落語「牡丹灯籠・栗橋宿」の舞台を行く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「牡丹灯籠・栗橋宿」(ぼたんどうろう・くりはしじゅく)より


 

 萩原新三郎が死んで、伴蔵(ともぞう)お峰(おみね)の夫婦は日光街道の生まれ故郷栗橋に移り住む。従兄弟(いとこ)の馬方の久蔵に頼んで一軒の家を買い、江戸荒物関口屋という店を開きます。安いと評判が立ち、店は繁盛し、6人の奉公人を置くようになる。伴蔵は贅沢でいい服を着るようになるが、お峰は木綿物で通し仕事に精を出します。
 伴蔵は馬方の久蔵を連れて栗橋宿壱の料理旅籠の笹屋へ行くと、お酌に出た品もよく、二十五六の女。帳場に聞くと、”お国”という女で侍の女房、夫婦で泊まった時、夫の足がたいそう痛んで、歩くことができなくなり、土手下に家を持たせ、女房がこの店で酌婦をして働き始めた。江戸に居るとき、このお国さんは隣家に住む男・宮邊源次郎とイイ仲になり、見付かって男はヤリで刺され、お国さんの亭主を殺して二人で逐電。栗橋に着いたときには足が痛んで歩け無くなった。伴蔵は金を使えば女はなびくなと思い、通い詰め、イイ仲になった。
 お峰は感づいたが、伴蔵はとぼけてしっぽを出さない。馬を引いて通りかかった久蔵に江戸から来た酒を飲ませ、小遣いもやって、女の子の事を聞くが、知らないと言い張る。そこで、伴蔵が全て昨夜喋ったのだと嘘を言うと、久蔵は今までの経緯をみんな喋ってしまう。「お前に聞いて、やっと様子が分かったよ」、「ええ?!」。

 帰ってきた伴蔵にお国のことを問うが、知らない素振り。久蔵から聞いたとおり、お国のことを細かく聞かせると、伴蔵は話し始めた。しかし痴話げんかになって声が大きくなり、「奉公人に聞こえるよ」。
 「ぶったね。私は悪い事をしていないよ。出て行くよ」、「黙って出て行け」、「100両、ここに出しな」、「そんな無分別な・・・」、「幽霊と取引して百両をもらった金だよ」、結果として新三郎を殺したこと、海音如来を盗んだことを大声で喋り始めた。「聞かれたら二人とも首が飛ぶぞ」。
 伴蔵の態度が一転、「勘弁してくれ。夫婦だと思うからわがままを言ったんだ。悪かった。お前がここから出て行かなくても、俺が出て行く。もし、イヤでなかったら、この店を売って越後のどこかで出直さないか?」、「私だって、苦労をしてきた仲じゃないか。私を捨てないというなら・・・」、「そうか、もういっぺん俺と苦労をしてくれるというのか。すまねぇ~」。一晩寝たら夫婦の仲が治ったと言います。実に変なものです。圓朝は原作の中で、「女房の角(つの)をちんこでたたき折り」と言っています。

 翌日になりますと、幸手のお祭りを二人で見に行った帰り道、四つ半今の時間で夜の11時頃。伴蔵が幸手堤の土手下に降りて、埋めておいた海音如来を掘り出して、「軍資金の一部にするんだ。雨が落ちてきたようだ。ん?二人連れが来るようだ、注意して見張っててくれ」。
 片や新利根、大利根の流れ、道が三つ叉になっておりまして、遠く田舎屋の盆灯籠も消えなんとして、往来の行き来は途絶え、何となくものすごい有様で、お峰は向こうへ気をとられているすきに、後ろへ回った伴蔵は腰に差している道中差しをそっと抜いて、物をも言わずお峰の肩先へざっくり斬りつける。
 女房を殺害しました。これが元で伴蔵の悪事露見に及ぶという。
 牡丹灯籠の内、栗橋宿でございます。

 



ことば

牡丹灯籠・お札はがしのあらすじから
 根津の清水谷に萩原新三郎という若い美男の浪人が住んでいた。牡丹灯籠の発端です。
 そこへ、毎夜毎夜、若い娘のお露、女中のお米の二人が通って来る。人相見の白翁堂勇斎が新三郎宅を覗いてみると、果たして新三郎と語らっているこの二人は骸骨であった。
 白翁堂勇斎の助言で新三郎が彼女の住まいだという谷中三崎町をいろいろ調べてみると、この二人、墓もちゃんとある。つまり、お露とお米は幽霊であったのだ。新三郎のことを恋しくて、お露が通って来る。「牡丹燈籠」とは、女中のお米が持っている灯籠の絵柄。夜になると「 カランコロン、カランコロン」という駒下駄の音。
 このままだと、新三郎は幽霊に憑り殺されてしまうというので、白翁堂はお露さんの墓のある新幡随院の和尚に助けを求める。和尚は寺宝・海音如来の仏像を貸してくれ「これを肌身離さず、それから魔除けのお札を家中の窓に貼り付けておくように」、と固く言いつけた。
 果たして、お露、お米の二人は、お札の為に家に入れない。そこで萩原家の下男の伴蔵、お峰夫婦のもとへ幽霊二人が現れ「どうかお札をはがして下さい」と頼む。伴蔵夫婦は 「それじゃ、百両と引き換えにはがしましょう」と、約束。新三郎に身体が汚いと幽霊が取り付くからと騙し、行水をさせている隙に仏像をすり替え、お札をはがしてしまう。
 その夜、新三郎の許へ、二人が現れ、恋しさ余って新三郎を憑り殺す。
 落語「牡丹灯籠・お札はがし」をご覧下さい。
 ここから、本題の栗橋宿に入っていきます。

