落語「一文笛」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「一文笛」(いちもんぶえ)


 

 寄席では三棒(三坊)と言って、つん棒、けちん棒、泥棒のはなしはしても良いとなっています。今回は泥棒の噺ですが、江戸落語に出てくるようなドジで間抜けなドロボウとは違います。

 スリには名人芸のような鮮やかな方法でスリ取っていくのが居ます。

 街中で声を掛けられた。立ち話もなんでと、茶屋に入って甘酒を二つ所望した。聞くと「良いタバコ入れを持っている。そのタバコ入れを3円で買いました」、「どういうことで・・・」、「実は私、スリで・・・、驚いてはいけません。私らの仲間が、あんさんのその角帯の煙草入れに目を付けまして、堺筋で『えぇ品やなぁ、欲しぃなぁ』と思たらしぃんで、へぇ。でも、スキが無くてどうしてもスレない。そこで仲間にスル権利を1円で売った。しかし、そのスリもどうしても抜けない。南に出てきたら元江戸っ子で「隼(はやぶさ)」とあだ名をとった、すばしっこい仕事の達者なやつでんねん。これがそれを聞ぃて『よ~し、おいらが一番』と、こいつ二円で買いよりましたんで、へぇ。それを御蔵跡(おくらあと)のあたりで追い付きましたら、まだこいつもよぉ抜いてしまへんねん。そこで私が3円で買ったというわけです。それからズ~ッと一心寺の前を通って狙わしてもらいましたんやが、どぉしても抜き取ることがでけまへん。とぉとぉ西門(さいもん)まで来てしまいました。天王寺さんへご参詣ですか。普段の日で人通りが無くなお取ることが出来ません。恥を忍んでお願いしたわけです。中に入っているキセルは別にして20円はしたでしょうから、道具屋へ払い下げたと思って10円で譲って欲しい」、「これ道具屋へ売りに行たかて十円で買ぉてくれるかどぉか分からんが、しかしあんた、先三円出してなはる。十三円も出して、これ引き合いますか?」。
「アホらしぃ、そんなもんが引き合いますかいな。損は覚悟の上でおます、へぇ、もぉ『誰もよぉ抜かなんだやつを見事にわしが抜いてきた』と、自慢したいだけでお願いしとりまんねん」。「そこまで言われたら10円で良いですよ」、「では気の変わらんうちに、どぉぞこれ内緒にお願いします」。スリは茶代を置いてそそくさと居なくなった。10円で売れた事を儲けたと思っていたら、「無いッ、財布が無いッ!」。

