落語「菊江の仏壇」の舞台を行く
   

 

 五街道雲助の噺、「菊江の仏壇」(きくえのぶつだん)より


 

 大店の若旦那、芸者茶屋に初めて遊びに行って、夢中になった。嫁を持たせれば落ち着くだろうと、器量好しのお花さんを娶ったが、三月も経つと遊びに出て帰らなくなった。

 今日も若旦那は遊びに出掛けていたが、お花さんは里に帰って病気養生。まだ一度も見舞いには行っていない。そこに帰って来た若旦那、大旦那が部屋に呼んで意見をした。
 「お花さんは一人娘だというのを、頭を下げてやっと貰って、その当座は仲も良かったのに・・・、どういう事だ」、「親に似ぬ子は鬼っ子と申します」、「私は女遊びはしたことも無いのに、どう~いう事だ」、「信心と言って、門跡さんや方々にお出掛けなさいます。大きな仏壇を誂えれば親孝行となるだろうと人が入れるほどの大きな仏壇をこしらえたら、最初の三月ほどは仏壇、仏壇と言っていましたが、そのうち出掛けるようになってしまいました」、「なんだとッ、お前の道楽と、私の信心が同じだというのかッ。二階に上がって寝てしまいなさいッ」。
 「旦那様、ご新造様のお里からお使いが御座いました。具合が悪いようです」、「あんな伜でも連れて行きたいが、酔っていてはしょうが無い。私が行って来ます。定吉を連れて行きますが、今日だけは伜を外に出してはいけませんよ。里は遠いから泊まりになるでしょう。後のことは番頭さんにお願いしましたよ」、「承知しました」。

 「番頭、男と見込んで頼みがある。10両貸してもらいたい」、「有りませんッ」、「店の金を、いつものように回してもらいたい」、「私は硬いと言われ、石橋の上で転ぶと石橋の方で『痛いッ』と言われる男です」、「悪かった。帳場格子の向こうに坐って仕事をしておくれ。私はここで世間話をしているから。
 硬くてヤボな番頭ばかりでは無い。先日、朝湯に行ったら、女湯から出て来た女が、とうは立っていたが、イイ~女だった。湯は止めて付いて行ったら路地を入った所の清元の師匠だった。入口を見ると今履いていた下駄と、その隣にマヌケのような大きな下駄には家の店の焼き印が押してあった。気になるね~、番頭。どうした、仕事を続けて。親父に言って・・・、女を囲っているのは・・・」、「声が大きいですよ。あの女というのは、手前の妹の亭主のいとこの遠縁で・・・」、「みなまで言わなくて良い。10両」、「その金持って菊江さんの所に行くのでしょ。それだけはいけません、旦那さんからキツく言われています」、「隣町の師匠・・・」、「判りましたよ。菊江さんの顔を見られればイイのでしょ。今晩はお帰りにならないので、ここに呼びましょう」、「番頭、ヤボだと言ったがやることは派手だね」。
 清蔵を呼んで、菊江さんを駕籠の中に放り込んで、連れてくるように。店の者には、早仕舞で、好きな食べ物を注文させ酒まで出した。「今晩、奥のことは何も見なかったし聞かなかった。分かったね」。

 「若旦那、奥へ」、「番頭、手際の良いのには驚いたね。親父はこの身代は一人で築いたように言うが半分は番頭のお陰だよ。お前の才覚で囲っているのはよ~く判る」、「私が言うのはなんですが、なぜご新造をお嫌いになります? あんな嫁御は無いじゃないですか。器量は良いし、愛想は良し、諸芸一通りは何でも出来ますし、筆は立ちますし、ソロバンをはじかせたら私と同じくらい出来ましたし、奥のことは切り盛りしますし、あんな良いご新造はいないじゃないですか。聞くところによりますとお菊さんはご新造にそっくりだというじゃないですか。非の打ち所が無いお花さんを、なんで邪険になさいます」、「番頭、それがイヤなんだ。なんでも、言う前に先にやってしまい、それが気詰まりになるんだ。お花と比べたらお菊江には一つも良いところは無いさ。でも、菊江の側にいると気持が休まるんだ。女なんだ。お花の側にいると見透かされているようで気が置けてならない」。
 「おぉ、駕籠が来たか」、駕籠でやって来たのは柳橋の菊江です。洗い髪で白薩摩を着ています。庭の石灯籠に照らされてすっくと立ったその姿の艶(あで)やかなこと。
 「番頭、あれが菊江だ」、「ほぉ~、お花さんにそっくりですね」、「若旦那ぁ、清蔵さんが急がせるので、洗い髪で、この形、大旦那が戻られたら困るのでイヤだと言ったんですよ」、「菊江、旦那は今日は帰ってこない。こちらは番頭だ、お酌をしてやってくれ」、「これはどうも。(お猪口を取り上げ一口)若旦那のお酌より美味ですな」、「せっかく来たんだ、三味線を弾きな」、奥がこれですから、店はドンチャン・ドンチャン。丼鉢を叩いて大騒ぎ。

