落語「一分茶番」の舞台を行く
   

 

 古今亭右朝の噺、「一分茶番」(いちぶちゃばん。別名「権助芝居」)より


 

 町内の旦那衆が金を出し合って町内の方を集め、酒肴を出して自分たちの芝居を観て貰おう、という時代があったものです。しかし、同じ金を出しているんだから、アレをやりたい、アレはやりたくないという役もめが必ず出るものです。

 今回も稽古までは出て来ていたが、伊勢屋の若旦那が仮病を使って出て来ない。代役を立てなくてはいけないが、飯炊きの権助に白羽の矢が当たった。
 権助曰く、村では役者の権助で通っている。村の鎮守のお祭りで、七段目のお軽を演じた。内蔵助が下から降りてこいと言うので、梯子で下りるところを用意が出来ていなかったので、尻巻くって飛び降りた。お客も黙っていない、「あまっ子が、尻巻くって飛び降りるか。それより尻に毛が生えていたぞ~。今年のお軽はオスだんべぇ~」。
 「そこまでやったのなら、これは祝儀だと1分を権助に渡した」、「わしの給金と同じだ。『鼻紙買え』と言われても、こんなに買ったら鼻が無くなる」。
 「今日は伊勢屋の若旦那が来ないので、権助には『鎌倉山』、非人の権平を演る。役の内容は宝蔵に忍び込み譲(ゆずり)葉の御鏡を奪って、おまえが宝蔵を破って出てくればいいんだ」、「この1分返すべ。正直者の権助だから、番頭さんの頼みでも泥棒は出来ない」、「芝居だから本物じゃない。鏡ったって丸いお盆に銀紙を貼ったもの。鏡を押し頂いて、『ありがてえ、まんまと宝蔵に忍び込み奪い取ったる譲葉の御鏡。小藤太さまに差し上げれば、褒美の金は望み次第。人目にかからぬそのうちにちっとも早く、おおそうだ』と言って引っ込む」、「誰がその台詞いうだ。おらが・・・?、この1分返すべ~。こんな長い台詞を言ったら目を回す」、「お盆の裏にその台詞書いておく」、「本字で書いたらだめだよ。では1分貰っておく」、「そこに山同心がやって来て、その『宝物を渡せ』と大立ち回りになる。立ち回りと言っても喧嘩だ」、「喧嘩では村で負けたことがない。その相手は?」、「紺屋の源さんだ。だけれども本当に舞台で喧嘩してはいけないよ。拳固で当て身を食らう。本当に食らうわけじゃなく、こんなにも離れている。そしたら倒れて縛られる」、「おらは縛られるのはイヤだ。村では正直者で通っている」、「芝居で本当に縛られるのではなく、後ろで細引きを押さえているだけだ。そこで『誰に頼まれた』と聞かれるが、知らぬ存ぜぬと言いはるが、ヒモをキツくこじられ、痛みに耐えがたいというふぜいで、『近江の小藤太様』と言いかけたとき、脇に隠れていた小藤太に口封じで首をはねられる。それでお終いだ」。

 本番になって幕が開いた。

 宝蔵を破って権助さん出て来るのだが、出が遅かったもので突き飛ばされて出て来た。若旦那と間違え、客席から声が掛かるが、権助と聞いてお客は納得。長台詞をつっかえながらやっと読み下したが、客からやじられお客と喧嘩。ハラハラ心配するのは番頭さんばかり。これはいけないと思い、紺屋の源さんを早々に出したが、本当に喧嘩を始めてしまった。さすがの源さんは、当て身の拳固を丸めて出したが伝わらず、ジャンケンと間違える始末。やっと倒れたところを細引きで縛り上げた。
 客から「だらしがないな。権助さん強そうなことを言っているが、縛られてしまったよ」、「これだから素人はイヤだ。ヒモの尻尾を握っているだよ。『ウソだって?』、そんな事無いよ『ホレ』」、と見せびらかせているので、今度は本当にギリギリギリと縛り上げてしまった。源さん、先程殴られているので、芝居どころではありません。鐺(こじり)を突っ込んで、思いっ切りねじり上げて「誰に頼まれた!白状しろ」、
「イタタタ、1分貰って番頭さんに頼まれた」。

 



ことば

本来のサゲはこの噺の「番頭さんに一分で頼まれた」であり、そのために「一分芝居」「一分茶番」等の題がついています。最近では「五十銭で頼まれた」と明治以降の貨幣単位になおしたり、故郷の村芝居でお軽を演じたときの話をメインにする場合もあるので、「権助芝居(茶番)」という題のほうが通りがいいようです。

茶番(ちゃばん);素人が即興に寸劇を行うことで、茶番狂言ともいうが、現在のカラオケのように、幕末期から民間で大流行した。この落語は、江戸時代に盛行した民間における茶番の一端を知る事が出来ます。
 落語「蛙茶番」にも同じように役もめでドタキャンする蛙役や、舞台番が出て来ないので大騒ぎになる噺が有ります。素人芝居では役もめが必ず有るものです。

