落語「京の茶漬」の舞台を行く
   

 

 五代目桂文枝の噺、「京の茶漬」(きょうのちゃづけ)より


 

 大阪の食い倒れ、高松の熱燗、京の茶漬けと言われます。

 大阪の食い倒れは食べ物屋さんが多く皆繁盛しています。
 高松に行ったら、お客さんの所に挨拶しに行きます。仕事を済ませて帰ろうとすると、「ママいいがなまぁアツカンデ」と言われます。根が好きですから、熱燗が出るなら待っていようかと思いますが出て来ません。で、帰ろうと思いますとまた、「ママいいがなまぁアツカンデ」と言われ、冷やでも良いからと思っても、一向に出て来ません。熱燗が出て来るのではなく「せっかく来ていただいたのに、何の愛想もない。ユックリしていってくれんか。あつかわんで・・・」、と言っているので、熱燗が出て来るという事とは違います。

 京には同じような言葉があって、帰りかけると「時分ですからお茶漬けでも・・・」と言います。「ははぁ・・・、お茶漬けが出るんだな」と思いますが、これが出た例しがないのです。これは愛想言葉で、聞いた方も「いえいえ、お言葉だけで呼ばれたのも同じですワ」と言葉を返すのです。
 でもどうしても、毎回この言葉を言われるので、腹の虫が治まりません。「いつも帰りかけたら茶漬けや茶漬けやぬかしやがる。よし、いっぺんあの茶漬けをとことん食てこましたろ」とまた物好きな人が居って、これを食べたさにわざわざ大阪から京都まで、電車賃使こて行たやつがある。

 「こんにちは。ご主人おいででしょうか」、「チョット出かけております。良かったらお上がりください」、「ではお帰りになるまで、チョット上がらして貰います。日の経つのは速いもので、お宅の旦那さんが我が家にひょっこり見えたんですワ。たまたま、明石の活きのイイ真鯛があったので、酒もあるし無理に引き留めて、素人の包丁ですから、引きちぎった刺身で飲んで貰い、二人で1本開けてしまいました。『帰る』と言うので、飯を炊いてるところだから、食べてから帰ってくれと、言ってるところに出来てきた。先程の鯛にワサビを付けてご飯に乗せて食べたら『美味い、うまい』とお代わりまでしてくれたんですワ。お礼は良いんです。時分時であり合わせの物で食べていただいたんですから。・・・時分時であり合わせの物なのに、『美味しい美味しい』と、食べてくれはったのです。・・・あり合わせの鯛で・・・、間に合わせの物で・・・」、これだけ念を押しているのに答えんな。
 「今何時頃でっしゃろな」、「丁度、昼時分です」、「そうですか、腹が空いてきたので、何処かこの辺で食べるところはありますか」、「生憎とおへんやな~。京極に出たら有りますのに・・・」、「知らない所で聞いて歩くより、この辺で・・・」、「有りまへんなぁ~」、「(答えんな~。あかんは、もう帰ろう。アホらしゅうなって来た)帰りますんで、旦那さんによろしく・・・」、「そうですか。何のご愛想もなく、あのぉ、何にもおへんのどすけど、時分時でちょっとお茶漬けでも」。おかみさんも今まで辛抱していたんだから言わなければ良かったんですが、つい口癖で帰りかけると、口が滑った。男はこれを言わせたいために、来たのですから「そうですか」と座り直してしまった。嫁さん、しまったと思ったが後の祭り。

