落語「片袖」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「片袖」(かたそで)より


 

 昔、泉州堺の住吉っさんの神主で山之上松太夫といぅ人がございました。この人の娘が死にまして幽霊となって六部に我が家へ言付けをした、と言ぅてございます。ただいまでも平野の大念仏へまいりますと幽霊の片袖といぅ宝物が残っとぉります。謡曲にも似たような話が有ります。

 三隅亘(みすみわたる)の所に来たオッチョコチョイが形見分けをもらいに来たという。「それは死んだ人の形見を分けるので、私は死んでいない」、「世間では『あの人は、業病を患っている』、『それでケットウがぶって寝ているな』等というので、死ぬ前にもらいに来ました」、「噂になっているか。それは聞き違いで業病は強盗、ケットウでなく窃盗と言ったんだろう」、「そうかも知れません」、「俺はやっているんだ。これだけのことを言ったんだ、ここから出さんぞ。手下になれ」、「親も居ますし妹も居るから・・・」、「生活は俺が面倒見る」、断ったが短刀突きつけられて、子分の約束をした。

 昨日葬儀がありませて、その葬儀は山之上松兵衛という造り酒屋の十八のお嬢さん。結婚が決まっていて、着物も別染で、最後の着物は間に合わなくてお嬢さんが庭先で手縫い。そこにガマガエルが出てきてお嬢さんに飛びつくなり、悲鳴を上げて、そのまま死んでしまった。悲しんだ親は着飾って小判も入れて葬った。「その墓を暴いて金品奪おう」、子分は嫌がったが、墓の場所も分かっているので案内させた。

 夜になって南は、今宮の戎(えべす)さんの飛田は薄暗いところ。塀を乗り越え新墓を見つけ、掘り返して中身を全部盗み、丁寧に埋め戻した。
 帰って売りさばくと150両という金になった。子分に半分の75両を分け与えて家に返した。三隅亘は押し入れから娘の着ていた着物を引き出して、片袖を丁寧に取り外し、他は細かく切り裂いて床下に深く埋めてしまった。道具類一切を売り払い行方をくらましてしまった。
 再び大坂に戻ってきたのが、娘の百ヶ日。六部の姿格好で山之上家の前に現れた。主人に仏間に通されて回向をし、話し始めた。「(片袖を見せて)これに見覚えがありますか」、「これは、娘に着せてあげた着物。どうして貴方様の手に・・・」、「越中立山のほとりに地獄があるという。回向せんが為、その幽霊谷に足を踏み入れた。経文を読んでいると数多の亡霊が現れ恨みを述べる中に、一人の美女がすり寄ってきた。『私は大坂住吉町山之上松兵衛の娘、親の流す涙が火の雨となって難儀をしています。高野山に永代経と祠堂金をお納め願いたい』との御伝言。幽霊の言付けも如何なものかと断れば、娘の片袖を渡され、ハッと我に返って夢かと思いしが、握られた片袖。その片袖がこれです」、両親泣き崩れるのみ。「六部様はいずこに・・・」、「雲のように流れて、高野山に参ります」、「それでは50両納めていただきたい」、「大金のこと故、ご自分で祠堂されたい」、「いえ、一日でも早く娘を成仏させたいからお願いします」、「(母親も)私のヘソクリの50両も加えてお願いします」、「これはこれは、御奇特なこと、確かにお預かり申した。50両に50両、合わせて百両百ヶ日、追善供養・・・」、と立ち上がると、裏の稽古屋から「デンデンデデン、あと懇(ねんご)ろに弔(ともな)われよ」、「さらば、さらば」と見世に出て参りますと、結界から声が掛かった。「おう、番頭さんか。うまく騙(はか)ろがナ」。

 



ことば

片袖(かたそで);時は天保(1830-1844)の初め頃、大坂での話、下記の町の噂話が元になった落語です。

・大阪平野(ひらの)の大念仏(だいねんぶつ)寺に伝わる「幽霊の片袖」がベースとされていますが、全国各地にさまざまな「幽霊の片袖」が伝承されています。
・マクラで、昔、泉州堺の住吉っさんの神主で山之上松太夫といぅ人がございました。この人の娘が死にまして幽霊となって六部に我が家へ言付けをした、と言ぅてございます。
・上本町の酒問屋の小町娘・お糸が恋人の片袖を抱きしめて死んだと言ううわさ。
大念仏寺の墓が暴かれた事件、
・道頓堀で忠臣蔵六段目が大評判でロングランした事件、等を元に作られた。


泉州堺の住吉っさん;住吉大社(すみよしたいしゃ)は大阪市住吉区住吉二丁目9にあり、大和川の北に位置するので、攝津の国に属すると思いがちだが、江戸時代(1704)に大和川が開削されるまでは泉州堺の一帯とみなされていた。また、中世(1336頃)堺が住吉大社の寺領であったことから、港町・堺とのつながりは強い。
 古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一の宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。昭和21年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。 三が日の参拝客数は、毎年200万人を超え、御田植神事や夏越祓神事などは、昔からの儀式を継承し続けておりますし、住吉ならではの初辰まいりなどは、とても有名。

