落語「三人娘」の舞台を歩く 五代目 春風亭柳朝の噺、「三人娘」(さんにんむすめ)
ことば ■身延さん(みのぶさん);身延山久遠寺。山梨県南巨摩郡身延町身延3567。鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺です。日蓮宗の総本山として、門徒の無二の帰依処として知られています。
身延山久遠寺、本堂。 昭和60年(1985)、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建された。間口32m、奥行51m。一度に 2500人の法要を奉行できる。
かつて身延山は甲斐の国の波木井(はぎい)の郷内にあり、領主の南部実長公の領地でした。三度幕府をいさめたのち、一代をしめくくるため、日蓮聖人は山林に身をかくせとの故事により、信者である南部実長公の支援のもと、文永11年(1274)5月17日に入山しました。同年6月17日、久遠寺を建立。この日が身延山開闢(かいびゃく)の日となりました。以来、日蓮聖人はこの地でひたすらに法華経の読誦と門弟たちの教育に終始し、身延山を生涯の住処としました。弘安5年(1282)の9月8日、病身を養うためと両親の墓参のために、ひとまず山を下り常陸の国(茨城県)へと向いました。しかしその途中、武蔵の国池上(東京都大田区池上。池上本門寺)にて61歳の生涯を閉じました。聖人のご遺言「いづくにて死に候とも墓をば身延山に建てさせ給へ。」により、遺骨は身延山に奉ぜられて心霊とともに祀られました。お題目は「南無妙法蓮華経」。
景勝奇覧「甲州身延川」北斎画 夜の身延川でイワナ漁に精出す漁師達
富士川(ふじがわ);今から400年前、徳川家康の命を受けた京都の角倉了以(すみのくら_りょうい)によって慶長12年(1607)富士川が開削され、鰍沢から駿河の岩淵(いわぶち。静岡県富士市岩淵)まで開通しました。信州往還(信州に向かう甲州街道)と駿州往還(すんしゅうおうかん。富士川街道=みのぶ道。鰍沢-岩淵)の交わる地点に位置していた鰍沢は、この開削により富士川舟運の要衝地、鰍沢河岸として流通の拠点として大きく発展していきました。 右図;広重画「富士川上流の雪景」
この項、落語「鰍沢」より孫引き
■江戸の商人(えどのあきんど);この噺の旅人も道に迷うのですが身延への道ではよく道に迷うものです。落語「鰍沢」でも、江戸の商人が雪の降る時期、道に迷い一軒の民家に泊めてもらいます。「鰍沢」では鉄砲を持った女主人”お熊”に追いかけられて雪の山道を逃げることになりますが、この噺では3人の娘にちょっかいを出されたぐらいで済んだのは、幸せなことでした。
■願解き(がんほどき);神仏にかけた願がかなったとき、そのお礼参りをすること。お願いをするときは願掛けと言います。
■凍え死(こごえじに);寒さにこごえて死ぬこと。凍死。
■地獄で仏(じごくでほとけ);危難の時に思わぬ助けにあったたとえ。
■囲炉裏(いろり);地方の民家などで、床(ユカ)を四角に切り抜いてつくった炉。地炉。
■粗朶(そだ);伐り取った樹の小枝。薪とし、また、堤を築く材料や海苔を着生させる材料とする。
■お風呂が沸きました;山の中の一軒家なので、内風呂を持っていました。粗末な湯殿だったのでしょうが、凍え死にしそうだった旅人には天国のようにありがたかったでしょう。
■湯殿(ゆどの);浴室。風呂場。
■節穴だらけ(ふしあなだらけ);節穴=板などの節の穴。板に多くの節穴が開いてるような外板での作りでは、安普請の湯殿だったのでしょう。普段は、女性だけの家族ですから、覗かれる心配も無かったのですが、雪が降って来る外の寒さが、湯殿に直に伝わってきます。目線も。
■娘が節穴から中を覗いて;異性が裸でいれば、だれだって覗きたくもなるのは当たり前です。
■尻尾が前に;えッ?どういうこと。男性にだけしかない尻尾?
■触ってこようか;おッ~、大胆な娘ッ子達です。
■細長い、肉のようなもの;普段はね。
■ありゃ皮だよ;触られれば・・・。
■骨だよ;だんだん堅くもなりますよ。
■総領娘(そうりょうむすめ);長女。流石長女だけあって、堅くなったところを触ってきました。
■あんなもん触っちゃだめだよ;そうですよ、触っちゃダメ。
■水鉄砲(みずでっぽう);あの尻尾って、小便小僧のように水鉄砲だけの役割りだけじゃないでしょう。
右図:「ダビデ像」は、イタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロによる彫刻。1501年から制作を開始し、1504年9月8日に公開した。ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つ。フィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されています。
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