落語「高瀬舟」の舞台を行く
   

 

 森鴎外の短編小説
 三遊亭円生の噺、「高瀬舟」(たかせぶね)より


 

 京都の高瀬川(たかせがわ)を上下(のぼりくだり)する小舟を高瀬舟と言い、浅い川を上り下りするので底を平たく作ってあります。徳川時代に京都の罪人が遠島(えんとう)を申し渡されると、罪人の親類が牢屋敷(ろうやしき)へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまご)いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に乗せられて、大坂へ回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下の同心(どうしん)で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を同船させることを許す慣例であった。しかし、護送は、町奉行所の同心仲間で不快な職務としてきらわれていた。

 同心羽田庄兵衛(はねだしょうべえ)は、妻をいい身代(しんだい)の商人の家から迎えた。そこで女房は夫のもらう扶持米(ふちまい)で暮らしを立ててゆこうとする善意はあるが、豊かな家にかわいがられて育った癖があるので、夫が満足するほど手元を引き締めて暮らしてゆくことができない。ややもすれば月末になって勘定が足りなくなる。すると女房が内証で里から金を持って来て帳尻(ちょうじり)を合わせる。格別平和を破るような事のない羽田家に、おりおり波風の起こるのは、これが原因である。

 江戸で白河楽翁侯(しらかわらくおうこう)が政柄(せいへい)を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院(ちおんいん)の桜が入相(いりあい)の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に乗せられた。
 名を喜助(きすけ)と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の痩せぎすの男である。もとより牢屋敷(ろうやしき)に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人で乗った。

 護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ羽田庄兵衛は、ただ喜助が弟殺しの罪人だということだけを聞いていた。
 夜舟(よふね)で寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙っている。その顔は晴れやかで目にはかすかな輝きがある。罪人は、いつもほとんど同じように、目も当てられぬ気の毒な様子をしていた。それにこの男はどうしたのだろう。遊山船(ゆさんぶね)にでも乗ったような顔をしている。罪は弟を殺したのだそうだが、鴨川を越える頃から庄兵衛は喜助の態度が考えれば考えるほど解らなくなるのである。

 しばらくして、庄兵衛はこらえ切れなくなって呼びかけた。「喜助。お前何を思っているのか」、「はい」と言って、居ずまいを直して庄兵衛の気色(けしき)を伺った。「いや。別に訳があって聞いたのではない。実はな、おれはさっきからお前の島へゆく心持ちが聞いてみたかったのだ。みなは島へ行くのを悲しがって、一緒に舟に乗る親類の者と、夜どおし泣くに決まっていた。それにお前の様子を見れば、どうも島へ行くのを苦にしてはいないようだ。いったいお前はどう思っているのだぃ」。
 喜助はにっこり笑った。「お上(かみ)のお慈悲で、命を助けて島へやってくださいます。島はつらい所でも、鬼の住む所ではございますまい。その、いろとおっしゃる所に落ち着いていることが出来ますのが、まず何よりもありがたい事でございます。それに私はこんなにかよわい身体ではございますが、ついぞ病気をいたしたことはございませんから、島へ行ってから、どんなつらい仕事をしたって、身体を痛めるようなことは無いと存じます。それから島へおやりくださるにつきまして、二百文の鳥目(ちょうもく)をいただきました」。
 「お恥ずかしい事を申し上げなくてはなりませんが、私は今日(こんにち)まで二百文というお足(あし)を、こうして懐に入れて持っていたことはございません。仕事が見つかり次第、骨を惜しまずに働きました。そしてもらった銭(ぜに)は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませんでした。それも銭で物が買える時は、私の工面(くめん)のいい時で、たいていは借りたものを返して、またあとを借りたのでございます。それがお牢(ろう)に入ってからは、仕事をせずに食べさせていただきます。それにお牢を出る時に、この二百文をいただきました。こうして相変わらずお上(かみ)の物を食べていて見ますれば、この二百文は私が使わずに持っていることができます。お足を自分の物にして持っているということは、私にとっては、これが始めでございます。私はこの二百文を島でする仕事の元手(もとで)にしようと楽しんでおります」。こう言って、喜助は口をつぐんだ。

 庄兵衛は出掛けに女房をたしなめたが、自分も上(かみ)からもらう扶持米(ふちまい)を、右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか。彼と我れとの相違は、いわば十露盤(そろばん)の桁(けた)が違っているだけで、喜助のありがたがる二百文に相当する貯蓄だに、自分には無い。不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。
 庄兵衛は今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。