有職鎌倉山(ゆうしょくかまくらやま);『有職鎌倉山』(浄瑠璃・歌舞伎)は、天明4年(1784)の田沼意知暗殺事件を、謡曲の『鉢の木』に見立てたものという。徳本寺(東京都台東区西浅草1-8)には田沼意知を暗殺した佐野政言(さの まさこと)の墓がある。

 右図:鎌倉山_「勇介-市川団蔵」「女ぼう-中村松江」「有職鎌倉山」。  

 田沼家はもともと紀州藩の足軽の家柄でしたが、吉宗の八代将軍就任とともに江戸へ移り、意次(おきつぐ)の時代に九代将軍の側用人として重用されて出世。意次の時代に相州相良藩主となって、大名の仲間入りをします。父同様に将軍家から信用が厚い意次は、トントン拍子で出世し、幕府老中になると、幕政改革に着手します。
  意次が行った改革とは、それまでの米至上主義から貨幣経済への転換と、商業の奨励でした。これによって経済活動が活性化し、景気も良くなって、幕府は慢性的に悩まされていた財政赤字を立て直すことができました。しかし、急速な資本主義化は、拝金主義や贈収賄の横行などを招き、社会規範の乱れを生みます。また、農業を軽視する政策であったため、農業従事者が離職し、職を求めて都会へと流入。社会不安の拡大や農業の荒廃を引き起こしました。
  しかもこの時期、浅間山が噴火し、天明の大飢饉がおこりました。意次はこの対応に失敗し、多くの餓死者を出します。さらに米価も高騰し、庶民の生活は困窮しました。また、意次は有能な人材なら身分にかかわらず重用しましたが、これによって旧来の秩序を重んじる守旧派から敵視される事となります。こうして田沼政治は次第に世間から批判されるようになって行きます。意知刃傷事件の背景には、そんな時代の風潮がありました。
  意次の長男である意知は、若くして幕府の若年寄に就任しました。政策は父の方針を受け継ぎ、貿易拡大路線を提唱していました。田沼政治はかつての勢いを失ってはいたものの、意知は父の思想をよく受け継ぎ、更なる改革を推し進めようとしていました。その意知が江戸城内で刃傷に遭ったのは、天明4年(1784)3月24日です。意知を切りつけたのは旗本の佐野善左衛門政言(さの ぜんざえもん まさこと)。彼は意知の姿を見掛けると、「覚えがあろう」と叫んで、いきなり大脇差で意知を切りつけました。この時、意知は刀を抜いて応戦することなく、敵に背を見せて逃げ出します。周囲にいた大名が佐野を取り押さえ、別室に逃げ込んだ意知は一命を取り留めますが、この時に負った傷が原因で8日後に死亡しました。翌日、佐野は幕府の命で切腹しました。佐野が意知を斬り付けた理由はよく分かりません。巷説では、出自の低い田沼家が家柄を粉飾するために同郷の佐野家から家系図を借りて返さなかったとか、佐野が漁職のために意知に賄賂を贈ったのに、意知は見返りを与えなかったとか、色々と言われていますが、どれも信憑性に欠く。佐野の後ろに黒幕がいて、意次を失脚させるために意知を殺したのではないかという説もありますが、こちらも決定的な証拠がない。結局、幕府は佐野の乱心ということで決着を図りました。意知が亡くなった後、一時的に米価が下がったため、田沼政治への鬱憤を溜めていた庶民は佐野を「世直し大明神」と称賛する一方、意知の葬送の行列は投石や罵声を浴びせかけられたと言われます。 

 本名題「有職鎌倉山」は、時代物、九段。作者、菅専助・ 中村魚眼。寛政元年(1789)8月(正本は6月刊行)北堀江市の側芝居(人形浄瑠璃)初演。
  天明4年(1784)4月、佐野善左衛門政言が若年寄田沼意知を江戸城中に殺害した事件を題材とし、舞台を北条時頼時代にとり佐野政言を鉢の木の佐野源左衛門常世に仮托した脚色である。常世が、佐野の系図を得て本領安堵する願望のため三浦荒次郎に屈辱を忍んだが、その望みがないのを憤って三浦を殿中に殺害し、切腹して果てる構想になっている。
  さっそく歌舞伎になり、同年10月京都で二代目嵐三五郎と七代目片岡仁左衛門が、同名題で上演し、11月には大坂中山福蔵座で「鎌倉比事」と題して上演した。江戸では翌寛政2年夏、市村座で三代目沢村宗十郎の佐野源左衛門で演じた。近年では、十五代目市村羽左衛門の当り芸となっていた。

芝居有職鎌倉山概略
 鶴が岡八幡宮の源実朝の御前で鶴を射止めた佐野源左衛門は、その功を三浦荒次郎に譲り、その代償として佐野の系図を返して貰おうと願った。しかし意地のわるい三浦は、その約束を履行しない上、建長寺の法会においては源左衛門だけには供物の分配もせず、かえってさんざんに罵り辱しめた。佐野は船橋の本領安堵を期するため何事も堪忍していたが、系図がなければ願いは叶わず、怒りのあまりついに三浦を営中に刺し、自分も切腹する。 (参考) 「歌舞伎名作事典」 金沢康隆著 青蛙房