 左、信三郎は二人の幽霊に逢う。 右、殺したお峰が見世の者に取り憑いてうわごとを言い始める。世界文庫・牡丹灯籠挿絵より

牡丹灯籠(ぼたん どうろう);怪談牡丹灯籠は、明治の三遊亭圓朝、江戸時代の25歳の時の作品。落語の怪談噺。 江戸時代末期の1861~1864年頃、浅井了意による怪奇物語集『御伽婢子』、深川の玄米問屋に伝わる怪談、牛込の旗本家で聞いた実話などに着想を得て創作された。速記本が明治17年(1884)に刊行されている。 このうち『御伽婢子』は、中国明代の怪奇小説集『剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』を翻案したもので、若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話だった。
 圓朝はこの幽霊話に、仇討や殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大スペクトラムに仕立て上げた。 圓朝没後は、四代目橘家圓喬・五代目三遊亭圓生・六代目三遊亭圓生・五代目古今亭志ん生・初代林家彦六・桂歌丸など歴代の大真打が得意とした。 明治25年(1892年)7月には、三代目河竹新七(黙阿弥)により『怪異談牡丹灯籠』(かいだん ぼたん どうろう)として歌舞伎化され、五代目尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演されて大盛況だった。
 以後、演劇や映画にも広く脚色され、特に二葉亭四迷は圓朝の速記本から言文一致体を編み出すなど、その後の芸能・文学面に多大な影響を与えた。

 圓朝は取材で、紀行文『上野下野道の記』に栗橋宿を訪れた円朝が笹屋に宿泊していることなどから、モデルがあったと考えられています。また、『上野下野道の記』の中で円朝は、「(栗橋宿は)牡丹灯籠の友蔵の産地なり」と自ら記しています。

 長編人情噺の形をとっており、多くの部分に分かれていますが、六代目三遊亭圓生はお露と新三郎の出会いを「お露新三郎」・お露の亡魂が新三郎に通い祟りをなすくだりを「お札はがし」。
 伴蔵は幽霊にもらった百両を元手に荒物屋「関口屋」を開き、成功し、料理屋の酌婦と懇ろになる。酌婦は、飯島平左衞門の元妾のお国だった。伴蔵は、お国との仲を咎めた妻のお峰を騙して殺す。「栗橋宿/お峰殺し」。
 死んだお峰が伴蔵の使用人たちに乗り移り、伴蔵の悪事をうわ言のように喋り出したので、医者を呼んだところ、その医者は山本志丈だった。事の次第を知った山本は伴蔵に酌婦お国の身の上を暴露する。お国の情夫宮邊源次郎が金をゆすりに来るが、逆に伴蔵に追い返される。伴蔵は栗橋を引き払い、山本と江戸に帰る。「関口屋・強請」。

■実はこの噺は幽霊の所だけでは、魚の半身と同じで、もう一つの筋が流れていて、最後の方で話が合流します。その話も主役級の筋になって居ます。長い話になりますから、短く別ページでご紹介しましょう。  

栗橋宿(くりはしじゅく);栗橋宿は、利根川の舟渡しの町として賑わい、また、関東平野北辺に対する警備の地として、関所が設けられた重要な地だった。現在、所々に古い家並みが残り、宿場の情緒を今に残している。宿場のはずれ右手に本陣跡がある。栗橋宿の開発者池田鴨之助の子孫池田由右衛門が本陣を勤めた。本陣の特徴である奥まった家の表札は「池田」となっている。その向かいは脇本陣跡。
 江戸時代の日光道中は、この辺りの渡し場で利根川を渡った。利根川はこの辺りでは房川と呼ばれ「房川渡し」といわれた。ここに江戸時代は関所があった。利根川橋のたもとの下の方に「栗橋関所址」(右写真)の石碑と案内板がある。案内板には将軍の日光参詣のときに特別に設置された船橋の絵がある。川に6~70艘の船を並べその上に板を渡して橋としたもので、3ヶ月かけて造ったが、将軍の日光参詣のときだけの船橋で、役目が終わるとすぐ取り壊されたという。
 日光道中5 http://hyakkaido.travel.coocan.jp/nikkoudoutyu5sattekoga.htm より