 「弟を殺(あや)めたと聞いたがその訳を聞かせてくれ」、
 「どうも飛んだ心得違いで、恐ろしい事をいたしまして、後で思ってみますと、どうしてあんな事が出来たかと、自分ながら不思議でなりません。全く夢中でございました。私は小さい時に二親(ふたおや)が疫病(えきびょう)で亡くなりまして、弟と二人あとに残りました。親類縁者も無かったのでございます。
 去年の秋の事でございます。私は弟と一緒に、西陣(にしじん)の織場(おりば)に入りまして、空引(そらび)きということをいたすことになりました。そのうち弟が労咳(ろうがい)で働けなくなったのでございます。弟は、『私を一人で稼がせてはすまない、すまない』と申しておりました。
 ある日帰ると、弟は布団の上に突っ伏していまして、周囲(まわり)は血だらけなのでございます。私はびっくりいたして、『どうした、どうした』と言いますと、すると弟はまっ青な顔の、両方の頬(ほお)からあごへかけて血に染まったのを、私を見ましたが、物を言うことができません。息をいたすたびに、傷口でひゅうひゅうという音がいたすだけでございます。、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と言って、そばへ寄ろうといたすと、弟は右の手を床(とこ)に突いて、少し身体を起こしました。左の手はしっかりあごの下の所を押えていますが、その指の間から黒い血の固まりがはみ出しています。弟は目で私のそばへ寄るのを留めるようにして口をききました。『兄さん、すまない。どうぞ堪忍してくれ。どうせ治りそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄貴に楽がさせたいと思ったのだ。剃刀(かみそり)で喉を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったら、息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へ滑ってしまった。これをうまく抜いてくれたらおれは死ねるだろうと思っている。どうぞ手を借して抜いてくれ』と言うのでございます。黙って弟の喉(のど)の傷をのぞいて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持って、横に喉を切ったが、それでは死に切れなかったので、そのまま剃刀を、えぐるように深く突っ込んだものと見えます。
 柄(え)がやっと二寸ばかり傷口から出ています。不思議なもので、目が物を言います。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と言って、医者を呼んで来るというのを、さも恨めしそうに私を見ています。弟の目は恐ろしい催促をやめません。それにその目の恨めしそうなのがだんだん険しくなって来て、とうとう敵(かたき)の顔をにらむような、恐い目になっています。それを見ていて、私はとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはと思いました。私は『しかたがない、抜いてやるぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと変わって、晴れやかに、さもうれしそうになりました。私はなんでもひと思いにしなくてはと思ってひざを撞(つ)くようにしてからだを前へ乗り出しました。弟は突いていた右の手を放して、今まで喉を押えていた手のひじを床に突いて、横になりました。私は剃刀の柄をしっかり握って、ズッと引きました。
 その時、近所の婆さんが入って来ました。留守の間、弟に薬を飲ませたり何かしてくれるように、私が頼んでおいた婆さんなのでございます。もうだいぶ家の中が暗くなっていましたから、私には婆さんがどれだけの事を見たのだか分かりませんでしたが、婆さんはアッと言ったきり、表口を開け放しにして駆け出してしまいました。婆さんが行ってしまってから、気がついて弟を見ますと、弟はもう息が切れておりました。傷口からはたいそうな血が出ておりました。それから年寄衆(としよりしゅう)がおいでになって、役場へ連れてゆかれますまで、私は剃刀をそばに置いて、目を半分開いたまま死んでいる弟の顔を見詰めていたのでございます」。

 庄兵衛はその場の様子を目(ま)のあたり見るような思いをして聞いていたが、これがはたして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑いが、話を半分聞いた時から起こって来て、聞いてしまっても、その疑いを解くことができなかった。弟は剃刀を抜いてくれたら死ねるだろうから、抜いてくれと言った。それを抜いてやって死なせたのだ。しかしそのままにしておいても、どうせ死ななくてはならぬ弟であった。それが早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えなかったからである。喜助はその苦るしみを見ているに忍びなかった。苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けなかった。

 次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人を乗せた高瀬舟は、黒い水の面(おもて)を静かにすべって行くのであった。

 



ことば

 

