落語「やかん」の舞台を行く
   

 

 十代目桂文治の噺、「やかん

 

 私が小学生の頃は「先生」と書いてせんせいと読ませたものですが、この業界に入ったら、まず生きていると読ませるようです。怪しげな先生がいるものです。

 「先生、ご無沙汰しています」、「良く来たな。愚者。どうしたな愚者。上がりたまえ愚者」、「道の悪いところを歩いているようだ」。
 「イイあんべぃのお天気で」、「それを言うなら良い塩梅の天気と言いなさい」、「今日は良い塩梅の天気です」、「今日はと言うと一日中を言うな。夜まで天気が良いのか。それを言うのなら、今日は今のところイイ天気です、とな」。
 「今日は浅草の観音(かんのん)様に行ってね」、「それを言うなら、観音(くわんのん)様と言うな。人が出たか」、「出たの出ないの」、「出たか出ないか、どっちだ。それを言うのなら、出たの出たのだな」、「猫も杓子も出ました」、「それは違う。ネコは女子、杓子は赤子で老若男女の事だ。そのぐらい人が出た」、「言いにくいね。これじゃ縮れッ毛の高島田だ」、「なんだそれは」、「言い(結)にくい」。
 「お茶が入ったからお上がり」、「これはお煮端ですな」、「お煮端ではない、お前はお客だからおでばな(出端)だな」、いい加減、八っつあんは、じれてきて、一つ逆転打を打ちたくなった。

 根問いが始まった。 「先生は何でも知ってるから、教えて欲しい。魚屋の暖簾(のれん)に魚編の文字が沢山書いてあった。魚の名前は誰が考えた」、「人間だな」、「鯨はどうしてクジラになったんですか」、「鯨は同じ時間に潮を吹く、何時も9時(クジ)だ」、「イワシはどうして」、「犬は電信柱にシーを掛けるが、海には電信柱が無い。そこで岩にシーをした。いわしーだな」、「ヒラメはどうして」、「平たいところに眼があるからヒラメだな」、「カレイも同じようだけれど、どうして」、「ヒラメの家来でカレイだ」、「マグロは」、「群れをなして泳ぐと、海が真っ黒に見えるな、でマックロからマグロだな」、「切り身は赤いでしょ」、「マグロは切り身で泳いでくるか」。
 「では、ドジョウは」、「泥から生じるからドジョウだ」、「ウナギは」、「昔はヌルと言ったな。鵜という鳥は魚をのむが、鰻を捕ったとき首に巻き付かれて難儀をしたな。鵜が難儀をしたから鵜難儀、ウナギになった」、「アレを焼いたのが蒲焼きというのは。鰻焼でも良いではないか」、「アレを焼いて食べたら、バカにうまかった。それでバカ焼と言った」、「私はなぜカバ焼きというか聞いているんです。バカとカバではひっくり返っている」、「ひっくり返さなければ焦げるだろう」。
 「この茶碗は」、「チャワンと置いてあるから茶碗だ」、「つまんない物聞いちゃったな。土瓶は」、「土で出来ているから土瓶だ」、「鉄瓶は」、「鉄で出来ているから鉄瓶だな」、「ヤカンは」、「ん?」、「これは矢では出来ていない。いろんな物で出来ているよな。アルミだとかステンレスだとか赤だとか」、「これは昔水沸かしと言ったな」、「湯沸かしでしょ」、「湯を沸かすと無くなってしまう。水から湧かして湯にする、だから水沸かしだな」、「理屈だね」。
 「これは陣中の水沸かしだった(扇をトントン叩きながら講釈師のように語り始めた)、頃は永禄4年、川中島の合戦で、武田信玄と上杉謙信が戦った。両軍川を挟んで対峙したり、雨風の強い日に突然の夜襲があった。油断のあった上杉勢、陣中大混乱のうちに戦の準備に掛かった。その時、若大将鎧に身を包んだが兜が見付からない。誰かが被って行ったのであろう、見ると大きな水沸かしがあったので、湯をガバッと捨てて、頭に被り、馬に跨がり出陣した。その働き素晴らしく、敵の大将それを見て、『水沸かしの化け物現れたり』と呼ばわった。それを見た那須与一宗高が弓をキリリと引き絞り・・・」、「御隠居、那須与一って、川中島に登場しますか」、「名人になると何処に出るか分からない。その矢が飛んでいって『カーン』と水沸かしに当たった。矢が飛んでいってはカンと当たり、ヤッカン、ヤカンとなった」、「長い話だ。ところで、ツルは邪魔になったでしょう」、「ツルはアゴに掛けて忍びの緒にしたな」、「フタは」、「ぽっちをくわえて面にしたな」、「湯が出る口は」、「昔の合戦には『名乗り』があった。聞こえないと困るから、穴があったほうが好都合だ」、「被ったって、ヤカンの口は下を向いちゃうよ」、「その時は、雨風が強かったから、雨水が耳に入るのが防げた」、「両耳でなく、片方というのはおかしいでしょう」、「陣中で寝るときマクラを使う方は平だ。若大将がやかんを外すと、熱気で蒸れて頭髪がみんな抜けた、それ以来禿頭のことをヤカン頭と言う」。
 無学者論に負けずというお笑いです。

