落語「目薬」の舞台を行く
   

 

 三遊亭 鳳楽の噺、「目薬」(めぐすり)より


 

 大工さんが目を患ってしまった。職人さんは日払いの制度ですから、仕事に出なければ収入がありません。目を患ったからと言って休んでばかりいたら、奥さんからクレームが出るのは当たり前。

 「ブラブラ遊んでないで、どうにかしたら良いじゃ無いか」
 「目が悪いんだ。仕事場で怪我したらいけないだろう」
 「薬をもらうとか、お医者さんに診てもらうとか、どうにかしたら良いじゃないか。蓄えが無くなったから、芋ばかり食べて、オナラしたらお終いだよ。力が入らなくて・・・」
 「えぇ?薬買うお金も無いのか。叔母さんの所に行って『治りましたら一番でお返しに来ます』と言って借りて、薬を買ってこい」
 「カカアの言うことも無理が無い。10日も休んでいるんだから。早く治して米の飯食わしてやろう。
帰って来たな」
 「叔母さんが『早く治してね』だって、『お金はいつでも良い』って。はい、薬買ってきた」
 「袋に入っているんじゃ粉薬だな。普通は水薬なのになぁ~」
 「それが一番効くんだって」
 「どうやって使うんだろう」
 「裏に仮名で説明が書いてあるって・・・」
 「そうか。それなら読めそうだな。『こ・の・こ・な・ぐ・す・り・は』、この粉薬はか。『み・み・か・き・に・い・つ・は・い』、耳掻きに一杯だな。あれぇ、判らない字が出て来たぞ。オッカァみろ解らないじゃ無いか。しょうが無い前後を読んで考えよう。『し・り・に・つ・け・べ・し』。・・・さぁ~、判らないぞ。『この粉薬は耳掻きに一杯???尻に付けべし』。この字が判らないから見当が付かないぞ。オッカァ、判るか?」
 「お前さんが判らないんだから、私だって判らないよ。チョット見せて、この字・・・町で見たことがあるよ。お湯屋さんの暖簾の字がこれだよ。女湯に掛かっている”女”という字だよ」
 「そうだ、俺だって見ている。これは”女”だ」。

 当時は義務教育が無かった時代ですから、読み書きソロバンは商人の教養で、職人は腕さえ良ければよかった。本当に書いてあったのは『この粉薬は耳掻きに一杯め尻に付けべし』だったが、”女”という字は崩すと”め”になります。ですから、目尻に・・・となるのです。

 「オッカァ、じゃぁこれは『この粉薬は耳掻きに一杯女尻に付けべし』か。オッカァ、表閉めてくれないか、裏もだぞ。閉めたら俺のとこに来い。後ろ向きになって、尻まくれ」
 「やだよこの人は・・・、昼間っから」
 「薬を付けるから、お前のケツを出せ」
 「目が悪いのはお前さんなんだよ。頭までおかしくなったの。何で私が付けるのよ」
 「お前が女尻にと言っただろ。おまんま食べたかったら早くしなよ」
 「やだね・・・。こうかい」
 「これがお前のケツかよ。一緒になって8年しっかり見たのは初めてだ。頭を下げて・・・尻が上がるから。でも、ケツと言っても広いし、粉薬だから湿ったところが良いな。『くすぐったい』からと動くなよ」。

 このご亭主、目が悪いから奥さんのケツに顔をビタッと着けて、薬を盛ります。お尻を触られる奥さんはくすぐったくてしょうが無いが、夫婦の情。亭主が早く治ってもらいたいから、お腹に力を入れて我満をした。が、芋ばかり食べていたので、大きな音が出た。

 「ブッー」

 「うわっ・・・プファッ・・・よ、よせやィ! おめぇ、出し抜けになんてぇことしゃがんでぇ! もろに・・・、あぁ、薬が全部吹っ飛んじまって・・・、目に入って・・・。
あっ、そうか! この薬はこうやって付けるんだ」。

 



ことば

万葉仮名(まんようがな);楷書ないし行書で表現された漢字の一字一字を、その字義にかかわらずに日本語の一音節の表記のために用いるというのが万葉仮名の最大の特徴です。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれる。『古事記』や『日本書紀』の歌謡や訓注などの表記も『万葉集』と同様である。『古事記』には呉音が、『日本書紀』には漢音が反映されている。江戸時代の和学者・春登上人は『万葉用字格』(1818年)の中で、万葉仮名を五十音順に整理し〈正音・略音・正訓・義訓・略訓・約訓・借訓・戯書〉に分類した。万葉仮名の字体をその字源によって分類すると記紀・万葉を通じてその数は973に達する。