小説『高瀬舟』(たかせぶね);森鴎外の短編小説。大正5年(1916)1月、「中央公論」に発表された小説。江戸時代の随筆集「翁草」(神沢杜口著)の中の「流人の話」をもとにして書かれた。財産の多少と欲望の関係、および安楽死の是非をテーマとしている。
 鴎外は同時に自作解説「高瀬舟縁起」を発表しており、これによって長らくテーマは「知足」か「安楽死」か、それとも両方かで揉めてきた。同様の混乱は「山椒大夫」と自作解説「歴史其儘と歴史離れ」との間にも生じていた。しかし、「山椒大夫」には工場法批判が潜められているという指摘から、鴎外の自作解説は検閲への目眩ましであろうとの見解も生まれた。すなわち「妻を好い身代の商人の家から向かへた」という設定は「十露盤(ソロバン)の桁」を変えれば日英同盟の寓喩であり、「知足」のテーマは対華21ヶ条要求への批判として浮上してくる。こうして「高瀬舟」は今、歴史に借景した明治の現代小説としての再評価へと向かいつつある。
ウイキペディアより

 三遊亭円生はこの噺を落語と言うより、朗読の話術で聞かせます。

 原本はこちらに有ります。

高瀬舟;河川や浅海を航行するための木造船。室町時代末期頃の岡山県の主要河川(吉井川、高梁川、旭川等)で使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。中世には船体が小さく、底が深く(高背)、近世には型が大きくなり、底が平たく浅くなった。帆走もしくは馬や人間が曳いて運行され、物資の輸送を主な目的としていた。角倉了以が、京都・伏見間で開いた高瀬川は、高瀬舟の運航にちなんで名付けたものです。(右写真)
高瀬船は江戸時代の利根川舟運の代表的な川船の一種で、大小さまざまなものが建造されていた。 高瀬船の規模が求められる史料には、『忍藩御手船新艘注文帳』正田家文書がある。 これは、文化14年(1817)に、忍藩が高瀬船1艘を新造した時の注文書で、それによると、注文した高瀬船の敷長12尋1尺(22.14m)、横胴敷1丈3寸(約3.1m、敷板厚1寸6分(4.8cm)、巾78寸(2.34m)、釘間5寸(15cm)とある。 忍藩から、全長約22m強の大型船の高瀬船新造を注文した記録です。
(尋(ひろ)=縄・水深などをはかる長さの単位。1尋は6尺(1.818メートル))。

 

 上写真、「高瀬舟」 川越ヒラタ   江戸・荒川の支流である新河岸川は北武蔵野地域と江戸とを結ぶ物資輸送の大動脈であった。この模型はその流通に貢献し川越城下発展の基になったヒラタ型の川用荷船。江戸東京博物館蔵。

高瀬川(たかせがわ);京都の高瀬川は天正年間に豊臣秀吉が東山の大仏殿を造営するときに、その材料を運搬するため角倉了以に命じて作らせた掘り割りです。鴨川に並行して西側を流れ、竹田と言うところで鴨川を横切って伏見で宇治川に合流するものです。円生のマクラより。
 江戸時代初期(1611年)に、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。 現在は鴨川によって京都側と伏見側に分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっており、また桜の名所ともなっている。

 

 明治40年頃の高瀬川。画面中央で縄を引いている男二人が見える。

角倉了以 (すみのくらりょうい) ; (天文23年(1554).京都~慶長19年(1614).7.12.) 京都 安土桃山時代の海外貿易家、土木事業家。幼名は与七、のち了以。諱は光好。京都嵯峨の土倉吉田家の出。文禄元年(1592) 豊臣秀吉から、慶長9年(1604) 以降は徳川氏から朱印状を与えられ安南国トンキン(東京=インドシナ半島) に朱印船 (角倉船と呼ばれた) を派遣し巨利を得た。また治水事業、河川開発の技術にも長じ、慶長11年の大堰川 (丹波-山城) の浚渫、疎通をはじめとして、富士川 (駿河岩淵-甲府) 、高瀬川 (京都二条-伏見) 、などの開削を行い、天竜川 (遠江掛塚-信濃諏訪) は、ここは難工事で成功していない。これらの河川を利用して材木その他の物質を搬出し資産をなした。 高瀬川の完成直後に病没。六十一歳。

 落語「鰍沢」で、富士川の急流を見てきましたが、その富士川を河運に適したようにしたのも彼です。

京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)は、江戸幕府が京都に設置した遠国奉行の1つ。老中支配であるが、任地の関係で実際には京都所司代の指揮下で職務を行った。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取った(ただし、奉行所の名称は江戸・大坂とは違い、「東御役所」・「西御役所」と呼ばれていた)。京都郡代から分離する形で寛文8年12月8日(1669年1月10日)に設置された。京都町政の他畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった。
慶応3年12月13日(1868年1月7日)に、新政府の命令によって京都所司代とともに廃止された。