 「なぁ、みんな。仕事といぅのはこぉいぅ具合にせなあかんぞ。えぇか、煙草入れと思たらお前ら『煙草入れ、煙草入れ、煙草入れ』と、思っているからダメなんだ。煙草入れで抜きにくかったら形を変えたらえぇ、な、これが兵法ちゅうんや、分かったか」。
 そこに兄貴が現れ、その気量を良い方に使えば一人前以上の人間になるのに・・・、「足洗へ」。「それより兄貴の方こそ戻ってきてくれ」、「真面目に言っているだ」。
 「金取られてもどうでも良い奴や、金持たさん方が良い奴しか狙わないから、いつも貧乏しているんだ」、「ほぉ、偉そぉなこと言ぃやがったなぁ。ほんならお前、今日うちの長屋で何であんな真似したんや?」、「行ったけれど留守だし、兄貴の長屋では仕事はしない」、「一文笛だ」。
 「何を言ぅのかと思たらあれかい、あらわしじゃ。おまはん留守やったさかい、わしゃ帰りかけたんや。フッと見たらあの角の駄菓子屋のとこに子供がぎょ~さん集まってんねや。『何かいなぁ?』と思たら、卸屋がゴソッとあれ一文笛っちゅうのかい、あのオモチャの安もんの竹の笛、赤やら青やらに染めたぁるな、あれを降ろしてたとこや。子供が集まって来て、こいつをピィピィピィピィ吹いてるやつがある、あれ買お、これにしょ~かと選んでるやつがあるわい。みな面白そぉに騒いでんのに、一人だけちょっと離れたところでな、みすぼらしぃ着物、洗いざらしの着物を着て、散髪がボサボサに伸びた痩せぇた子ぉが一人、離れて立って見とぉんねや。指くわえて見てたけど、みんながあんまり面白そぉにしてるもんやさかい、自分も遠慮しながらそばへ寄って行て、一本笛を抜き取ってこぉ見てたら、あの婆。おら、あっこの婆、前から顔見ただけでムカムカするよぉな婆やで。恐い顔してその笛をシューッと引ったくって『銭のない子ぉはあっち行てんか』と、こない言ぃよった。
 ムカ~ッときてな、おのれの小さい時の姿見るよぉな気がして『この婆』と思たさかい、通りしなにあの笛ちょっと一つ取って、あの子供の懐へ放り込んで帰って来たんや。それがどないぞしたんか?」。
 「やっぱりお前やったんや・・・、あの後どないなったと思う? 子供、懐へ手ぇ入れたら買ぉた覚えのない笛が出てきた『おかしぃなぁ』と思ったけど、そこは子供や、口へ持っていってピィと鳴らした。ほな、婆がこいつ見付けて『お前に買ぉてもぉた覚えはない、さては盗ったな盗んだな、泥棒、盗人』ちゅうて親父のところへ引っ立てて行たんや」。
 親父は元侍・士族で曲がったことはさせていない。子供が何とあやまろうが許さなかったので、泣きながら出て行って、井戸に身を投げた。
 「長屋のもんがビックリして、じきに引き上げた。息は吹き返したけれども、ズ~ッと寝たきりで未だに気が付かん。わしゃ仕事から帰って来て、この話聞ぃて、お前が来たっちゅうこと聞ぃたさかい『こらひょっとしたら秀の仕業や』と思て出て来たんやが・・・。おい、お前、何ぞえぇことでもしてたよぉに思てんのと違うか? 子供が可哀想やと思たら、高々五厘か一銭のオモチャの笛、何で銭出して買ぉてやらん。それが盗人根性ちゅうねや。子供が死んだら、お前、どないすんねや?」、「す、すまん」、「わしに謝ったかてしゃ~ないやないかい」。
 左手が内懐へ入ったかと思うと、匕首(あいくち)を抜き出しまして、右手の人差し指と中指を敷居の上へ、乗したかと思うと、これをポ~ンッ!と切断。「な、何をするッ」、「おら、今日からスリやめる、盗人やめる」、「おい、紐持って来い、紐。指の根元グ~ッとくくれ、血が止まるまで・・・。思い切ったことやりやがったな、こいつ」、「わしゃ盗人よりほか、何にも知らん人間や。今日から万事頼む」、「どんなことがあっても一人前の男にしてみせる。あしたでも明後日でもえぇ、うちへ来い、何ぼでも相談に乗ったるさかいな」。

 翌日秀が長屋に来たが、子供はまだ寝たきりであった。伊丹屋という酒屋には洋行帰りの医者が来るが、金が好きで貧乏人嫌いなやつ。その医者に診てもらったら「放っといたら、まぁ八分ぐらいは死ぬ。助かっても頭がアホになる」しかし、「これをすぐ入院さして手を尽くしたら、今度は逆に八分まで請け合う」と言う。でも「入院さしたかったら、これに書いてあるとぉりにして手続きを取りなさい。二十円といぅ前金を用意して」とあっさり言って帰って行った。今頃、伊丹屋でほろ酔い気分でいるだろう。
 「おいッ! これッ、どこ行くねん? こらッ!」。