 「定吉、速く歩きなさい。お腹も空いただろう、店に着いたら食べさせてあげるから・・・。こんな事になってしまって。(手を合わせて)なんまんだぶ、南無阿弥陀仏。どこかで騒いでいるな。旦那の目が届かないから・・・、ん、私の店だよ」。
 「(ドンドン)旦那様のお帰りッ。(ドンドン)旦那様のお帰りッ」、「大変だ。番頭さん、旦那様がお帰りです」、「泊まると言ったのに・・・」、「菊江、駕籠屋は帰してしまったから、隠れるところは・・・。仏壇の中に隠れておくれ」、「ヤですよ」、「ここは人が入れる大きさだから。後で出してあげるから。番頭、店の方は頼むよ」。
 「みんな皿の物は食べておしまい。中ドン鍋の上に坐って。赤い顔は消して・・・」。
 「お帰りなさい」、「お帰りなさい」、「お帰りなさいまし」、「ただ今帰りました。番頭さん、この騒ぎは何ですか。行くとき頼んでいったじゃないですか。この騒ぎは・・・。中ドン股の間から湯気が出ていますよ。伜や、ここに坐りなさい。話が有る。お花は死んだよ」、「(消え入るような声で)お花は死にましたか・・・」。
 「今日は引きずってでもお前を連れて行かねばならなかった。お花はきかない身体を起こし『お父様申し訳ありません』と謝りながら、私の後ろを見ていた。こんなバカでもひと目見たかったんだ。『私が到らないせいで、若旦那をあんな風にさせてしまいました』、『とんでもない。お前ぐらい良い嫁は無い。それに引き替え、家のバカが・・・、こちらこそ謝らなくてはならない。早く良くなって、私の所に帰えってきて下さい』と言うと『もう帰れないかも知れません』、『気弱なことを言うのではない。良くなったら必ず私の所に戻ってきておくれ。他の所に行ってはダメですよ』。お花は嬉しそうにうなずいたが、急に容体が変わって、医者が脈を取っているときも私を見ていた。私は何も出来ないじゃないか。眠るように亡くなってしまった。どんなに酔っ払っていても、首に縄を付けてでも連れて行くんだった。この不始末、向の親御さんに心から謝った。帰り道でも、お花にすまない、お花にすまないと言いながら帰ってきた。帰って来たらこの有様、呆れて小言も言えない。あれほど帰って来てと言ったので、もう帰っているかも知れない。仏壇にお灯明でも上げましょう」。
 「(驚いて仏壇の前に立ちふさがる若旦那)仏壇はいけません」、「何がいけない。お灯明を上げるだけだ」、「お灯明は私が上げます」、「お前が上げてお花が喜ぶか。数珠も取りたい。その数珠を持って先方に行くんだ」、「私が他にしまいました」、「なに、何処にしまった」、「下駄箱に」、「大事な物を下駄箱に・・・、そこをどきなさい。番頭までどうしたんだ。(仏壇の扉を右・左と開ける)南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。(静かに顔を上げると、目の前に・・・)判る、わかる、お前の気持ちは良~く判る。伜には後で言い聞かせるから、どうか迷わず成仏しておくれ。どうか浮かんでおくれ。どうかこの通り、消えておくれ」、「私も消えとう御座います」。

 

先頭の写真、概略は、五街道雲助。2017年5月、TBS・落語研究会の高座から。

 



