落語「浮世風呂」の舞台を行く 三遊亭円生の噺、「浮世風呂」(うきよぶろ)より
■浮世風呂(うきよぶろ);式亭三馬が書いた滑稽本です。文化6年(1809)から文化10年(1813)にかけて刊行された。内容は4編9冊に分けられ、初編の四編が男湯、二編・三編が女湯となっている。角書をつけると『諢話浮世風呂』(おどけばなしうきよぶろ)となります。
当時の庶民の生活を、浴場を舞台に描いたもので、当時の生活とともに、落語の話術を取り入れた会話の軽妙さと底辺の人々を描いてほのかな明るさをしめしている。ガ行鼻濁音の記録として知られ、日本語史上の資料としても貴重なものです。
■湯屋(ゆや);昔の風呂は水蒸気を満たした、今のサウナが一般的で、江戸期になって湯を入れた「水風呂(すいふろ)」が生まれた。江戸の町は井戸がほとんどなく、水不足のため、湯を入れた風呂は贅沢(ぜいたく)だった。水蒸気を満たした風呂では、普通の扉では熱くなった蒸気が逃げるので、入口は低く作り、出入りの人はかがんで通らなければならなかった。ここを「石榴口(ざくろぐち)」というのは、昔の金属の鏡を磨くのに石榴が必需品だったので、この入り口にも「鏡要る(かがみ入る)」という洒落だという。
左:洗い場で湯が切れたのでしょうか並んで待っています。右:柘榴口の奥の湯船。腎禺湊銭湯新話より。
上方では風呂屋、江戸では湯屋と銭湯のことを言いました。江戸の湯屋は、熱好きのお客のためにピリピリするほどの肌に食いつくような熱い湯温です。そこに入って長湯をすれば、結果は当然、水をかけられる状態の湯のぼせになってしまいます。
左:男湯二階の社交場。壁に穴が空いてて女湯が覗けた。右:洗い場風景。手前が女湯、向が男湯。奥に柘榴口があって足だけが見えます。江戸と東京実見画録より。
■初午(はつうま);2月の最初の午(うま)の日。旧暦で1年のうち最初の(つまり1月の)午の日も初午には違いないが、通常は稲荷社の祭の日である2月の初午をいう。初午祭に初午詣(福詣)する参詣者が訪れ、これを雑節の一つとすることがある。旧暦で行う事もあり、その場合は新暦の3月となる事もある。
初午で、子供達が太鼓を打ち鳴らして遊んでいます。 左:「初午」絵本小倉錦より。右:「風流四季歌仙」春信画。
■雛祭(ひなまつり);3月3日の上巳(ジヨウシ)の節句に、女児のある家で幸福・成長を祈って雛壇を設けて雛人形を飾り、調度品を具え、菱餅・白酒・桃の花などを供える祭。雛遊び。ひいなまつり。
■武者人形だ、柏餅だ;5月5日の端午(たんご)の節句。男の子の節句で雛祭りのように人形を飾り、鯉のぼりを立てて、柏餅を食べます。
■石榴口(ざくろぐち);江戸時代の銭湯の湯ぶねの入口。湯のさめるのを防ぐために、湯ぶねの前部を板戸で深くおおったもの。身体を屈(カガ)めて中に入る。ザクロの実の酢は鏡の金属面をみがく料となるから、「屈み入る」と「鏡要る」とをかけた名という。
右図:江戸見世屋図聚 「湯屋」 三谷一馬画。
■都々逸(どどいつ);流行俗謡のひとつ。雅言を用いず、主に男女相愛の情を口語をもって作り、ふつう七・七・七・五の4句を重ねる。「潮来節」「よしこの節」より転化したという。天保(1830~1844)年間、江戸の寄席でうたいはやらせた一人が都々逸坊扇歌。
■常磐津(ときわず);常磐津節の略。浄瑠璃の流派のひとつ。広義の豊後節のひとつ。延享4年(1747)宮古路豊後掾の高弟、初世常磐津文字太夫が創始。風紀上の理由で禁止された豊後節から脱して、義太夫節に近い格調ある芸風を目指した。歌舞伎の舞踊劇の音楽としても多く用いられる。代表作に「関の扉」、「戻駕(モドリカゴ)」、「将門(マサカド)」、「乗合船」など。
■新内(しんない);新内節の諸派のひとつ。また、その芸姓。浄瑠璃の流派のひとつ。遠祖は宮古路豊後掾(ブンゴノジヨウ)門下の富士松薩摩掾(1686~1757)。鶴賀若狭掾(ワカサノジヨウ)が中興の祖で、この流儀(当時は鶴賀節)の基礎を固めた。二世鶴賀新内(
~1810)が美声で評判を高めて以来「新内節」の呼称が定着し、富士松・鶴賀をはじめとする同系統の諸派を包括した流名となる。心中道行物を主とし人情の機微を語る。
■口三味線(くちじゃみせん);口で三味線の音や曲をまねること。
■義太夫(ぎだゆう);義太夫節の略で、特に関西で浄瑠璃の異名。浄瑠璃の流派のひとつ。貞享(1684~1688)頃、大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行の各種音曲の長所を摂取。作者の近松門左衛門、三味線の竹沢権右衛門、人形遣いの辰松八郎兵衛などの協力も加わって元禄(1688~1704)頃から大流行し、各種浄瑠璃の代表的存在となる。ぎだ。
■三つ違いの兄さんと~、言うて暮らしている内に;『壺坂霊験記』の名台詞。浄瑠璃の「壺坂霊験記」は、盲目の三味線の名人、二世豊沢団平と妻の加古千賀が作曲・脚色し、明治12年に初演され、その後歌舞伎に取り入れられた。
奈良県高市にある壺阪寺は山間の地にあるにもかかわらず、観音様の霊験を求めて目の不自由な人々のお参りが絶えず、加えて、壺阪の地で最後を迎えたいという懇願が、毎日のように寄せられる。
■半七ッつぁんの~;『艶容女舞衣』(はですがた おんな まいぎぬ)で、歌舞伎と人形浄瑠璃の演目。竹本三郎兵衛・豊竹応律の合作。安永元年12月26日(西暦1773年1月18日)、大坂豊竹座で初演。三段構成で、現在は下の巻の「酒屋」(さかや)のみが上演される。元禄時代に実際にあった茜屋半七と島の内の遊女美濃屋三勝の心中事件を題材にしたもの。
伊勢屋の旦那さんの義太夫は、「壺坂霊験記」や「艶容女舞衣」が混ざったごった煮です。
■厄払い(やくはらい);『あ~ら、目出度いな目出度いな、今晩今宵のご祝儀に、目出度き事に払おうなら、まず一夜明ければ元朝の門(かど)に松竹注連(しめ)飾り、床(とこ)に橙(だいだい)鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年亀は萬年、東方朔(とうぼうさく)は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六つ、この三長年が集まりて、酒盛りいたす折からは、悪魔外道が飛んで出で、妨げなんとするところ、この厄払いが掻い摘まみ、西の海と思えども蓬莱山の事なれば須弥山(しゅみせん)の方へ、さら~り、さら~り』。
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