 「兄貴、何ぁ~んにも言わんとなぁ・・・。この金で子供入院さしたってくれ」、「何じゃ、この財布?」、「四、五十円入ってるはずや」、「どないしてんお前、これ?」、「酒屋の前行たがな。隠れてたらな、みんなに送られてあの医者、酔ぉて千鳥足や。ご機嫌でこぉ出て来たさかい、わしゃフッとすれ違いしなに、ちょっと頂いて来たんやけど」、「そんな顔しないな、約束破ったんは悪いけどなぁ、あの子に死なれたら、わしゃどないしてえぇや分からん。な、なッ、この金かてや、ちょっといっぺんこっち通るだけで、また医者の方へ戻るんや、ズ~ッとまた向こぉへ帰んねやないかい。おい、人間の命に関わるこっちゃ、なッ、あの子がもぉ命大丈夫や、頭も確かやっちゅうことが分かったら、わしゃ懲役へでもどこへでも行くがな。今だけちょっと見逃してもらいたい」、
「そらまぁ、人間の命に関わるこっちゃさかい、見逃すも見逃さんもないけど、しかし、お前は名人やな~おい。この指二本飛ばして、よぉこれだけの仕事がでけたなぁ?」、
「兄貴、実はわい、ギッチョやねん」。


 




桂米朝さん3月19日22時36分死去 上方落語の第一人者

 端正な語り口で知られる上方落語の第一人者で、文化勲章を受章した人間国宝の桂米朝さんが、3月19日夜、肺炎のため亡くなりました。89歳でした。

 桂米朝さん、本名、中川清さんは、大正14年に現在の中国東北部の大連で生まれ、21歳のとき、四代目の桂米團治に弟子入りしました。
 上演されなくなっていた古典落語の演目を復活させ、端正な語り口で演じるなど、上方落語の復興に力を注ぎました。
 故・桂枝雀、吉朝、ざこばさんなど、落語界をリードする多くの弟子を育てたほか、上方の文化を伝える著作なども発表しました。
 こうした功績から、平成8年、落語界では2人目となる国の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定され、平成21年には、古典落語の分野で初めて文化勲章を受章しました。

笑福亭仁鶴さん「誠に残念です」
 落語家の桂米朝さんが亡くなったことについて、笑福亭仁鶴さんは「落語のネタをいくつか教えていただいて、けいこをつけていただいて、落語のことをいろいろと教えていただいた師匠です。誠に残念です。ご冥福をお祈りいたします」という談話を発表しました。

桂文枝さん「思い出ありすぎ整理つかない」
 落語家の桂米朝さんが亡くなったことについて、落語家の桂文枝さんは「米朝師匠の訃報に接し、いま言葉が見つかりません。入門してからずっとお世話になりました。師匠に教えて頂いたいろんなネタ。思い出がありすぎて整理がつきません。最後にお会いした日、忘れることはありません。本当にありがとうございました。とにかくいまただただご冥福を祈って合掌するのみでございます」というコメントを発表しました。

桂福團治さん「埋もれていた落語蘇らせた」
 桂米朝さんと共に上方落語の復興に力を尽くした三代目桂春團治さんの一番弟子で、手話による落語をいち早く手がけた桂福團治さんは「桂米朝、上方落語中興の祖。現在の上方落語の隆盛を築き、埋もれていた落語を蘇らせた。手話落語が今日あるのは米朝師匠の後ろ盾が大きかった。謹んでお悔やみ申し上げる」という談話を出しました。

小佐田定雄さん「スケールの非常に大きい人」
 桂米朝さんと40年近い交流があった落語作家の小佐田定雄さんは「米朝さんは落語を本当に愛し、上方落語がどうすればよくなるか、どうしたら全国に発信できるかを常に考えている人だった。弟子たちの指導でイントネーションを細かく直すなどほかの人たちがやらないような丁寧な指導を行い、多くの弟子を育てられた。落語以外の文楽や歌舞伎などの芸事にも詳しく、スケールの非常に大きい人だった。自分が会社員と落語作家の道のどちらを選ぶか悩んでいるときに相談し、答えを出してくれたのも米朝さんです。ありがとうございましたと、言いたいです」と話していました。
(NHKより)