 菊江の仏壇(きくえのぶつだん)または菊江仏壇(きくえぶつだん)と言われる落語。原話は文化5年(1808年)に刊行された『浪花みやげ』の中の一遍である『幽霊』。別名「菊江佛壇」「菊江の佛壇」。 元々は上方落語の演目で、主な演者としては、五代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝や三代目桂米朝がいる。
 江戸落語には明治初頭に移植され、初代三遊亭圓右や十代目金原亭馬生が『白ざつま』の題で演じている。東京で上方落語を高座にかけていた二代目桂小文治、二代目三遊亭百生、二代目桂小南たちは『菊江仏壇』または『菊江の仏壇』で演じていた。現役では、桂歌丸が『菊江の仏壇』、柳家さん喬が『白ざつま』で手掛けている。
 以上ウイキペディアより
 私は初めてこの噺を聞いたのは、二代目桂小文治でもう50年も前のことになります。素晴らしい人情噺で、そのテープから起こそうとしましたが、どうしても垢抜けしない部分があって延び延びになっていましが、そこのところを五街道雲助は解き明かしてくれました。『出来すぎた嫁は気が詰まる、で、どうしても外に出てしまう』。雲助の工夫でしょう。 
 店ではドンチャン楽しんでいるところに、旦那が思いもよらず帰って来のは、落語「味噌蔵」にそっくりです。せっかく楽しんでいたのに~。


ことば


白薩摩(しろざつま);薩摩絣(さつまがすり)。 薩摩(現在の鹿児島県西部)で織られた絣(かすり)の木綿織物で「琉球絣」を元にして織られています。 藩政時代、琉球は薩摩藩の統治下にあり、琉球の織物は薩摩を経由されて売り出されていたため薩摩の名で呼ばれていました。元禄年間(1736~1740)に薩摩でも織られるようになり、戦後は江戸時代のそれとは趣を異にする繊細な織物で、宮崎県都城市を中心に織られています。 絣柄の、藍染木綿織物で高級木綿絣織物として知られており、紺地のものを紺薩摩、白地に紺絣を白薩摩といいます。細い上質の糸を用い、奄美大島の大島絣の技術を取り入れて織った最高級の木綿絣として、着尺地に用いられています。薄くしなやかな地風と精巧な絣柄が特色です。
 「きもの用語大全」 有限会社 創美苑(http://www.soubien.jp/)より

 かすり【飛白・絣】、所々かすったように文様を織り出した織物または染文様。文様を織り出したのを織絣、模様を染め出したのを染絣という。「―の着物」。

経帷子(きょうかたびら);亡くなった方に着せる死装束。手甲や脚絆、頭陀袋などの組み合わせからなります。 白一色の麻、木綿、紙布などでできています。縫い目の糸をとめず、裏地のない単衣になっています。 遺族の手で着せてあげ、左前に合わせます。経帷子には、南無阿弥陀仏や、南無妙法蓮華経という名号やお題目、梵字や経文・朱印などが書き記されています。 本来巡礼のための装束ですが、西方浄土へ巡礼に出るという発想から、経帷子を着せる習慣が始まったとされています。  

 お花さんにそっくりな、菊江さんは湯上りの設定で白薩摩に洗いざらし髪という扮装で店にやって来ました。これが、終盤への伏線となります。 白薩摩は、白地のものは薄い絣柄が入っていて夏の浴衣などに用いられる一方、死に装束である経帷子は、綿もしくは麻等で作られているのですが、同じ単衣で絣柄のような文字が入っているので、大旦那は間違えてしまったのでしょう。 さらに、菊江は洗い髪で髪をザンバラと散らしていたので、暗い部屋の中、仏壇の中にいるので幽霊とそっくりになってしまった。

幽霊図(お雪の幻)」;安永期 円山応挙(1733-95)の代表作 。夜分、奥さんを見掛けて絵筆を執ったと言われる。これ以後、幽霊には足が無くなった。
 右図:落語「牡丹灯籠
 より。同じ構図で何枚かの幽霊画が有りますが、たぶん弟子達が模写したものでしょう。落款の押された「お雪の幻」はこれ一枚だけです。個人蔵(カリフォルニア大学バークレー美術館寄託)。

親に似ぬ子は鬼っ子;親に似ない子がもしいるなら、それは人間の子ではなく鬼の子である。ことわざ事典
同意語、「親に似ぬ子は無し」、「蛙の子は蛙」(本当は、蛙の子はオタマジャクシです)。