 



ことば

愚者(ぐしゃ);おろかな人。ばかもの。ぬかるみを歩いているようだと思っているうちは良いが、バカ者と分かった瞬間心が変わります。

しったかぶり;落語「転失気」、「千早振る」、等で知ったかぶりをします。

やかん(薬缶);漢字に直すと直ぐ分かります。薬を煎じるために使われた水沸かし。
 やかんは、鎌倉時代にはすでに登場しているが、元々は薬(漢方薬)を煮出すのに利用されていたため薬鑵(やっかん)と呼ばれていた。湯沸かしに使われた時代は明確なことは不明であるが、1603年『日葡辞書』に「今では湯を沸かす、ある種の深鍋の意で用いられている」とあり、中世末には既に湯を沸かす道具として用いられていたようである。

右図;歌川広重画 『東海道五十三次・袋井』部分

ウナギ(鰻);ウナギ科の硬骨魚。細い棒状。産卵場は、日本のウナギは台湾・フィリピン東方の海域、ヨーロッパ・アメリカのウナギは大西洋の中央部の深海。稚魚はシラスウナギ・ハリウナギなどと称し、春に川に上り、河川・湖沼・近海などに生息。また養殖も、浜名湖など東海・四国地方で盛ん。蒲焼として珍重、特に土用の丑の日に賞味し、ウナギにとっては厄日です。

カレイとヒラメ;「左ヒラメに右カレイ」とは、ヒラメとカレイの見分け方であることは有名だ。両者ともカレイ目に属し、腹を手前に置いて左に顔があるのがヒラメ、右にあるのがカレイである。ところがカレイの仲間でも、左に顔があるものもいるから話しはややこしい。ヌマガレイがそうだ。さらに面白いことにこのカレイ、アメリカ西海岸では左に顔のあるものが50%、ところがアラスカ沖では70%、それが日本では100%となるのである。「左ヒラメに右カレイ」は、万国共通ではないのだ。
 それではヒラメとカレイを見分けるには、どうすればよいか?  実は、両者の顔を見ればわかるのだ。ヒラメは、口が裂け怖い顔をしている。一方、カレイはおちょぼ口でやさしい顔である。もう一つの大きな違い。それは歯である。ヒラメの歯は大きく尖っている。しかしカレイの歯は小さい。これらの差は、両者のエサの違いに起因している。ヒラメは、イワシやアジを食べる。そのためには大きくて強い歯が必要だ。また肉食だからどう猛な顔になる。それに対してカレイは、イワムシやゴカイを食べている。だから歯も小さくてすむ。それぞれの食べ物の差が、歯の違いであり顔の違いとなって現れる。  岡山大学歯学部 小児歯科 岡崎好秀氏ホームページより 
 決してヒラメの家来がカレイではない。写真上が奥眼でどう猛なのがヒラメ、下が出目で口が小さいカレイ。

根問い(ねどい);根元まで掘り下げて問いただすこと。どこまでも問うこと。根掘り葉掘り問うこと。

おにばな(お煮端);茶を煮出して吞むのがお煮端。大店などでは1人1人に出してたら賄えないので、いっぺんに煮出す出し方。変わって、出端は、煎じたての香味のある茶。ではじめ。煮花(ニエバナ)。

猫も杓子も;だれかれの区別無くみんな。誰もかれもすべてということ。語源=猫の手と杓子の形が似ているところから。また、女も子供もで「女子(めこ)も弱子(じゃくし)も」が転じたとも言われる。が確証は無い。

 「信州川中島合戦之図」 広重画 左翼に武田信玄、右翼に上杉謙信がいる。

川中島の合戦(かわなかじまのかっせん):日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった永禄4年(1561)第四次の戦いが千曲川と犀川(さいがわ)が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。両軍の合戦は、浄瑠璃では近松門左衛門の「信州川中島合戦」、近松半二の「本朝廿四孝」、歌舞伎では河竹黙阿弥の「川中島東都錦絵」に脚色。

川中島;信濃国北部、千曲川のほとりには善光寺平と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。善光寺平の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては善光寺平以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば中信地方(現在の松本平)に至る要地であった。(ウイキペディアより)

右図;第四次川中島の戦い(岩国美術館所蔵「川中島合戦図屏風」左隻部分)

那須与一(なすのよいち):鎌倉初期の武士。下野那須の人。与市・余一とも。名は宗高。文治元年(1185)屋島の戦に扇の的を射落して名をあげた。生没年未詳。時代が違いますので、彼が川中島で戦うことは無いのですが、おもしろさを倍加させています。

(あか);銅(あかがね)と言われ銅をさす。

忍びの緒(しのびのお);兜(かぶと)の緒の近世の称。



                                                            2015年2月記

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