 上方落語が衰退していった時期、米朝師は埋もれていた話を掘り起こし、若手を育て、上方落語を現在のように隆盛にし、上方落語の中興の祖とも言われた。米朝師が居なかったら、上方落語がどの様な運命になっていたかと思うと、文化勲章や人間国宝ぐらいでは言い尽くせないものがあります。今回は師を偲んで「一文笛」をテープから起こしています。品性の佳い落語をご堪能下さい。合掌。 
 「一文笛」は昭和54年(1979)6月、国立劇場 東京落語研究会より TBS-TVより収録。


ことば

三棒(さんぼう、三坊);高座で悪口を言ってもかまわないのは、マクラで説明があったが、つん棒、泥棒、けちん棒。ツンボは寄席には来ない、しかし、ご家族にいらっしゃいましたらお許し願います。泥棒、この悪口を言ってもクレームは出ないが、ご家族にあったら・・・。けちん棒は、金を出して笑いに来るようなケチは居ない。

角帯(かくおび);男帯のひとつ。博多織・小倉織などの長さ1丈5寸(約4m)、幅6寸(約18cm)の帯地を二つ折にして仕立てたもの。

タバコ入れ;刻みタバコを入れる容器と、キセルを収納する筒とから出来ている。右写真:「鳳凰紋腰差しタバコ入れ」根付けが無く、キセル筒を腰に差し提げる。
右;タバコと塩の博物館蔵。
 
御蔵跡(おくらあと);難波御蔵:大阪市浪速区難波中2。 1732(享保17)年の大飢饉のとき、難民救済事業として幕府直轄の米蔵が置かれ、道頓堀まで入堀川(新川)が開削された。救援米貯蔵の役割を担っていた。天王寺御蔵:大阪市浪速区日本橋3、同日本橋東1。1752(宝歴2)年、幕府によって天王寺村に米蔵が造られ、天王寺御蔵あるいは高津新地御蔵と呼ばれた。しかし、湿地であったため貯蔵している米が傷むので1791(寛政3)年に難波御蔵に統合された。上記2箇所の御蔵跡があるが、地番の「南区御蔵跡」また「御蔵跡商店街」また「御蔵跡通り」などと呼ばれていたのは「天王寺御蔵跡」でしょう。

一文笛(いちもんぶえ);最低の価格5厘や1銭で買える子供用の玩具笛。

匕首(あいくち);合口。つばのない懐中用の短剣。懐剣の類。

 「沃懸地(いかけじ)葵紋蒔絵合口」 東京国立博物館蔵 秀の持っている合口はこんな高級品では無い。

駄菓子屋(だがしや);子供用の玩具や安価な菓子類を売る店。
右図:「子供を集めた駄菓子店の図」。江戸駄菓子店ですから火鉢で焼いているのは”もんじゃ”です。今では大人が洒落た店で食べていますが、元来は子供の駄菓子の一つだったのです。メチャメチャ安かったのが、今では大人の値段です。

伊丹屋酒店;伊丹の鴻池村に山中新六が住みつき酒作りを始めた。濁り酒を造っていたが慶長5年(1600)、双白澄酒(もろはくすみざけ=清酒)の醸造に成功、伊丹の酒の隆盛に繋がる。後に山中新六は鴻池村にちなんで鴻池姓を名乗り、大坂に出て鴻池家の始祖となった。ということから「伊丹屋」の屋号は酒屋の定番。
 
ギッチョ;サウスポー、左利き。左器用(ひだりぎっちょ)の左が脱落したものという。

この噺は明治に入っての落語;元侍・士族の子供が出てきますが、粥をすすって生きているような極貧の中にあります。母親は亡くなっていて、武士から一般人になるとき一時金を受け取っていたが、金を稼ぐことが出来ない士族ですから、それが無くなれば極貧の生活になってしまいます。



                                                            2015年3月記

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