 権助の役は「有職鎌倉山」の「非人の権平」という泥棒の役で、主家を牛耳ろうとする悪人の命令で家宝の鏡を宝蔵より盗み出すのだが、警備の侍に見つかってしまい立ち回りの挙句に捕縛される。そして、尋問に口を割ろうとするところへ件の悪人が現れて首を刎ねるという体のいい口封じをされてしまうという散々な物。芝居の前半で演じられ、誰も見ていないような時間帯で演じられます。

田沼 意知(たぬま おきとも);(1749年(寛延2年) - 1784年5月20日(天明4年4月2日))は、江戸幕府の若年寄。老中を務めた遠江国相良藩主田沼意次の嫡男。
 明和4年(1767)、19歳にして従五位下、大和守に叙任する。松平輝高の没後の天明元年(1781)12月15日には奏者番、天明3年(1783)に意次の世子の身分のまま若年寄となり、意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に老中大久保忠朝の子の忠増が世子のまま若年寄になって以来の異例な出世である。また、老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄でありながら奥詰めもした。その翌年に江戸城内において佐野政言に襲撃され、治療が遅れたために8日後に死亡した。享年35。
  江戸市民の間では佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に田沼意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残している。  

佐野善左衛門政言(さの まさこと);(宝暦7年(1757年) - 天明4年4月3日(1784年5月21日))鎌倉幕府の御家人で「鉢の木」の逸話で著名な佐野善左衛門常世の子孫と伝えられる。
 政言は天明4年(1784)3月24日、殿中桔梗の間で、時の権力者田沼意知(田沼意次の子)に刃傷におよんだ。意知は翌日*死亡。政言も同年4月3日切腹し、28歳で一生を閉じた。幕府の公の記録は「営中において発狂せり」と断定し、私怨とも記された。田沼の政治は積極的に幕府財政を立て直したが、利権との結びつきが強く、収賄など世の指弾をあびていた。また、天明年間(1781-1788)には飢饉、大火が続き、物価が高騰して、怨嗟の声が溢れていた。この刃傷事件の翌日から、高値の米価が下落し、老中田沼意次も失脚した。徳本寺の墓には『世直し大明神』と崇め、多数の老若男女が参詣した。法名は元良印釈以貞。この庶民の方が刃傷の真因を鋭く見抜いていたのである。これを当時脚色した歌舞伎の「有職鎌倉山」は有名で、以来、現在まで度々上演されている。
(徳本寺入口看板・台東区教育委員会の説明による) 

*台東区の説だと意知は翌日死亡となっているが、他の資料によると8日後死亡となっています。

 右写真:徳本寺の佐野善左衛門政言(法名・元良印釈以貞)の墓。左側、線香が立っている方。元来はもっと大きかったのだろうが、上部が欠けています。

鉢の木(はちのき);常世という名は謡曲「鉢の木」に由来します。この曲は貧乏御家人の佐野常世が、身分を隠して諸国の視察に回る執権・北条時頼を家に泊め、暖を取るために寵愛する梅鉢の木を薪にして接待したため、時頼は常世の忠心に感じ入り、領地を増やしてやったという逸話を劇化しています。浄瑠璃作者は、この忠義な古武士と「世直し大明神」と称揚された佐野善左衛門を重ね合わせたのです。

譲葉の御鏡(ゆずりはのみかがみ);劇中の宝物ですから、実在の鏡とは違い、実在しません。この芝居『鎌倉山』の本筋と違って、前振り部分ですから、権助がどんなに失敗しても、本筋には影響しません。
 右写真:ユズリハ

七段目(しちだんめ);仮名手本忠臣蔵の七段目(祇園一力茶屋の段)。内蔵助が一力茶屋で飲んでいると、家老斧九太夫、息子力弥、今は芸者で勘平の妻お軽、等が本心を知りたくて動き回る。 落語「七段目」に詳しい。

非人(ひにん);江戸幕藩体制下、えたとともに四民の下におかれた最下層の身分。卑俗な遊芸、罪人の送致、刑屍の埋葬などに従事した。

山同心(やまどうしん);警備の侍。夜回り。鎌倉・戦国時代、寄親(ヨリオヤ=主人)に付属した寄子(ヨリコ=配下)の下級武士。

紺屋(こんや);染め物屋。江戸では紺色に染めることが多かったので、この様に言われます。落語「紺屋高尾」に詳しい。

(こじり);小尻とも。刀の鞘尻(サヤジリ)の部分。また、その飾り。

一分(1ぶ);毎回出て来る金の単位です。1両=4分、1分=4朱です。1両は江戸中期以後は5貫文で、銭五千文です。現在の価格にすると、1両8万円として、1/4ですから2万円です。



                                                            2016年4月記

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