 東町奉行所跡=京都市中京区押小路通大宮西入る (地下鉄東西線「二条城前」駅から徒歩約3分) 現在は、NTT壬生電話局になっている。
 西町奉行所跡 京都市中京区押小路通千本北東角  (JR「二条」駅から徒歩1分) 現在は、京都市立中京中学校になっている。

京都牢屋敷(きょうとろうやしき);六角獄舎は、京都町奉行所付属の牢獄で、正式名称を「三条新地牢屋敷」といいます。小川通御池上ル西側にあった牢獄が宝永5年(1708)の大火で類焼し、翌年に六角通神泉苑西入因幡町に移転したもので、六角通に面していたため、「六角の獄舎」と呼ばれました。元治元年(1864)の蛤御門の変(右図)の際に、平野国臣(くにおみ)ら33名の志士が斬首されたことで有名です。 建物は東西約65m、南北約53m、面積約3640㎡、総坪数1102坪で、外側を竹柵来、内側を築地で囲み、本牢・切支丹牢・女牢などがありました。
 江戸小伝馬町にあった牢屋は幕府最大の施設でした。明治8年(1875)まで270年使われ、牢屋敷は2677坪あり、外周は高さ7尺8寸の練り壁とその外側には幅6尺深さ7尺の堀がめぐらされていた。内部は、役宅・牢役人の執務室、獄舎、刑場の三部分から成り立っていた。200~400人収容していたが、多いときには900人ほどの過剰拘禁が続いたときもあった。運用・慣習上不正不法が横行しこの世の地獄と恐れられていた。
 大坂の牢屋は与左衛門町にあった。松屋町筋に面していたことから、俗に「松屋町牢屋」或いは「松屋町本牢」とも呼ばれた。当初は御城近所内町の奉行所近くにあったものと考えられているが、与左衛門町への移転の時期は不明だという。

 喜助はここ京都獄舎から高瀬舟に乗せられて、大坂の牢屋敷(松屋町牢屋敷)に送られ、遠国の島に流されたのです。噺では京都、大坂間の高瀬舟船中の出来事です。

流刑地(るけいち);遠島(えんとう)。江戸時代には、追放(追放。その地に入れない処罰。例えば江戸追放=江戸の市内には入れない)よりも重い刑と規定されて「遠島」(えんとう)と称されており、江戸幕府では東日本の天領の流刑者を主に八丈島等の伊豆七島と佐渡島に流した。西国では天草諸島や五島列島などが流刑地となった。幕府はこのほか、改易した大名やお家騒動で処罰されたその重臣らを遠方の各藩預とする処分をしばしば下した。 南西諸島への遠島も行われていた。江戸時代には薩摩藩が政治犯を支配下に入れた琉球へ盛んに送っている。薩摩藩を含めて、一部の藩は領内の島や山奥を流刑地にしていた。赦免は刑期満了の他に、本国で改めて投獄・処刑する為にもなされる。
 西日本の受刑者は大坂の牢屋敷から、隠岐諸島(おき。島根半島の北方約50kmにある諸島)、天草諸島(九州西部の熊本県と、一部は鹿児島県にまたがる諸島)、壱岐諸島(いき。九州北方の玄界灘にある島で、九州と対馬の中間に位置)、五島列島(九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置)、などへ送っていた。

入相の鐘(いりあいのかね);日暮に寺でつく鐘。晩鐘。
「山寺の入相の鐘の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき」拾遺和歌集哀傷。

夜舟(よふね);夜行の船。

同心(どうしん);江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭などの配下に属し、与力(ヨリキ)の下にあって庶務・警察の事をつかさどった下級の役人。

身代(しんだい);一身に属する財産。家の財産。

扶持米(ふちまい);俸禄を給して、家臣としておくこと。また、その俸禄。主として米(扶持米)を給与した。給与として支給される米。ふち。

白河楽翁侯(しらかわらくおうこう);松平定信(マツダイラサダノブ)のこと。江戸後期の幕府老中。田安宗武の子。奥州白河の藩主。老中の職につき寛政の改革を断行。また、和歌・絵画に長じ、「花月双紙」、「宇下人言(ウカノヒトゴト)」、「集古十種」などの編著がある。隠居して楽翁と号す。(1758~1829)
 前任者である田沼意次の重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治から、飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などで一応の成果をあげたものの、老中就任当初から大田南畝により
「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」
などと揶揄された。また幕府のみならず様々な方面から批判が続出し、尊号一件事件も絡み僅か6年で老中を失脚することとなった。
 『海国兵談』を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、田沼時代の蝦夷地開拓政策を放棄したり、寛政異学の禁、幕府の学問所である昌平坂学問所で正学以外を排除、蘭学を排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせることとなった。
 また、 定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
右図:松平定信