右書体:象形文字が簡略化されていき、今の”女”の文字に近づきます。それを草書体に書き表し、現在の”め”に落ち着きます。

 仲間でも字訓を借りたもの(借訓仮名)で、 一字が一音を表すもの
  全用 女(め)、毛(け)、蚊(か)、…
  略用 石(し)、跡(と)、市(ち)、…

 平安時代には万葉仮名から片仮名・平仮名へと変化していった。平仮名は万葉仮名の草書体化が進められ、独立した字体と化したもの、9世紀前後に、万葉仮名の草書体をさらに簡単にしたものと言われている。片仮名は万葉仮名の一部ないし全部を用い、音を表す訓点・記号として生まれたもの。

江戸の眼医者;天保時代以降、目の治療で、メグスリノキ(目薬の木)が知られていました。 この樹皮をはがして煎じた液で、目を洗浄しました。 有効成分が含まれていることが、現在判っています。洗浄だけなら「塩水」(海水、または、食塩水)が使用されていました。服用してもその効果はありました。  また、鍼で白内障を治療した医師もいたとのこと。
 どちらにしろ、江戸時代は眼医者の治療も大したことはなく、この噺のような薬はなかなか手に入らなかったことでしょう。
 落語「犬の目」や、「義眼」に描かれるような、荒唐無稽な治療法だったのでしょう。

メグスリノキは
 司馬遼太郎の「播磨灘(はりまなだ)物語)」には、戦国時代の名将、黒田如水(官兵衛)の祖父である重隆が室町末期に「目薬の木」で目薬を作り、黒田家の礎を築くほどの財をなしたと記されています。
 福島県の相馬地方では、江戸時代から目薬として使われており、樹皮を煎じて服用すると、目のかすみが解消され千里の先までよく見えるということから「千里眼の木」とも呼ばれています。
 江戸時代までもてはやされたメグスリノキも、明治時代以降は一般には忘れられた存在でしたが、山間の地域では、「かすみ目、疲れ目、二日酔いによい」ということで目や肝臓に効く「薬木」として珍重されてきました。眼病平癒で有名なお寺ではメグスリノキがふるまわれたり、販売されたりしていました。
 目の病気だけでなく肝臓に効果があった。古くから、メグスリノキに含まれる成分は、目と肝臓の調子を整えることが知られています。
 日本国内のみに自生する。主に、標高700メートル付近に多く見られる。大きいものでは、樹高10mに達する。雌雄異株。葉は長さ5~13cm程度で、三枚の小葉からなる複葉。 和名は、戦国時代頃から樹皮を煎じた汁を目薬として使用すると眼病などに効用があるとする民間療法があったことに由来する。
 薬用として使用する場合は春から夏にかけて採取した樹皮または小枝を日干しし、1日量15から20gを水300mLで1/3まで煎じて服用する。これには独特のにおいがあり、慣れていない場合は飲みづらいとされる。 目薬として用いる場合、3~5gを煎じた汁で洗う。

識字率(しきじりつ);江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い教育水準であると言うことができる。実際ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率ほぼ100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は40~50%程度と推定されている。
  ウィキペディアによる
  江戸中期になると人口だけではなく識字率も世界一と言うことは前項で解説されていますが、武家の子弟は、官学のほか民間の私塾でも学び、国学、漢学、洋学、医学などさまざまな塾が開設されていた。幕府正学とは別に、私学では、独自の教育内容が採られていた。また、商家の丁稚・小僧は勿論、庶民の子供達も寺子屋へ通わない者は希だった。浪人や下級幕臣がアルバイトで師匠を務める寺子屋の数が、幕末江戸市中で一千ヶ所に達するほどだった。ここでは読み書き、そろばん、かけ算や九九など教えた。また、女子は踊り、唄いなど芸能の手習いも盛んであった。
  授業料は家庭の経済状況に応じて支払われ、場合によっては商売物の物納も許された。さらに、生徒の10人に1人は上級の私塾へ進学した。こうした庶民の学力、教養が、江戸の出版文化の下地を形作っていた。
  落語「浮世床」で立て板に水で太閤記を読む(本当は横板にモチ状態の)職人もいれば、落語「真田小僧」の金坊のように、親を負かすぐらいの知恵者も居ます。また、落語「千早ふる」で百人一首の『千早ふる神代もきかず龍田川からくれないに水くくるとは』を珍解説する横丁のご隠居もいますが、その意味を知りたがったのは娘さんです。落語「桃太郎」では先に親を寝かしつけ、『親というのは罪がない』と、言わしめた御ガキ様もいます。
 落語「泣き塩」より孫引き

■「仲良きことは美しきかな」;武者小路実篤の言葉ですが、この噺の夫婦は非常に仲が良いです。昼間から戸を閉めて、亭主のために献身的に寄り添う奥様はなかなか居ないでしょう。



                                                            2016年5月記

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