 このおかみさんも決してそんなケチな人やないんです。最前から謎かけてるのんも十分わかってますけれども、どこのお家(うち)でも、そのご飯の段取りといぅものがあります。朝もぉ少々いつも残るのに、何かの間違いで亭主がぎょ~さん食べたとか何かで、えらい少のぅなってしもたけど、まぁ自分ひとりのこちゃさかいお昼は少しで辛抱しといて、その代わり晩はご飯を炊いて・・・、いぅ段取りがつけてあった。
 お櫃(はち)を引き寄せてフタを取ってみると、底に心細ぉ残ってるご飯「足りるかいなぁ」と思案をしながらこれをよそって、縁にへばり付いてるやつみな扱(こ)き落として、よぉよぉのことで軽るぅ~に一膳こしらえまして、それへたっぷりとお茶をそそいで、漬けもんと箸を出した。
 「お口汚しに」、「えらい済んまへん、こちらでまぁ、ご飯まで頂戴するやなんて。ちょっとお腹が減っとりまして・・・、お言葉に甘えさせていただきます。(ホンマの茶漬けやなぁこら。冷や飯でもえぇさかい一膳ちょっと温飯つけたらど~や)すまんこったす。お茶がよろしなぁ、やっぱりご当地は宇治が近いさかい常からこんなえぇお茶使こてなはる・・・」(ズッズ~)、「漬け物も良いですな。ご当地の物をお漬けになった(ズッズ~)塩加減もよろしいな(ズッズ~)、朝から食べていなかったので(ズッズ~ズ~)。(もう終いなんだがナ~。一膳飯は良くないというのでお替わり欲しいな。そっち向いていたら判らない。お茶碗空になっている)、ご馳走様」、「なんの愛想もおへん~」、「こっちのお茶漬けもおへん(向こう見てたら分からない。どうしたらこっち向くかいな)。これは清水焼の茶碗ですか。焼具合と良い色つやと良い、お茶碗をこうひっくり返して、糸底の可愛いこと。(お茶碗がひっくり返ってまんねん)大阪にお土産に買って帰ってやろうと思もとりますが、こんなお茶碗何処でお買いになりまして・・・」、茶碗の底をブワ~と向こうに突き出した。嫁さん、そこまでやられたらたまりません。空のお櫃の底をブワ~と突き出して「これと一緒に、そこの荒物屋で・・・」。


 絵図:噺の出典になる、夜明茶吞噺の中より『会津』。安永5年刊 鳥居清経画 より

  



ことば

五代目桂 文枝(かつら ぶんし、1930年4月12日 - 2005年3月12日)は上方噺家(上方の落語家)。本名は長谷川 多持(はせがわ たもつ)。
 大阪市北区天神橋に生まれ、後に大阪市大正区に移る。終戦後大阪市交通局に就職するが、同僚でセミプロ落語家であった三代目桂米之助の口ききで、趣味の踊りを習うため、1947年に日本舞踊坂東流の名取でもあった四代目桂文枝に入門。その後しばらくは市職員としての籍を置きながら、師匠が出演する寄席に通って弟子修行を積み、桂あやめを名乗り大阪文化会館で初舞台を踏む。入門当初上方落語の分裂に巻き込まれ、一時期は歌舞伎の囃子方(鳴物師)に転向、結核を病んで療養生活を送った後、落語家としての復帰を機に三代目桂小文枝に改名し、1992年には五代目桂文枝を襲名する。
 六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春団治と並び、昭和の「上方落語の四天王」と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。吉本興業に所属。毎日放送の専属となり、テレビ・ラジオ番組でも活躍。吉本では漫才中心のプログラムの中にありどちらかといえば冷遇されていたが、有望な弟子を育てて吉本の看板に育てた。吉本の幹部である富井義則は「文枝さんにはお世話になりました。三枝、きん枝、文珍、小枝とお弟子さんになんぼ稼がしてもらったわかりません。いや大恩人ですよ。」と評価している。 落語に「はめもの」と呼ばれる上方落語特有のお囃子による音曲を取り入れた演目や、女性を主人公とした演目を得意とし、華やかで陽気な語り口が多い。

京の茶漬けエピソード;この話は落語向けに作った噺ではありません。実は私の先輩が同じような失敗をしているのです。大阪出張を命じられて、バリバリの東京育ちですから、上方の生活習慣は全く判りません。京都に単身で行ったとき、このはなし同様「お茶漬けを・・・」と言われたのです。京都は東京から来た客には親切だな~と思いながら、それではと、茶漬けをご馳走になって帰って来ました。翌日上司に呼ばれ「お茶漬け食べてきたんだって」、「ハイ。親切でしたよ」と言うと、こっぴどく叱られました。相手の家から会社に電話が入っていたんですね。約50年前の話です。今でも帰り際に「お茶漬けを・・・」と言うのでしょうか。

明石の真鯛(あかしのまだい);漁場である兵庫県明石海峡は潮の流れが激しく、その中でよく運動して身が引き締まっているうえ、このエリアに豊富に棲息するエビやカニ、魚をエサにしていて、身がおいしくなるからなのだとか。明石の鯛のお値段、天然真鯛の3倍はすると言います。
右:明石の真鯛
 春の明石鯛は”桜鯛”と呼ばれ有名ですが、浜では秋に捕れる”紅葉鯛”を珍重します。産卵のために明石海峡に来遊した桜鯛はあっさりとした味。対して越冬のため南に下る前の紅葉鯛は上質な脂を蓄え、上品でありながら甘みと旨味を持ち合わせた本当の明石鯛のおいしさを味わえます。この紅葉鯛は、刺身・炙り・湯引きで脂の旨さの変化を堪能できます。また浜では焼鯛をダシと炊く鯛飯のほか、味噌漬け、刺身を漬けにした鯛茶漬けなどで楽しみます。桜鯛では酢で締めるなどしてさっぱり味が似合います。

