の髪結いは、月代(さかやき)が広まった室町後期に一銭程度の料金で髪を結い月代を剃った「一銭剃」(いっせんぞり)が起源である。召使がいる武士と違い、庶民は自分で月代を剃ることができず髪結いに頼んでいた。髪結いは町や村単位で抱えられ、床と呼ばれる仮店で商売を行ったため床屋とも呼ばれる。 床屋が特に多かったのは独身男性が多い江戸だったが、江戸の男性はかなり頻繁に床屋に通っていたらしく床屋は番所や社交場としても利用された。江戸や大阪・京都では、床屋は幕府に届出して開業した後は町の管理下で見張りなどの役割を果たしており番所や会所と融合したものを内床、橋のそばや辻で営業するものを出床、道具を持って得意先回りをするものは廻り髪結い(落語「髪結新三」)と呼ばれた。 当時の床屋は現在の美容院と違って客の髭を剃ったり眉を整えたり耳掃除までしていたため、かなり長い年月の修行が必要になる技術職でもあった。床屋の料金は天明年間でおおよそ一回280文前後で、月代・顔剃り、耳掃除、髪の結いなおしをする。
 一方、得意先と年季契約して出張する「廻り髪結い」は大店などに抱えられており、主人からは一回100文前後、ほかの従業員はその半額程度の料金を取った。決められた料金のほかに、食事を出してもらう契約のところもあり、また祝い事のご祝儀なども届けられるなど、腕のよい髪結いならそれなりに余裕のある暮らしを送っていたようである。

秀吉(ひでよし);豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、天下人、関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信忠の遺児・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。
 大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ功名立志伝が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
写真:豊臣秀吉像(逸翁美術館蔵)

家康(いえやす);徳川 家康(とくがわ いえやす)、または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人で海道一の弓取りの異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。松平元信時代からの通称は次郎三郎。本姓は私的には源氏を称していたが、徳川氏改姓と従五位の叙任に当たって藤原氏を名乗り、少なくとも天正20年(1592)以降にはふたたび源氏を称している。
 徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した。 家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代。
 元和2年(1616)、駿府城にて死去する。享年75。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)。家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として薬師如来を本地とする神格化された。
写真:徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

二宮金次郎(にのみや きんじろう);二宮 尊徳(にのみや たかのり)は、江戸時代後期の農政家・思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い。
 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓・利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。14歳のとき父・利右衛門が死去、2年後には母・よしも亡くなり、尊徳は伯父・万兵衛の家に身を寄せることとなった。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、24歳で生家の再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180cm強)を超えていたという伝承もある。 また体重は94kgあったと言われている。生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老・服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩主・大久保家の分家であった旗本・宇津家の知行所であった下野国桜町領(現在の栃木県真岡市、なお合併前の二宮町の町名の由来は尊徳である)の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。
 尊徳をまつる二宮神社が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)などにある。 報徳二宮神社の尊徳像には「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」という言葉が掲げられている。
写真:報徳二宮神社ホームページより 二宮尊徳。

玉三郎(たまさぶろう);五代目 坂東玉三郎(ごだいめ ばんどう たまさぶろう、1950年(昭和25年)4月25日 - )
 歌舞伎界を背負って立つ立女形。評価の高い舞台での美しさと存在感に加え、昭和歌舞伎を代表する大役者・六代目中村歌右衛門亡き後、かつて歌右衛門がつとめた数々の大役を継承して新しい境地を確立している。若くしてニューヨーク・メトロポリタン歌劇場に招聘され、アンジェイ・ワイダ、ダニエル・シュミット、ヨーヨー・マら世界の超一流の芸術家たちと多彩なコラボレーションを展開するなど、その影響と賞賛は世界的なものである。また、映画監督・演出家としても独自の映像美を創造した。その他にも、演劇全般に関する私塾「東京コンセルヴァトリー」の開校や熊本の八千代座保存への協力など、演劇以外にも活躍している。また歌舞伎だけでなく、10代半ばよりレッスンを受けたバレエの実力も、プロ・バレリーナと一緒に踊りをこなしても何の遜色もないどころか、玉三郎自身が一バレエダンサーとしての評価にあずかるほどのものがある。近年は歌舞伎と縁の薄い邦楽の演出も手がけている。
 五代目玉三郎は、梨園の出でないばかりか、小児麻痺の後遺症をリハビリで克服したこと、その影響で左利きとなったこと、女形としては破格の長身であること(公称173センチ、かぶり物などをすると190センチ台になる)、芸風や活動方針を巡って六代目歌右衛門との間に永年の確執があったこと(後年和解)など、数々の苦難を克服しつつ精進を続けて今日の地位を築きあげた、現在の歌舞伎界における希有の存在である。
写真:玉三郎ホームページより 「雪」を舞う玉三郎。

弘法も筆の誤り(こうぼうもふでのあやまり);弘法とは嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり) と共に平安時代の三筆の一人に数えられる弘法大師(空海)のことで、真言宗の開祖。「弘法筆を選ばず」の弘法が天皇の命を受けて應天門の額を書いたが、「應」の字の一番上の点を一つ書き落とした。そこから、弘法のような書の名人でさえ書き損じることもあるものだと、失敗した際の慰めとして、この言葉は使われるようになった。
 しかし、弘法は書き損じた額を下ろさず、筆を投げつけて見事に書き直したことから、本来この言葉には、「弘法のような書の名人は直し方も常人とは違う」といった賞賛の意味も含まれている。
 なお、この大内裏八省院の正門應天門はその後、貞観8年(866)に起こった應天門の変の火災で焼失して額もろとも、現在では見ることが出来ません。
 「弘法にも筆の誤り」ともいう。同義語で、「
猿も木から落ちる」、「河童(かつぱ)の川流れ」。

伴大納言絵詞より、應天門炎上の場面 



                                                            2016年1月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system