政柄(せいへい);政治の権柄。政権。

智恩院(ちおんいん);京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集めた。

住所不定(じゅうしょふじょう);現在では、住民票がないとか、住所の登録がないとかで、把握できない人の状態。ですから、公園で寝ている人も、お金持ちの家を転々として優雅に暮らしている人も、住んでいる所が一定でない以上、同じ「住所不定」の人に該当する事になります。
 江戸時代では、全ての人間を人別帳に登録をした。この登録から除かれた者を無宿人、または無宿と言った。
その経緯は、食い詰めて逃げ出したり、親から久離・勘当されたり、飢餓で江戸に出てきた者、追放刑を処されたりされた者たちがなってしまった。近親者に累が及ぶのを避けるために、なる者も居た。
  江戸時代の戸籍簿を人別帳と言った。当初キリシタン吟味のために設けたが、享保(1716~1736)以後人口調査の目的で6年ごとに作成。これに記載されない者は無宿者とされた。この噺の喜助兄弟のように定まった場所に住まっていないと、人別帳にも載せてもらえず、住所不定の人間になってしまったのでしょう。

遊山船(ゆさんぶね);船遊びの船。

二百文の鳥目(ちょうもく);200文の価値は江戸中期で、1文が約20円。200文だと約4000円になります。
その銭を鳥目と言った。

疫病(えきびょう);流行病。伝染病。はやりやまい。

親類縁者(しんるいえんじゃ);血族および姻族の総称。親戚。親族。

西陣(にしじん);西陣織(ニシジンオリ)の略。京都市西陣を本拠地として製造・販売に従事する個人または団体が製織する織物で、機業の各工業組合規定の証紙・検印の押されたもの。帯・着尺・ネクタイ・洋服地・緞帳など多品種にわたるが、長い伝統に基づく技術や意匠の蓄積、新しい技術・意匠の開発によって、手工芸性を加味した高級紋織物として著名。

織場(おりば);織物を織る場所。

空引(そらびき);錦(にしき)、綾織(あやおり)などの紋織物に使われた手機(てばた)。織ろうとする紋様をあらかじめあらく編んだものを機台上方の枠(わく)に仕掛け、これに基づいて紋の織出しに必要な経(たて)糸の上下を、機台上の空引工が織工の動作に合わせて行う。
 右写真:空曳きの作業風景。二人一組で行う。

労咳(ろうがい);結核(けっかく、Tuberculosis)で、マイコバクテリウム属の細菌、主に結核菌 (Mycobacterium tuberculosis) により引き起こされる感染症。結核菌は1882年にロベルト・コッホによって発見された。日本では、明治初期まで肺結核は労咳(癆痎、ろうがい)と呼ばれていた。現在でも、多くの人が罹患する病気で好発部位は肺であるが全身の臓器・器官に感染し顕著な症状を呈している部位名に「結核」を付け加えた呼び方により細分化される。
 空気感染が多く肺などの呼吸器官においての発症が目立つが、中枢神経(髄膜炎)、リンパ組織、血流(粟粒結核)、泌尿生殖器、骨、関節などにも感染し、発症する器官も全身に及ぶ。結核菌は様々な器官において細胞内寄生を行い、免疫システムは結核菌を宿主細胞ごと排除しようとするため、広範に組織が破壊され、放置すれば重篤な症状を起こして高い頻度で死に至る。肺結核における激しい肺出血とそれによる喀血、またそれによって起こる窒息死がこうした病態を象徴している。

年寄衆(としよりしゅう); 江戸時代、町村内の行政をつかさどる役人。
 享保8年(1723)に京都町奉行により、町年寄は1町に1人、任期は3年と定められた。同時に、年寄の補佐役である五人組の定員を3名、任期を2年と定めた。町年寄の交代は、その都度、奉行所からの認可を必要とした。

役場(やくしょ);京都町奉行所のことで、「東御役所」・「西御役所」が有った。

おぼろ夜;朧夜。おぼろ月の夜。霧や靄(もや)などに包まれて、柔らかくほのかにかすんで見える春の夜の月。



                                                            2018年5月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system