京極(きょうごく);新京極通(しんきょうごくどおり)は、京都市中京区の南北の通りで、三条通から四条通までの比較的短い通り。
 かつては広大な寺域を誇った時宗十二派の四条派の金蓮寺が、18世紀末から寺域の切り売りをはじめ、明治以前に売却した地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が建っていた。一つ隣の寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまり。明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた。 かつては、京都方面の修学旅行のコースに取り入れられるようになったため、修学旅行の中高生の行き来の絶えない所となり、老舗もあり地元の者も訪れる隣の寺町京極に比べて、新京極は観光客向けの通りとなり、地元の者が利用することはほとんどなかった。しかし近年では、観光客向けの土産物店の他、飲食店、ファッション洋品店が混在し、若年層向けの店舗が目立つようになった。また、松竹座に代表される老舗の映画館が、ようやく、シネコンへの改装を果たし、新しいニーズに合った街へと変貌しつつあります

 京都市内には、新京極通の賑わいにちなんだ「○○京極」と呼ばれる商店街が複数存在する。全国の都市における「○○銀座」の京都版といえます。

お櫃(おひつ);炊きあがった飯を保存する容器。かまどの釜で炊かれた飯はそのまま食卓には持ち込めません。釜まで飯を注ぎに行っても良いのですが、それでは釜に残った飯は焦げてしまいます。そこでお櫃に移してから食卓に持ち込みます。お櫃は木製ですから、炊きたての飯の時は余分な水分を吸い、冷めてきたらそれを放出して、一定の湿り気を飯に与えます。木にはサワラ材を使われることが多いので、殺菌効果もあり、長時間の保存にも耐えられます。
右図:おひつ

宇治の茶(うじのちゃ);宇治茶(うじちゃ)は、宇治市を中心とする京都府南部地域で生産される日本茶の高級ブランド。 静岡茶、狭山茶と並んで『日本三大茶』と言われ、生産量の少ない狭山茶を省いて静岡茶と共に『日本二大茶』とも言われている。 鎌倉時代から生産されていたと考えられ、室町時代には将軍家をはじめ室町幕府の有力武将により茶園が設けられた。戦国時代には覆下茶園により日本を代表する高級茶の地位を固め、江戸時代には幕府に献上されるお茶壷道中が宇治から江戸までの道中を練り歩いた。
右写真:宇治茶畑

清水焼の茶碗(きよみずやきのちゃわん);京焼の一つで、手仕事を中心とした伝統的な技法と、雅やかな意匠を特色とし、製品は主に高級茶器、食器、花器などがある。 清水焼は天正~寛永(1573~1644)に音羽、清閑寺などの地で、正意、万右衛門、音羽屋惣左衛門らが作陶にあたり、慶長(1596~1615)末に五条坂へ移転したとされる。 その後、正保(1644~48)頃、丹波の陶工野々村仁清が京に出、御室焼をはじめ、各窯で作陶し、色絵陶器の技法を進展させ、その様式を確立した。仁清の弟子には尾形乾山がある。 この後停滞期を迎えるが、文化・文政(1804~30)頃、有田磁器の影響と、煎茶の流行、そして文人趣味を背景として奥田頴川が中国風の赤絵磁器を製し、門下に青木木米、欽古堂亀祐、仁阿弥道八などを生んだ。
 幕末には、その製品の多くは五条坂焼物問屋の手によって全国に売りさばかれ、文政頃には産額約一万五千両以上にのぼったといわれる。 そのほか江戸期を通じて清水六兵衛、高橋道八、清風与平らの名手を生み、大正期以降は清水焼は京都を代表する焼物となった。 大正以降、土地の狭いことなどの理由から五条・清水の業者が、南方の蛇ケ谷・日吉地区に移転、第二次対戦後もさらに、清水焼団地、炭山陶芸村へと生産の地を広げて現在に至っている。
右写真:清水焼の糸底

糸底(いとぞこ);ろくろから陶土を離す際、糸で切った痕が器底に渦形に残ったもの。これにより和物と中国物との区別をし、また、陶器鑑賞の一視点とする。いときり。

荒物屋(あらものや);ザル・ホウキ・塵取りなどの家庭雑貨類や料理道具・生活必需品を売る店。
右写真:江戸東京たてもの園の荒物屋店先



                                                            2016年4月記

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