門跡(もんせき);本来は一門の祖跡の意で,祖師の法門を受継ぐ寺院またはその主僧のこと。平安時代宇多天皇が僧となって京都御室の仁和寺に住み,この寺を御門跡と呼ぶようになった。それ以来法親王の住む寺院を門跡と称し,最高の寺格を示す称号となった。宮門跡,摂家門跡,清華門跡,公方門跡,准門跡などの別があり,門跡の住持を門主 (もんす) ,御門主と称したが,のちにはこれら住持のことを門跡,御門跡ともいうようになった。
 特に真宗本願寺の管長の俗称として門跡の名が普及した。寺格の称号としての門跡は明治初年廃されたが,私称としては認められ今日にいたっている。
 ブリタニカ国際大百科事典より

新造(しんぞう);新妻(ニイヅマ)。若妻。転じて、下級武士や上層の町人の妻女の敬称。

とうは立っていた;年増な女。 主に女性の、年季が入って瑞々しさの失われたさま、年頃を過ぎてしまった様子を形容する表現。「とうが立つ」とは、茎(とう)が食べられる野菜が成長してしまって不味くなること、食べるによい頃合いを過ぎることを意味する語。  実用日本語表現辞典より

帳場格子(ちょうばごうし);商店で、帳場のかこいに立てる2枚折りまたは3枚折りの低い格子。結界。
右写真:お米屋さんの帳場と、机の前にある帳場格子。深川江戸資料館。

柳橋(やなぎばし);台東区柳橋。きたり喜之助が住んでいた、両国橋の西側、京葉道路を渡った北側、柳橋を渡ると浅草柳橋(町)です。花柳界があって賑わった地です。落語「不孝者」、「一つ穴」に詳しい。
子規の句で、
 「春の夜や女見返る柳橋
 「贅沢な人の涼みや柳橋
と唄われるように、隅田川に面していて両国橋西詰めから神田川が合流する、その際に架かった柳橋を渡ると、その北側には柳橋と言う町があって、その柳橋花柳界で金持ちは遊んだ。江戸っ子というと職人さん達や小商人さん達ですが、大店の旦那衆は金銭感覚が違っていて、ここは職人達がおいそれと遊べる所では無かった。
 江戸が明治に変わり、新政府に仕える元武士達が東京に大勢入ってきた。その時江戸っ子はその者達を粋さが無いと馬鹿にして軽蔑した。吉原でも同じようにその者達を軽蔑して楽しく遊ばせなかったので、彼らは柳橋や赤坂で遊ぶようになった。ために、柳橋は多いに賑わった。
 また、両国の花火では多いに賑わい、そのスポンサーとしての地位を築いていたが、隅田川の護岸が高くなり川面が見えなくなってしまった。それに輪を掛けて、高度経済成長期であったので、隅田川の水が墨汁のように真っ黒く染まり、悪臭を放って遊びどころでは無くなった。その為、客が激減して営業が成り立たなくなり花火も中止になり、街はマンションや事務所ビルに変わっていった。しかし、現在でも幾つかの料亭は続いています。私の調べでは、和風造りの「傳丸」、ビルの1階で「亀清楼」の2軒が営業していますし、夜になれば料理屋さんとして店を開くであろう和風の昔ながらの店もあります。
 しかし、芸者の元締め、見番が無くなって久しい。と言うことは、残念ながらこの柳橋には芸者が現在絶滅して一人も居ません。
 記事・落語「一つ穴」より転載。写真・柳橋と屋形船。

お灯明(おとうみょう);神仏に供える灯火。みあかし。

芸者茶屋(げいしゃじゃや);芸者を呼んでそこで遊べる貸席業。待合茶屋。待合は主として芸妓との遊興や飲食を目的として利用され、料亭・置屋とともにいわゆる三業の一角を占める。 かつては寝具が備わっており、芸妓や娼妓(送り込み制の場合)と寝ることも使用法の一つにあったが、現在では売春が禁じられていること、時代の変化等によりそのようなことはない。現在では上記の通りに飲食や芸妓遊びに使われる。 飲食の際は飲み物は備わっているが料理は直接提供できない。したがって仕出し屋などから取り寄せる必要がある。



                                                            2016年10月記

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