 現在、栗橋町(くりはしまち)とは、かつて埼玉県の東部北に存在した人口約2万7千人の町。北葛飾郡の最北端に位置していた。2010年(平成22年)3月23日、久喜市、南埼玉郡菖蒲町及び北葛飾郡鷲宮町との新設合併により消滅した。現在でも旧栗橋町域を総称して栗橋地区という。

幸手のお祭り(さってのおまつり);幸手市は埼玉県東部にある人口約5万人の市です。江戸時代から日光御成街道と日光街道(奥州街道)の合流点に位置する宿場町として栄えていた。市内には徳川将軍が日光東照宮へ墓参する際に立ち寄った聖福寺や明治天皇が行幸した折に宿泊した行在所跡が残る。市の西寄りを南北に東武日光線と国道4号線(日光街道)が縦断しており、東武日光線幸手駅とその東側の旧道(旧・日光街道)、国道4号線を中心に宅地を中心とする市街地が広がる。市街地の外側では水田地帯の中に集落が散在している。
 何処の神社の祭礼だか分かりませんが、夏祭りだったのでしょう。

 東武日光線の幸手駅が市の中心部に有り、北隣の栗橋町には同線の南栗橋駅と栗橋駅が接続しています。

 

 yahoo地図より栗橋・幸手部分切り抜き及び書き込み。

幸手堤(さってづつみ);『牡丹燈籠』 惨劇の場。“幸手堤” とはどこだろう?http://open.mixi.jp/user/809109/diary/540168608 より下敷きにして考えます。
 彼は、江戸の街が度々洪水を起こしていたので、利根川を付け替えて千葉県野田の最北端で利根川と江戸川を分岐、と言うより、江戸川に流れていたのを今の利根川に付け替えたのです。その江戸川の分岐したところの下流で、幸手に接しているのは3km程しか有りません。また、栗橋から見ると10km以上も離れた最南端です。わざわざこんな遠くまでお峰さんを引っ張って来れたのか疑問だと言います。栗橋の東端は権現堂川(右写真:権現堂川堤の桜)に接しています。この上流は利根川そのもので、ここかも知れないとも言います。が、疑問が残ったままです。権現川の茶屋の主人は、昔はここが利根川の本流だと言います。

 私は、地図をくまなく調べていると、「古利根川」が幸手の西側に接して流れています。現在は古利根川と言いますが、当時は新利根川だったのではないかとの疑問も出て来ました。この古利根川は利根川の本流で有ったと言われます(栗橋町・幸手市での解説)。そこで、栗橋町と幸手市の担当者に伺いました。両者結論は分かりませんとのことで、江戸時代この地は何度も大洪水に見舞われ、利根川が何処を流れたかは時代によって変わってしまい、何処をどう流れたかは分からなく、また、人為的に利根川の付け替えなども行われ益々分からなくなっています。大洪水の折、古資料はそのたびごとに流されて、今は細かいことが分かりません。
 話戻して、圓朝の時代は取材までしていますので、新利根川は有ったのでしょう。でも現在は上記のような理由で分からなくなっています。ま、現地の研究家でも分からないので、分からないとしておきましょう。 

江戸荒物(えどあらもの);笊(ザル)・箒(ホウキ)・塵取りなどの雑貨類。荒物を売る店。江戸から直接仕入店頭に並べていて安かったので大繁盛した。
 右写真:江戸東京たてもの園。荒物屋。商品としては、鍋釜薬缶、煙草盆、ねずみ取り、履き物、渋うちわ、陶器類、食器、番傘、おはち、おけ、カゴ、タワシ、・・・上げていけば何でもあります。

馬方(うまかた);駄馬をひいて客や荷物を運ぶことを業とする人。まご。

百両(100りょう);幽霊お露さんから巻き上げた金子。今の貨幣価値にして約800~1000万円になります。大金です。

料理旅籠(りょうりはたご);料理を出すのが本業であったが、旅籠としての利便性も兼ね備えていた。
右写真:江戸東京たてもの園。青梅市に有った万徳旅館。江戸の旅籠の形態を見ることが出来ます。

海音如来(かいおんにょらい);和尚は寺宝・海音如来の仏像を貸してくれ「これを肌身離さず、それから魔除けのお札を家中の窓に貼り付けておくように」と固く言いつけた。その金無垢の海音如来は200~300両で売れると値踏みしています。
 現実、海音如来はこの噺牡丹灯籠以外では見つけることが出来ません。幽霊噺ですから、実在の如来を出すことに遠慮があったのでしょう。

盆灯籠(ぼんちょうちん);盆提灯はお盆のとき、先祖や故人の霊が迷わず帰ってくる目印として飾ります。盆提灯は迎え火・送り火の大切な役割となるのです。
また盆提灯は故人の冥福を祈り、感謝の気持ち込めたお盆の供養を表すもので、新盆用の白提灯を、玄関や部屋の窓際、仏壇の前などに吊るします。

道中差し(どうちゅうざし);近世の庶民が護身用として旅行中に携帯を許された脇差。武士の大刀よりやや短い。短いと言っても、刀は刀ですから、お峰さんもさぞ無念だったでしょう。



                                                            2018年3月記

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