 写真:住吉大社。住吉大社のホームページより

平野の大念仏(だいねんぶつ);大阪市平野区平野上町一丁目7にある大念仏寺。1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。

亡女の片袖:箱根権現参拝の巡礼者が山中で摂津住吉の社人松太夫(まつだゆう)の妻の霊に出会い、平野大念佛寺の道和上人に回向をうけられるよう夫に伝言される。巡礼者は松太夫宅で事の次第を伝え、亡女より証拠にと授けられた片袖と香盒(こうごう)を手渡し、松太夫は上人に回向を願い法要は夜を徹して行われ、お礼に現れた亡女は成仏を告げて消え去るという物語。右写真:大念仏寺に残されている片袖。大念仏寺蔵。

今宮の戎(えべす)さん;今宮戎神社は大阪市浪速区恵美須西一丁目に鎮座し、創建は推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお祀りされたのが始めと伝えられています。戎さまは、ご存知のように左脇に鯛を右手に釣竿をもっておられます。そのお姿は、もともと漁業の守り神であり、海からの幸をもたらす神を象徴しています。当社の鎮座地もかつては海岸沿いにあり、平安中期より朝役として宮中に鮮魚を献進していました。近くに市が立ち賑わいを見せ、現在では、「十日戎」として1月9・10・11日の三日間の祭礼で約100万人の参詣者があります。
 商売繁盛でササ持ってこい・・・。十日戎(えびす)「残り福」で大勢の参拝客が訪れ、人に当たらないよう縁起物の大きな熊手やササを持った人でにぎわいを見せる。

・飛田新地:通天閣の立つ新世界から南に下ると、西に労働者街西成区あいりん地区、中央に飛田新地、東には阿倍野再開発地区があります。住所で言うと西成区山王三丁目、現在は料理屋や大人の歓楽街になっています。当時は暗かったんでしょうね。

三隅亘(みすみ わたる);「(盗人で)身過ぎ(世を)渡る」からの変名?。

謡曲(ようきょく);能楽の詞章。また、その詞章をうたうこと。能の謡(ウタイ)。

業病(ごうびょう);悪業の報いでかかると考えられていた難病。

強盗(ごうとう);暴行または脅迫を用いて、他人の財物を奪い、財産上不法の利益を得、または第三者にこれを得させる犯罪。また、その者。業病と聞き違えた。

窃盗(せっとう);他人の財物をこっそりぬすむこと。また、その人。ケットウ(毛布)と聞き違えた。

造り酒屋(つくりざかや);酒を醸造して売る家。小売の酒屋に対していう。蔵元。

肩癖(けんびき);僧帽筋のこと、またその痛み、凝りのこと。この痛みが上に昇って脳溢血などの病気になり一命にかかわると考えられていた。「肩癖が肩越す」とはこのような状態であること。

六部(ろくぶ);法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には、諸国の寺社に参詣(さんけい)する巡礼または遊行(ゆぎよう)の聖。白衣に手甲・脚絆(きやはん)・草鞋(わらじ)がけ、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。また、巡礼姿で米銭を請い歩いた一種の乞食。六十六部の略。
右写真:熈代照覧より六部。

苦患(くげん);苦しみや悩み。

祠堂金(しどうきん);中世・近世、先祖代々の供養のために祠堂修復の名目で寺院に喜捨する金銭。寺院はこれを貸し付けて利殖した。無尽財。長生銭。

永代経(えいたいきょう);信者から布施を受けるなどして毎年、故人の忌日や春秋の彼岸に寺で永久に行う読経。永代読経。祠堂経。

仮名手本忠臣蔵六段目(かなてほんちゅうしんぐら 6だんめ);早野勘平腹切の段、最後の台詞、「思えばこの金は、婿と舅の七七日(なななぬか)。四十九日や五十両、合はせて百両百ケ日の追善供養、老母の役目、後懇ろに弔はれよ。さらば、さらば」「おさらば」と、見送る涙見返る涙、涙の浪の立ち帰る、人もはかなき次第なり。

 「仮名手本忠臣蔵六段目」 落合芳幾画 弥五郎と郷右衛門に詰め寄られる勘平。江戸東京博物館蔵。

結界(けっかい);帳場(勘定場、会計係)の座机の三方を高さ二尺ばかりの木の格子を組んだものを引き回した。帳場格子。写真下:「結界」、番頭が座る帳場の前に立つ格子が結界。台東区「旧吉田屋酒店」の資料館。

騙る(かたる);だます。



                                                            2016年2月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system